近況 1/25

  体調がいま一つで仕事が進まない。根巻きされた55本のブルーベリーが、早く植えてくれと待っているのだが、前提となる柿の伐採が進まない。さらに、昨年10月には新居へ移転する予定だったのに、スケジュールが遅れてまだ原自宅に住んでいる。まあ、それほど急ぐ話ではないし、その方が職場に近くて便利ではある。

  昨日は好天気であった。今日こそはと張り切って6本の木を切り、幹と大きな枝は薪ストーブ用に切り揃え、残った小枝は燃やしてきた。これでようやくブルーベリーを植える場所の確保ができたのだが、この植物は植えればよいという植物ではない。土壌のpHが4.3~5.2であることが求められるため、ピートモスをかなり多量に混ぜ込んでpH調整をしなければならない。そのためにまとめ買いしたピ−トモスとボラ土が、近所の店に預けっぱなしだ。早く受け取らないとお邪魔かなと思いながらも、仕事の遅れに伴いそのままになっている。

  新居の外構工事も遅れ気味なのだが、どうやら田舎にも人手不足の影響があるようだ。しかし、それ以上に問題なのは施工主である。どうしましょうかと聞かれても、適当に、いや適切にやっといてと答えるだけだから施工する方も大変だろう。先日も、工務店に立ち寄って、エアコンの取り付けを頼んだ。では、カタログを取り寄せますからと社長がいったのだが、国産メーカーの製品であればどれでも良い、あなたの好きな機種を付けといてと帰って来た。実際のところ、カタログをいくら丹念に読んだところで大したことは分からないのが現実だろう。メーカーによってデザインに少しの差があるのは認めるが、製品の能力に大きな差はないのが現状である。さらにカタログに載っているデータはある種のスーパーデータであって、実際のデータは間違いなく違う。

  冷蔵庫のデータなんて、中に入れているモノの量と扉の開閉頻度で驚くほどの差が出ることは常識だ。車の燃料消費率も同じである。日本自動車工業界自身が、実走行燃費は10・11モードのカタログ値の7割、JC08モードのカタログ値の8割程度と認めているではないか。私はあらゆる機器に対して、カタログ値の8割の性能をコンスタントに発揮するモノであればそれでよいと考えている。

  ということで2月初旬頃までにはすべての工事が終わり、ついに隠遁生活が始まる。いよいよ現世との繋がりが細くなり、唯我独尊の世界に浸ることになる。昔から憧れていた因業爺の世界である。その分言説は過激になるかもしれないな。

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 10 

  とはいえ、薬学の研究者達も、モルヒネの存在意義の説明の難しさを喉に刺さった小骨のように感じていたのではないだろうか。モルヒネはオピオイドのμ受容体に結合するのだが、哺乳類においてμ受容体に結合する内因性リガンドは見出されていない。内因性リガンドを持たない、いわゆるオーファンレセプターに、人ならぬケシがつくるモルヒネが結合して顕著な生理作用を示すという現実を、上手く説明することはなかなか難しいに違いない。

  この状況を何とか打破しようとする動きは1970年代からあった。ケシが何故モルヒネをつくるかは横に置くとしても、モルヒネが哺乳類の体内で生合成されることを証明して、少なくともモルヒネを内因性リガンドとして位置づけようというわけである。これが、Davis とWalsh により提唱されたモルヒネ内因性リガンド仮説であろう《Science, 167, 1005-1007, (1970)》。その後、Hazum 《Science, 213, 1010-1012 (1981)》らは、ヒトおよびウシの母乳からモルヒネの単離に成功したのだが,これは食物由来である可能性が高いと判断され、この仮説の証明とは認められらなかったようだが、このモルヒネ内因性リガンド仮説は生き続けた。

  そして1986年にはGoldstein 《Proc. Natl. Acad. Sci. USA., 83, 9784-978 (1986)》らがウシ脳内にモルヒネやその前駆物質であるコデインの存在を確認しただけでなく、Spector《Proc. Natl. Acad. Sci. USA., 83, 4566-4567(1986)》らは、コデインやその前駆物質と考えられるサルタリジン,テバインをラットに投与すると脳を含む様々な臓器でモルヒネ量が増加することを報じている。その後、Matsubara《J. Pharmacol. Exp. Ther., 260, 974-978(1992)》らは、L-ドーパの薬物治療を受けているパーキンソン病患者の尿中ではモルヒネおよびコデイン量が上昇することを報告し、Stefano のグループ《MolBrain Res., 117, 83-90 (2003)》が、最後に残っていた前駆物質であるレチクリンをラット脳内で検出(12.7±5.4 ng/g wet tissue)に成功した。

