歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 4

  少しだけ補足をしておきたい。ヒト1人の二酸化炭素放出量が約1 Kgと書いた。考えてみると70億人の人間が年間に放出する二酸化炭素量は25.5億トンにも上る。化石燃料の使用による二酸化炭素の放出量が260億トンであることを考えると、ほぼ1割に当たる。あらためて何とか云うつもりはない。ちょっと計算すると、結構な値になるなと思っただけである。

  熱廃棄の問題も、化学工学の分野では余りにも当たり前の話である。化学合成を行う場合の反応温度の制御は、少量であれば何でもないのだが、スケールアップすると急に難しくなる。研究レベルでの合成しか経験はないが、スケールアップして発熱する実験を行うときの怖さは、身にしみて感じていた。10倍にスケールアップして実施したのに、分離が大変になっただけで得られた量は10分の1スケールの場合に達しないなどという思いがけない収率の低下に愕然としたことも一度ならずあった。

  固形排泄物(雲古)についても簡単に書き流したが、未消化の固形物は別として同時に排泄される微生物の栄養源は何かという問題は残るだろう。消化管の中には酵素と呼ばれるタンパク質が分泌される。肝臓からは食物に含まれる脂質を利用しやすくするために胆汁酸と呼ばれるステロイド骨格を持つ界面活性剤が分泌され、同時に赤血球の分解産物であるビリルビンのグルクロン酸抱合体も分泌される。消化管の内壁は常に剥落を繰り返している。温度は37℃前後で、こうした栄養分だけでなく消化されて生じた単糖類やアミノ酸がある消化管内は、微生物にとっては天国にも等しい。しかし、野放図に微生物に増えられたらホストの命が持たない。ホストは消化管からIgA(イムノグロブリンA)を分泌して、腸内微生物をコントロールする。こうした秩序ある混沌の結果として、ステルコビリン輝く雲古となるわけだ。これに含まれる微生物は、我々の分身の変化したものであることを考えると、廃棄物いや廃棄生物とみなす事も可能のようだ。

  そろそろ植物についての議論になるが、動物と植物は基本的に違う側面を持つ。色々な見方ができる。例えば、動物は動き植物は動かない。それはまあ概ね認めるとして、動物は消費者であり植物は生産者である、動物は酸化的に生き、植物は還元的に生きる、などなど。ここでは、捨てるという視座から、植物を考えることにしよう。植物は、何をどのようにして捨てるのか。植物においては、前回の廃棄の話を逆の順序で進めることにする。

  熱廃棄、植物にとって生成する熱をどのように捨てるかという問題である。こんなことを言うと馬鹿にされそうだが、植物であっても代謝熱を発生する。陸上動物で最大と云われるアフリカゾウの体重が10トン弱、このゾウが体温調節のために大きな耳を持ち、ここを通る血液を通して放熱を行うとされている。では、植物はどうか?植物が発熱するということ自体に違和感を持つ方がいるかもしれないが、目に見える形で発熱する植物は存在する。例えばサトイモ科のザゼンソウ、東日本に分布し早春に咲く花で、肉穂花序での発熱により周囲の温度が氷点下になっても、花の内部は20℃以上の温度を保つという。写真を見ると早春の寒気の中で、周囲の雪を溶かして開花している。(http://www.sugadaira.tsukuba.ac.jp/column/201005column.htmlを参照)

  発熱を行う植物はザゼンソウだけでなくハス、ヤシ、ソテツなども発熱することが知られている。身近なものでは、緑豆(モヤシ)の発芽時の温度を測ってみればよい。結構発熱するものである。この発熱の意義については色々と論じられているが、どれも目的論的意義付けが過剰であるとの感は免れない。寒い中で、昆虫を集める、臭いを強める、寒冷傷害を免れる、花粉管の伸長を促す、受粉率を上げる、等々のために発熱するというわけである。私の立場から見ると、発熱植物は熱帯原産であるように見える。その熱帯原産の植物が、たまたま発熱する能力を持ったが故に温帯あるいは冷温帯への進出が可能になったと素直に考えるのだが、間違っているだろうか。まあ、結果は同じであり解釈の違いに過ぎないのかもしれないが。

