歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 11

  前回の話を簡単にまとめれば、ヒトにもモルヒネ生合成系が存在するということになる。そうであれば、突然検挙され、お前の脳からモルヒネが検出されたから麻薬取締法違反で有罪だなどという悪夢が起るかもしれない。などという冗談はさておき、本筋であるケシのモルヒネ生合成系はどう読み解けば良いのだろう。お前はどう考えるのかという問いかけが当然あると思う。疑問だけを提出してハイさようならでは無責任の誹りを受けるに違いない。論の正否は別にして、私の考えだけは記しておくことにする。

  モルヒネ、この物質は正真正銘のシキミ酸系に属する化合物である。先に述べたように芳香族アミノ酸であるチロシンを暫定的に出発原料と見なして議論を進めるわけだが、どの植物もがモルヒネに達する系路を持つわけではない。モルヒネの生合成を行うのは、APG植物分類体系においてキンポウゲ目に属するケシ科の一部の植物に過ぎない。

  そこで代謝マップのフェニルアラニンとチロシンからの代謝の項を見て欲しいのだが、華麗とでも表現できそうな様々な系がこの2つのアミノ酸を基点として伸展している。それらの各系の中でモルヒネに辿り着く流れは、極めて微々たる流れに過ぎない。モルヒネの生理活性が際立っているが故に、我々の注意を引いているだけであり、植物界に存在する物質量としてみれば議論に値する量ではないことが、以後の考察の原点になる。そこで、チロシンからの代謝を見てみたい。

  以下にKEEGから撮影したポテトのチロシン代謝系を示すが、この図6-6において、グリーンの枠の中にある酵素ナンバーを持つ酵素がポテトに存在することを意味している。

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  何でポテトかと思われるかも知れないが、シロイヌナズナであろうがイネであろうが存在する代謝系には殆ど差がない。何となく使ったというのが本音である、さて、そういうことであれば、チロシンがアミノ基転移を受け4-ヒドロキシフェニルピルビン酸となった後、2種類のジオキシゲナーゼの作用を受けてベンゼン環が解裂した4-Maleylacetoacetateへ、4-Maleylacetoacetateのシス型二重結合の異性化による4-Fumarylacetoacetateを通ってアセト酢酸とフマル酸へと変換する系が主要な系であることは歴然とした事実であろう。(私はどう思うか?「ああ、チロシンも酸素分子の消去を伴いながら、二酸化炭素への道を辿るのか」)

  一方、チロシンの還元的脱アミノ反応でチラミンまでの反応は起こるが、そこから先の代謝系は存在しないように見える。しかし、現実はそうではないだろう。この段階の還元的脱アミノ反応で働く酵素はL-DOPAからドーパミンを作る酵素と同じであるのだが、できてくるチラミンもドーパミンもβ位にベンゼン環があるとはいえ、立体傷害の少ない1級アミンである。それ故に、これらの化合物が主要な基質であるかどうかは別にして、植物にも存在するモノアミンオキシダーゼによる酸化を受け、ゆっくりと4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒド、さらにアルコールデヒドロゲナーゼの作用を受けて4-ヒドロキシ酢酸へと酸化された後、最終的にはコハク酸の形でTCA回路に戻るに違いない。このような推論は、“いわゆる”二次代謝で働く酵素群の低い基質特異性に由来していると考えているため、そうではないと考えるヒトがいても構わない。そうではないと考えるヒトは、チラミンやドーパミンがどのような運命を辿るかを考えて、そうではないとする仮説を立てればよいだけの話である。結果はそのうち明らかになるだろう。

  さて、中間体が基質特異性の低い酵素で代謝されてしまうのであれば、モルヒネはできないではないかと心配されるかもしれないが、そうではない。上に述べた系路はほぼ全ての植物に分布する主要系路であることは間違いないとして、ケシにはケシに特有のローカル系路が存在している。図6-7にモルヒネ生合成の図の一部を示したが、一般の植物にはグリーン枠の酵素しか存在しない。

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図6-7 モルヒネ生合成系の初発部分

  しかしケシにおいては、他の植物同様にチロシンからチラミンを作る酵素が存在するだけでなく、チラミンからドーパミンを導く系路を持つ。同時にチロシンから4-ヒドロキシフェニルピルビン酸を通って4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒドを作る経路がある。チロシンからL-ドーパを通ってドーパミンを作る経路も存在する。従って、ケシにおいてはモルヒネ生合成の原料は間違いなく揃うのである。

  生合成原料が揃った後、面白いのは次の段階の反応であろう。モルヒネ生合成において、本来の初発反応とも言える4-ヒドロキシフェニルアセトアルデヒドとドーパミンとの縮合反応には、反応を触媒する酵素が存在しない。つまりこの反応は、2つの分子が出会いさえすれば触媒なしに即座に起こってしまう反応であることを意味している。

  有機化学を少しでも齧ったヒトであれば、1級アルデヒドと1級アミンがシッフ塩基あるいはアゾメチンと呼ばれる化合物群を形成する反応は、とても起こりやすい反応であるから当然ではないかと思うだろう。その通りである。問題になるとすれば、この反応においては生物側の意向は全く反映されないことである。作りたくなくても、できてしまうところに問題がある。ホストであるケシにとっては、先述したメインの系路に乗せて、アンモニアの回収をした方が有利であることは間違いない。しかしながら、勝手にくっついてしまう2種のチロシン代謝物は、ケシの思惑を外れてアンモニアの再利用系からスピンアウトしてしまうのである。

  「一次代謝と二次代謝 8 」の中で「アルカロイドは植物の意図しない窒素廃棄物である。」と書いた“意図しない”という言葉の中に、捨てたくない植物側の事情を反映していると書いた。上に書いたことが、この間の事情を表している。窒素を回収して再利用したいケシと、出会ったら不可避的に反応してしまう代謝物、この相克の狭間にケシの命が保持されている。生物は合理的な設計に基づいて創られたものではない。生き物は、多くの矛盾と相克の狭間にそのニッチを見つけた不合理の塊である。どう考えてもルネ・デカルトに端を発しド・ラ・メトリに引き継がれた機械論的解釈には乗らないようだ。

  それはそうとして、ケシという植物はこの反応性の高いシッフ塩基をどう扱ったのだろうか。この段階で意味を持ってくるのが、やはり基質特異性の低い酵素群であろう。“いわゆる”一次代謝に係わるようなリジッドな酵素ではなく、“いわゆる”二次代謝あるいは解毒代謝に関与する基質特異性の低い酵素群が、道から外れた少数派の分子の反応性の高い部分に、食いつき、食いちぎって、少しずつ変換していったに違いない。その結果がモルヒネであり、モルヒネからさらに続く分解系と呼ばれる代謝系である。

  アルカロイドは、動物における尿素のように植物における窒素代謝の最終産物であるとする昔の仮説は、植物中のアルカロイドの濃度が時間とともに変動することを理由にして否定された経緯がある。最終産物であれば、少しづつでも増えていくべきであり減少局面があってはいけないという思い込みによる否定であろう。つまり、この否定は代謝が議論しているアルカロイド分子で止まることを暗黙の前提としている。しかしながら、何度も言うようだが連続している代謝系を、興味を持った分子までで切断して考えるという観察方法の側に、大きな誤謬があったのである。

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 12に続く

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