  ここでL-DOPAからモルヒネまでの生合成経路は完全につながっただけでなく、哺乳動物における生合成系がケシの生合成系と同様であることが明らかになった。これらの結果をもってすれば、人もモルヒネを生合成できる可能性が十分にあると言えるだろう。モルヒネが哺乳動物においてμ受容体に結合する本来の内因性リガンドであると結論づけて良いかどうかはまだ分からないが、何とかしてモルヒネと人を関係づけようとする努力が実りかけていると言えるかもしれない。「なぜケシはモルヒネをつくるのか」という疑問に答えてはいないにしてもだ。

  この話と全く裏返しの物語がアブシジン酸についても存在する。奇しくもSpectorらが、コデインやその前駆物質と考えられるサルタリジン,テバインをラットに投与すると脳を含む様々な臓器でモルヒネ量が増加することを報じた1986年に、植物ホルモンであるアブシジン酸がブタやラットの脳に存在するという報告がなされた《Le Page-Degivry MT et al., Proc Natl Acad Sci U S A., 83(4),1155-8 (1986)》。アブシジン酸が哺乳動物の脳内に存在するというこの報告に、やはり食物由来ではないかという疑いがつきまとったのは仕方のないことであったろう。いつ頃アブシジン酸が哺乳動物における内生の物質であると認知されたのかは定かでないが、植物ホルモンがヒトの脳にあるなどという状況は居心地が悪かったらしく、哺乳動物におけるアブシジン酸の影響についての研究が開始された。

  その結果、Bruzzone等《Proc. Natl. Acad. Sci. USA 104, 5759-5764 (2007)》は、アブシジン酸がヒトの果粒球(白血球の一種)を刺激するシグナルとして働いていると報じたあと、彼らのグループからはインスリンの分泌を刺激するという報告もなされている。さらにだが、国立感染症研究所の永宗らは、原虫であるトキソプラズマがアブシジン酸を生合成し、宿主細胞からの脱出を制御していることを明らかにすると同時に、アブシジン酸生合成阻害剤であるフルリドンがトキソプラズマのマウスへの感染を有意に抑えることを報じている。《Nagamune, K., et. al., Nature , 451, 207-10, (2008) ,Nagamune, K., et al., Comm. Integ. Biol. 1, 62-65 (2008)》 最後のフルリドンを用いた結果については、阻害位置がアブシジン酸生合成系とされているにしても代謝系のかなり上流にあり、カロテノイド生合成阻害なども視野に入れて考えるべきであろう。

  とはいえこれらの結果を見れば、さてモルヒネはそしてアブシジンはいったい何者であるのかとの疑問を誰もが持つと思うのだが。この疑問に拘泥して研究の手を止めるかどうかは別にしてもだ。

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 11 に続く

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 9

  イソキノリンアルカロイドというグループに分類されている一見複雑に見えるモルヒネだが、この化合物は2分子のチロシンから生合成される。チロシンからモルヒネまでの生合成を(R)-Reticulineまでの系路と、(R)-Reticulineからモルヒネまでに分けて記述したい。何故(R)-Reticulineで区切るのか?他意はない。ChemDrawの図1枚では描ききれないからに過ぎない。各段階に記載している数字は、いつもの通りECナンバーである。

  まず、図6-3から始めよう。モルヒネの生合成に於いては、1分子のチロシンがオキシゲナーゼの作用で水酸化を受けたあと脱炭酸を受けてドーパミンが生成する。もう1分子のチロシンは酸化的に脱アミノを起こして4-ヒドロキシフェニルピルビン酸となった後、4-ヒドロキシフェニルピルビン酸デカルボキシラーゼの触媒下に4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒドとなる。このアルデヒドが先に生成したドーパミンとの間で脱水縮合を起こしてシッフ塩基となった後、すぐにキノリン環を形成して (S)-Norcoclaurineとなる。(S)-Norcoclaurineに存在するテトラヒドロイソキノリン環の2位の窒素原子と6位の水酸基がメチル基転位を受けて(S)-N-Methylcoclaurineとなった後、もう一つの芳香環の3’位がモノオキシゲナーゼによる水酸化を受けて3′-Hydroxy-N-methyl-(S)-coclaurineへ、3′-Hydroxy-N-methyl-(S)-coclaurineの4’位の水酸基がメチル化を受けて(S)-Reticulineを与える。

