このブログは実に書き難い。歴史生物学でさえ世の常識に逆らっている部分が多いというのに、その中で自ら説明に使っている概念群に対してさらに異を唱えようとするのであるから、当然であることは論を待たない。ただの誤謬である可能性さえ十分にある。独断と偏見の塊となるか、新たな切り口となるか、それもまだ分からない。ただ、長い間違和感を感じながら使用してきた概念群について、その違和感の由来をおもてに出すことにしただけである。ひょっとしたら、似た感想を持つ人がいるかもしれない。でも、きっと少数だろうな。
知識社会学という学問において、視座構造という概念がある。人が事実を認識する際、社会的条件は認識の形成過程のみを規定するのではなく、認識の構造そのものにまで組み込まれているという考え方である。まだ若かった頃、カール・マンハイムの著作をひもといたことがある。彼は、ひとつの知識の成立において、歴史がこれに拘束をかけていると考える。当時の私にこの内容が十分理解できていたかどうかは不明だが(今も不明)、社会科学的な意味においては成立するかもしれないと感じていた。「歴史に拘束される知識」という概念はとても面白かったし、「意識の存在被拘束性」という概念も何故か記憶に残った。
こうした書物に手を出したのは、若者特有のスノビズムが原因であったと思うのだが、実際のところ内容はほとんど憶えていない。イデオロギーを再定義しようという試みだったかなという程度である。いわゆる理科系の学部に所属し、行動においてはあまり政治的ではなかった私が、なぜそんな本を読んだのか判らない。それこそ、時代の風に影響されただけのかもしれない。しかし、不思議なことにそうして読んだ書物の中で語られた「歴史に拘束される知識」とか「意識の存在被拘束性」という概念が、代謝を歴史的に考え始めた時、鮮明によみがえってきたのである。
数年ほど前から、生物体内で動いている代謝系の意義・成り立ちについて疑問を持ち、孤独に再構築を目指して考え続けてきた。こうした営為の中で見えてきたものが二つある。一つは、科学的事実が社会科学的パラダイムにより拘束を受けたなかで認識・評価されているという実態である。今ひとつは、科学的事実といえども、その解釈においては解釈を行うヒトの実感が大きな影響を与えているのではないかという懐疑である。前半は、科学的知識であっても社会科学的パラダイムの影響を免れないとするマンハイムの「歴史に拘束される知識」という概念に対応するように感じた。後半の懐疑は、ヒトが従属栄養生物であるという事実が、代謝系の認識そのものに影を落としているのではないか、マンハイム的表現をするとすれば、「認識の存在被拘束性」に対応するのではないかという疑問である。
理屈っぽい爺であると自ら思う。解糖系について語ると言いながら、解糖のかも出てこない。若かった頃の私なら、こんなに理屈っぽい爺の話は聞きたくないと思っただろう。もし読んで下さっている寛容な読者がいるとすれば感謝、感謝! もうすぐ本論にはいることにします。
解糖系という概念に対する異論 2 に続く

