歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 8

  それよりも、私にとっては「なぜ生物(植物?)はアルカロイドを作るのか」という問の方が大きな問題である。勿論世の中には、後付けの説明は捨てるほどある。ただアルカロイドについては、いくぶん控えめに書いてあるものが多い。確かにアルカロイドという物質群は「毒と薬の宝庫」である。化合物の持つ多様な活性から意義を説明するには事欠かないように見える。しかしながら、活性を示す対象が周りの植物や関連する昆虫だけではなく、生産する植物と余り関係のなさそうな動物であることがネックになっているようだ。こうした逡巡が、アルカロイドは窒素廃棄物という説をもたらしたようにも見える。

  ケシがモルヒネをつくる目的を、ホモサピエンスを酩酊させることに求めるのは無理だろう。マタタビがアクチニジンを、ネコを酩酊させるために作るはずはない。アルカロイドに於いては、作られた後に発生するあるアルカロイドの生理活性をもって、そのアルカロイドが作られる理由とするスキームは使いづらいに違いない。他の二次代謝産物に対しては上手く機能したかに見えるこの考え方が、アルカロイドの説明に於いては破綻してしまうのである。そこに、ある化合物の生理活性を持ってその化合物の存在意義を説明するスキームそのものが間違っているではないかと異を唱える「何時もの私」がいるわけだ。

  私の結論を最初に言っておくが、先祖返りの説であると云われるにしても、アルカロイドは植物の窒素廃棄物であると考えている。この説を解説するためには、まずアルカロイドと呼ばれる化合物群について、ある程度確かなイメージを示さなければと思うのだが、これはこれで大変な作業である。正面から攻撃するのでは時間と労力がかかりすぎる。ゲリラ戦的に攻めよう。

  さて、窒素に対しては常に不足気味である植物が、何故窒素を捨てるのか。以前云われていた説をそのまま踏襲するのではなく、一言だけ言葉を付け加えたい。「アルカロイドは植物の意図しない窒素廃棄物である。」意図しないという言葉の中に、捨てたくない植物側の事情を反映していると考えて欲しい。

  10年ほど前のことだが、科研費の萌芽研究に「生理活性物質のレトロ探索法の提案」という内容で応募した。エリシターという名で括られる化合物群がある。ここでは植物に抵抗反応を誘導する物質を総称してエリシターと呼ぶ事にするが、その中でもいわゆる内生エリシターの起源を推定し、その推定に基づきエリシター活性を持つ化合物を探索するという内容である。こう書いても何を言っているのか分からないに違いない。少し、分かりやすく説明しよう。

スクリーンショット(2015-01-01 22.55.53)

 当時、図6-2に示すようなエリシター様活性を持つ化合物群が報告されていた。これらを見て起源を推定すれば、1はフェニルアラニンの脱炭酸で生じたフェネチルアミンとTCA回路中に存在するスクシニルCoAの反応生成物と見てよいだろう。2はトリプトファンの5位がオキシゲナーゼによる水酸化で生成した5-ヒドロキシトリプトファンが脱炭酸を受けて生成したセロトニンが、リグニン生合成系の中にあるクマロイルCoAと反応したと考えられる。(この推定に一寸だけ問題があるとすれば、5-ヒドロキシトリプトファン生合成酵素が植物では見つかっていないことである。この問題はオキシゲナーゼの基質特異性の甘さでクリアーしようと思っていた)3の化合物は2-アミノエタノール(エタノールアミン)と脂肪酸生合成系から漏れてきたAcyl CoAとの反応に由来するに違いない。4についても、チロシンが脱炭酸を受けて生成したチラミンのベンジル位がオキシゲナーゼによる水酸化を受けて生成する4-(2-amino-1-hydroxyethyl)phenolが、2の場合と同じくリグニン生合成系から漏れだしてきたクマロイルCoAと反応してできたものであると考える。

