燃料電池車

  先日のニュースでホンダが燃料電池車(FCV)を2015年から販売するという。トヨタが12月からやはり燃料電池車である「ミライ」を販売することになっているそうだ。Y新聞の記事によれば、「FCVは燃料の水素と空気中の酸素を反応させて発電し、走行中に水しか出さないため、「究極のエコカー」と呼ばれる。」と書いてあった。昨日のNHKニュースも同様である。「究極のエコカー」という表現を何処かで読んだことがある。そう、電気自動車の宣伝文の中である。走行中に排気ガスは全く出しません。

  何でこの程度の嘘に騙されるのかと思うのだが、世の中には電気自動車はきれいだ、排気ガスは出さないと信じる輩が大量に棲息している。過疎地のヒトはこんな話に対して怒るべきであろう。発電所は過疎地において、都会の中だけクリーン、それでは筋が通らないと。燃料電池車についても、水素をどこでどうやって作るのか、700気圧くらいまで加圧して燃料タンクに詰めるそうだが加圧するためのエネルギーはどれほどいるのか(液化するにはもっとエネルギーがいる)、先ず以て水素は輸送に向いているのか、圧力容器と配管は水素脆化に対して信頼性はあるのか、水素ガスのリーク問題は解消されているのか、全体としてのエネルギー収支とともに二酸化炭素放出量の算定は合理的か等々、たくさんの質問が出て当然だと思うのだが、新聞や雑誌に出る提灯持ち的紹介記事の貧弱さは見るに堪えない。スタイリングがどうだ、ドライブフィーリングがどうだと並べられても全く納得できない。いままでの流れの中にある車であれば、そうした判断は有効だろう。しかし、究極のエコカーと銘打っての車であれば、重点的に評価すべき点は別にあるだろう。

  30年ほ以上前だったと記憶しているが、私は穏健な保守の位置にいたと思う。いまもそうだ。その頃、文部省が環境教育に力を入れ始めた。別に悪いことではない。しかし、財界に支持基盤を置く自民党にとって、環境教育は将来その足場を崩す可能性のある施策だなと感じていた。ところがさすがに自民党、大学入試の勉強が過酷だ、ゆとり教育だ、個性の尊重だなどと云う理由を付けて、早期に文系と理系を分断し受験科目を削減して、極めて視野の狭い大人を作り出すことに成功している。「環境を大事に」とか「地球に優しい」などというお題目を唱えるだけで満足する「考えない羊たち」は、どこに誘導されていくのだろう。エネルギー保存則程度の知識を持っていることは、社会人としての最低条件と思うのだが。

  昔からの持論だが、大学は入試を自前でやれ、全大学とも受験科目は国語、数学、理科と社会はそれぞれ2科目(毎年、高校3年生の6月頃に大学側が指定する)、そして英語とする。こうすれば、バランスの取れた知識を持つ学生の数が、いまよりもいくらかは増えるであろう。もちろん、センター試験は廃止である。はは、天下り先がなくなるが故に、文科省が怒るだろうな。大学に、それも私学に勤めていたら、こんな発言はなかなかできないだろう。

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