解糖系という概念についての異論 3

解糖系についての序章

 大学で生物系の学科を卒業した人だけではなく、高校で生物学を履修した人であれば、少なくとも解糖系という名前だけは聞いた記憶があるだろう。しかしながらこの解糖系、知名度は抜群であるにもかかわらず、きちんと説明できる人は少ない。この経路は生物の基本的代謝系である、絶対に覚えろと言われたから試験前に覚え、試験が終わったら直ぐに忘却したと言う人が大部分だろう。現実の問題として、我々にとって生活にさほど役立つ知識ではないし、覚えていたからと言って飲み屋で披露できる知識でもない。

 初めから脱線するようだが、系と経との使い分けで悩んでいる。代謝系と使う場合は系、代謝経路と使う場合は経を使う。系を英訳するとsystem、経はpathwayとなるのだろうが、系路という使い方もある。さらに、径路という言葉もある。径路と経路は同義であると考えて良いと思うのだが、この径路は生化学分野では使われないようだ。今までの経験からすると、解糖に関する用語においては系が使われる。ところがペントースリン酸経路の場合は系ではなく経を使うようだ。どうもいま一つ分からない。多分、使われ続けてきた歴史が反映しているのであろう。軽々に決められない系路と経路、とりあえず著者の感性で使い分けることにする。

 そこで解糖系、実生活で役に立たないからといってどうでも良い系であるかと云えばそうでもない。生化学という学問において、この系はとても、いや最も重要かつ基本的な系として扱われている。日本薬学会という薬学の研究者が構成している学会があるのだが、その薬学会には用語解説のページがある。薬学会自体を批判するつもりはないが、このページには常識的な解説が書いてあるので、少し引用することにする。このサイトにおいては解糖系を以下のように説明している。

解糖系

glycolytic pathway, エムデン-マイヤーホフ経路

グルコースを分解して、ピルビン酸や乳酸を生成する代謝経路。大腸菌からヒトまで多くの生物種に保存されている。解糖系に関与する酵素は、哺乳動物ではすべて細胞質ゾルに存在する。反応全体の収支は、グルコース+2NAD+2ADP+2リン酸→2ピルビン+2NADH+H+2ATP+2H2O、もしくは、グルコース+2ADP+2リン酸→2乳酸+2ATP+2H2O、となる。解糖系は、酸素がまったくない状態でもATPを供給できる特徴をもち、激しい運動時など酸素欠乏時の骨格筋(主として白筋)では必須となるほか、赤血球や神経細胞では唯一のエネルギー供給経路となっている。好気的条件下にある多くの組織では、ピルビン酸からアセチル-CoAが生成し、解糖系クエン酸回路へ基質を供給する経路としての役割を果たす。解糖系の反応の大部分は可逆的であり、糖新生でも同じ酵素が逆方向の反応を触媒するが、ヘキソキナーゼ(グルコキナーゼ)、ホスホフルクトキナーゼ、ピルビン酸キナーゼの反応は、生理的に不可逆であるため、糖新生では別の酵素が触媒する。グルコース以外にフルクトース、ガラクトース、マンノースやグリセロールも解糖系に回収されて代謝される。また、グルコース6-リン酸はグリコーゲン代謝やペントースリン酸回路などの分肢点となるとともに、ピルビン酸からはアラニンが生合成される。(2005.10.25 掲載)(2009.1.16 改訂)(2014.7.更新)

 もう一つ、私がよくお世話になっているバイオインフォマティクス研究用のデータベースから引用しよう。KEGG(Kyoto Encyclopedia of Genes and Genomes:京都遺伝子ゲノム百科事典)と言うサイトで、京都大学の金久實教授達のプロジェクトとして構築され、ウェブ上に公開されているものである。そのグリコリシスのページの説明文を引用する。

  Glycolysis is the process of converting glucose into pyruvate and generating small amounts of ATP (energy) and NADH (reducing power). It is a central pathway that produces important precursor metabolites: six-carbon compounds of glucose-6-phosphate and fructose-6-phosphate and three-carbon compounds of glycerone- phosphate, glyceraldehyde-3-phosphate, glycerate-3-phosphate, phosphoenolpyruvate, and pyruvate.

