深山幽谷

 我が家の居間から見える景色である。いかにも深山幽谷の中にありそうな景色だが借景に過ぎない。実際はそれほどの僻地ではないし電気も来ている。写真の左側に見える真竹は、隙あらば私の敷地への侵入を狙っている隣地の真竹である。さて、今年も真竹が侵入を試みる季節になった。日々、我が家の庭に10本を超えるタケノコが顔を出す。これらを掘り起こして茹でる事から一日が始まるわけだ。初めの頃は東を向いて笑いながら食べるのだが、これが10日も続くと食卓からタケノコが消えてくれる事を願うようになる。我が儘だなとは思うものの、あの食感に飽きるのだから仕方がない。

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 そうなると、生えてきたタケノコの採集が疎かになり、元気よく伸びる竹が出てくる。若竹の柔らかな緑が梅雨の雨に馴染んで、これはこれで良いものである。しかし、生長した竹をそのままにしておくと、これが拠点となって来年はもっと内側にタケノコが出る事になる。従って、夏になるとこれらの竹は切り取ってしまうのだが、あまりに短く切るとつまずきそうであるため1m程度の高さに切っている。ところが先日、この切り株をすみかとしている雨蛙を見つけた。竹筒のサイズと深さが、彼の好みにあったらしい。

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お得は嫌い

 先日、新居に対する電話回線の新設とネット回線の工事申し込みを行ったのだが、その異常とも思える“お得な”という形容詞付きのオプション群とその複雑さに感動した。こちとら、ネットで映画を見るつもりはない。料理のレシピなどいらない。なんとかサービスも不要である。基本的なネットの利用とメールができれば用は済む。日本と云う国の住民は、いつからこんなに“お得”が好きになったのだろう。他社と比べてお得です。契約すると、5年間はお得な料金で使用できます。これとこれを組み合わせると、もっとお得です。聞いているうちに、嫌になってきた。私はポイントカードが嫌いである。ここで買い物をすると、後でこんなにお得です。だからうちに来て下さいねというわけだ。しかし私は、いま買い物をしている客にサービスしろよと思うのである。ポイントカードで客を囲い込んでいると思っているかもしれないが、全部の会社がポイントカードを発行して似たサービスを実施すれば、ポイントカード発行の手間だけが残るだろう。それよりも今ここで買い物をする客を大事にすべきではないかと思うのだが、そう考える経営者はいないのだろうか。

 昔の事を思い出した。大学に在籍していた頃の話だが、年中行事の中でもオープンキャンパスは重要な行事として位置づけられていた。18歳人口の急減を見越した学生募集の手段として、この行事を否定するつもりはなかったのだが、しばらく経った頃からだんだんと異常さが目につくようになってきた。大学が矜持をかなぐり捨てて、高校生に媚びはじめただけでなく、参加者に対する土産物の豪華さを競うようになってきたのである。大学を見に来るのではなく土産をもらいにくる高校生が目に付くようになった。母親の運転する車に2〜3人の高校生が乗り、近隣の大学を回るのである。物貰いご一行様の車内には、各大学のロゴが入ったお土産袋が乱雑に積んである。近くのコンビニのゴミ箱に、大学案内がまとめて捨ててあった。まるでスーパーの安売り会場周りと同じである。こんな時にこそ、各大学が品格ある談合をしてお土産競争を控えるべきだと思うのだがなかなかそうはいかないようだ。

 ここで使われるお金は、現在在学している学生が納めた学費であり、私学助成という名目で文科省から配分される国民の税金である。それを来るかどうかわからない高校生にばらまくのは筋の違う話であろう。いまいる在学生のために使うのが筋だと思うのだが・・・。

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言い訳 2

 ブログで稼いでいるわけではないので、書けなくても生活に大きな影響は生じない。という言い訳の下に執筆をさぼる日々が続いている。生活のリズムが変わってしまった事も、大きな理由の1つである。何しろ6時前に起き11時頃寝ると云う極め付きの健康生活である。昼間の野外労働は目にも影響があるらしく、夜になると視力の低下が著しい。本を読むのはまだいいのだが、Mac airの小さな画面に向き合うのはちと辛いのである。近いうちに老眼鏡を購わなくてはならないようだ。