  またもや脱線したようだ。植物の熱廃棄が論点であった。10トンのゾウの細胞は、ネズミの細胞に比して5.6%しか活動していないという。それでも体内に熱がこもるため、放熱装置を持つ。植物細胞はネズミの細胞に比してどの程度の割合で活動しているのだろうかと色々と本やネットのサイトを漁ったのだが、そうした発想自体が存在しないようである。理由は植物細胞の分布の形にもあるのだろう。植物で最大のものは(測り方でかなりな差が出るとは思うが)、カリフォルニア州のGiant Forest内にあるシャーマン将軍の木ということにしておく。このセコイアデンドロンの木は、樹高が約84 mあり、その体積は1,486 m3であるという。重さはどれくらいあるのか分からないが、気乾比重が0.45(含水率15%のときの比重)と書いてあることから概算すると、この木の含水率を15%まで落とした場合でも680トン程あることになる。ではこの植物において廃熱が問題になるかと云えばそれはないと考える。木の重量が500トンあろうが1,000トンあろうが、幹の大部分は死んだ細胞であり、発熱はしない。幹の周りの表皮を剥いで樹木を枯らす「巻き枯らし」という方法が示すように、いかに巨大な木であっても生きているのは幹外縁の形成層と師管の部分だけであり、その内側は死んだ細胞の集団があるだけである。巨樹のもつ圧倒的かつ神秘的な存在感は内包する無量の死に由来するのだろうか。とにかく、熱発生を行う細胞集団の放熱面積は極めて広く、熱廃棄の問題は生じないと考えて良さそうだ。葉は植物において最も活発に活動している細胞群からなるにしても、これもまた平板状の構造故に放熱面積は十分と考えていいのであろう。

  書き始めでちょっと方向を間違ったようで、なかなか本論に向かえない。この流れに従えば、植物の窒素の廃棄から炭素の廃棄へと論を進めざるを得ないだろう。苦し紛れに書いているので、支離滅裂、牽強付会、我田引水というタイトルを、自ら付けたくなるほどだ。とはいえ、ここまでの文章を全部消して書き直すというのも癪なので、このまま迷走を続けることにした。

 歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 5 に続く

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 3

  熱についてどう考えるか。本当に熱を捨てなくてはならないのか。これはちょっと難しい。暑い時期であれば、もう少し同意してもらいやすいかも知れないが、ここ2日ほどの寒さでは熱は取り入れたいものだと思ってしまう。地球温暖化の警鐘演説を、吹雪の中でやるようなものであろう。やはりエアコンを切って、うだる暑さの中でやらねばならない。あらぬ方向に話が駆け出しそうである。

  熱の問題は変温動物と恒温動物で全く違う話になるだけでなく、動物のサイズによっても著しくフェーズの違う問題となる。この辺りの事は、私が半端な知識を振り回すより、本川 達夫博士がお書きになった、ゾウの時間 ネズミの時間―サイズの生物学(中公新書)、サンゴ礁の生物たち―共生と適応の生物学(中公新書)、生物学的文明論(新潮新書)などを読んで頂いた方が、より面白く、より正確であろう。ついでに歌って頂ければ、もっとよく分かるかもしれない。

  これらを読んで導かれる結論は、様々な動物が、それぞれの動物固有の論理と時間のなかで生きているという事実であろう。余りにも簡単にまとめるなと怒られそうだ。動物の形は、いくつかの必須な条件を満たせば、その範囲の中では自由である。必須な条件とは、生きるのに必要な物質の取り込みと、不要になった物質の廃棄、生きるのに必要な体温の維持になるのだろうか。この3つの要件を満たせば、取り敢えずは生きられる。そして、この取り敢えず生きられる範囲の中で、色々な形や行動の創製が起こり、次に環境との相互作用の中で選抜が起こると考えていいだろう。

  熱廃棄の立場から少しだけ付け加えるとすれば、動物のサイズ、すなわち長さがn倍になると表面積はn2倍に体積はn3倍になるというべき乗則が問題になるのは、ある程度以上の大きさを持つ恒温動物の熱廃棄という局面においてであろう。この法則は、ある動物の長さが2倍になった場合、熱の発生量は8倍になるにもかかわらず、放熱に係わる表面積は4倍にしかならないことを意味している(但し、形は相似である)。2倍であればまだ良い。10倍になると、放熱できる面積は100倍にしかならないのに発熱量は1,000倍にまで急増する。熱発生量に対し放熱が追いつかない状況が発生するのである。その辺りの事は「ゾウの耳はなぜ大きい」(クリス・レイヴァーズ・早川書房)のなかに書かれている。代謝エンジンなどという用語を使っているが、要するに小さな動物においては全く問題にならない熱廃棄の問題が、一定の大きさを超えた動物では避けることの出来ない問題になることを論じている。ただし、熱廃棄の問題を解決するためにあるデザインをもつ動物になったのではなく、何らかの方法でこの問題を解決できるデザインになった動物が生き延びているわけだ。ここで使うデザインという用語は、単に形だけでなく行動様式をも含む概念と考えて欲しい。そこに動物の持つ生き方が千差万別である原因がある。

