尿素回路

偏向ブログ

  ご存じの通り、かなり偏向したブログを書いている。生物に存在する代謝系を、正統派と考えられている人達と異なる視座からみた場合どのように位置づけることができるか、特にそれぞれの代謝系のレゾンデートル(raison d’être)についての考察を行っているわけである。今まで書いたような内容を話し始めると、多くの人が一歩も二歩も距離を取って眉に唾を付け始める。考えれば考えるほど孤独感を深めていた。

  地方の私学の教員として、学生の就職を考えると自ら信じることを講義で喋ることはできないのである。講義においては、嘘をつけと思いながらも主流の学問を伝えないと彼等が社会から受け入れられない。非常勤講師を頼まれるときも、あなたの持論は持論としてよろしくと云われることが多かった。私に見えているこの世界を、どうすれば周りに伝えることができるのか。そう思いながら20年余りが過ぎた。仕事を早めに辞めたことには、この伝えることへの諦めというか無常観が後押しした部分があったことは間違いない。

  窒素代謝について先に語ったが、いくつか書き漏らしたことがある。一つ問題提起をしておく。少し考えてみて欲しい。尿素回路の存在意義は何かという問いである。細胞内で生成する有害なアンモニアを無害な尿素として捨てるための回路というのが、まあ一般的な正解だと思う。

  哺乳動物についてであれば、まあこの説明でよいだろう。しかし、この回路は尿酸でアンモニアを捨てるニワトリにも、アンモニアのまま捨てるメダカにも、窒素を捨てたくない植物にも存在する。植物においては、尿素が窒素肥料となるという現実もある。さて、Evolution and metabolic significance of the urea cycle in photosynthetic diatoms. Nature 473, 203–207 (2011) でも読んで考えてください。

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一次代謝と二次代謝 13 

  前回までのブログを読んで、何を批判しているのかが分かりにくいと感じられるヒトが多いと思う。この筆者は、何故、一次代謝・二次代謝という分類に何故そこまで拘泥するのか。実はその点について本人も悩み続けてきたのである。これらの定義は、何故こんなにも私を苛立たせるのだろうかと。二次代謝物質という煌びやかな生理活性を持つ物質群がある。私はその物質群に魅了されているわけである。生物間の情報交信作用、動物・植物・微生物に対する薬理作用、化学物質を介した環境との相互作用など、のめり込んでしまいそうなほど蠱惑的な物質群が現実に存在し、二次代謝物質という括りで説明されているわけだ。よくよく考えてみると、私の不満はそうした魅惑的な物質群が、巷間行われている二次代謝物質という分類では説明しきれていないことに対する苛立ちから始まったようだ。

  現在の一般的考え方に従えば、二次代謝系・二次代謝物質をうまく定義できれば必然的に一次代謝系・一次代謝物質の定義もできる論理構造になっている。とすれば、まずこの考えを認めたときに問題が生じないかどうかを検討することから始めればよい。先に述べたように、二次代謝・二次代謝物質という technical term が広く使用されるようになったのは、1950年に Paech や Bonner が彼等の著書の中で用いてからである。その後この二次代謝(二次代謝物質)という用語は使い勝手の良さもあって使用範囲を拡大し、現在では ポリケチド(poliketides) 、イソプレノイド(isoprenoids)、 フェニルプロパノイド(phenylpropanoides)、 アルカロイド(alkaloids)をはじめとした種々の抗生物質や複合経路から生産される多種多様な化合物群を内包することになっている。この間、二次代謝物質として分類される化合物の数は増え続け、現在では30,000種以上の化合物が知られているばかりか、分離分析機器の進歩に伴い、毎月数十種の新規化合物が報告され続けている。そこで、この増え続けている二次代謝物質群は、二次代謝と定義されている系の生産物として適格であるかどうかを問わなければならないだろう。