 訳文

 グリコリシス(解糖系)はサイトゾルに存在し、ブドウ糖をピルビン酸に変換し、少量のATP(エネルギー)とNADH(還元力)を生成するプロセスである。グリコリシスは重要な代謝前駆物質である6炭素化合物:ブドウ糖6リン酸、果糖-6-リン酸、そして3炭素化合物:グリセロンリン酸(1,3-ジヒドロキシアセトンリン酸)、グリセルアルデヒド-3-リン酸、3-ホスホグリセリン酸、ホスホエノールピルビン酸とピルビン酸を生産する中心系路(Central pathway)である。

注:このKEGG(Kyoto Encyclopedia of Genes and Genomes:”京都遺伝子ゲノム百科事典” )というサイトは、1995年に京都大学化学研究所の金久實氏らによるプロジェクトとして発足したあと、現在も整備が続けられている膨大なデータベースである。極めて有用なサイトである。その中のグリコリシスの説明文に異論があるからといって、その存在価値は些かも揺るがないことを付け加えておこう。こんな文章が書けるのもKEGGのお陰である。

 上記の説明を読んで即座に「うむ」と納得できる人は極々少数であるとと思う。大多数の人が、科学者と呼ばれる集団が使う専門用語にたじろいでしまうのではないだろうか。もう少しわかりやすくならないかと思わないでもないが、これはこれで仕方ない。専門用語を一応理解した上で記憶し、論理的に使いこなせるようになることは、専門分野を修得するに際して避けて通ることは出来ない。さらに、これらの内容が判りにくいからと言って、その記述が間違っているわけではない。これらの説明文を書いた筆者たちの住むパラダイムの中にあっては、これらの説明は間違いではないのである。

 では、先の二つの説明の何処に異論があるのかと問われるのだろうが、一言で答えるのは甚だ難しい。詳しい話は後ろに回すとして、一つだけ疑問をを投げ掛けておこう。確かに、解糖系は大腸菌からヒトまでどころではなく、原核生物(古細菌を含む)から真核生物にわたる多くの生物に広く分布する代謝系である。その点に疑問はないのだが、出発物質がブドウ糖であることに納得が行かない。この系を持つすべての生物は、エネルギー源として使うブドウ糖の給源を何処に求めているのだろうか。さらにだが、解糖系らしき系を持つ何種かの生物群には、その系の中にブドウ糖を含まない生物も散見される。それらをどのように説明すればいいのか?

 本格的な批判をする前に、解糖系について常識的な説明しよう。現在認められている解糖系についての知識がなければ、批判が批判ではなくなってしまうからである。さらにだが、この批判は次に述べる「TCAサイクルに関する異論」と続けて読んでもらったほうが理解しやすいだろう。現在、原稿に手を入れているので請うご期待というところである。そこで解糖系、解糖系は図1のように描かれるのが通常である。まあ縦に化合物を並べる場合もあるが、内容は同じである。そこで、この図に沿って説明をする。

  解糖系の出発物質であるα-D-グルコースは、ヘキソキナーゼの触媒下にATPを消費してα-D-グルコース-6-リン酸となる。生成したα-D-グルコース-6-リン酸はホスホフルクトキナーゼによってD-フルクトース-6-リン酸へと異性化される。D-フルクトース-6-リン酸はホスホフルクトキナーゼによってATPを消費しながら、D-フルクトース-1,6-ビスリン酸へと変えられた後、アルドラーゼの触媒下に3位と4位の炭素間の結合が開裂し、3単糖であるグリセルアルデヒド-3-リン酸とジヒドロキシアセトンリン酸が生成する。ジヒドロキシアセトンリン酸はホスホトリオースリン酸イソメラーゼによりグリセルアルデヒド-3-リン酸へと異性化されるため、ここから先は2分子のグリセルアルデヒド-3-リン酸が系を流れることになる。

 グリセルアルデヒド-3-リン酸はグリセルアルデヒド-3-リン酸デヒドロゲナーゼによって基質レベルでの酸化を受けた後、リン酸を取り込んで1,3-ビスホスホグリセリン酸となる。混合酸無水物である1,3-ビスホスホグリセリン酸は高エネルギー化合物であるため、ホスホグリセリン酸キナーゼの存在下にADPをリン酸化してATPを生成しながら3-ホスホグリセリン酸に変化する。後で議論することになるが、この3-ホスホグリセリン酸は解糖系を考える上で重要な役割を果たす化合物である。記憶に残しておいて欲しい。