  これらの化合物がエリシターという定義に当てはまるかどうかには疑問が残るにしても、生合成に関するここまでの推論には、間違いはないだろう。では、上記のような化合物群がなぜ生産されるのか。正常な状態の植物細胞において、例えばアミノ酸の脱炭酸は細胞質で起こるであろうし、Acyl CoAは葉緑体にスクシニルCoAはミトコンドリアに分布し、相互に出会う機会はないように調節されている。ところが、植物が物理的な、あるいは生物的な障害を受けた場合、障害を受けた細胞内でこれら細胞小器官の崩壊が起こり、上記の原料群が遭遇する状況が生起する。ここにおいて、正常な細胞内では作られるはずのない化合物群が、障害を受けた細胞内に出現すると考えたわけである。出現した化合物群の中に、エリシター的活性を持つ化合物があってもおかしくはない。我々は、そうした活性を持つ化合物をエリシターとして認識している考えた訳である。そうであれば、細胞小器官が崩壊に伴って生成してくるであろう化合物群を予め予想してそのライブラリーを作り、それらの生理活性を検討するという逆方向からのアプローチが成立するのではないか。それが萌芽研究の申請内容であった。評価はAであったのだが採択はされず、いつも通りお金はもらえなかった。その後、別の大きなプロジェクトに関わることになり、そちらに時間を取られこの研究に手を付けることはできなかった。

  お前の話はまどろっこしいとよく云われる。それがどこで本論とつながるのか?上の萌芽研究の話もそうかも知れない。だが、植物細胞の中には、いろいろな成分が共存している。それらの成分が偶然に出会ったとき、思いも寄らぬ反応が生起し、予想もできない新たな化合物が形成される。多くのアルカロイドは、フェニルアラニン、トリプトファンあるいはチロシンなどのアミノ酸が脱炭酸反応を受けて生成したアミン類と、やはり植物細胞内で生成するアルデヒドあるいはケトンと反応してシッフの塩基となったところから生合成が開始する。私も、植物細胞に置いては窒素が過剰に存在するとは思わない。グルタミン酸、グルタミンを中心としたアミノ基転移反応群によってアミノ酸類が生合成されるのだが、作られたアミノ酸は役割を果たした後、アミノ基転移酵素の作用によりアンモニアとケト酸へ、あるいはアンモニアリアーゼの作用によりアンモニアと不飽和カルボン酸へ、でカルボキシラーゼにより生成したアミンはアンモニアとアルデヒドへと分解を受け、アンモニアは再利用されるようになっているようだ。ところが、この段階でアンモニアリアーゼによって作られる1級アミン類(トリプタミン、チラミン、フェネチルアミン、ヒスタミン)はアンモニアより反応性が高い。これらの1級アミン類がケト酸あるいはアルデヒドと反応してシッフの塩基を形成するところからアルカロイドの生合成が始まるのである。

  こんな一般化した議論をしても、なかなか難しい。そこで、最も有名なアルカロイドであるモルフィンを例に、トレースする事にする。

                 歴史生物学 一次代謝と二次代謝 9 に続く

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ただただ、只は強い!

  先日、ブルーベリーの成木50本を無料でくれるという話が飛び込んできた。柿畑の一部をブルーベリー園にしようと考えていた矢先の話である。何しろ「只」である。日頃、「只」はいかん、正当な価格で買うべきだなどと偉そうに云っているにもかかわらず、すぐに心変わりしていただきますと答えてしまった。ただし、ブルーベリーは農園に植えてあるので、自分で掘り上げて持っていくというのが条件であった。「只」につられて、朝6時前に起きて出かけた。先方さんが親切にユンボもスコップも貸して下さった。

  ブルーベリーは、水分は必要だが水はけの良さも必要である。植えてあった場所は、昔の水田を畑地化したところである。20 cmも掘ると土の色が黒っぽくなる。畑地にしたと云っても、まだ還元層が残っているようである。そのため、ブルーベリーの根っこは下に伸びず横に広がって伸びていた。挿し木用の枝を採るために育てていた親木であるとのことで、少し樹勢が落ちてきたので処分する予定だという。そう云うことなら、人助けならぬ木助けになると気合いを入れて掘り始めたのだが、これが思った数倍以上に大変である。苗屋さんも大変な仕事だ。

