薪ストーブ

  一寸ばかり無理をして薪ストーブを設置した。家の周辺に果樹園があるというより、果樹園の中に家があるといった立地である。秋から冬にかけて剪定した枝を盛大に積み上げて燃やす風景が見られる。それをくださいといえば、燃やす手間が省けるからと喜ばれる程である。乾燥する手間がかかるとはいえ、燃料の心配はいらない。

  そして一応転居した8日に火入れ式を行った。薪は師匠の家の軒下に積んであった3年乾燥の梨の木である。気持ちよく燃えた。確かに、ファンヒーターや電気ストーブに比べて柔らかな暖かさである。臭いは殆どないし、まず静かである。翌朝まで暖かいという神話は本当ではないとはいうものの、11時過ぎに大きめの薪2本を入れて寝た。外気温は-2℃、霜柱が立った寒い夜であったが、朝7時の室温は13℃だった。

  11日、起床してまずストーブに火を入れた。乾燥しきった薪はすぐに燃え始め、柔らかな暖かさを発し始める。この日は柿の剪定をしようと計画していたのだが、この気持ち良さにつられて、ストーブの前を離れる気にならない。時々薪を補充しながらうつらうつらとしていたら、いつの間にか夕方である。環境がよすぎるとヒトはダメになるという。捕食者のいない島の鳥は飛べなくなってブクブクと太るという。不精者の私にとって、薪ストーブは天敵かもしれない。今後、火を入れるのは夕方からにしよう。

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転居

  ようやく新居へと住所を移した。定年帰農ならぬ退職就農である。この退職就農という言葉には、二つの不利な条件が含まれている。一つは定年まで勤めていない、つまり給料を最後までもらっていないということを意味する。さらに、定年帰農という言葉には、親の作っていた農地を継承するような響きがあるが、退職就農であれば、退職した後に農地を購って就農したことを反映させている。確かに、都市部の土地に比べれば農地はとても安いとはいえ、買う面積は遙かに広い。さらに農業機械は十二分に高いという現実がある。それに加えて小さいとはいえ、家を建ててしまった。何とも心細い出発となってしまった。

  今月の6日に引っ越しを予定し、5日にトラックを借りる予定だったのだが、この日の夕方はとても寒くてかなり強い雪が降っていた。夜の雪道を慣れないトラックで走るのはいくぶん心配で1日予定を遅らせた。6日にトラックを借り黄昏れる頃に積み込みを終えた。そこから75Kmの夜道を走って荷物を運んだ。夜でも明るい福岡市を抜けて次第に暗くなる夜道を走っていると、完全に夜逃げ気分はである。いや、夜逃げはしたことはないので、擬似夜逃げということにしておこう。荷物を下ろしてまた福岡まで戻ったのが11時頃である。

  翌朝、さて仏壇と神棚を運ぼうとトラックに乗ったら、バッテリー上がりでエンジンが動かない。そういえば夕べ、ヘッドライトが暗かったなと思いながらJAFを呼んだ。緊急用のバッテリーでエンジンは動いたが、オルタネーターの作動が不安定である。多分ベルトの問題だろうと思ったが、近所のスタンドや乗用車の販売店で片付く問題ではない。箱崎埠頭にある三菱ふそうの工場に運び込んだ。修理の終了は午後5時、気が付いたら予定がまた1日延びていた。70歳近い爺が、トラックを借りて自力で移ろうなどという計画が無謀である。引越業者がいるではないかといわれそうだが、まあそれなりの理由もあるのです。8日にようやく移転半了、まあぼちぼち続けます。

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 12

  二次代謝という用語が嫌いになって20年以上経つ。何故嫌いになったのかと聞かれれば、理解できなくなったからと答えるしかない。私も40歳くらいまではこの用語を多用していた。どうして植物は多様な二次代謝系を持つのかと。

  さて、生物が持つ代謝系は複雑多岐にわたる。その複雑きわまりないものをうまく分けることが可能かどうか、少し考えたい。歴史的に見れば、これらの代謝系を異化と同化に分ける考え方があった。いくぶん荒っぽい分類だが、グリコリシス、TCA cycle、Hexose monophosphate shunt、β酸化系など、取り込んだ物質を壊してエネルギーを得る代謝群を異化とし、光合成とそれに続く糖新生、アミノ酸・タンパク質生合成、脂質の生合成など、簡単な物質から複雑な生態成分を生合成する代謝群を同化としているように見える。もちろん、いわゆる解毒代謝と呼ばれる反応群もあるのだが、この群については後に議論する事にしよう。