 3-ホスホグリセリン酸から2-ホスホグリセリン酸ヘの変換はホスホグリセリン酸ムターゼで触媒されるのだが、この酵素には2種類が存在する。一つは植物、古細菌そしてグラム陽性菌を中心に分布する酵素で、分子内でリン酸基の転移を触媒する酵素である。いま一つは、脊椎動物、昆虫、藻類、そしてグラム陰性菌に主に分布する酵素で、2,3-ビスホスホグリセリン酸をコファクターとして3-ホスホグリセリン酸の2位の水酸基のリン酸化に続く3位のリン酸残基の脱離を通して2-ホスホグリセリン酸を生成する。図1には、後者のタイプの反応をイメージして、2,3-ビスホスホグリセリン酸を中間体とする形で示している。

 こうして生成した2-ホスホグリセリン酸はエノラーゼによって脱水反応を起こし、極めて重要な代謝中間体であるホスホエノールピルビン酸に変換される。ホスホエノールピルビン酸はエノール型になったピルビン酸の水酸基がリン酸化された化合物で、ピルビン酸キナーゼの存在下にADPをリン酸化してATPを生産しながらエノール型のピルビン酸にとなるのだが、このエノール型のピルビン酸は極めて不安定で触媒の存在を必要とせず速やかにケト形のピルビン酸へと異性化する。

 解糖系においては、青の矢印で示した2つの段階でATPが消費され、赤の矢印で示した2つの段階でATPが生産される。グリセルアルデヒド-3-リン酸以降は系を2分子が流れることより、解糖系を通ってα-D-グルコースが2分子のピルビン酸に分解されると差し引き2分子のATPが生産されることとなる。また、緑の矢印で示した段階で、NAD+が還元を受け重要な補酵素NADH2分子が生成する。

 つまり、「ほとんどの生物が持つ嫌気的でもっとも普遍的かつ根源的な代謝系」である解糖系は、6炭糖であるブドウ糖を出発物質とし、酸素を使わずに2分子のピルビン酸まで分解することにより、2分子のATPと2分子のNADH2を生成する反応である」となる。

 学生の立場からすれば、「解糖系について知見を述べよ」という問題は、図1を記憶して、解糖系が「ほとんどの生物が持つ嫌気的でもっとも普遍的かつ根源的な代謝系」であること、2分子のATPと2分子のNADH2を生成する反応であることを書けば、間違いなく80点は貰える楽勝な問題である。系を乳酸まで伸ばせば、NADHの収支もゼロとなり、細胞内の酸化状態も変えずにATPの生産ができると書けば、今少しの加点が期待できる。私だって学生の時はそう答えた。現役教員の頃もそういう基準で評価をしていた。失礼ではあるが、分かっていないのにこの図を丸暗記する集中力と努力は認めるべきだと考えたからである。こいつ何にも分かっていないくせにと思っていたにせよである。

 本論から逸脱することは承知の上で、少しだけ補足しておきたい。代謝系を構成している反応群は、少なくとも有機化学的に理解されるべきだという立場にいる私から見ると、図1をとにかく丸暗記するという時点で理解することを放棄したと言える。これは当時の学生達を揶揄しているのではなく、学生時代の私自身に対する批判でもある。

 私も図1のような概念図を絵として暗記し、それを答案に書いた。単位は取れたのだが、何も分かっていないことには気付いていた。有機化学に片足を乗せて研究生活を始めようとしていた学生であるにもかかわらず、この系を構成する素反応群を有機化学的に記述できなかったのである。D-フルクトース-1,6-ビスリン酸とグリセルアルデヒド-3-リン酸・ジヒドロキシアセトンリン酸の間で起こる可逆反応なんて、とても刃が立たなかったし、グリセルアルデヒド-3-リン酸から1,3-ジホスホグリセリン酸への変換はさらに理解不能な反応であった。

 つまり、当時の私にとって図1は単なる絵に過ぎなかった。生物有機化学という分野自体がまだ一般的ではなかった時代、多くの先生方さえもが有機化学と生化学は別の学問であるという考えであったようだ。代謝系の素反応群を何とか有機化学的に理解したいと、ドナルド・J・クラムが有機電子論的立場から書いた有機化学の教科書を、練習問題まで全て解きながら5回ほど読み通した。進歩は遅く、解糖系の素反応を有機電子論的に描けるようになるのに5年ほどかかったのだが、そうなってみると新しい世界が広がっていたのである。この頃、1年後輩ではあったが、適切な指摘と助言をくれたK君がいなかったとすれば、今の私は無いだろう。できる後輩を持つというのは半分有り難く、半分怖いものである。感謝!!

