ジャンボ剤投入 2

 前回、投入したジャンボ剤が含んでいる農薬成分は、「ダイムロン」(1-(1-メチル-1-フェニルエチル)-3-p-トリルウレア)、「イマゾスルフロン」(1-(2-クロロイミダゾ[1,2-a]ピリジン-3-イルスルホニル)-3-(4,6-ジメトキシピリミジン-2-イル)ウレア)、それに「カフェンストロール」(N,N-ジエチル-3-メシチルスルホニル-1H-1,2,4-トリアゾール-1-カルボキサミド)、「ベンスルタップ」(S, S’-2-ジメチルアミノトリメチレンジ(ベンゼンチオスルホン酸)の4種である、と書いてこっそり止めたのだが、どうも気になる点がある。近所のお店で(S商店)、ジャンボ剤で良さそうなのを下さいと云って渡されたのが、この薬である。

 さて、このジャンボ剤は初期除草剤ではなく殺虫除草剤と書いてある。さらに、スクミリンゴガイ食害防止と付け加えてある。何が気になるか、田植えをした後しばらくは箱苗で使われている薬剤の残効があって、殺虫剤はさほど必要ではない。ところが、殺虫剤である「ベンスルタップ」(S, S’-2-ジメチルアミノトリメチレンジ(ベンゼンチオスルホン酸)が配合されている。

 この「ベンスルタップ」はそのまま効くのではなく、スルホン酸チオールエステル部分が加水分解を受けてジヒドロネライストキシンへ、さらに酸化を受けるとイソメ毒であるネライストキシンヘと変化し、昆虫に対する毒性を示すようになる。

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 この活性化様式は、かなり昔から使われているパダンという薬剤と同じである。このネライストキシンだが、魚釣りのエサに使われるイソメが持っている毒で、虫に与えると神経結合部のアセチルコリン受容体に結合して興奮性情報伝達を阻害することが知られている。症状としてはアセチルコリンによる興奮情報の伝達がなされないため動きが鈍くなるのだが、まず最初に摂食阻害が現れる。そこで、少し調べてみたらネライストキシン系の殺虫剤はスクミリンゴガイ(ジャンボタニシ)の摂食も強く阻害するそうだ。これは知らなかった。

 私の田んぼにもスクミリンゴガイは棲息する。三年前の圃場整備の時に、どこからか持ち込まれた土壌にいたらしく、いまではもう手に負えない位増えている。場所によっては用水路の壁は卵塊で真っ赤である。そう考えれば、近所の農薬を売っているS商店の品揃えとして、この薬剤が置かれていることは充分納得できる。

 スクミリンゴガイの防除についてはいろんな裏話があるのだが、書くのは止めよう。あんな生き物を、食用で導入したにもかかわらず、放り出した奴らが悪い。それ故に皆苦労している。イソメ毒のことを書いた後、自家菜園の手入れをしていたらイソメによく似たムカデが現れた。体は黒、脚部が朱色、体長20㎝近いトビズムカデの大物である。かなりグロテスクなので写真は載せない。節足動物だからピレスロイド剤は効くだろうと、キンチョールを吹きかけた。ノックダウンと云われるような即効性はなかったように思うが、間違いなく効いた。ちなみに、殺虫成分はd-T80-フタルスリンとd-T80-レスメトリンであった。

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ジャンボ剤投入 1

 田植えが終わって10日余り、殆ど天気予報が当たらない。昔、気象台、気象台、気象台と3回唱えてフグを食べれば大丈夫という与太話があったが、ここ数日の間、翌日の天気さえ当たらなかった。大雨だ大雨だという予報を信じて水田の水を落として待っていたが、少しも降らない日が続いた。近所の田んぼでは水不足で田植えができずに困っている。まあ久しぶりに当たった昨夜の雨で、何とかなるだろう。それにしても気象庁は、あたる可能性の低い一週間先の天気をどうして発表するのだろう。

 田植えが済んで初期除草剤を使いたいのだが、直後に雨が降ると使えない。薬剤の流亡に伴う薬剤の魚毒性が問題になるからだ。薬剤には5㎝の水深で使えと書いてある。それはそうだが、水田の表面はでこぼこしており条件を満たすのは甚だ難しい。(代掻きが下手なせいもある)とはいえ、薬のイネに対する安全許容範囲と雨の予想を信じて、水深4㎝くらいに合わせて散布した。イネの高さは10㎝余り、その夜に20㎜程度の雨が降ってもイネは浸からないし、その程度の雨による希釈なら薬も効くだろうという読みである。