  そのような問に対して先述した日本薬学会の説明は、実によく練られた説明になっている。下に再度引用する。

Secondary metabolism

  生物の体内で酵素や補酵素の作用により物質を合成するときの化学反応を代謝といい、その中ですべての生物に含まれることはなく、生物の共通の生命現象に直接関与しない物質を生合成する代謝を二次代謝といい、できた天然物を二次代謝産物(secondary metabolites)という。二次代謝産物はアミノ酸やアセチルCoAなど一次代謝の限られた中間物質を材料にして生合成され、一種類の植物の中でも莫大な数の物質を生成するが、生産者である植物自身にとっての役割は不明な物が多い。一方で、人類にとっては天然由来の医薬品又は、新薬へのリード化合物として重要な役割を果たしている。(2006.10.17 掲載)

  この記述の中で、重要な部分は下線を引いた部分である。この文脈に沿って解説するば、二次代謝とはある生物にはあって他の生物にはない代謝である。生物の共通の生命現象(これが何を意味するのかは不明)に直接関与しない(間接的に関与すると対語になると思うが、生命に間接的に関与するとはどういうことか不明)代謝が二次代謝ということになるだろう。この説明は、一般人が読んでも決して具体的イメージを持てない説明になっている。もう少し詳しい説明をと求められたら、生態相関物質の合目的的生産系のような例を出して、的を少し外しながらも「そうかな」と思わせる答えらしきものを提示できるだろう。いくつかのそれらしき例を並べられる間に、素直な質問者の「ある生物は何故そんな系を持つのか」という疑問は何となく消滅させられていく運命にある。

  それでもその疑問にこだわる少数の人には、「一種類の植物の中でも莫大な数の物質を生成するが、生産者である植物自身にとっての役割は不明な物が多い。一方で、人類にとっては天然由来の医薬品又は、新薬へのリード化合物として重要な役割を果たしている。」という後段が有効である。もっと研究が必要だ、研究が進めば人類の健康と幸福に寄与できるという流れに持っていけば、研究費の獲得にも有利に働くということだろう。

  なんとも悪意に満ちた批判に見える。要するに、それは因業爺の偏見に満ちた悪口であると云われても返す言葉は無い。しかし、何故生物は二次代謝系を持つのか、系の存在意義は何であるのか」という素朴な問に対する答えが欲しかった私にとって、常に失望を伴う答えしか得られなかったことへの恨み節である。ウィキペディアの二次代謝産物の項には、Fraenkel, Gottfried S. がScienceに書いたかなり古い定義が引用されている(“The raison d’Etre of secondary plant substances”. Science 129 (3361): 1466–1470)。

  しかし、その定義と例では全く納得できない。「ある生物は何故そんな系を持つのか、その系の本来の意義は何であるのか」という素朴な質問に、正面から答えていないという事実は否定できないだろう。

  実は、40年近く納得のいく定義を探してきた。いろんな本を読み論文を読んだ。しかし、二次代謝物質の華麗でかつ有益な生理活性を前面に出して、その本質的存在意義についての考察を看過する傾向は段々強まっているように感じる。例えば、1992年に Julian Davies はその著書 “Secondary Metabolites : Their Function and Evolution ” の中で二次代謝産物に対して予想される機能をいくつか列挙している。それは

(1)他の生物に対する化学兵器としての役割

(2)金属運搬剤としての役割

(3)植物ー微生物の共生に関わる役割

(4)ネマトーダー微生物の共生に関わる役割

(5)昆虫ー微生物の共生に関わる役割

(6)性ホルモン or フェロモン(個体内もしくは個体間情報伝達の共生に関わる役割)