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解糖系という概念に対する異論 2

少しだけ格調が高過ぎる序論

 生化学におけるもっとも基本的でかつ重要とされる解糖系、TCA回路、ペントースリン酸経路などに対して、世の常識とは全く異なった解釈をしてみたい。山里に隠遁してしまった時代遅れの老爺の解釈であるため、誤謬である可能性を否定はできないが、これらの代謝系の意義づけに対して、長い間持ち続けてきた私の違和感を世に問うことにした。この私論が、これらの代謝系に関する独断と偏見に満ちた認識にすぎないのか、それとも今まで続いてきた認識の誤謬を正すものとなるのか、それはまだ分からない。判断は歴史に任せるしかない。

 もっとも、今までにも私と似た感想を持っていた人がいたかもしれない。でも、なかなか言い出せない雰囲気が学会に漲っている。そんな自分の足下を掘るような議論はするな、先に進めというのが主流にいる人々の考え方である。しかしながら、自らの依って立つ学問の足場を常に検証する営為は学者として不可欠なものであろう。だがそんなことを考えているのはきっと少数だろうな。序文としてはいくぶん長くなりそうであるが、現在認められている各系の常識的解釈を批判しようとするのであるから、どのような視座からこれを行うのか、何故そんなことを考えるようになったのか個人的な経験を含め書き留めておくことにする。

 40年以上前だったのだが、親父が倒れたという切迫した母からの電話が、下宿していた大家さんの家にかかってきた。午前2時過ぎだったと記憶している。下宿を出て小走りに国道まで出てタクシーを拾った。タクシー代の手持ちはなく家に着いたら払うという約束で乗った車の中で、これで私の黄金時代は終わるのかも知れないと考えでいた。この頃、研究活動を含む研究室での生活が楽しくて、この生活をあと数年は続けたいと願っていたのである。親父が倒れたというのに、自分の将来のことを考えているなんて、親不孝者だなと何処かで感じていた。タクシーから降りて家に戻ろうとした時、見上げた異様に澄み切った夜空に、オリオン座、おおいぬ座、そしてこいぬ座が絢爛と輝いていた。この星空に、伝承してきた神話を貼り付けた古代の人々の想像力(創造力)に畏怖を感じた。

    別に意図はありません。関係がありそうななさそうな写真です。懐かしいと思われる人がいるとすれば、同じ時代を生きた人でしょう

 4ヶ月の入院生活の後、奇跡的に親父が生還した。だが最も幸運だったのは、学生生活を中断せずに済んだ私だったに違いない。それはそうとして、絢爛たる星座を見た日から星を見る目が変わってしまったのである。誠文堂新光社から出版される天文ガイドや野尻抱影氏の著書を楽しむ程度の単なる天文ファンであった私が、星座とは何であるのかと改めて考え始めたのであった。当時、それが自らの専門分野である農薬化学、そしてその基礎をなしている生化学という学問を、根底から批判する営為に繋がってくるなどとは夢にも思わなかった。

オリオン座 https://www.civillink.net/sozai/kakudai/sozai2157.htmlより借用

 夜空を眺めていたら、生化学の論理が間違っているかもしれないと気付いたなどという話は、常識的にはありそうにない。こんなことは書かずに本論に入ったほうが良いと、私の常識も判断するのだが、人という生き物は全く関係のないものを見てとんでもないことを思いつくものである。何度も何度もそんな経験をしてきた。以前に、わからないものを分からないものとして考え続ける知的持久力について書いた記憶があるが、いわゆるセレンディピティとは、そういう知的持久力によって具現化されるものであろう。

 さて、蛇足かも知れないが、少しだけ先走った議論をしておくことにする。現代においても、いまだ多くの人々を魅了する占星術という体系が、星々の恣意的な分類に依存していることは間違いない。私としては、こうした分類に基づく占いの体系を、盲信することはないが、頭から否定するつもりはない。各自の人生の中で賢く向かい合えば良いと考えている。しかしながら、古代の人々が星座という形で星空の分節(星空に切れ目を入れる行為)を行うに際して、失われた情報についてはいま少しの注意を払う必要があるだろう。

 古代の人々が創った星座は、地球を中心に置いた仮想の天球面へ星々を貼り付けた、いわゆる投影図を基礎としているのだが、この投影図を作るに際して2つの情報の欠失が発生する。一つは、地球から恒星までの距離情報、もう一つは星本来の明るさ(絶対光度)の情報である。もちろん、古代の人々にそれを求めるのは酷であるし、求めるつもりもない。だが、結果として、彼らは距離という3次元の情報(これは時間情報でもある)と、個々の星の本来の明るさと(絶対光度)いう2つの重要な情報を欠いた投影図を基礎として、星座の切り抜きを行ったことは否定できない。さて、生化学という学問の精華である代謝マップが作られるに際して、同様な情報の欠失が起こってはいないだろうか。