  動物の形の問題は、余りにも面白いが故に、何を述べるつもりだったか忘れてしまいそうだ。要するに、動物の形や行動の中には、放熱を目的として機能しているものがある。放熱しないと致命的な影響を受ける動物がいると云いたいだけである。そして、そのような動物の存在こそが、私の云う熱廃棄の必要性を具現化していると考えるからである。シロクマの赤ちゃんはとても寒く、ゾウの両親はとても暑いのである。

                 歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 4 に続く

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 2

  動物において生産物の廃棄という観点から論じるとすれば、呼気、尿、汗、糞便、垢を考えるべきだろう。呼吸と云えば酸素の取り込みをイメージすることが多いが、これは正しくない。吸気で酸素を取り込み、呼気で廃棄物である二酸化炭素を捨てている。どれくらいの量を捨てているか。体重50㎏の成人の呼吸量は400〜500 mlといわれている。1日に換算すると大体13,000 Lである。吸気中の二酸化炭素濃度は0.038 %、呼気中の二酸化炭素濃度は約4%であるから、吸気中の二酸化炭素0.038%は無視してよい範囲にある。そうすると、ヒトが1日に排出する二酸化炭素は520 Lで、重量にするとほぼ1㎏となる。これを炭素量に換算すると270 gに相当する。これを言い換えれば、呼吸とはエネルギー産生のために酸素約700 gを取り込み廃棄物である二酸化炭素 約1,000 gを捨てるシステムであるといえる。物質量としては二酸化炭素のほうが多いのである。では、二酸化炭素が捨てられなかったらどうなるか?極めて短時間で炭酸ガスナルコーシスを起こし、呼吸停止、そして死に至る。

  今一つは水の問題である。水は飲まなければならないではないか。水の廃棄とは何事だと云われそうだが、少し観点を変えたい。1日に、ヒトは尿として約1.2 L、(面倒なので約は省略する)糞便中の0.1 Lを捨てているように見られるが、そうでもない。実は呼吸によって0.4 L、皮膚からの蒸発によって0.6 Lの水が失われている。従って排泄される水の量は、2.3 L /日ということになる。大まかな数字だからそれはそれでよいのだが、内訳に問題がある。例えば1分子のブドウ糖、これが二酸化炭素まで酸化されると38分子のATPができると簡単に言われるのだが、この時6分子の水と6分子の二酸化炭素も生成する。このようにして生成する水のことを代謝水あるいは燃焼水と呼ぶが、この代謝水の1日当たりの生成量は0.3 L程度である。我々が尿として排泄する水2.3 Lの中で0.3 Lはエネルギー代謝に伴う廃棄物である。この代謝水は使えないわけではないので、我々が摂取する水は2.0 Lでよいということになる。要するに再利用しているので目立たないとはいえ、1日0.3 Lの水が捨てるべき廃棄物として生産されていることを意味する。各数値は、かなり大まかな値として丸めているので、その点は大目に見て欲しい。

  窒素はどうか?成人は1日当たり約30 gの尿素を尿中に排泄する。窒素に換算すると14 gに相当する。これも捨てている。窒素に関して、本来の廃棄物はアンモニアである。このアンモニアは毒性が高いため生体内に貯めるということはできない。硬骨魚類は、水に溶けやすいアンモニアをそのままエラから水中に捨てる。オタマジャクシもアンモニアで捨てる。軟骨魚類と親のカエルは尿素で捨てる。水から上がり卵生という繁殖戦略をとった爬虫類と鳥類は、水に溶けない尿酸の形で捨てる。我々は哺乳動物は尿素として捨てる。昆虫はアラントインとして捨てるものの、サナギの期間は尿酸に変換するという。要するに、水利用の容易さと捨てる化合物の水溶性がリンクしているわけである。細かいことはどうでも良いが、とにかく廃棄物であるアンモニアを捨てないと生きてはいけない。何しろアンモニアは、悪臭防止法の定める特定悪臭物質であり同時に劇物に指定されている。濃度が高まるとpHが高くなると同時に分子量が小さいため浸透圧への影響も大きい。生物は、その歴史の中でアンモニアの捨て方を試行錯誤してきたようだ。まあ、ホンオフェと呼ばれるアンモニア臭のきつい発酵食品もあるそうだが。

