窒素分子は先にも述べたとおり、極めて安定である。従って、動物はもちろん高等植物もこれをそのまま利用することはできない。人類が窒素の工業的固定法を確立するまで、地球上の生物はニトロゲナーゼを持つ微生物群が作るアンモニアと雷放電で生成する窒素酸化物に依存していたと考えてよい。現在では、高校で習うであろうハーバーボッシュ法によって、生物が生産するのとほぼ同量のアンモニアが工業的に生産されている。蛇足だが、この方法は非常にエネルギーを必要とする方法であり、現在人類が消費する1%分のエネルギーがこの窒素固定で消費されているという。
さて、この窒素固定反応は本当に人類は幸せにしたのか。なかなか一概には答えられない問題であろう。フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュによって成し遂げられ、歴史上最も重要な発明の1つとして選ばれるに違いないであろうこの窒素固定法だが、ノーベル賞を受賞した後の2人の後半生は哀しい。ハーバーはユダヤ人であったためにナチスによって母国ドイツから追放され数カ国を転々とするが、毒ガス兵器の開発に携わったことで科学者仲間からの風当たりが強く、失意の中、イスラエル建国に参加しようと移動中に客死(1934年バーゼル)、ボッシュはBASFの経営陣の一員としてナチスの方針に引きずられていく状況に心を病み、彼もまた失意の中で他界する。(1940年ハイデルベルグ)
話を戻そう。植物は基本的には常に窒素不足の状況にあると考えて良いのだろう。通常、肥料を与えていない土地に植えた植物に窒素肥料を与えると、葉っぱの色がより濃いグリーンに変化し、植物体はぐんと大きくなる。そうであれば、植物が窒素を捨てるなどという議論は成立しないに違いない。このところ数回に渡って、愚にも付かない日常を書いて誤魔化してきたが、理由はここにある。植物は窒素を捨てるのか?私の視座から見ると、捨てていると判断する現象があるのだが、そうはいっても常識的な立場から考えれば理解されないという確信があるからである。その逡巡が筆を鈍らせてきたわけだが、ここまできたら、書くしかないだろう。
さて、植物の作るアルカロイド類、現在10,000種ほどの化合物が知られているそうだが、この化合物群に識者はどのような意義付けをしているのだろうか。こうは書いても、まずアルカロイドをどのような範囲の化合物に対して使っているのかが明確でないと議論は始まらない。
古い本をひもとくと、「植物塩基である」「分子内に窒素を持ち、植物体内で生合成される大きな化合物群をいう。多くのアルカロイドは強い薬理活性を持つ。アルカロイドにはコカイン、ニコチン、ストリキニン、カフェイン、モルフィン、ピロカルピン、アトロピン、メタンフェタミン、メスカリン、エフェドリンそしてトリプタミンが含まれる。」などと書いてある。簡単にまとめると、「植物の作る塩基性の窒素化合物で、その多くが強い生理活性を持つ」となるだろう。だが、この定義は昔から知られている典型的な化合物群に対してのみ成立するに過ぎないとはいえ、感覚的にはとても分かりやすい。だが、これでは近年の進歩について行けず、アルカロイドの全貌はつかめないだろう。
そこでアルカロイドを研究対象にしている分野の中で、アルカロイドに一番近い位置に位置すると思われる薬学会のサイトから引用してみよう。
「アルカロイドは元来、植物由来の窒素を含む有機塩基類で、強い生物活性を有する化合物群と定義されていた。しかし、テトロドトキシンやサキシトキシンのように動物や微生物が産生する有害な含窒素化合物や、幻覚剤であるLSDなど非天然型の化合物もアルカロイドに含めることが多い。顕著な生物活性を示さないものや、痛風治療薬であるコルヒチンのように窒素がアミドになっているため塩基性を示さないものも一般にアルカロイドと呼ばれている。そこで最近では、「アミノ酸や核酸など別のカテゴリーに入る生体分子を除いて、広く含窒素有機化合物」をアルカロイドと定義づけしている。微量で多彩な生物活性を示すことから医薬品として用いられているものも多く、また新たな医薬品開発のためのリード化合物としても重要である。生合成的には、アミノ酸を出発物質とするアミノ酸経路によって生成される真性アルカロイド(モルヒネ、アトロピン、キニーネ、コカインなど)と、非アミノ酸由来のプソイド(シュード)アルカロイド(エフェドリン、アコニチン、ソラニンなど)に分類される。」
この薬学会の定義は実に斬新である。上の文章中で青色で示した部分に関しては、古典的な定義を顕著な生理活性を示す動物由来の天然物、あるいは顕著な生理活性を示す合成化合物を含むように拡大したものであり、理解が及ばないというほどのものではない。テトロドトキシンやサキシトキシンの本当の生産者は細菌あるいは藻類である可能性を含めての話だ。しかしながら、橙色の部分になるともういけない。全く理解できない。窒素を含む化合物で、アミノ酸や核酸など別のカテゴリーに入る生体分子を除けば全てアルカロイドと称するなんて、それはやり過ぎでしょう。合成化合物がアルカロイドとして分類されるという部分も、読み方によっては悩ましい。別のカテゴリーという表現が、どのヒエラルキーで機能する言葉であるか分からないが、窒素を含む薬剤なんて掃いて捨ててもまだ残るほどある。それらがアルカロイドとして分類されるとなると、これは驚天動地の話となる。薬学と云われる分野で、アルカロイドに似た顔を持つ化合物群をイメージしての表現だとは思うが、このままでは思いもよらぬ化合物をアルカロイドと呼ぶことができてしまう。