  異化・同化という分類法は、多分にヒトいや動物の代謝系を念頭に置いているように見える。光合成系が同化の中に含まれているのは全ての動物の糖質源として、この系は分類の中から外すことができないという判断があったのではないだろうか。時代が進んで、植物がこの2つの代謝系解釈から逸脱する化合物群を多種多量に作ることが明らかになるとともに、別の分類があるのではないかという考えが出てきてもおかしくはない。「二次代謝」という概念を最初に提出したのは、19世紀後半のドイツの植物生理学者である Kossel であるようだ。その後、この二次代謝・二次代謝物質というtechnical term(科学用語)が広く使用されるようになったのは、1950年に Paech や Bonner がその著書の中で用いてからである。微生物がつくる多様な構造を持つ抗生物質の発見も、この二次代謝概念の拡散を後押ししたように思える。

  重ねて私見だが、この二次代謝・二次代謝産物という概念は、一次代謝・一次代謝産物という概念に先行したように思う。私が学生だった頃に学んだいくぶん古い定義であるが、二次代謝とは生命の維持に直接には関与しないが、各生物の特異性を担う代謝系として定義されていた。その定義に沿うものとして、植物の二次代謝産物や微生物のつくる抗生物質が在ったのである。つまり、生物が持つ代謝系の集合の中から、生命の維持に必要ではなくその生物の特異性を担保する物質を生産すると代謝を二次代謝として切り取ったわけである。そうすると残りの代謝系、つまり「生命の維持に不可欠な代謝系の集まり」を一次代謝系として定義せざるを得なかったのであろう。概念としては二次代謝が先行したかもしれないが、一次代謝という言葉は二次代謝という言葉に触発されて、ほぼ同時に出現したと思われる。

  そこで具体的な話に入るが、現在でも生物の代謝系を一次代謝系と二次代謝系とに分類して考えることが主流になっているようだが、とても面白い現象がある。小さな事は別にして、一次代謝(Primary metabolism)についてWikipediaで検索をかけても、一次代謝の項目もPrimary metabolismの項目も存在しない。一次代謝が生物に共通で、生命の維持に不可欠な系であれば、二次代謝はなくても一次代謝の説明があってしかるべきだと思うのだが、そうではない。二次代謝という項目も Secondary metabolism という項目も存在するのにである。

  そんな話は横に置いて、いつも引用している薬学会のサイトでは、2つの系をどう説明しているか。そこから始めよう。

Primary metabolism

  生物の体内で酵素や補酵素の作用により物質を合成するときの化学反応を代謝といい、その中で生物個体の維持、増殖、再生産に必須で生物界に普遍的に存在している糖、タンパク質、脂質、核酸などを生成する代謝を一次代謝という。また、これらの物質を一次代謝産物(primary metabolites)という。 代表的な代謝系として解糖経路、クエン酸回路(クレブス回路、TCA回路)、ペントースリン酸回路などがあり、これらはおのおの独立した物ではなく、高度に相互作用、相互依存している。(2006.10.17 掲載)

Secondary metabolism

 生物の体内で酵素や補酵素の作用により物質を合成するときの化学反応を代謝といい、その中ですべての生物に含まれることはなく、生物の共通の生命現象に直接関与しない物質を生合成する代謝を二次代謝といい、できた天然物を二次代謝産物(secondary metabolites)という。二次代謝産物はアミノ酸やアセチルCoAなど一次代謝の限られた中間物質を材料にして生合成され、一種類の植物の中でも莫大な数の物質を生成するが、生産者である植物自身にとっての役割は不明な物が多い。一方で、人類にとっては天然由来の医薬品又は、新薬へのリード化合物として重要な役割を果たしている。(2006.10.17 掲載)

  言葉遣いにとても苦労した痕跡が見られる。その結果が、文の構成の不一致につながっているように読めるのだが、深読みが過ぎるだろうか。生物体内の代謝を考えるとき、この2分法で全てを網羅できるかという問題が存在する。表6-2に示しているA欄あるいはB欄に対応する代謝群はないかという問である。