  動物が廃棄物を捨てる行為を排泄と呼ぶと考えていいのかどうか知らないが、通常、排泄物という言葉はウンチを主体に考えていることが多い。だが、これは食物中の消化できないものと、外界である消化器内で繁殖した微生物が通過してきたに過ぎない。生物学的に見れば、ウンチの大部分は微生物の死骸と通過物であり本来の意味での廃棄物ではない。

  余談だが、マスコミにおいて「生成する」という動詞が、他動詞的に使われる例をよく見かける。我々の世代は、「生成する」は自動詞として使っていたように記憶している。初めて、他動詞的用法にであったのは、オーム教団によるサリン事件の報道である。凄い違和感を感じたことを記憶している。その後、この使い方が増え、市民権を得てきたようだ。○○を生成するという他動詞的な云い方に違和感を感じる人は、どれくらいの割合になるのだろう。私が古いのかもしれない。いわゆるサ行変格活用をする能格動詞に当たるのかもしれないが、ちょっと引っかかってしまう。

  さらにもう一つ、学会の講演の結論部分で使われる「○○が示唆されました。」という表現にも違和感を持っている。責任のありかが分からない。「○○を示しています」、もっと簡単に「○○と考えました」と言えないものだろうか。示唆されるという表現では主語が何となく分かりにくい。あなたの先生が「こういうことかも知れないね」と云ったので、その先生に対する尊敬語としての使用かと疑うこともあるくらいだ。だが、先生は発表者に含まれているに違いない。従って、尊敬語としての使用ではないだろう。そうであれば、この「示唆されましたは」は、「そう思われる」という意味での使用だと理解せざるを得ない。しかしながら、示唆という言葉には、示すや考えるという表現より弱い蓋然性しか含まれない。「仄めかす」あるいは「暗示する」というのが最も近い言い換えだと思うが、それでは学会発表にはそぐわない。

                        一次代謝と二次代謝 3 につづく

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝

   そろそろ、全体を通しての本論に入りたいと思っている。思ってはいるが、いまちょっと困っている。何かを書こうと思う度に、「これは何処かで書いたのではないか?」という疑念が起こってくるのである。確かに、いまから書きたいと思うことを補強するために、アブシジン酸について語り、多糖類について語り、ジベレリン・リグニンについても語った。植物の色素についても語った。その中に、これから書こうと意図している考えの断片が存在する。その時点ではそうした断片を書かずして、各論は成立しなかったと思う。今後、話を進める上で、ある程度の繰り返しは避けることができない。それはよく分かっている。少しだけ躊躇があるとすれば、この筆者にはついに惚けの症状が出た。同じ事の繰り返しを始めたと推測されることに対してである。とはいえ、確かに物忘れは酷くなっている。人生の3分の1については記憶がなく、覚醒している残りの半分以上の時間は忘れ物の捜索に費やしている。まあ、そういう状態で書くものとして、読んでもらえればそれで良い。

  さて、生物はエネルギー源と物質源を外界に依存している。従属栄養生物と定義される生物においては、これは自明のことである。他の生物の生産物に従属しているわけである。一方、植物、光合成細菌、化学合成細菌などの独立栄養生物は、独立という言葉から外界に依存することなく生きているように受け取られがちであるが、それは全くの見当違いであろう。独立栄養生物であっても、エネルギー源とともに、炭素源、水素源、酸素源、窒素源を始めとして体を作るのに必要な全ての成分を、やはり外界に依存している。ただ、取り込む成分の、物質としての複雑さのヒエラルキーが異なるだけである。さらに、よく勘違されているのだが、生物は従属栄養生物と独立栄養生物という二つのカテゴリーに分けられる訳ではない。概念としての完全な従属栄養生物と完全な独立栄養生物の間に、従属度、言いかえれば独立度の異なる生物が途切れることなく分布しているのである。これは、言葉では簡単に定義できても、実態としての生物がその定義についてこないというだけの話である。いや云い方を間違った、連続している生物現象を、不連続な概念で切った事に問題があるのであり、生物に文句を言っても始まらない。