いまひとつ、帝京大学薬学部附属薬用植物園の木下武司氏によって非常によくまとめられているサイト(http://www2.odn.ne.jp/had26900/index.htm)の、アルカロイドについてという部分を少々改変して引用する。(意味が変わらないように気を付けたつもりだが、ご本人の意図と変わっていた場合は私の責任である)《》で括られた部分であり、一寸長いが読んで欲しい。
《1.アルカロイドの分類について
植物の中には分子内に窒素を含み塩基性を示す化合物を含むものがある。これらは古くからアルカロイド(alkaloid)と総称されているが、”アルカリのようなもの”という意味からわかるように語源的にはアルカリ(alkali)と同じである。和訳として「植物塩基」が用いられた時期もあったが、今日では動物起源のアルカロイドも知られていること、また以下に述べるようにアルカロイドであっても塩基性でないものも実際に存在するのでこの訳語を用いるのは適当ではない。
これまでに単離されたアルカロイドの化学構造は極めて多様であるので、様々な分類法が提唱されている。最近、よく用いられるようになったのは生合成的起源による分類法であり、またこれが新しいアルカロイドの定義ともなっている。まず次の2(3?:筆者の推測)つのタイプに大別されている(定義:最新の知見に基づいて2012年4月に修正)。
1. 基本骨格、窒素源ともにアミノ酸に由来し、生合成過程でアミノ酸は脱炭酸を伴う真正アルカロイド(true alkaloid)
真正アルカロイドについてはさらに前駆体となるアミノ酸の種類によって、例えばトリプトファン由来アルカロイドなどのように分類される(→詳しくはアミノ酸経路を参照)。
- 基本骨格がアミノ酸に由来せず、窒素源はアンモニア性窒素ないしアミンであるプソイドアルカロイド(pseudoalkaloid)
プソイドアルカロイドとしては、ジャガイモの芽に含まれるソラニン(Solanine)などに代表されるステロイドアルカロイド(steroid alkaloid)、 アコナン系ジテルペンを母核しトリカブト毒素として名高いアコニチン(Aconitine)*やコウホネアルカロイドなどテルペンアルカロイド(terpenoid alkaloid)、 セリ科ドクニンジンの有毒成分コニイン(Coniine)などポリケチドアミン(polyketide amine)などがある。
- 基本骨格、窒素源ともにアミノ酸に由来するが、脱炭酸を伴わないで生成する不完全アルカロイド(protoalkaloid)
不完全アルカロイドとは、具体的には特殊な芳香族アミノ酸であるアントラニル酸、ニコチン酸を前駆体とするアルカロイドであるが、これらは生合成経路の上で脱炭酸を伴わない点で通常のアミノ酸を前駆体とするアルカロイドと区別される。ミカン科植物にはアントラニル酸を前駆体とするアルカロイド(例ゴシュユアルカロイド)が特に多いことで知られる。不完全という名前を冠しているので生合成反応が未完成という意味で名付けられたようであるが、ゴシュユアルカロイドについてはトリプタミンとアントラニル酸のアミド縮合体にC1単位が導入されただけなので”不完全”というのは理解できるが、アントラニル酸、ニコチン酸由来のアルカロイドの中には複雑な生合成過程を経るものも多くあるので誤解しやすい。アントラニル酸、ニコチン酸はアミノ酸に似て非なるものとして”いわゆるアミノ酸”に含めないこともある(特に生化学領域では)ので、そのような定義に立てば不完全アルカロイドは「窒素源をアンモニアないしアミン、アミノ酸に由来しないアルカロイド」ということになろう。》
1, 2の部分については歴史的な定義をも加味してあり、とても分かりやすく何の異論もない。3の項は、例外規定としての位置づけであろう。しかし、ゴシュユアルカロイドの原料はアントラニル酸とトリプタミンである。アントラニル酸にこだわらずトリプタミン由来のアルカロイドト見なせば、さほど例外扱いする必要はなさそうに思う。ニコチン酸由来のアルカロイドについては、植物におけるニコチン酸の生合成がアスパラギン酸から誘導されるイミノアスパラギン酸と1,3-ジヒドロキシアセトンリン酸との反応で生成するキノリン酸を通って起こる事を考えれば、ニコチン酸由来のアルカロイドもアスパラギン酸に起源を持つとして良いのではないだろうか。
要するに、現実はどこまでもつながっているのに、これを言葉で切ろうとする「定義づけ」が問題の原因であることは間違いない。(なんだか、領土問題と似た構造であるようだ。ある地域が、ある時代にはA国に属し次の時代にはB国に、その次の時代はC国に属していた。ある地域はどこに属するのか。生臭いではない、焦臭い話は止めよう。)要するに、誰が見ても間違いなくアルカロイドと言える化合物群の周辺にアルカロイドかもしれないという曖昧な物質群がたくさん存在しているということに過ぎない。生合成による分類においては、色々な生合成系でつくられた物質が、さらに結合した物質群を、複合系路による生成物として棚上げにしているではないか。そうした、棚上げを行う以外に解決法はないと思う。
歴史生物学 一次代謝と二次代謝 8 に続く