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  かなり長い間考えてきたがB欄に相当する「どの生物にもあって生命維持に不要な代謝系」は思いつかない。もう一つのA欄に対応する代謝系は、思いつかないわけではない。色々な動物に於いてビタミンと呼ばれている物質群をつくる代謝系は、ここに相当するのではないか。ヒトにとってのチアミンピロリン酸やアスコルビン酸の生合成系、昆虫にとってのコレステロールの生合成系などかなりな数の代謝系がA欄に含まれる。そんなのは例外だよ。歴史の中で、一寸した系路の欠失が起こったにすぎない。小さな事につべこべと言うことなく、一次代謝系は・・・だ、二次代謝系は・・・だ、と言い切った方が楽であることは間違いない。

  またお前が、鬱陶しい言いがかりをつけると言われそうだが、現実の問題としてそう簡単に分類できないだけでなく、定義自身が曖昧なものに変化してきているのである。ウィキペディアに記事を盲信するわけではないが、ウィキペディアの二次代謝の説明には以下のように書いてある。

  「二次代謝(にじたいしゃ)とは、生物自身が生合成し、生物が生育する上で必要不可欠ではない(と考えられていた)代謝経路および低分子化合物のことであり、有名なものとして抗菌物質や色素などが挙げられる。二次代謝は様々な生物種が行っており、様々な生理活性を持つものがある。代表的な二次代謝産物として、テルペノイド系化合物、ポリケタイド系化合物、アルカロイド化合物などがある。」

  後半の部分はどうでも良いが、アンダーラインの部分に意義付け上での揺らぎが反映されているわけだ。それにしてもこの部分をどう読めばいいのだろう。二次代謝産物は生命に必要なのだろうか、それとも必要ではないのだろうか。

  察するに、多くの科学者といわれる人々が一次代謝と二次代謝でうまく定義できないことに気付いているに違いない。ただ、それらの言葉が歴史的な背景を持ち、かつ手軽に使いやすい概念であるが故に、広く使われているにすぎないのであろう。しかし、そうした事実が積み重なって、一次代謝・二次代謝という概念は収拾がつかなくなってしまったと思う。

  長い間、このような考えを細切れに出し続けてきたのだが、時々細切れの話を聞かされる方は堪ったものではなかったろう。「また訳のわからんことを云ってるよ、彼奴が」と受け取られても仕方なかったと思う。「真実は常に少数派にあり」などという言説はあるものの、こういう言説が世の中で通用すると云うこと自体、少数派がほとんど無視されているということの証明でもある。このブログを始めた頃から読んでおられる方々は、「アルカロイドは植物の意図しない窒素廃棄物である」などという文章をよんで、笑いながらも私の意図を少しは理解してもらえると思うが、「モルヒネ」をキーワードとして辿り着いた新たな読者は、「何という基地外ブログ」だと判断するに違いない。そういう風に判断されるに違いないと考える程度の理性は、まだ保っているようだ。

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 13 に続く

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3 ギガバイト到達

  このブログは2013年の6月から書き始めた.生物の持つ代謝系の解釈において、通常の解釈とは余りにも違う私の異見をどこかに書き留めておきたいと思ったからである。そして、アブシジン酸、ルヌラリン酸、多糖、リグニンなどを生合成する代謝や生分解する代謝の意義付け、植物の花についての考察など、学会あるいは学会誌という限られたステージでは発表しきれない思索の経緯を、実に我が儘に書き連ねてきた。読み返してみると、間違っているかも知れないなと反省する部分がないではない。今後、落ち着いて手を入れることになるだろう。

  当初、このブログを訪問する人は10〜20人/日、読まれる文書量は5〜15 Mb程度であった。2013年6月から12月までの7ヶ月間で訪問者が851人、読まれた文書量は353.24Mbにすぎなかった。こうした値が、世にはびこるブログサイトの中でどのような位置にあるのかには興味はあったが、別に調べはしなかった。どう考えてもアクセス数を競うような内容のブログではないのは明らかであろう。

  とはいえ、訪問者は着実に増え続け、昨年の訪問者は13,759人、読まれたページは106,207ページ、文書量は22.4 Gbに達した。こんな、蘊蓄ブログとしてはまあまあ良い値ではないだろうか。ブログ主としては、一月に3.0 Gb読まれることを夢見ながら、マイペースで書いてきた。昨年の11月に2.93 Gbに達したのだが、期待した12月は 2.27 Gbに終わった。そして今日、始めて 3 Gb/月に到達した。