  ただ、この形の議論においては、決して表に出ることのないもう一つの問題が存在する。“エネルギー源と物質源があれば生物は生きてゆけるのか”という問題である。現在の生物学教育において、この問題に触れることは殆どないようだ。しかしながら、エネルギー源と物質源が存在することは、生物の生存にとって必要条件にすぎない。外界は、生物の必要なエネルギーを供給し、体を構成する物質を供給しているのだが、同時に生体の活動に付随して生成する生産物とエントロピーを、廃棄物または熱として廃棄する「捨て場」としての役割を担っている。この十分条件となるエントロピーの捨て場としての意義については、今までほとんど評価されてこなかった。しかし、外界の果たすこの「捨て場」としての役割は、資源を供給するという役割と比べたとき、重要さにおいて軽重はない。現在までの科学界では、エネルギーを使って生体成分を構成していく、いわゆる生合成に焦点が当てられ、生産物や熱の廃棄の問題については、薬物代謝などほんの少しの例外を除けば、常に無視されてきたように思われる。この議論は、生産を偏重してきた現代文明批判としても成立すると考えている。

  もちろん、ミクロスケールの生物においては、細胞内で発生した熱はすぐに外界に流出するであろうし、反応生成物も濃度勾配に従い細胞外に拡散するに違いない。つまり、生物のしめる容積に対し表面積が十分に大きい場合は、熱と反応生成物の廃棄は大きな問題にならないため、我々の注意を引かなかったであろうことは理解できる。しかしながら、生物が多細胞化し、生合成の能力を増大させていく過程において、この体内で生成した熱と生産物をいかに廃棄するかということは、その重要性において先に述べた必要条件と同等の重みを持つ。熱に関しては、生産される熱をどのようにして体内に保持し、どのように体外に捨てるかという矛盾した目的を満たす体の設計が重要になるであろう。

  いつものことだが、タイトルと内容が一致しない。しばらく待って下さい。漸近線のように時とともにタイトルに寄り添うよう努力します。

                        一次代謝と二次代謝 2 に続く

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煙草と大麻

  云うまでもなく「いつも少数派」である。たまに多くの人と意見が合うことがあるが、その場合は理由が全く異なるのが常である。お前はへそが曲がりすぎて一回りしただけだと褒められるほどだ。社会において説得されなければならない存在と云うことだろう。本人は、自らの意見が通らないのが社会であるという認識を持っている。つまり、いつになっても子供であり書生である。従って、生真面目に生きていると身も心も持たなくなる可能性が高い。その結果、馬鹿話と駄洒落れで韜晦し続ける人生を歩むしかなくなっていたようだ。ガバナビリティー(被統治能力)の向上が、いわゆる普通の生活を送る上で欠かせないとモノとなっていた。

  「いつも少数派」にとっては、民主主義とは多数派による押しつけを合理化する方法の別称である。ソクラテスの徒として長い間「ガバナビリティー」を育ててきたいつも少数派としては、交通規則はたまに破ったときがあるとはいえ、基本的に「法」は守る。悪法と思われる法であっても法は法であるとの意識は持っている。そうであるが故に、説明と説得を抜きにした多数派の横暴は許せない。民主主義が良いものとは少しも思わない。手続き論として認めているだけである。それ故に、民主主義をお題目にして権力を握っている人々は説得と説明という手続きを端折ってはいけない。何の話をしているか、人それぞれに思い当たる件があるだろう。私だって、幾つも思いつく。但し、ここで政治の話はしない。

  私、煙草の害なんてあまり信じていない。副流煙の方が危険などという話がどうして世の中で通用するのかも、全く理解できない。お前は喫煙擁護派かと云われるが、そんなつもりもない。煙が嫌なヒトがいることを考えて、礼儀ある吸い方は求める。それだけである。私が小さかった頃、もう60年近い昔の話になるが、映画は庶民の大きな娯楽であった。田舎の、小さな安普請の映画館であっても、土曜・日曜は客で溢れていた。この映画館、当時は換気装置もなく、何時ももうもうとした煙が立ちこめていた。幕間には、「映写効果を上げるために窓をお開け下さい」というアナウンスがあり、寒い時期であっても窓を開け煙抜きをしていた。

  私の親父は絵に描いたような真面目な人間であり、タバコは吸わなかったが、周囲の大人の男達は、殆どが喫煙者であった。統計を調べると、喫煙率は成人男性の80%を超していたようだ。そして、ぎりぎりまで吸うために、皆人差し指と中指が茶色に染まっていたのを記憶している。それから時間が経って、タバコにフィルターがついた。フィルターに活性炭が入った。燃焼温度を下げるために、巻紙に微少な穴が空けられた。フィルターの性能が良くなり、タール分が減りニコチン量もどんどん減って、スカスカのタバコになってきた。時を同じくして、タバコの害が大きく取りざたされるようになり、喫煙率も低下してきた。ところが、肺ガンの患者数は増え続けている。若い頃の喫煙が後で効いてくる可能性が取りざたされるが、明治から大正期にフィルターなしで吸っていた世代の発ガン率が高くなかったのである。きっと何か他の理由があるに違いない。これまたいくつか思いつくものはあるが、思いつくだけで証明するものがない。「風説の流布」あるいは「風評」と云われ、訴訟でも起こされたらかなわないので、これ以上は書かない。各自考えて下さい。