  全部で200本程度と聞いていたのだが、現場に着いたら300本近くある。ユンボで掘り上げた成木の不要な枝と根を切り、麻袋に詰めて縄で縛る。途中で何度かめげかけたが、初対面の相棒たちがいる以上、いち抜けたとは言い難い。夕闇迫る頃、何とか終わった。生憎、雨交じりの寒い日であったため、ようやく止まりかけていた咳がまた酷くなった。それにしても改めて感じた、貯金を使い果たした私にとって「只」の魅力は思った以上に強い。

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燃料電池車

  先日のニュースでホンダが燃料電池車(FCV)を2015年から販売するという。トヨタが12月からやはり燃料電池車である「ミライ」を販売することになっているそうだ。Y新聞の記事によれば、「FCVは燃料の水素と空気中の酸素を反応させて発電し、走行中に水しか出さないため、「究極のエコカー」と呼ばれる。」と書いてあった。昨日のNHKニュースも同様である。「究極のエコカー」という表現を何処かで読んだことがある。そう、電気自動車の宣伝文の中である。走行中に排気ガスは全く出しません。

  何でこの程度の嘘に騙されるのかと思うのだが、世の中には電気自動車はきれいだ、排気ガスは出さないと信じる輩が大量に棲息している。過疎地のヒトはこんな話に対して怒るべきであろう。発電所は過疎地において、都会の中だけクリーン、それでは筋が通らないと。燃料電池車についても、水素をどこでどうやって作るのか、700気圧くらいまで加圧して燃料タンクに詰めるそうだが加圧するためのエネルギーはどれほどいるのか(液化するにはもっとエネルギーがいる)、先ず以て水素は輸送に向いているのか、圧力容器と配管は水素脆化に対して信頼性はあるのか、水素ガスのリーク問題は解消されているのか、全体としてのエネルギー収支とともに二酸化炭素放出量の算定は合理的か等々、たくさんの質問が出て当然だと思うのだが、新聞や雑誌に出る提灯持ち的紹介記事の貧弱さは見るに堪えない。スタイリングがどうだ、ドライブフィーリングがどうだと並べられても全く納得できない。いままでの流れの中にある車であれば、そうした判断は有効だろう。しかし、究極のエコカーと銘打っての車であれば、重点的に評価すべき点は別にあるだろう。

  30年ほ以上前だったと記憶しているが、私は穏健な保守の位置にいたと思う。いまもそうだ。その頃、文部省が環境教育に力を入れ始めた。別に悪いことではない。しかし、財界に支持基盤を置く自民党にとって、環境教育は将来その足場を崩す可能性のある施策だなと感じていた。ところがさすがに自民党、大学入試の勉強が過酷だ、ゆとり教育だ、個性の尊重だなどと云う理由を付けて、早期に文系と理系を分断し受験科目を削減して、極めて視野の狭い大人を作り出すことに成功している。「環境を大事に」とか「地球に優しい」などというお題目を唱えるだけで満足する「考えない羊たち」は、どこに誘導されていくのだろう。エネルギー保存則程度の知識を持っていることは、社会人としての最低条件と思うのだが。

  昔からの持論だが、大学は入試を自前でやれ、全大学とも受験科目は国語、数学、理科と社会はそれぞれ2科目(毎年、高校3年生の6月頃に大学側が指定する)、そして英語とする。こうすれば、バランスの取れた知識を持つ学生の数が、いまよりもいくらかは増えるであろう。もちろん、センター試験は廃止である。はは、天下り先がなくなるが故に、文科省が怒るだろうな。大学に、それも私学に勤めていたら、こんな発言はなかなかできないだろう。

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歴史生物学 一次代謝と二次代謝 7

  窒素分子は先にも述べたとおり、極めて安定である。従って、動物はもちろん高等植物もこれをそのまま利用することはできない。人類が窒素の工業的固定法を確立するまで、地球上の生物はニトロゲナーゼを持つ微生物群が作るアンモニアと雷放電で生成する窒素酸化物に依存していたと考えてよい。現在では、高校で習うであろうハーバーボッシュ法によって、生物が生産するのとほぼ同量のアンモニアが工業的に生産されている。蛇足だが、この方法は非常にエネルギーを必要とする方法であり、現在人類が消費する1%分のエネルギーがこの窒素固定で消費されているという。