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  訪問者数の計測ソフトは、底上げがあると聞く商用ブログ付随ソフトによる値ではなく、I 先生が組み込んだ計測ソフトの値である。もちろん 3 Gbになったからどうだという話ではないし、目出度いかどうかもわからない。何しろ筆者の発想が何時まで続くかということが、最大の不安材料なのである。発想が尽きたらどうするかって?農産物販売サイトに宗旨替え致します。

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  上に示したが、このサイトの特徴は訪問時間の長さにあるようだ。内容からして、一寸見てすぐに立ち去る人が多いだろうことは容易に推測できる。にもかかわらず、平均滞在時間が158秒というのは、結構よい値である。さらにだが、5分〜15分間の滞在者が68人(2.5%)、15分〜30分間の滞在者が36人(1.3%)、30分〜60分間の滞在者が59人(2.1%)、1時間以上滞在する人が35人(1.3%)と、じっくりと読み込んでおられる方々が存在する。こうした読者には感謝の意を表したい。

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 11

  前回の話を簡単にまとめれば、ヒトにもモルヒネ生合成系が存在するということになる。そうであれば、突然検挙され、お前の脳からモルヒネが検出されたから麻薬取締法違反で有罪だなどという悪夢が起るかもしれない。などという冗談はさておき、本筋であるケシのモルヒネ生合成系はどう読み解けば良いのだろう。お前はどう考えるのかという問いかけが当然あると思う。疑問だけを提出してハイさようならでは無責任の誹りを受けるに違いない。論の正否は別にして、私の考えだけは記しておくことにする。

  モルヒネ、この物質は正真正銘のシキミ酸系に属する化合物である。先に述べたように芳香族アミノ酸であるチロシンを暫定的に出発原料と見なして議論を進めるわけだが、どの植物もがモルヒネに達する系路を持つわけではない。モルヒネの生合成を行うのは、APG植物分類体系においてキンポウゲ目に属するケシ科の一部の植物に過ぎない。

  そこで代謝マップのフェニルアラニンとチロシンからの代謝の項を見て欲しいのだが、華麗とでも表現できそうな様々な系がこの2つのアミノ酸を基点として伸展している。それらの各系の中でモルヒネに辿り着く流れは、極めて微々たる流れに過ぎない。モルヒネの生理活性が際立っているが故に、我々の注意を引いているだけであり、植物界に存在する物質量としてみれば議論に値する量ではないことが、以後の考察の原点になる。そこで、チロシンからの代謝を見てみたい。

  以下にKEEGから撮影したポテトのチロシン代謝系を示すが、この図6-6において、グリーンの枠の中にある酵素ナンバーを持つ酵素がポテトに存在することを意味している。

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  何でポテトかと思われるかも知れないが、シロイヌナズナであろうがイネであろうが存在する代謝系には殆ど差がない。何となく使ったというのが本音である、さて、そういうことであれば、チロシンがアミノ基転移を受け4-ヒドロキシフェニルピルビン酸となった後、2種類のジオキシゲナーゼの作用を受けてベンゼン環が解裂した4-Maleylacetoacetateへ、4-Maleylacetoacetateのシス型二重結合の異性化による4-Fumarylacetoacetateを通ってアセト酢酸とフマル酸へと変換する系が主要な系であることは歴然とした事実であろう。(私はどう思うか?「ああ、チロシンも酸素分子の消去を伴いながら、二酸化炭素への道を辿るのか」)

  一方、チロシンの還元的脱アミノ反応でチラミンまでの反応は起こるが、そこから先の代謝系は存在しないように見える。しかし、現実はそうではないだろう。この段階の還元的脱アミノ反応で働く酵素はL-DOPAからドーパミンを作る酵素と同じであるのだが、できてくるチラミンもドーパミンもβ位にベンゼン環があるとはいえ、立体傷害の少ない1級アミンである。それ故に、これらの化合物が主要な基質であるかどうかは別にして、植物にも存在するモノアミンオキシダーゼによる酸化を受け、ゆっくりと4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒド、さらにアルコールデヒドロゲナーゼの作用を受けて4-ヒドロキシ酢酸へと酸化された後、最終的にはコハク酸の形でTCA回路に戻るに違いない。このような推論は、“いわゆる”二次代謝で働く酵素群の低い基質特異性に由来していると考えているため、そうではないと考えるヒトがいても構わない。そうではないと考えるヒトは、チラミンやドーパミンがどのような運命を辿るかを考えて、そうではないとする仮説を立てればよいだけの話である。結果はそのうち明らかになるだろう。