 このような疑いを持って代謝マップを眺めると、幾つかの疑問が浮かんでくる。第一の疑問は、歴史的産物である代謝のネットワークの中から、「何」に従って化合物群を選び、これらを連ねて代謝系と定義したのかという疑問である。換言すれば、星座の成立における「神話・伝承・器械のイデア」に対応する「概念」は何かという疑問である。研究者達は、代謝物の集団の中から、「神話・伝承・器械のイデア」に対応するある「概念」に従って、恣意的に化合物群を選択・配置し、一連の系として記述したのではないか。もしそうであれば、その「概念」とはどのようなものであろうか。

 第二の疑問は、量の問題である。これは星座を構成している星の絶対光度に対応する。生物界において、年間にギガトンオーダーで流れている代謝物と微量なオーダーでしか流れていない代謝物が、代謝マップの上では同じ大きさで記載されているのである。付け加えれば、量的に少ない代謝物であっても生物活性が高ければ「大きく」あるいは「boldface」で描いてもらえる場合もある。代謝マップにおける生物活性は、天球図における実視等級と等価な判断基準になっているのであろう。この量に関する問題を前面に出した認識体系はまだ構築されていないような気がしている。

 さらに第三の疑問は、代謝系内の流れの方向についてのものである。代謝系が歴史的産物である以上、その理解のためには、系がいつ成立したかという時間軸さえも包含すべきであると考える。代謝の流れにおいては、原則として代謝系の上流に位置する物質が歴史的に古い化合物であり、代謝系の下流に位置する物質は新しい物質でなければならない。これは自明のことのように思えるが、多くの代謝過程で働く酵素が可逆的に働くことを考えると、ある代謝物を上流におくという判断は、第一の概念に依存することになる。さらに、代謝系の進化の過程に於いては、一般的に描かれている代謝物の新旧関係が逆転しているとする仮説も存在する。

 考えてみると、代謝マップは時系列を意識して作られた物ではないようである。こうした時間的要件を重視した立場から時間生物学という名称で持論を纏めようと考えたことがあったが、時間生物学という用語はすでに生物時計を対象とする学問で使われていた。従って、生物現象の歴史性を組み込んだ生物学という視座から歴史生物学という用語を作りこれを使用することにした。

 独断だが、我々が作り上げてきた代謝マップは、進化を続けている代謝のネットワークを現代という時間で切断し、その断面図をもとに構築されている。従って、切断する時間を変えると、代謝の流れる方向が変わるだけでなく、構成要素である代謝物の種類や意義付けも変化する可能性を否定できない。現代の代謝マップは、ある方向付け(概念)の下で、系を流れる代謝物の量の情報と、系の成立に関する時間的な情報をも失った形で投影された物ではないか。このような懐疑を通底する基盤としておき、各代謝系を吟味していった時、どのような世界が現れるのか、それを信じるか信じないかは読者の良識に任せよう。

解糖系という概念についての異論 3 に続く

 

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解糖系という概念に対する異論 1

  このブログは実に書き難い。歴史生物学でさえ世の常識に逆らっている部分が多いというのに、その中で自ら説明に使っている概念群に対してさらに異を唱えようとするのであるから、当然であることは論を待たない。ただの誤謬である可能性さえ十分にある。独断と偏見の塊となるか、新たな切り口となるか、それもまだ分からない。ただ、長い間違和感を感じながら使用してきた概念群について、その違和感の由来をおもてに出すことにしただけである。ひょっとしたら、似た感想を持つ人がいるかもしれない。でも、きっと少数だろうな。

  知識社会学という学問において、視座構造という概念がある。人が事実を認識する際、社会的条件は認識の形成過程のみを規定するのではなく、認識の構造そのものにまで組み込まれているという考え方である。まだ若かった頃、カール・マンハイムの著作をひもといたことがある。彼は、ひとつの知識の成立において、歴史がこれに拘束をかけていると考える。当時の私にこの内容が十分理解できていたかどうかは不明だが(今も不明)、社会科学的な意味においては成立するかもしれないと感じていた。「歴史に拘束される知識」という概念はとても面白かったし、「意識の存在被拘束性」という概念も何故か記憶に残った。