図6-3 モルヒネ生合成系 1
図6-3 モルヒネ生合成系 1

  この辺りの酸化反応のメカニズムはリグニン生合成の8辺りに書いたものと同様であろう。モルヒネへ向かう反応系は、(S)-Reticulineから(R)-Reticulineへと変換された後進んでいくのだが、この一対の光学異性体間の変換反応はいくぶん不可解である。図6-3に示した下側の系を通るのであれば一旦酸化して不整炭素を消した後、立体特異性を持つ還元酵素1.5.1.27の作用で(R)-Reticulineを生合成すると説明できるのだが、Laudanineの存在がどうも気になるのである。酵素2.1.1.291の反応の方向が(R)-Reticulineからも(S)-ReticulineからもLaudanine生成の方向に向かっているのである。この点については、平衡定数がLaudanine側に寄っていると云うことで、反応自体は可逆反応であると理解しておくことにする。それにしても7位の水酸基のメチル化あるいは脱メチル化に伴い、どのようなメカニズムで1位のラセミ化が起こるのか、私自身が理解できていない。

  図6-4は(S)-Reticulineまでのもうひとつの生合成を示している。この系は図6-3の系と混在して動いている系であろう。働いている酵素にも共通な物がある。しかし、混ざった状況で記述すると分かりにくくなるので、まず独立して動いているという立場から述べることにする。

図6-4 モルヒネ生合成系 2
図6-4 モルヒネ生合成系 2

  この場合も2分子のチロシンから始めよう。まず2分子のチロシンが脱炭酸反応を受けて、2分子のチラミンが生じる。このチラミンがmonophenol oxidaseによる水酸化を受けて2分子のドーパミンに変換される。勿論、この系にはL-DOPAを通る系も存在する。生成したドーパミンのうち1分子はaromatic amine dehydrogenaseあるいはamine oxidase と呼ばれる酸化酵素の作用により3,4-Dihydroxyphenylacetaldehydeへと酸化される。この時発生するアンモニアは再利用されるのであろう。生成した3,4-Dihydroxyphenylacetaldehydeはもう1分子のドーパミンと脱水縮合してシッフ塩基を形成した後イソキノリン間を形成して(S)-Norlaudanosolineを与える。この後、3段階に渡るメチル基転移によって(S)-Reticulineに変換され、図6-3の系に合流するわけである。量的な問題は余りに複雑すぎてここでは考慮しないことにする。

  図6-5に移る。Salutaridine synthaseと呼ばれるP450に分類されるオキシダーゼが、2つのベンゼン環でC-Cフェノールカップリングと呼ばれる結合が起こりSalutaridineが生成する。この反応については、後で少し補足するかも知れない。次ぎにSalutaridineのカルボニル基が立体選択的に還元されてSalutaridinol、生成したSalutaridinolの水酸基がAcetylCoAによるアセチル化を受けて7-O-Acetylsalutaridinolになると、フェノール性水酸基による攻撃と同時にアセトキシル基が脱離する反応が酵素の存在なしに進行してThebaineが生成する。

Fig. 6-5 モルヒネ生合成系 3
Fig. 6-5 モルヒネ生合成系 3

  モルヒネ生合成に於いては、メトキシ基を酸化的に水酸基に変更しながら反応を進める見慣れない酵素が重要な役を果たしている場面があるが、ThebaineからNeopinoneへの変換はその例である。多分だが、メチル基が水酸化を受け生成したヘミアセタールがホルムアルデヒドとエノールへと変換される反応であろう。こうして得られるNeopinoneはより安定なab不飽和ケトンへと自動的に変化しCodeinoneとなる。後は簡単である。Codeinoneは立体選択的にre面からのヒドリド還元によりCodeineに、Codeineに残っているもう一つのメトキシ基がやはり酸化的に水酸基へと変換されてMorphineが完成する。