  さて、この窒素固定反応は本当に人類は幸せにしたのか。なかなか一概には答えられない問題であろう。フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュによって成し遂げられ、歴史上最も重要な発明の1つとして選ばれるに違いないであろうこの窒素固定法だが、ノーベル賞を受賞した後の2人の後半生は哀しい。ハーバーはユダヤ人であったためにナチスによって母国ドイツから追放され数カ国を転々とするが、毒ガス兵器の開発に携わったことで科学者仲間からの風当たりが強く、失意の中、イスラエル建国に参加しようと移動中に客死(1934年バーゼル)、ボッシュはBASFの経営陣の一員としてナチスの方針に引きずられていく状況に心を病み、彼もまた失意の中で他界する。(1940年ハイデルベルグ)

  話を戻そう。植物は基本的には常に窒素不足の状況にあると考えて良いのだろう。通常、肥料を与えていない土地に植えた植物に窒素肥料を与えると、葉っぱの色がより濃いグリーンに変化し、植物体はぐんと大きくなる。そうであれば、植物が窒素を捨てるなどという議論は成立しないに違いない。このところ数回に渡って、愚にも付かない日常を書いて誤魔化してきたが、理由はここにある。植物は窒素を捨てるのか?私の視座から見ると、捨てていると判断する現象があるのだが、そうはいっても常識的な立場から考えれば理解されないという確信があるからである。その逡巡が筆を鈍らせてきたわけだが、ここまできたら、書くしかないだろう。

  さて、植物の作るアルカロイド類、現在10,000種ほどの化合物が知られているそうだが、この化合物群に識者はどのような意義付けをしているのだろうか。こうは書いても、まずアルカロイドをどのような範囲の化合物に対して使っているのかが明確でないと議論は始まらない。

  古い本をひもとくと、「植物塩基である」「分子内に窒素を持ち、植物体内で生合成される大きな化合物群をいう。多くのアルカロイドは強い薬理活性を持つ。アルカロイドにはコカイン、ニコチン、ストリキニン、カフェイン、モルフィン、ピロカルピン、アトロピン、メタンフェタミン、メスカリン、エフェドリンそしてトリプタミンが含まれる。」などと書いてある。簡単にまとめると、「植物の作る塩基性の窒素化合物で、その多くが強い生理活性を持つ」となるだろう。だが、この定義は昔から知られている典型的な化合物群に対してのみ成立するに過ぎないとはいえ、感覚的にはとても分かりやすい。だが、これでは近年の進歩について行けず、アルカロイドの全貌はつかめないだろう。

図 ー  典型的な古典的アルカロイド
図 6ー1 典型的な古典的アルカロイド

  そこでアルカロイドを研究対象にしている分野の中で、アルカロイドに一番近い位置に位置すると思われる薬学会のサイトから引用してみよう。

  「アルカロイドは元来、植物由来の窒素を含む有機塩基類で、強い生物活性を有する化合物群と定義されていた。しかし、テトロドトキシンやサキシトキシンのように動物や微生物が産生する有害な含窒素化合物や、幻覚剤であるLSDなど非天然型の化合物もアルカロイドに含めることが多い。顕著な生物活性を示さないものや、痛風治療薬であるコルヒチンのように窒素がアミドになっているため塩基性を示さないものも一般にアルカロイドと呼ばれている。そこで最近では、「アミノ酸や核酸など別のカテゴリーに入る生体分子を除いて、広く含窒素有機化合物」をアルカロイドと定義づけしている。微量で多彩な生物活性を示すことから医薬品として用いられているものも多く、また新たな医薬品開発のためのリード化合物としても重要である。生合成的には、アミノ酸を出発物質とするアミノ酸経路によって生成される真性アルカロイド(モルヒネ、アトロピン、キニーネ、コカインなど)と、非アミノ酸由来のプソイド(シュード)アルカロイド(エフェドリン、アコニチン、ソラニンなど)に分類される。」