  こうした書物に手を出したのは、若者特有のスノビズムが原因であったと思うのだが、実際のところ内容はほとんど憶えていない。イデオロギーを再定義しようという試みだったかなという程度である。いわゆる理科系の学部に所属し、行動においてはあまり政治的ではなかった私が、なぜそんな本を読んだのか判らない。それこそ、時代の風に影響されただけのかもしれない。しかし、不思議なことにそうして読んだ書物の中で語られた「歴史に拘束される知識」とか「意識の存在被拘束性」という概念が、代謝を歴史的に考え始めた時、鮮明によみがえってきたのである。

  数年ほど前から、生物体内で動いている代謝系の意義・成り立ちについて疑問を持ち、孤独に再構築を目指して考え続けてきた。こうした営為の中で見えてきたものが二つある。一つは、科学的事実が社会科学的パラダイムにより拘束を受けたなかで認識・評価されているという実態である。今ひとつは、科学的事実といえども、その解釈においては解釈を行うヒトの実感が大きな影響を与えているのではないかという懐疑である。前半は、科学的知識であっても社会科学的パラダイムの影響を免れないとするマンハイムの「歴史に拘束される知識」という概念に対応するように感じた。後半の懐疑は、ヒトが従属栄養生物であるという事実が、代謝系の認識そのものに影を落としているのではないか、マンハイム的表現をするとすれば、「認識の存在被拘束性」に対応するのではないかという疑問である。

  理屈っぽい爺であると自ら思う。解糖系について語ると言いながら、解糖のかも出てこない。若かった頃の私なら、こんなに理屈っぽい爺の話は聞きたくないと思っただろう。もし読んで下さっている寛容な読者がいるとすれば感謝、感謝! もうすぐ本論にはいることにします。

解糖系という概念に対する異論 2 に続く

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解糖系について(追加)

以前に解糖系について少し書いたことがある。色々考えていたのだがもう少し書き足したくなった。突然、私の異論の続きを書き始めたのでは読まれている方々が戸惑われるのではないかと思い、以前に書いた解糖系への異論1〜5を、再度アップすることとした。5年前の投稿で、一部修正している部分があります。

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近況

大分前から左目が見えにくくなっていた。一昨年の夏頃から体重も減り始めていた。12月頃、夜間の運転が危なっかしくなったのを自覚してとある眼科に行ったのだが、外部からの派遣の方が担当の医師となり、手術まで6ヶ月近くかかるという。説明も余りにもおざなりだったので、通院をやめてしまった。目も悪かったがその他の臓器も極めて不調だったので、白内障はしばらく置いておくことにした。体のあちこち不調だからといって素直に病院に行くような玉ではないのである。唯々辛いな、きついなと思いつつ日々を送っていた。だが、いよいよ左目が見えなくなっただけでなく体重減少も止まらず、昨年の4月には 68 Kg あった体重が 53 Kg になってしまった。年は年だし、若い頃ベンゼンやクロロフォルムなどの溶媒を毎日吸い続けた過去を考えれば癌が発症していてもおかしくはない。それなりの覚悟はあった。

去年の春頃、たまたま近所の店で以前お世話になった方と話していたら、眼科なら私が懇意にしている方がいる、直ぐに連絡を取ってやろう言う話になり、その眼科への通院がその日に決まってしまった。まあ手術になるのは間違いないので、その前に糖尿病がどの程度進んでいるのかを把握しておかないと不味いだろうと思い、近所の内科へ行った。空腹時の血糖値が約 300  mg/dL、HbA1Cが15.6 という値だった。かなり進んだ糖尿病である。これは手術が出来るような状態ではない。毎日、夕食後に1Lを超えるほど水を飲んでいたことも、異常な体重の減少もこれが原因であったようだ。このお医者さんは良い人で、私の手に負える値ではありません。直ぐに専門医の所へ行きなさいと糖尿病専門医を紹介された。これ以降のことはここでは端折ることにするが、良い先生方に恵まれて血糖はそれなりの値に落ち着き、先月終わりまでに両目の手術は終わった。

術後の経過は順調で視力は1.2程度まで見えるようになっただけでなく、体重は60Kgまで戻った。体調もかなりよくなった。この間、歯の治療もしたので、しばらくは現状を維持できそうだ。このブログもPCの画面が見えずほぼ休眠状態だったが、これからぼつぼつ書き続ける事にしたい。ただ、体力というより脳力の低下を感じているので更新回数は余り増えなさそうである。まあぼちぼちと生存確認程度に続けていく予定である。

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