  Thebaineを基点とするもう一つの生合成系は、反応の順序が入れ代わった系と見ればよい。Thebaineの4’位に由来するメトキシ基が先に酸化的に水酸基へと変換されてOripavineとなった後、6位のメトキシ基が同じく酸化されてMorphinoneとなり、続いて立体選択的にre面からのヒドリド還元が起こりMorphineが完成する。

さて、これら3枚の図を連続して並べて上記の説明を付ければ、初学者を「これがモルヒネの生合成系だ」と納得させることは難しいことではない。似たことを私もやってきた。「だが」である、図6-7を見て、モルヒネの生合成系はという議論をすることができるのか。図6-7はモルヒネを含むイソキノリンアルカロイドの生合成系を示しているが、左側の縦に降りてモルヒネに連なる部分のみを恣意的に切り出してモルヒネ生合成系として描いたわけである。

スクリーンショット(2015-01-07 22.46.44)
図6-7 イソキノリンアルカロイドの生合成系(KEGGより引用)

  さらに図6-8をみれば、イソキノリンアルカロイド生合成さえも、チロシン代謝のほんの一部分に過ぎないことは明白である。要するに、モルヒネという1つの代謝物が、ヒトに対して特異的な活性を持ち薬学という分野で大きな興味をもたれたが故に描かれる系に過ぎない。モルヒネもまた、二酸化炭素から糖へ、糖からアミノ酸へと変換されて役割を果たし再度二酸化炭素とアンモニアへ戻っていく過程に存在する一つの微量物質に過ぎないのである。

図6-7 チロシン代謝系
図6-8 チロシン代謝系(KEGGより引用)

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 10 に続く

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安全と安心

 “安全”、最も嫌いな言葉の一つである。安全と安心、昔はエキセントリックに食品添加物や残留農薬を責め立てる人々の常套句だったが、近年、官僚や政治家までが使うようになってきた。安全と安心の社会、そんなものがあるはずはないではないか。馬鹿野郎と云いたい。安全なんてないと分かっていて騙すつもりで使っているのならまだしも、ご本人まで信じていそうな所がなお嫌である。世の中に安全な物などあるはずがない。その辺の石ころだって、躓けばこけるかもしれないし、これを持って人を殴れば危険である。美味だという生クリームであっても食べ過ぎれば危険である。生クリームのはいったプールで溺死なんて考えたくもない。安全なはずの銀行預金も、新円切り替えと預金封鎖で動きを止められ財産税で吸い上げられるとすれば、これもまた危険なものであろう。いや1946年の日本の話です。

  文科省に科学技術・学術審議会という審議会がある。その中に「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」があった。その懇談会の報告書が文科省のホームページに掲載してあるので、その第2章を一寸引用する。

第2章 安全・安心な社会の概念

 安全・安心な社会を構築するためには、目指すべき安全・安心な社会のイメージを明確にすることが必要である。そこで、そもそも安全とは何か、安心とは何かについて検討し、それらの検討結果と前章で述べた社会を巡る諸情勢の変化を踏まえ、目指すべき安全・安心な社会の概念を提示する。

2‐1.安全とは何か

 安全・安心な社会の概念を提示するにあたり、まず、安全とは何かについて、社会との関わりを中心として検討を行った。検討の結果は、以下の通りである。

1 安全とは

 安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。

2 設計および運用段階の安全

 社会において、様々なシステムや制度が人間の手で設計され、運用されている。これらの安全について考えた場合、安全とは、設計段階において安全性が十分に考慮されているとともに、人間が運用する際における安全が確保できている状態である。また、安全を侵害する意図が存在する場合は、上記の状態に加えて、その意図の抑止・喪失が実現できている状態である。

3 事前および事後対策の実現による安全

 安全を脅かす要因(以下、リスクと記す)による被害を最小限に抑えるためには、発生抑止や被害防止等の事前対策に加え、発生後の応急対応や被害軽減、復旧復興等の事後対策も含めた総合的な対策が必要である。したがって、リスクに対して、事前および事後対策の両方がなされている状態が安全であるといえる。