  この薬学会の定義は実に斬新である。上の文章中で青色で示した部分に関しては、古典的な定義を顕著な生理活性を示す動物由来の天然物、あるいは顕著な生理活性を示す合成化合物を含むように拡大したものであり、理解が及ばないというほどのものではない。テトロドトキシンやサキシトキシンの本当の生産者は細菌あるいは藻類である可能性を含めての話だ。しかしながら、橙色の部分になるともういけない。全く理解できない。窒素を含む化合物で、アミノ酸や核酸など別のカテゴリーに入る生体分子を除けば全てアルカロイドと称するなんて、それはやり過ぎでしょう。合成化合物がアルカロイドとして分類されるという部分も、読み方によっては悩ましい。別のカテゴリーという表現が、どのヒエラルキーで機能する言葉であるか分からないが、窒素を含む薬剤なんて掃いて捨ててもまだ残るほどある。それらがアルカロイドとして分類されるとなると、これは驚天動地の話となる。薬学と云われる分野で、アルカロイドに似た顔を持つ化合物群をイメージしての表現だとは思うが、このままでは思いもよらぬ化合物をアルカロイドと呼ぶことができてしまう。

  いまひとつ、帝京大学薬学部附属薬用植物園の木下武司氏によって非常によくまとめられているサイト(http://www2.odn.ne.jp/had26900/index.htm)の、アルカロイドについてという部分を少々改変して引用する。(意味が変わらないように気を付けたつもりだが、ご本人の意図と変わっていた場合は私の責任である)《》で括られた部分であり、一寸長いが読んで欲しい。

《1.アルカロイドの分類について

 植物の中には分子内に窒素を含み塩基性を示す化合物を含むものがある。これらは古くからアルカロイド(alkaloid)と総称されているが、”アルカリのようなもの”という意味からわかるように語源的にはアルカリ(alkali)と同じである。和訳として「植物塩基」が用いられた時期もあったが、今日では動物起源のアルカロイドも知られていること、また以下に述べるようにアルカロイドであっても塩基性でないものも実際に存在するのでこの訳語を用いるのは適当ではない。

  これまでに単離されたアルカロイドの化学構造は極めて多様であるので、様々な分類法が提唱されている。最近、よく用いられるようになったのは生合成的起源による分類法であり、またこれが新しいアルカロイドの定義ともなっている。まず次の2(3?:筆者の推測)つのタイプに大別されている(定義:最新の知見に基づいて2012年4月に修正)

1. 基本骨格、窒素源ともにアミノ酸に由来し、生合成過程でアミノ酸は脱炭酸を伴う真正アルカロイド(true alkaloid)

 真正アルカロイドについてはさらに前駆体となるアミノ酸の種類によって、例えばトリプトファン由来アルカロイドなどのように分類される(→詳しくはアミノ酸経路を参照)。

  1. 基本骨格がアミノ酸に由来せず、窒素源はアンモニア性窒素ないしアミンであるプソイドアルカロイド(pseudoalkaloid)

 プソイドアルカロイドとしては、ジャガイモの芽に含まれるソラニン(Solanine)などに代表されるステロイドアルカロイド(steroid alkaloid)、 アコナン系ジテルペンを母核しトリカブト毒素として名高いアコニチン(Aconitine)*やコウホネアルカロイドなどテルペンアルカロイド(terpenoid alkaloid)、 セリ科ドクニンジンの有毒成分コニイン(Coniine)などポリケチドアミン(polyketide amine)などがある。

  1. 基本骨格、窒素源ともにアミノ酸に由来するが、脱炭酸を伴わないで生成する不完全アルカロイド(protoalkaloid)