  麻(敢えて大麻とは言わない)についても、同じような状況が見られる。麻は極めて有用な植物である。日本人は長い間麻と共に生きてきた。麻柄という日本人になじみの深い模様は、麻の葉っぱを図案化したものであるし、迎え火・送り火として焚く麻殻も、繊維をとった後の麻の茎を干したものである。伊勢神宮のお札は大麻とよぶ。日本の麻は紀元前から栽培され、日本文化の中に違和感なく溶け込んでいたのだ。この間、いわゆる耽溺した人の報告例は殆どない。麻生などという姓を持つ人は、麻が自生しているところに住んでいた人であろう。

  多くの人が大きな誤解をしているが、大麻(マリファナ)は麻薬ではない。正しく云えば、大麻は麻薬取締法の対象ではないのである。大麻に対しては、大麻取締法という別の法律が存在する。だが、この法律がまた何処かいかがわしいのである。昭和23年の制定までの経緯が、アメリカ主導で行われており極めて分かりにくい。さらに不可解なのは、この法律には前文がない。そもそも法律というものには、何故その法律を制定するかという必要性を書いた前文が付くのが常である。この法律には、その前文がないのである。歴史的に見ると、この法律制定に対して当時まともだった農林省と通産省の役人が強く反対していた。彼らはアメリカからの圧力に抗して、何とか日本産の麻の栽培を残そうと努力していた。しかし、力及ばず大麻取締法の制定となったようである。その無念さの表現として、提出した法案に前文を付記しなかったというのが真相ではないだろうか。

  これまた、多くの人は知ろうともしない事実だが、麻は極めて有用な植物である。非常に生長が早く、荒れ地でもよく育つ。茎から強靱な麻の繊維が取れるだけでなく、実は食用になる。実を搾って得られる油は麻実油(ヘンプオイル)と呼ばれ、良質の食用油となる。現在、オーストラリア産のヘンプオイルが輸入され、2,500円/250 mlという価格で販売されている。言いかえれば、オーストラリアでは麻の栽培が認められ、これを原料とした繊維、オイル、麻実タンパク質など多くの麻製品がオーガニック認証を受け、輸出されるまでになっているのである。

  日本では、某女性タレントがごく少量の大麻を持っていたとして、マスコミを挙げての大騒ぎが起こった。まあ、大麻取締法という法律があるのだから仕方がないと云えばその通りである。しかしながら、麻の栽培禁止を無理強いしたアメリカでは、23の州で医療用としての大麻使用が認められただけでなく、ワシントン州とコロラド州においては嗜好品としての使用を認めるまでになっている。どうも、何が起こっているのか理解するのが難しい。

  少なくとも日本の在来種、あるいはトチギシロという品種であれば、マリファナの主成分であるテトラヒドロカンナビオールの含量は少なく、何の問題もなく栽培できると思っている。こう書くととんでもない奴だと思われそうだが、わたしは大麻を吸うこともないし煙草も吸わない。当然だが、麻薬と覚醒剤に関しては決して認めない。ただ、麻については、それらとは区別して考えるべき極めて有用な植物であると考えている。さらに、いわゆる向精神性を持つテトラヒドロカンナビオールについては、現在多発性硬化症、緑内障、肺ガン、繊維筋痛症などを初めとして広範囲の病気に効果があるだけでなく、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、覚醒剤、アルコールなどの薬物依存症患者の治療に使われはじめている。

  要するに、世人の誤解と無理解を助長・増幅し、理不尽な規制をかけようとする過剰な善意を持つヒトと、それらの規制を通して金儲けを企む下品なヒトたちを忌み嫌っているだけである。

  と書いてアップしようとしたら、またもやムカッとするニュースがあった。Nutiva社というアメリカの自然食品会社が、麻(ヘンプ)製品をオーガニックヘンプシードシリーズ《ヘンプナッツ、ヘンプオイル、ヘンプパウダー(プロテイン)》として日本で売るという。原料となる麻(ヘンプ)栽培地がカナダであるとはいえ、これは納得できない。

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