 こう書くと、水の管理は難しくはなさそうだがこれが結構難しい。湛水減水深と定義される浸透による水の漏出があるからだ。通常20〜30㎜といわれているが、3反の田んぼで30㎜の水深減は、27トンの水に相当する。何もしなくても、27トン、つまり1時間に約1トンの水を入れてやらないと元の水深は維持できない。この透水量と降雨量を考えながら、あふれないように水口の水量を調節するわけである。従って、私のような新米は、働くわけでもないのに日に何度も水田に出没するわけだ。

 ちなみに、今回使用した初期除草用農薬は、「ショウリョクジャンボ」という名称の、ジャンボ剤である。ジャンボ剤とは散布機を使わずに手で投げ込むことができるようにした製剤である。ちなみに、このジャンボ剤が含んでいる農薬成分は、「ダイムロン」(1-(1-メチル-1-フェニルエチル)-3-p-トリルウレア)、「イマゾスルフロン」(1-(2-クロロイミダゾ[1,2-a]ピリジン-3-イルスルホニル)-3-(4,6-ジメトキシピリミジン-2-イル)ウレア)、それに「カフェンストロール」(N,N-ジエチル-3-メシチルスルホニル-1H-1,2,4-トリアゾール-1-カルボキサミド)、「ベンスルタップ」(S, S’-2-ジメチルアミノトリメチレンジ(ベンゼンチオスルホン酸)の4種である。

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過剰と蕩尽 3

 初めに、前回紹介したコラムについて、少しだけコメントしておきたい。「抗生物質は菌に対して抑制的に働きます。菌は自分に害を及ぼすものを克服すべく変異・進化します。つまり抗生物質を沢山使うと、それに対して抵抗性を持つように、菌は進化してゆくのです。」という部分だが、そもそも抗生物質に耐性を持つ菌が自然界には存在しており、抗生物質の使用は耐性菌の選抜を行ったという側面をも説明しておく方が良いだろう。そうでないと抵抗性が抗生物質の使用によって出現するように読めてしまう。次の「抗生物質に対して抵抗性を持つように、菌は進化していくのです。」という部分も、評価が難しい。抵抗性遺伝子を乗せたプラスミドの交換を通して抵抗性が増大することと、本来のゲノム上での変異に基づく抵抗性が増大を区別すべきであると考えるからだ。スペースの限られたコラムという形式であるため、幾分かの簡略化は仕方ないが、この部分の説明はもう少し丁寧にした方が親切であろう。

 よく勘違いされるのだが、現在の微生物(放線菌類を含む抗生物質生産菌)がつくる生産物(いわゆる抗生物質)が、巷間云われているような機能を持つことを否定しているわけではない。そんな馬鹿なことは、私がいくら半惚けであるとしても云うつもりはない。ある菌が作る化合物が周囲の微生物の生育を阻害して、いわゆる阻止円を形成する。そうしたことが起こることは事実である。しかし、他の生物の生育を阻害することを目的として、そのような活性を持つ化合物を創ったとするストーリーに異を唱えているわけだ。

 さて、乳酸菌がつくる抗菌性物質バクテリオシンと乳酸、古草菌が生産する iturinn Aとplipastain、青カビの仲間であるP. chrysogenumが生産するペニシリン、麦角菌の仲間(Claviceps)が生産するエルゴタミン、酵母が生産するエタノールと二酸化炭素(?)、納豆菌がつくるポリグルタミン酸などについて、生産物の持つ機能や生理活性を抜きにして説明しようとしたらどうなるのだろう。これらの生産物から他の生物に対する生理活性という属性を抜きさると、通常なされている説明は完全に破綻するのではないか。

 プロフィールでも書いたが、大学の入学試験において国語の試験時間の殆どを寝てしまうという失態をしでかした。この時は理学部の化学科を目指していた。浪人して、とある予備校に通いながら(4月から9月頃まで無茶苦茶な乱読をしていただけで、試験のある日しか出席などしていない)、人並みに将来のことを考えながらいろいろな本を読んだ。そして、自分の持つ興味と論理に相応する感覚を持つ著者には農学部の人が多いなと思った。そこで、幾分生物学の論理を重視する農学部へと志望を変えたわけである。周囲の反対がなかったわけではない。母親は経済学部への進学を勧めていたし、予備校の進学担当者からも、一応どの学部にでも行ける状況なのに何で農学部だと強く進路変更を迫られた。いつものことだが、自ら決めたことは変えないのが私の生き方である。そしていまの私がいるわけだが、博士課程修了後に職を得たのは、とある地方私大の工学部である。その後、別の私大に移籍したのだが、そこでの所属も工学部であった。そして、工学部という学部で過ごした約30年の間、強い疎外感を感じ続けてきた。