4 個人の意識が支える安全

 社会システムが、利用者である個人の行動と密接に関連しているということは、社会システムの安全が何らかの方法で確保できても、安全を考慮せずに個人が行動すれば、安全な社会は容易に崩れることを意味している。したがって、社会システム固有の安全性に加えて、利用する個人が安全に対する知識・意識を持ち、それに沿った行動をとることで初めて、安全が確保されるといえる。

5 リスクの極小化による安全

 世の中で起こりうる全ての出来事を人間が想定することは不可能であり、安全が想定外の出来事により脅かされる可能性は常に残されている。そこで、リスクを社会が受容可能なレベルまで極小化している状態を安全であるとする。同時に、社会とのコミュニケーションを継続的に行う努力をすることにより、情勢に応じて変動しうる社会のリスク受容レベルに対応する必要がある。

6 安全と自由のトレードオフ

 安全を高めようとすればするほど、利便性や経済的利益、個人の行動の自由等が制約され、プライバシーが損なわれる可能性がある。よって、安全性を向上させる際には、このようなトレードオフの関係を考慮する必要がある。しかしながら、より高いレベルの安全を実現するためには、安全と自由のトレードオフの次元にとどまらず、安全性と行動の自由やプライバシーを並立させる努力を続けることが重要となってくる。・・・ここまで

  日本の立派な大学と先進的企業のトップから選ばれたと思われる審議会の委員達が、本当にこの内容で納得したのだろうか。多分、前もって官僚が作文した原稿をもとに少しばかりの懇談をし、まあまあまあという形で了承したものであろう。作文をした官僚にしても国家公務員試験を通り、能力あるとされていた人に違いない。しかし、「安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。」という文章で、これが安全の定義だといわれてもなんとも判断が下しにくい。私は安全という概念はあるが、安全を具現化する現実はないと考えている。その証拠に、2-2〜2-6の項に於いて下線を付した部分は、安全維持の条件を並べ立てそれが守られなければ危険であると言っているではないか。ここ数年の社会の動きを見ていると、無責任に安全神話を振りまくと、そのことが安全を脅かすことになると思うのだが。

  さらに波線のアンダーライン部分は最悪である。あっ、Wordpressでは波線のアンダーラインは使えない。つまり以下の部分である。 安全とは、設計段階において安全性が十分に考慮されているとともに、人間が運用する際における安全が確保できている状態である。安全とは、安全性が十分に考慮されていること、さらに安全が確保されている事と言われても、これは最悪のトートロジー(同義反復)である。

  細かなことにケチをつけるのが本意ではないが、政府が出してくるこうした文書にはこれから実行したい政策の芽が見られることが多い。行間から政府の意向を読み取る位の能力は国民として持つべきであろう。次の安心についての項を含めて、現在の政府が行おうとしている政策の萌芽が読み取れるではないか。ちなみに、この報告書が出されたのは、2004年の4月である。もう少し引用する。

2‐2.安心とは何か

 安心とは何かについても、安全と同様に、社会との関わりを中心として検討を行った。検討の結果は、次の通りである。

1 安心について

 安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。当懇談会では安心について、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること、といった見方が挙げられた。

2 安全と信頼が導く安心

 人々の安心を得るための前提として、安全の確保に関わる組織と人々の間に信頼を醸成することが必要である。互いの信頼がなければ、安全を確保し、さらにそのことをいくら伝えたとしても相手が安心することは困難だからである。よって、安心とは、安全・安心に関係する者の間で、社会的に合意されるレベルの安全を確保しつつ、信頼が築かれる状態である。

3 心構えを持ち合わせた安心

 完全に安心した状態は逆に油断を招き、いざというときの危険性が高いと考えられる。よって、人々が完全に安心する状態ではなく、安全についてよく理解し、いざというときの心構えを忘れず、それが保たれている状態こそ、安心が実現しているといえる。

2‐3.安全・安心な社会の概念

 以上の安全および安心についての検討と社会を巡る諸情勢の変化を踏まえると、目指すべき安全・安心な社会とは、以下の5つの条件を満たす社会であると考える。なお、これまでも、安全確保に向けた不断の努力が社会の安全に大きく貢献してきたことを鑑み、社会においてそうした努力が継続して行われていることを前提とする。

