体系的理解に向けて

 子供とは何故、どうしてを連発する生き物である。これに正しく答える続けるのは膨大な知識と忍耐が必要であると共に、どこかで話を打ち切らなければならない。数回続けて答えているうちに、答えられない領域に入ってしまうからである。夏休み子供科学電話相談だったかな、あれは現在の科学で答えることのできない質問をどうはぐらかすかという見本みたいな番組である。あれでは司会者が可哀想だと思う。いや、司会者も同罪か。

 そんな話ではない。空いた時間に白川静氏の書いた「字統」を読みなおしている。漢字をどう見れば体系的に説明できるかという体系を求める視座からの研究の成果である。白川氏によれば三千三百年前程前の中国において、一度に四千数百字の文字が生まれ、これが漢字の起源であるという。その内の二千五百字は現代でも読めるという。こうした漢字発生の歴史を白川氏がどう考えたかが問題である。白川氏は一度に四千数百字の文字が生まれたと言うことは、それ以前に文字化される直前にあった記号や図象の蓄積がなされていたに違いなく、この時点でそれらを組み合わせる創字体系が出現したと考えたのである。つまり一度に四千数百字の文字が突然出現するとは考えられず、この出現を説明するには、文字のパーツが揃った時点でそれらを組み合わせる体系的方法が考案されたと考えざるを得ない。そうであれば、漢字は考案された体系の中で相互に関連性を持って成立しているはずであり、その関連性を明らかにすることが文字学であるという。研究成果をまとめた「字統」という書籍は漢字の系統を述べた本である。

 字統においては親と新と薪を一つの系統に属する漢字として説明する。まあ、原本を見てください。木の上に立って見ているのが親という字の源ではないのである。漢字を体系的に系統づけて説明する、この考え方が私の研究に与えた影響はとても大きい。同じく、梅原猛氏による、古代日本の歴史解釈、「梅原日本学」とまで称されるようになったその中で「怨霊史観」が大きな意味を持つのだが、この「怨霊史観」が、古代に起こった多くの事件を解明するための体系的方法として使われているのである。梅原氏にも大きな影響を受けた。このお二人の碩学が他界されたのは返す返すも残念なのだが、年齢を考えれば仕方あるまい。

 ではどのような影響を受けたのか。自然界には膨大な数の天然物が存在する。勿論それらが、ある程度体系的な分類をされていることは間違いない。テルペノイド、フラボノイド、スチルベノイド、核酸、多糖、脂質、タンパク質、アミノ酸、フェニルプロパノイド、アルカロイド、・・・と、一連の代謝系に含まれる化合物として生合成的観点から分類されているわけである。このことについては、さほどの異論は持っていない。ではどこが不満であるかと言えば、全ての系に対して、何故その系は存在するのかという本質的な問いかけが全くないのである。

 我々の目の前に膨大な数の代謝物がある。大量に存在するものがあればごく少量しか存在しないものもある。長時間存在し続けるものがあれば、ごく短時間しか存在しないものもある。そうした物質群の存在意義に対して、現代科学(化学)はその物質の持つ性質ーそれもいわゆる生理活性ーを以て事後的に説明してきた。この説明においては、ある物質が作られる理由を作られた後で獲得された生理活性から説明するという原理的矛盾が存在する。さらに,ある物質が目立った生理活性を持たない場合、その物質に合理的な存在意義を付与することはできない。つまり、膨大な数の代謝物のほぼ全てが、存在する位置についての説明は生合成系という体系によってされるにしても、それらの代謝物の存在意義並びにその代謝物を含む生合成系そのものが何故存在するのかという懐疑は存在しないのである。

 白川氏は、漢字の源となる記号や図象の蓄積から4千字を超える漢字を生み出した創字体系を洞察して「字統」を書いた。梅原氏は、日本の歴史における個々の事件の連なりの源に、古来の怨霊思想が重要な役割を果たしてきたと考え、怨霊史観という歴史を見る視座を構築した。全く同じ事である。多数の分かっている事実があるときに、これを体系的に解釈するための補助線をどう引くか、視座をどう創り出すかという問題である。私の前にも、無数の代謝物があった。これらの代謝物に対し、今までの学説に較べてより合理的かつ普遍的な註疏ができる視座を捜すことが、三十歳を過ぎてからの私の課題だった。今、ようやくその全貌がみえてきたように感じている。

 だったら早くそれを書けよと云われそうだが、頭で分かっていても体系的に書き出すのはなかなか難しい。自分で分かることと、人に分かって貰うことの間には、凄まじい隔絶がある。四十年考えてきたことを書くのだから二十年ほどかかりそうな気がするが、それではちょっと長すぎる。反省して少しだけ加速することにする。この思索の一端は、「花色についての試論」「植物はなぜモルヒネを作るのか」の章に書いている。奇を衒って常識に反抗しているのではなく、そういう問題意識の基で書かれたものとして読み直して欲しい。公開し損ねていた『花色についての試論5」の公開にあわせた、ちょっとした註釈である。