(7)細胞内または細胞間での分化に関与するエフェクターとしての役割

(8)有害生産物の排泄

(9)利己的遺伝子の生産物

(10)新しい pathway のための貯蔵プール

  である。つまり二次代謝物質の存在意義をその物質のもつ機能(生理活性)によって説明しようと試みているわけである。彼の文脈の上では、(1)は抗生物質と呼ばれる物質群やファイトトキシンなどをイメージしているのであろう。(2)はムギネ酸のようなキレート能を持つ植物シデロフォア物質を(3)はマメ科植物と根粒菌の間で働くフラボノイドあるいはイソフラボノイドなどを考えればいいのであろう。(4)〜(7)についても、(1)〜(3)の場合と同じように、生物間の情報を伝達する物質群としての解釈と捉えていると思われる。(8)の項は、先に述べたモルヒネの解釈と被る部分があるかもしれない。モルヒネの場合は有害生産物ではなく、有用な物質が廃棄に向かって代謝されるという違いがあるにしてもだ。こうした考え方は、現在のところ最も広く受け入れられているものであろう。

  しかしながら(9)、(10)の項に到っては、何を言いたいのか理解が難しい。「新しい pathway のための貯蔵プール」などという説明は、私にとっては全く理解不能である。生存にとって有利な系が、進化の過程で成立する可能性を否定するつもりは毛頭ないが、新しい pathway のための貯蔵プールがあって、ここから始まる代謝系のために、オーファンジーン、オーファンエンザイム、オーファンレセプター等々が予定調和的に用意されているという意味であるとすれば、それは話のつくりすぎであろう。

  とはいえ、二次代謝物の生理活性をもってその存在意義とする考え方は、Martin Luckner の ” Secondary Metabolism in Microorganisms, Plants, and Animals ” (1990) や J. B. Harborne and F. A. Tomas-Barberan による “Ecological Chemistry and Biochemistry of Plant Terpenoids” (1991) あるいは Haslam (1986) の総説などにおいても共通している。

  こうした観点から“一応”説明できる二次代謝産物はほんの少数にすぎないのだが、それらの合目的的に働くように見える生理活性を例に挙げ、それらが生物内あるいは生物間で示す機能をもとに、一見合理的な説明を加えるという形を取っている。しかし、それは特有な生理活性を持たぬ大多数の二次代謝産物の存在を無視した議論であろう。こう批判すると、その他多数の二次代謝物質群も何らかの機能を持っており、知識の充実に伴い上記の説明の範疇に収まるに違いないと強弁する人が少なくないのである。しかし、生理活性からの二次代謝物質の説明も上記の反論も、決して成立しないと私は思う。何故か?

  生理活性から二次代謝物質の存在意義を説明しようとする場合、二次代謝産物の生合成が、二次代謝産物による機能獲得に先行して起こっているという歴史的事実に目を瞑る必要がある。つまり地質学的時間の中でみた場合、生物によるある代謝産物の生合成能力の獲得は、その生合成産物による機能獲得に先行するに違いない。「見えざる神の手」を盲目的に信じるのであれば上記の説明は成立するかもしれない。しかし、理性的に考えればその説明は時間的シークエンスに致命的な矛盾を含んでいる。生物体内で前もって生合成された代謝産物の存在を、生合成された後に代謝産物が獲得した機能によって説明するのは不可能であるに違いないからである。

  “いわゆる”二次代謝産物をより合理的かつ総合的に理解するには、代謝産物の機能からその存在意義を説明するという倒錯した考え方を否定せざるを得ない。ここでは、二次代謝物の個別的生理活性を問題にするのではなく、それら化合物群を生み出している前段階の代謝に存在する生物学的意義を問わなければならない。我々は、ヒトが作ったものに対して成立するリバースエンジニアリングという工学的解析方法が、生物に対しては成立しないという原則に従うしかないと思う。爪は引っ掻くためにできたのではなく、爪ができたから引っ掻けるのである。

  以後、私は生物を歴史的存在として時間の中で捉えるとともに、生物体内で消費される物質あるいは過剰に存在する物質の排泄、解毒、消去の重要性を強調する立場から各種代謝系の解釈に関する異論を述べることにする。