  さて、中間体が基質特異性の低い酵素で代謝されてしまうのであれば、モルヒネはできないではないかと心配されるかもしれないが、そうではない。上に述べた系路はほぼ全ての植物に分布する主要系路であることは間違いないとして、ケシにはケシに特有のローカル系路が存在している。図6-7にモルヒネ生合成の図の一部を示したが、一般の植物にはグリーン枠の酵素しか存在しない。

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図6-7 モルヒネ生合成系の初発部分

  しかしケシにおいては、他の植物同様にチロシンからチラミンを作る酵素が存在するだけでなく、チラミンからドーパミンを導く系路を持つ。同時にチロシンから4-ヒドロキシフェニルピルビン酸を通って4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒドを作る経路がある。チロシンからL-ドーパを通ってドーパミンを作る経路も存在する。従って、ケシにおいてはモルヒネ生合成の原料は間違いなく揃うのである。

  生合成原料が揃った後、面白いのは次の段階の反応であろう。モルヒネ生合成において、本来の初発反応とも言える4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒドとドーパミンとの縮合反応には、反応を触媒する酵素が存在しない。つまりこの反応は、2つの分子が出会いさえすれば触媒なしに即座に起こってしまう反応であることを意味している。

  有機化学を少しでも齧ったヒトであれば、1級アルデヒドと1級アミンがシッフ塩基あるいはアゾメチンと呼ばれる化合物群を形成する反応は、とても起こりやすい反応であるから当然ではないかと思うだろう。その通りである。問題になるとすれば、この反応においては生物側の意向は全く反映されないことである。作りたくなくても、できてしまうところに問題がある。ホストであるケシにとっては、先述したメインの系路に乗せて、アンモニアの回収をした方が有利であることは間違いない。しかしながら、勝手にくっついてしまう2種のチロシン代謝物は、ケシの思惑を外れてアンモニアの再利用系からスピンアウトしてしまうのである。

  「一次代謝と二次代謝 8 」の中で「アルカロイドは植物の意図しない窒素廃棄物である。」と書いた“意図しない”という言葉の中に、捨てたくない植物側の事情を反映していると書いた。上に書いたことが、この間の事情を表している。窒素を回収して再利用したいケシと、出会ったら不可避的に反応してしまう代謝物、この相克の狭間にケシの命が保持されている。生物は合理的な設計に基づいて創られたものではない。生き物は、多くの矛盾と相克の狭間にそのニッチを見つけた不合理の塊である。どう考えてもルネ・デカルトに端を発しド・ラ・メトリに引き継がれた機械論的解釈には乗らないようだ。

  それはそうとして、ケシという植物はこの反応性の高いシッフ塩基をどう扱ったのだろうか。この段階で意味を持ってくるのが、やはり基質特異性の低い酵素群であろう。“いわゆる”一次代謝に係わるようなリジッドな酵素ではなく、“いわゆる”二次代謝あるいは解毒代謝に関与する基質特異性の低い酵素群が、道から外れた少数派の分子の反応性の高い部分に、食いつき、食いちぎって、少しずつ変換していったに違いない。その結果がモルヒネであり、モルヒネからさらに続く分解系と呼ばれる代謝系である。

  アルカロイドは、動物における尿素のように植物における窒素代謝の最終産物であるとする昔の仮説は、植物中のアルカロイドの濃度が時間とともに変動することを理由にして否定された経緯がある。最終産物であれば、少しづつでも増えていくべきであり減少局面があってはいけないという思い込みによる否定であろう。つまり、この否定は代謝が議論しているアルカロイド分子で止まることを暗黙の前提としている。しかしながら、何度も言うようだが連続している代謝系を、興味を持った分子までで切断して考えるという観察方法の側に、大きな誤謬があったのである。

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 12に続く

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