 更新が止まったブログゆえに数人の友人から電話が入りはじめた。元気か、病気をしてないか、ついに惚けたか、ネタが切れたかなどと心配してくれる。有り難い事である。本人は桃源郷にでも来た気分で至極のんきに土遊びをしている。

 さて、呑気にしているとは言うもののネタ切れの不安は間違いなく存在する。生化学と云う二百年を超す歴史を持つ学問大系には、幾多の天才と云われる研究者の研究結果が凝縮している。外野席の私がケチを付けるにしても、そんなに沢山の誤謬があるはずはないではないか。適切な時期に余力を残したブログの閉鎖を視野に入れておく必要があるだろう。

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過剰と蕩尽 1

 「一次代謝と二次代謝」でいろいろと書き続けてきたが、いくぶん書きにくくなってきたので「過剰と蕩尽」と云うタイトルに変更し先に進めることにする。また、古い言葉を持ち出してきたなと思う人もいるだろう。団塊と呼ばれる世代の人であれば、1980年頃に話題になった「パンツをはいたサル:栗本愼一郎著」の中で紹介されていたバタイユの過剰蕩尽論を思い出す人がいるだろう。ポトラッチと呼ばれる財の蕩尽を通して尊敬を得る社会システムについてその時初めて知ったのだが、バタイユはこの蕩尽という概念が経済人類学と呼ばれる範囲にとどまるのではなく、生物においても成立すると仮定している。当時は、この言明に全く注意を払うことなく読み飛ばしていたわけだが、近年になってバタイユの先見性に驚いている。

 上の文章ではポトラッチの定義がいくぶん以上に偏っていて、お前は間違っていると云われそうなので少しだけ、付け加えておく。ポトラッチは財の偏在がもたらす共同体の緊張・危機・破綻を回避するための過剰の削減システムであると云っていいだろう。誰にとっても嬉しいことではないであろう財喪失の対価として、社会的地位の向上・尊敬の授与などが付加されるシステムであると私は理解している。この財の蕩尽によって、共同体内部での貧富の差が解消され、緊張が緩和されるというわけだ。あれ、現在の政府の方針を批判しているような話になってきた。そう云えば所得分配の不平等さの指標ジニ係数を考案したコッラド・ジニ(1884-1965)も、バタイユ(1897-1962)と同時代を生きていた。

 生物は、エネルギー源と物質源を外界に依存している。従属栄養生物においては、これは自明のことである。一方、植物、光合成細菌、化学合成細菌などの独立栄養生物は、独立という言葉から外界に依存せずに生きているように誤解されがちであるが、それは間違いである。彼らもまた、エネルギー源とともに炭素源、窒素源など生きるために必要な無機物を、やはり外界に依存している。独立栄養生物という表現から、環境から独立して生きていけるかのように考える学生をよく見かけたが、環境にエネルギー源と物質源を依存しているという意味では従属栄養生物と何ら変わりはない。エネルギー源と物質源のヒエラルキーが違うだけである。今回書きたいのはそんなことではない。現代文明の欠陥部分について書きたいと思っている。

 さて、エネルギー源と物質源があれば生物は生きてゆけるのか。現在までの生物学教育において、このような問題の立て方をすることはまずない。しかしながら、エネルギー源と物質源が存在することは、生物の生存にとって必要条件にすぎない。外界は生物に必要なエネルギーを供給し、体を構成する物質源を供給していると同時に、生体の活動に付随して生成するエントロピーと生産物を、熱または廃棄物として廃棄する「捨て場」としての役割を担っている。この十分条件となる「捨て場」としての意義については、今まで重要視されることはなかった。現代の産業が生産の効率化のみを重視し、廃棄物に対して十分な目配りをしてこなかったことと軌を一にしていると考えて良いだろう。しかし、外界の果たすこの「捨て場」としての役割は、資源を供給するという役割と比べて重要さにおいて軽重はない。現在までの科学界では、エネルギーを使って生体成分を構成していく、いわゆる生合成に焦点が当てられ、廃熱や生産物の廃棄/解毒の問題は、薬物代謝などのいくつかの例外分野を除けば、常に軽視されてきたように思われる。さらにだが、「捨てる・廃棄」という言葉には、対象となる物質が「不要なもの」であるという前提が存在する。だが、何が不要なものであるかという判断基準は存在しない。