一次代謝と二次代謝 14 に続く

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薪ストーブ

  一寸ばかり無理をして薪ストーブを設置した。家の周辺に果樹園があるというより、果樹園の中に家があるといった立地である。秋から冬にかけて剪定した枝を盛大に積み上げて燃やす風景が見られる。それをくださいといえば、燃やす手間が省けるからと喜ばれる程である。乾燥する手間がかかるとはいえ、燃料の心配はいらない。

  そして一応転居した8日に火入れ式を行った。薪は師匠の家の軒下に積んであった3年乾燥の梨の木である。気持ちよく燃えた。確かに、ファンヒーターや電気ストーブに比べて柔らかな暖かさである。臭いは殆どないし、まず静かである。翌朝まで暖かいという神話は本当ではないとはいうものの、11時過ぎに大きめの薪2本を入れて寝た。外気温は-2℃、霜柱が立った寒い夜であったが、朝7時の室温は13℃だった。

  11日、起床してまずストーブに火を入れた。乾燥しきった薪はすぐに燃え始め、柔らかな暖かさを発し始める。この日は柿の剪定をしようと計画していたのだが、この気持ち良さにつられて、ストーブの前を離れる気にならない。時々薪を補充しながらうつらうつらとしていたら、いつの間にか夕方である。環境がよすぎるとヒトはダメになるという。捕食者のいない島の鳥は飛べなくなってブクブクと太るという。不精者の私にとって、薪ストーブは天敵かもしれない。今後、火を入れるのは夕方からにしよう。

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転居

  ようやく新居へと住所を移した。定年帰農ならぬ退職就農である。この退職就農という言葉には、二つの不利な条件が含まれている。一つは定年まで勤めていない、つまり給料を最後までもらっていないということを意味する。さらに、定年帰農という言葉には、親の作っていた農地を継承するような響きがあるが、退職就農であれば、退職した後に農地を購って就農したことを反映させている。確かに、都市部の土地に比べれば農地はとても安いとはいえ、買う面積は遙かに広い。さらに農業機械は十二分に高いという現実がある。それに加えて小さいとはいえ、家を建ててしまった。何とも心細い出発となってしまった。

  今月の6日に引っ越しを予定し、5日にトラックを借りる予定だったのだが、この日の夕方はとても寒くてかなり強い雪が降っていた。夜の雪道を慣れないトラックで走るのはいくぶん心配で1日予定を遅らせた。6日にトラックを借り黄昏れる頃に積み込みを終えた。そこから75Kmの夜道を走って荷物を運んだ。夜でも明るい福岡市を抜けて次第に暗くなる夜道を走っていると、完全に夜逃げ気分はである。いや、夜逃げはしたことはないので、擬似夜逃げということにしておこう。荷物を下ろしてまた福岡まで戻ったのが11時頃である。

  翌朝、さて仏壇と神棚を運ぼうとトラックに乗ったら、バッテリー上がりでエンジンが動かない。そういえば夕べ、ヘッドライトが暗かったなと思いながらJAFを呼んだ。緊急用のバッテリーでエンジンは動いたが、オルタネーターの作動が不安定である。多分ベルトの問題だろうと思ったが、近所のスタンドや乗用車の販売店で片付く問題ではない。箱崎埠頭にある三菱ふそうの工場に運び込んだ。修理の終了は午後5時、気が付いたら予定がまた1日延びていた。70歳近い爺が、トラックを借りて自力で移ろうなどという計画が無謀である。引越業者がいるではないかといわれそうだが、まあそれなりの理由もあるのです。8日にようやく移転半了、まあぼちぼち続けます。

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歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 12

  二次代謝という用語が嫌いになって20年以上経つ。何故嫌いになったのかと聞かれれば、理解できなくなったからと答えるしかない。私も40歳くらいまではこの用語を多用していた。どうして植物は多様な二次代謝系を持つのかと。