 読者は、「それがどうした。論旨がずれているではないか。」と思われるかも知れないが、そうでもないのである。この疎外感は何に起因しているのだろうと問い続けてきた。そして、私の感じていたこの疎外感が、現代の社会における科学と技術の相剋の一部を反映していることに気付いた。農学部の論理と工学部の論理が全く違うのである。教授会における議論のロジック、そのロジックのベクトルがあべこべなのである。学生に対する一つの規則を作るにしても、私はその規則が妥当かどうか、つまり学生という生物にとってその規則は遵守可能であるかどうかを考える。例えばだが、学内をすべて禁煙にしようなどと云う話が持ち上がる。私は賛成しなかった。煙草がある程度の習慣性・依存性を持つことは事実であるが、法的には20歳以上の喫煙は許されている。この事実を基礎に学内での禁煙を実施するのであれば、喫煙場所の確保が不可欠であると思ったのである。ヒトという生物が、いくぶんかの習慣性を持つ喫煙という合法的行為を行っているという現実から議論を始めようとしたに過ぎない。だが、会議に於いては、どうすれば学内禁煙が可能になるかという技術論的立ち位置に多数の人がいたのである。

 ここにおいて、問題は二つある。一つは禁煙に反対すると極悪人とされるような風潮に、何故多くの人が違和感なく同調できるのかという問いである。禁煙を標榜する団体、組織の人々が云うところのタバコの害が、事実であるかどうかを検証して納得した上でのことであればいいのだが、そうではないヒトが大多数であったようだ。少なくとも学問を生業にしているヒトビトが、偽相関の可能性を考える事なく同調するなど考えたくもないことだが、マスコミを通じて何度も刷り込まれると判断力を失うと云うのは本当のようだ。ちなみに、私は喫煙者ではない。喫煙が全学で行われようと、全県で行われようと、喫煙したら死刑と云うことになっても何の痛痒も感じない。しかし、マスコミを通じた間違っているかもしれない刷り込みによって、ある方向に社会を動かそうとするやり方に反発しているだけである。福島の原発事故が起こった時、民放テレビではコマーシャルを停止し子宮頸癌ワクチンの宣伝だけを狂ったように流していた。その後の流れは諸氏もご存知の通りである。

 いま一つの問題、この方が当時の私にとっては重たい問題であったのだが、科学と技術の相克に関する問題である。近頃、科学技術という言葉に丸められてその関係が見えにくくなっているが、科学と技術は関連はあるにしても全く別物である。この問題に関しては、2010年に日本学術会議が文部科学省に対し「科学技術」という表現は好ましくない。「科学・技術」と書くべきだとの提言をしているので、その内容を参照して欲しい。ただ、この提言もまた福島の原発事故による混乱故に放置されたままになっている様だ。その問題は横に置いて、技術をもって作られたモノには、必ず作る目的という理由が存在する。従って、技術で作られたモノに対してはリバースエンジニアリングという手法が有効に機能する。しかし、分析対象を生物に変えた途端に、この手法は有効性を失うのである。「飛行機の翼は飛ぶために作られた」という言明は、疑いなく正しい。されど「トンボの羽は飛ぶために作られた」、「鳥の翼は飛ぶために作られた」という言明は正しいかどうかわからない。多分間違いであるだろう。それらは、創られたから飛べるようになったのであって、飛ぶために作られたのではない。

 物事を考える場合、工学部の人々はリバースエンジニアリングという明確で乾燥したロジックと判断の基準を持っている。私は何かわからないグニャッとして湿った生物の論理みたいな所から考えるので、そこから出てくる結論にはヒトを納得させるような切れがない。工学部の中で生物を扱う少数派である上に結論が不明瞭なのだから、議論ではいつも負け犬であった。ただ、遠吠えをさせてもらうとすれば、私の意見が間違っていたことはあまりなかったように思う。生き物の形や行動の解析に対してリバースエンジニアリングは余り有効ではないようだ。