  不完全アルカロイドとは、具体的には特殊な芳香族アミノ酸であるアントラニル酸、ニコチン酸を前駆体とするアルカロイドであるが、これらは生合成経路の上で脱炭酸を伴わない点で通常のアミノ酸を前駆体とするアルカロイドと区別される。ミカン科植物にはアントラニル酸を前駆体とするアルカロイド(例ゴシュユアルカロイド)が特に多いことで知られる。不完全という名前を冠しているので生合成反応が未完成という意味で名付けられたようであるが、ゴシュユアルカロイドについてはトリプタミンとアントラニル酸のアミド縮合体にC1単位が導入されただけなので”不完全”というのは理解できるが、アントラニル酸、ニコチン酸由来のアルカロイドの中には複雑な生合成過程を経るものも多くあるので誤解しやすい。アントラニル酸、ニコチン酸はアミノ酸に似て非なるものとして”いわゆるアミノ酸”に含めないこともある(特に生化学領域では)ので、そのような定義に立てば不完全アルカロイドは「窒素源をアンモニアないしアミン、アミノ酸に由来しないアルカロイド」ということになろう。》

  1, 2の部分については歴史的な定義をも加味してあり、とても分かりやすく何の異論もない。3の項は、例外規定としての位置づけであろう。しかし、ゴシュユアルカロイドの原料はアントラニル酸とトリプタミンである。アントラニル酸にこだわらずトリプタミン由来のアルカロイドト見なせば、さほど例外扱いする必要はなさそうに思う。ニコチン酸由来のアルカロイドについては、植物におけるニコチン酸の生合成がアスパラギン酸から誘導されるイミノアスパラギン酸と1,3-ジヒドロキシアセトンリン酸との反応で生成するキノリン酸を通って起こる事を考えれば、ニコチン酸由来のアルカロイドもアスパラギン酸に起源を持つとして良いのではないだろうか。

  要するに、現実はどこまでもつながっているのに、これを言葉で切ろうとする「定義づけ」が問題の原因であることは間違いない。(なんだか、領土問題と似た構造であるようだ。ある地域が、ある時代にはA国に属し次の時代にはB国に、その次の時代はC国に属していた。ある地域はどこに属するのか。生臭いではない、焦臭い話は止めよう。)要するに、誰が見ても間違いなくアルカロイドと言える化合物群の周辺にアルカロイドかもしれないという曖昧な物質群がたくさん存在しているということに過ぎない。生合成による分類においては、色々な生合成系でつくられた物質が、さらに結合した物質群を、複合系路による生成物として棚上げにしているではないか。そうした、棚上げを行う以外に解決法はないと思う。

                   歴史生物学 一次代謝と二次代謝 8 に続く

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幅広い視野を

  昨日起きたら、目が開かない.目脂がびっしり張り付いている。熱いタオルで何とか湿しながら目を開けると、両方の上下のまぶたが腫れている。本来の顔の幅は狭い方だが、目の周りだけは太りすぎた朝青龍のようだ。これは風邪ではないと判断してネットで調べるとアデノウイルス感染症がぴったり当てはまる。仕事帰りに内科に寄ったのだが、目の症状を訴えても風邪という判断は変わらず、風邪薬を処方された。

  仕方なく、今日は朝から眼科に行った。受付で保険証を出した。どう見てもアデノウイルス感染と思われるのであなたもすぐ手を洗いなさいと云ったら、受付嬢が笑い出した。この病院は、受付と病状の聞き取りが別である。看護婦さんが来てどうしましたと問いかけるので、目が朝青龍になった。景色がパノラマで見えますと答えた。また笑われた。的確に答えているつもりなのだが、どこか違うらしい。周りの患者さんの話を盗み聞いていると、ここが痛いとか、ごろごろするとか、痒いとか、見えにくいとか答えている。でもね、目が細い隙間になって、パノラマ画像しか見えないくらい腫れていれば、その程度の症状があるのは当然だろうと思ってしまう私が異常か?。しかし、眼科である.目の症状緩和の薬しかでなかった。医者がもっと広い視野と知識を持って一軒の病院で事が済めばいいのに、と思いながら薬局で薬を貰い車に戻る途中、パノラマ視野の隅で見てしまった。さっき私が座っていた椅子を、看護婦さんが丁寧に拭いていた。正しい判断である。ただアデノウイルスに対して70%アルコールは効果が低い。薄めたハイターであることが望ましい。

  ここで看護士と使ったのでは雰囲気がでない、やはり看護婦だ。

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