 ミクロスケールの生物においては、細胞内で発生した熱はすぐに外界に流出するであろうし、不要な反応生成物も濃度勾配に従い細胞外に拡散するに違いない。つまり、生物のしめる容積に対し表面積が十分に大きい場合は、熱と反応生成物の廃棄は大きな問題にならないため、我々の注意を引かなかったであろう。とはいえ、原生動物の収縮胞(浸透圧調節が主たる機能といわれているが、収縮胞液の成分についてはまだよくわかっていない)をみていると、このサイズの細胞にあっても排泄行為は十分注意を払うべき段階に達しているのではないだろうか。ましてや、生物が多細胞化し、生合成の能力を増大させていく過程において、この体内で生成した熱と生産物をいかに処理するかということは、その重要性において先に述べた必要条件と同等の重みを持つ。とすれば生産物をいかにして捨てるかという問題は生物の生存に関わる問題である。

 しかしながら、この”捨てる”という視座からみた代謝系の存在意義について、十分な注意を払った体系的考察はほとんど見あたらない。安定した社会の維持に「蕩尽」という過剰の削減システムが必要であるのであれば、生物においても「蕩尽」すなわち「捨てるためのシステム」が必要ではないか。こうした蕩尽が必要ではないかとする視座から生物の代謝を考えてみよう。

過剰と蕩尽 2 に続く

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言い訳 1

 ブログを中断して二月余りが経った。3月20日に退職したあと、いろいろと事が重なり時間がとりにくかった事が1つの原因だが、物理的な環境の変化が文章を書く行為に与える影響の大きさを再認識している。泣き言ではなく、ただただ困惑している。今までの生活においてネットに嵌まっているという自覚はあまりなかった。日に2時間程度のネットサーフィンならと高を括っていた訳だ。仕事を辞め新居をベースとする生活を始めたのだが、新居にはまだネット回線が来ていない。そして私にネットの禁断症状が現れている。いつも見ていたサイトを見ることができないということであればさほどのことではないのだが、文章を書くに際して一寸した確認はネットに頼っていた。最大のネックはKEGGにアクセスできないことである。専門書の7割程はまだ旧宅においてあるし、ネットへのアクセスができないでは書いた内容に対するチェックも書いた漢字の正しさのチェックもままならない。

  進まない理由はそれだけではない。まず、机と照明が変わった。マシンがiMacからMacBook airに変わった。これは近々元に戻すつもりだが、画面の大きさとキーボードが仕事のしやすさに与える影響は思った以上に大きい。さらに、長年ATOKを日本語入力システムとして使ってきた。ところがこのMacBook airにはMac付属の「ことえり」しかインストールしていないのである。入力のところで躓くと、思考の流れがそこで切断され、何を書こうとしていたのかすぐに忘れてしまう。

  そういう訳で、コンピュータの頸木からはずれ、ここのところ読書に嵌まっている。昔買っていたにもかかわらず読まずに放置しておいたかも知れない本や、読んだ記憶はあるものの中身を忘れている本たちである。Antonio Lima-de-Faria著の「選択なしの進化」、Daniel C. Dennett著の「ダーウィンの危険な思想:生命の意味と進化」、石川 統著の「細胞内共生」、「共生と進化 — 生態学的進化論 科学精神の冒険2」、Richard Dawkins著の「利己的遺伝子」、「The Blind Watchmaker」、吉成真由美編の「知の逆転」、「知の英断」などをウツラウツラしながら読破した。

 どの本も間違いなく一度は読んでいるのだが、結構以上に忘れてしまっている。初めて読んでいるような気分である。さらにだが、老眼が進んでいるため一日に読める分量も、若い頃と比すべくもない。蔵書の山をみて安心した。これらすべてを新刊ではないにしても未読の書籍として読めるならば、今後の本代がかなり浮きそうだ。

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