  さて、生物が持つ代謝系は複雑多岐にわたる。その複雑きわまりないものをうまく分けることが可能かどうか、少し考えたい。歴史的に見れば、これらの代謝系を異化と同化に分ける考え方があった。いくぶん荒っぽい分類だが、グリコリシス、TCA cycle、Hexose monophosphate shunt、β酸化系など、取り込んだ物質を壊してエネルギーを得る代謝群を異化とし、光合成とそれに続く糖新生、アミノ酸・タンパク質生合成、脂質の生合成など、簡単な物質から複雑な生態成分を生合成する代謝群を同化としているように見える。もちろん、いわゆる解毒代謝と呼ばれる反応群もあるのだが、この群については後に議論する事にしよう。

  異化・同化という分類法は、多分にヒトいや動物の代謝系を念頭に置いているように見える。光合成系が同化の中に含まれているのは全ての動物の糖質源として、この系は分類の中から外すことができないという判断があったのではないだろうか。時代が進んで、植物がこの2つの代謝系解釈から逸脱する化合物群を多種多量に作ることが明らかになるとともに、別の分類があるのではないかという考えが出てきてもおかしくはない。「二次代謝」という概念を最初に提出したのは、19世紀後半のドイツの植物生理学者である Kossel であるようだ。その後、この二次代謝・二次代謝物質というtechnical term(科学用語)が広く使用されるようになったのは、1950年に Paech や Bonner がその著書の中で用いてからである。微生物がつくる多様な構造を持つ抗生物質の発見も、この二次代謝概念の拡散を後押ししたように思える。

  重ねて私見だが、この二次代謝・二次代謝産物という概念は、一次代謝・一次代謝産物という概念に先行したように思う。私が学生だった頃に学んだいくぶん古い定義であるが、二次代謝とは生命の維持に直接には関与しないが、各生物の特異性を担う代謝系として定義されていた。その定義に沿うものとして、植物の二次代謝産物や微生物のつくる抗生物質が在ったのである。つまり、生物が持つ代謝系の集合の中から、生命の維持に必要ではなくその生物の特異性を担保する物質を生産すると代謝を二次代謝として切り取ったわけである。そうすると残りの代謝系、つまり「生命の維持に不可欠な代謝系の集まり」を一次代謝系として定義せざるを得なかったのであろう。概念としては二次代謝が先行したかもしれないが、一次代謝という言葉は二次代謝という言葉に触発されて、ほぼ同時に出現したと思われる。

  そこで具体的な話に入るが、現在でも生物の代謝系を一次代謝系と二次代謝系とに分類して考えることが主流になっているようだが、とても面白い現象がある。小さな事は別にして、一次代謝(Primary metabolism)についてWikipediaで検索をかけても、一次代謝の項目もPrimary metabolismの項目も存在しない。一次代謝が生物に共通で、生命の維持に不可欠な系であれば、二次代謝はなくても一次代謝の説明があってしかるべきだと思うのだが、そうではない。二次代謝という項目も Secondary metabolism という項目も存在するのにである。

  そんな話は横に置いて、いつも引用している薬学会のサイトでは、2つの系をどう説明しているか。そこから始めよう。

Primary metabolism

  生物の体内で酵素や補酵素の作用により物質を合成するときの化学反応を代謝といい、その中で生物個体の維持、増殖、再生産に必須で生物界に普遍的に存在している糖、タンパク質、脂質、核酸などを生成する代謝を一次代謝という。また、これらの物質を一次代謝産物(primary metabolites)という。 代表的な代謝系として解糖経路、クエン酸回路(クレブス回路、TCA回路)、ペントースリン酸回路などがあり、これらはおのおの独立した物ではなく、高度に相互作用、相互依存している。(2006.10.17 掲載)

