言い訳 1

 ブログを中断して二月余りが経った。3月20日に退職したあと、いろいろと事が重なり時間がとりにくかった事が1つの原因だが、物理的な環境の変化が文章を書く行為に与える影響の大きさを再認識している。泣き言ではなく、ただただ困惑している。今までの生活においてネットに嵌まっているという自覚はあまりなかった。日に2時間程度のネットサーフィンならと高を括っていた訳だ。仕事を辞め新居をベースとする生活を始めたのだが、新居にはまだネット回線が来ていない。そして私にネットの禁断症状が現れている。いつも見ていたサイトを見ることができないということであればさほどのことではないのだが、文章を書くに際して一寸した確認はネットに頼っていた。最大のネックはKEGGにアクセスできないことである。専門書の7割程はまだ旧宅においてあるし、ネットへのアクセスができないでは書いた内容に対するチェックも書いた漢字の正しさのチェックもままならない。

  進まない理由はそれだけではない。まず、机と照明が変わった。マシンがiMacからMacBook airに変わった。これは近々元に戻すつもりだが、画面の大きさとキーボードが仕事のしやすさに与える影響は思った以上に大きい。さらに、長年ATOKを日本語入力システムとして使ってきた。ところがこのMacBook airにはMac付属の「ことえり」しかインストールしていないのである。入力のところで躓くと、思考の流れがそこで切断され、何を書こうとしていたのかすぐに忘れてしまう。

  そういう訳で、コンピュータの頸木からはずれ、ここのところ読書に嵌まっている。昔買っていたにもかかわらず読まずに放置しておいたかも知れない本や、読んだ記憶はあるものの中身を忘れている本たちである。Antonio Lima-de-Faria著の「選択なしの進化」、Daniel C. Dennett著の「ダーウィンの危険な思想:生命の意味と進化」、石川 統著の「細胞内共生」、「共生と進化 — 生態学的進化論 科学精神の冒険2」、Richard Dawkins著の「利己的遺伝子」、「The Blind Watchmaker」、吉成真由美編の「知の逆転」、「知の英断」などをウツラウツラしながら読破した。

 どの本も間違いなく一度は読んでいるのだが、結構以上に忘れてしまっている。初めて読んでいるような気分である。さらにだが、老眼が進んでいるため一日に読める分量も、若い頃と比すべくもない。蔵書の山をみて安心した。これらすべてを新刊ではないにしても未読の書籍として読めるならば、今後の本代がかなり浮きそうだ。

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