1 リスクを極小化し、顕在化したリスクに対して持ちこたえられる社会

 安全な状態を目指した不断の努力によって、リスクを社会の受容レベルまで極小化することで安全を確保しつつ、危機管理システムの整備によって、リスクを極小化した状態を維持できる社会であること。同時に、リスクが顕在化しても、その影響を部分的に止め、機能し続けられる社会であること。

2 動的かつ国際的な対応ができる社会

安全はいつでもどこからでも予見の範囲を超えて脅かされることを前提として、新たな脅威が生じても常に柔軟な対応が可能な、動的な対応の仕組みが用意されている社会であること。さらに、安全を実現するための国際的協調ができる社会であること。

3 安全に対する個人の意識が醸成されている社会

 安全な社会の構築に関する組織とともに、個人も安全に対する知識と意識を持ち、安全な社会の構築に必要な役割を個人が果たしうる社会であること。

4 信頼により安全を人々の安心へとつなげられる社会

 社会的に合意されるレベルの安全が継続的に確保されると同時に、安全確保に関わる組織と人々の間で信頼が醸成され、安全を人々の安心へとつなげられる社会であること。

5 安全・安心な社会に向けた施策の正負両面を考慮し合理的に判断できる社会

 安全・安心な社会を実現する施策が持つ正と負の両面を十分に考慮した上で、どこまで安全・安心な社会を実現するべきか合理的に決めていける社会であること

 以上、5つの条件を満たす安全・安心な社会の構築を目指した上で、さらに心豊かで質の高い生活を営むことのできる社会の実現を目指すべきである。・・・ここまで

  要するにと簡単にまとめられる問題ではないのだが、これらの文章に於いては意図的とも思える「危険」隠しが行われている。いつから危険という言葉は使えなくなったのだろう。先にも書いたが「安全」という言葉は、概念だけあって包含する現実はない。一方「危険」という言葉には無限とでも言うべき事象群が存在する。その実態ある「危険」という言葉を隠して空虚な安全という概念で社会を語るが故に、なんとも意味不明な文章になっているのである。

  政府批判をするつもりはないが、危険隠しをしたところからではどんな議論も成立しない。政府が余りにも危険隠しに走ると、反作用として危険危険と騒ぐグループが出現する。危険か安全かというアンバランスな視点からでは、合理的判断などできるはずがないのである。文科省の資料を少し出したが、安全安心をタイトルに付けた文書はどこにでもある。厚生労働省、農水省、総務省、経産省、内閣府など政府機関だけではなく、痴呆自治体いや地方自治体にも安全・安心な町づくり条例なるモノが、氾濫している。安全・安心条例と入れて検索をかけると、半日は楽しめそうなくらいの数がヒットするのである。

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何で今頃

  今日は2015年の元旦である?。世の中ではどうやら目出度い日らしい。昨夜というか今朝の話だが、午前二時頃までかかって年賀状を書いた。毎年の恒例である。賀状は元旦の1便に乗せるよう投函することにしている。(今回は賀状が切れ、インクが切れ、住所録がジャムってしまった。誰に出して誰に出してないかわからない。)それから寝たのだが、朝6時過ぎに派手にサイレンを鳴らした救急車がやってきて我が家の前で止まった。誰を運びに来たのかと朦朧としながら考えた。そう言えば、昨夜咳が酷かったな、まさか私ではないだろう。などと考えながら、一寸心配なので手と足を動かしてみた。一応動いたので安心した。呼んだのははす向かいの方で、ノロウイルスによる食中毒であったそうだ。

  正月、子供の頃は少しずつ大人に近づいていくのが嬉しかった記憶があるが、三十路を過ぎた後はそれほど嬉しいものではない。歳とともに責任が増え、体重が増え、髪が減ってくる。アア、親父もこんな気分で正月を迎えていたのか、もう少し話をしておけばよかったなと、いまになって切に思うのである。

   門松は あの世に続く 一里塚 目出度くもあり 目出度くもなし

同感であるとはいうものの、やはり無責任に楽しく生きていきたい。

   元旦や モチで押し出す 去年糞 今年も元気だ ビオフェルミン

                            作者: 菌賀新年

でも人の乳酸菌、どうやって取ったのだろう??

  正月三日の間にあの世の話をすると縁起が悪いと叱られる。年が明けて一週間以上経った。もうあの世の話もウンチの話も出して良いだろう。

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