Secondary metabolism

 生物の体内で酵素や補酵素の作用により物質を合成するときの化学反応を代謝といい、その中ですべての生物に含まれることはなく、生物の共通の生命現象に直接関与しない物質を生合成する代謝を二次代謝といい、できた天然物を二次代謝産物(secondary metabolites)という。二次代謝産物はアミノ酸やアセチルCoAなど一次代謝の限られた中間物質を材料にして生合成され、一種類の植物の中でも莫大な数の物質を生成するが、生産者である植物自身にとっての役割は不明な物が多い。一方で、人類にとっては天然由来の医薬品又は、新薬へのリード化合物として重要な役割を果たしている。(2006.10.17 掲載)

  言葉遣いにとても苦労した痕跡が見られる。その結果が、文の構成の不一致につながっているように読めるのだが、深読みが過ぎるだろうか。生物体内の代謝を考えるとき、この2分法で全てを網羅できるかという問題が存在する。表6-2に示しているA欄あるいはB欄に対応する代謝群はないかという問である。

スクリーンショット(2015-02-05 21.51.07)

  かなり長い間考えてきたがB欄に相当する「どの生物にもあって生命維持に不要な代謝系」は思いつかない。もう一つのA欄に対応する代謝系は、思いつかないわけではない。色々な動物に於いてビタミンと呼ばれている物質群をつくる代謝系は、ここに相当するのではないか。ヒトにとってのチアミンピロリン酸やアスコルビン酸の生合成系、昆虫にとってのコレステロールの生合成系などかなりな数の代謝系がA欄に含まれる。そんなのは例外だよ。歴史の中で、一寸した系路の欠失が起こったにすぎない。小さな事につべこべと言うことなく、一次代謝系は・・・だ、二次代謝系は・・・だ、と言い切った方が楽であることは間違いない。

  またお前が、鬱陶しい言いがかりをつけると言われそうだが、現実の問題としてそう簡単に分類できないだけでなく、定義自身が曖昧なものに変化してきているのである。ウィキペディアに記事を盲信するわけではないが、ウィキペディアの二次代謝の説明には以下のように書いてある。

  「二次代謝(にじたいしゃ)とは、生物自身が生合成し、生物が生育する上で必要不可欠ではない(と考えられていた)代謝経路および低分子化合物のことであり、有名なものとして抗菌物質や色素などが挙げられる。二次代謝は様々な生物種が行っており、様々な生理活性を持つものがある。代表的な二次代謝産物として、テルペノイド系化合物、ポリケタイド系化合物、アルカロイド化合物などがある。」

  後半の部分はどうでも良いが、アンダーラインの部分に意義付け上での揺らぎが反映されているわけだ。それにしてもこの部分をどう読めばいいのだろう。二次代謝産物は生命に必要なのだろうか、それとも必要ではないのだろうか。

  察するに、多くの科学者といわれる人々が一次代謝と二次代謝でうまく定義できないことに気付いているに違いない。ただ、それらの言葉が歴史的な背景を持ち、かつ手軽に使いやすい概念であるが故に、広く使われているにすぎないのであろう。しかし、そうした事実が積み重なって、一次代謝・二次代謝という概念は収拾がつかなくなってしまったと思う。

  長い間、このような考えを細切れに出し続けてきたのだが、時々細切れの話を聞かされる方は堪ったものではなかったろう。「また訳のわからんことを云ってるよ、彼奴が」と受け取られても仕方なかったと思う。「真実は常に少数派にあり」などという言説はあるものの、こういう言説が世の中で通用すると云うこと自体、少数派がほとんど無視されているということの証明でもある。このブログを始めた頃から読んでおられる方々は、「アルカロイドは植物の意図しない窒素廃棄物である」などという文章をよんで、笑いながらも私の意図を少しは理解してもらえると思うが、「モルヒネ」をキーワードとして辿り着いた新たな読者は、「何という基地外ブログ」だと判断するに違いない。そういう風に判断されるに違いないと考える程度の理性は、まだ保っているようだ。

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 13 に続く

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