退職寸前

  科学ブログが滞っている。原稿は一応できているのだが、少ばかり書きにくい部分があり放置したままだ。書きにくいとは云っても私自身に関する問題であり、ここにどうけりを付けるか迷っているわけである。あと1〜2週間ほど考えて結論を出したい。

  3月に入ってもう10日が経った。勤め人生活はあと10日で終わりとなる。何度も辞めているから免疫が付いているらしく、取り立てて感傷はないとはいえ、これが最後だと思うとこれからどうやって生活していくかについてはかなり気になる。若かった頃は、辞めても次の仕事への誘いがあったが、この年では誰も誘ってくれない。当たり前の話である。年を取ると、できる仕事が激減することをひしひしと感じている。とはいえ、しばらく放置しておいた田んぼと畑は、私を待っているようだ。

  自ら積極的に動くしかないことは分かっているのだが、根が無精・怠慢であるため動きが遅い。口の悪い友人は、その年になって働き口を探すなんて、いままでの人生でサボってきたツケが回ってきただけだと断言し、面白がっている。そうかなと少し反省しようとは思うのだが、反省なんて3歩も歩けばすぐに忘れ去るものである。「曾子曰く、吾(われ)、日に三たび吾が身を省みる。」論語に出演している 曾子であっても、日に3回も振り返らないと身を律することを忘れてしまうと書かれているではないかなどと、超訳誤解を決め込んでいる。

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桜の季節

  もう少しでサクラの季節である。世の中、サクラが咲くと云うだけで浮き足立ってくるのだが、正直なところサクラは余り好きではない。花を見ずに高歌放吟する人々は嫌いだし、生き急ぐように散るサクラは痛々しい。だから嫌いなのかといえば、実はそうではない。

  サクラが咲きはじめる数日前、折り重なる蕾は弾けんばかりに充実している。そんな時期の黄昏に桜並木を歩くと、黒々とした枝にゴツゴツとした数知れない黒い蕾がまとわりついている。満開の桜とは全く違った貌を持つこの時期のサクラには、冥界から再生せんとする生命力が満ちているようだ。まるで異界へと続く隧道を歩いているような気になるのである。坂口安吾の小説「桜の森の満開の下」では、満開の桜の森での山賊の錯乱を描いているが、私は咲き始める直前の桜隧道のもつ生命力に満ちた妖気をおぞましく感じるのである。

  最後の文章、「の」が多すぎていくぶん不満だが、何度か読んでいるとそれなりのリズムはありそうである。このままにしておこう。

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ブルーベリー 1

  3月2日は、代休であった。庭に放置しているブルーベリーの花芽が膨らんできた。そろそろ限度だと、知り合いのTさんの手を借りて植え始めた。10本程植えて、畑の中央に残った柿の切り株が邪魔だねと云うことで合意した。では抜根するかと、小型のユンボを持ち出して株下を掘り始めたのだが、植物の根はすさまじい。地上の幹に比べられるような大きな根が何本も伸びている。こうした大きな根をチェーンソーで切りながら1.2m位掘ったのだが、びくともしない。周りも暗くなってきたため、この日はそこで終了、3日は終日雨。次週に延期となる。

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花咲か爺

  2月22日、深夜から降り続いた雨で農作業にはならない。仕方なく、博多の別宅へ移動し少し荷造りでもしようかと思っていたのだが、3時過ぎに雨は止んだ。いまにも泣き出しそうな雲行きであるとはいえ、雨粒さへ落ちていなければ何とかなると、家庭菜園へ出た。土日は不在であるため、手入れは殆どしていない。昨年の11月頃、手入れをしないことを見越して種まきをした。数種のダイコン、カラシナ、春菊、ターサイなど全ての種子を混ぜ合わせて耕耘した畑にばらまくのである。まるで花咲か爺である。その後その畑に畝を立て、ワケギとタマネギとナツマメを植えた。

  適当に芽を出してきたものを、間引き菜として食べた。ワケギとタマネギの邪魔になりそうな葉っぱも間引いて食べた。この季節になるとカラシナは40〜50cmくらいまで生長している。ダイコンはそろそろ薹立ちの季節である。庭のあちこちに散在するダイコンを抜き、カラシナと春菊を採集した。カラシナとダイコンで、それぞれコンテナ3杯程取れた。勿論わが家だけでは食べ尽くせないので、あちこちに配ることになる。

  春野菜は苦いものが多い。カラシナも苦い。しかし、ピリッと来る一夜漬けのカラシナ、白和えにした春菊、酢味噌和えにしたカラシナとワケギ、春の味覚である。自家消費用であり薬も肥料も使っていないため、アオムシもいればナメクジもいる。洗えば済む話だが、洗っても少数残ってくる可能性は否定できない。さて、これらを腐っていない新鮮なタンパク質と思えるかどうか。

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尿素回路

偏向ブログ

  ご存じの通り、かなり偏向したブログを書いている。生物に存在する代謝系を、正統派と考えられている人達と異なる視座からみた場合どのように位置づけることができるか、特にそれぞれの代謝系のレゾンデートル(raison d’être)についての考察を行っているわけである。今まで書いたような内容を話し始めると、多くの人が一歩も二歩も距離を取って眉に唾を付け始める。考えれば考えるほど孤独感を深めていた。

  地方の私学の教員として、学生の就職を考えると自ら信じることを講義で喋ることはできないのである。講義においては、嘘をつけと思いながらも主流の学問を伝えないと彼等が社会から受け入れられない。非常勤講師を頼まれるときも、あなたの持論は持論としてよろしくと云われることが多かった。私に見えているこの世界を、どうすれば周りに伝えることができるのか。そう思いながら20年余りが過ぎた。仕事を早めに辞めたことには、この伝えることへの諦めというか無常観が後押しした部分があったことは間違いない。

  窒素代謝について先に語ったが、いくつか書き漏らしたことがある。一つ問題提起をしておく。少し考えてみて欲しい。尿素回路の存在意義は何かという問いである。細胞内で生成する有害なアンモニアを無害な尿素として捨てるための回路というのが、まあ一般的な正解だと思う。

  哺乳動物についてであれば、まあこの説明でよいだろう。しかし、この回路は尿酸でアンモニアを捨てるニワトリにも、アンモニアのまま捨てるメダカにも、窒素を捨てたくない植物にも存在する。植物においては、尿素が窒素肥料となるという現実もある。さて、Evolution and metabolic significance of the urea cycle in photosynthetic diatoms. Nature 473, 203–207 (2011) でも読んで考えてください。

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