 ある菌は周囲の微生物の生育を押さえるために抗生物質を生合成する。その結果、周囲の養分を独り占めにでき、生存競争に於いて有利である。こう書かれると、思わず頷きたくなるほど、目的と結果をつなぐ論旨がシャープである。小・中学生であればまず違うという子はいないだろう。高校生でも納得すると思う。社会人というモノは、高校生が卒業後に劣化した代物だからほぼ間違いなく異論は唱えない。(勘違いされては困るのだが、私自身もここでいう社会人に含まれる。近頃、高校数学の問題が解けなくなくなってきた。歴史関連の科目でも、流れは把握しているつもりだが具体的な年号や固有名詞は雲散霧消している)従って、この文章に異を唱える私は少数派になってしまう。

 酵母という生物がいる。最も身近な酵母は、Saccharomyces cerevisiaeと呼ばれる出芽酵母の一種であり、ビール、ワイン、清酒、パンなどの製造に使われている。この酵母はアルコール発酵をして、エタノールを生産する。さて、エタノールには殺菌性がある。通常、殺菌目的では60〜90%の濃度で使うが、時間をかければ10%のエタノールでも殺菌性はある。ところが、清酒酵母であれば発酵が終わる頃には醪のアルコール濃度は20%を超えるのである。にもかかわらず、酵母はエタノールを生産して周りの微生物を殺し、養分を独り占めしているという説明は聞いたことがない。まあエタノール濃度が20%を超えるようになると、酵母自体がエタノールにやられて死滅して行くのだから、そうした説明をやりにくいのだろう。発酵中に共存するコウジカビにグルコースを供給してもらっていることも、そうした説明を阻害しているのかも知れない。そこでだが、酵母は何故エタノールを作るのだろう。

 乳酸菌に対しても、よく似た議論が成立する。乳酸菌は、乳酸を生産することによって周辺培地のpHを下げ他の細菌の生育を押さえることで、優位な立場を作るような云い方をされるが、ある程度以上乳酸が蓄積すると彼等自身も増殖できなくなってしまう。細菌の自家中毒である。では何故、乳酸菌は乳酸をつくるのか。

過剰と蕩尽 4 に続く

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田植完了

 フゥ〜とでも言うべきか、昨日で田植えが終わった。この時期は一年で最も忙しい。月曜日が水路整備、火曜日も水路の整備と3度目の荒起こし、水曜日に田んぼに水を入れて金曜日に代掻き、そして昨日が田植えである。勿論、これだけの作業で済むわけはなく、軽トラ、トラクター、耕耘機、草刈機、畝立機、田植機がフル稼働である。良い悪いの問題ではなく、現代の農業が石油にドップリと依存していることを痛感している。概算だが、今週だけでガソリンを20L、軽油を25L、混合油を10L程消費した。

 初めて刈り払い機(草刈機)を使ったとき、満タンにして1度作業すると手が痺れてしまった。作業をやめても手に残った振動の感覚が消えないのである。林業従事者がかかるという白蝋病に似た症状に不安を感じた。しかし、慣れとは不思議なモノで、2満タンでも3満タンでも何ともなくなり、今日は6満タン分の作業をしたが何ともない。とはいえ、耕耘機と不必要に格闘したことによる腱鞘炎で、右肩は痛いし右中指は曲がったままである。整形外科医に症状を言っても、もう治らないでしょう。手術をしても多分元には戻りませんと冷たい言葉が返ってくる。お年ですから体と上手に付き合って下さい。

 右肩以外は大丈夫かといえばそうではない。昨年、空中浮揚をしたせいで、首に痛みが残っている。右膝は曲がらないし、左肩にも痛みがある。長く働いていると、左右の股関節にも鈍痛がある。関節で問題なく動いているのは両足首と左膝の関節だけのようだ。

 機械であっても古くなると故障する。この点ではヒトも同じであろう。中古で買ったユンボからはシリンダーの作動油が噴き出す。草刈機が咳をする。ミスト機のエンジンがかからない。昨日は田植機の苗送りベルトが切れていた。修理をしながら騙し騙し使うしかない。毎朝起きて、体の各部の調子を見ながら、やはり騙し騙しの作業を続ける毎日であるが、働けば飯はうまいしビールもうまい。血糖値さえ高くなければほぼ天国である。

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過剰と蕩尽 2

抗生物質

 抗生物質(Antibiotics)が、20世紀の薬学界においてというよりも人類の感染症治療において、一つの革命を起こした物質群であることは間違いないであろう。1928年にA. フレミングが青カビの生産物として見つけたペニシリンを、H.W.フローリーとE.B. チェインが感染症に卓効ある医薬へと育て上げた。この3人は、医学界に新たな風をもたらしたことが評価され、1945年にノーベル生理学・医学賞を授与された。彼等の輝かしい成功の後、1944年にはストレプトマイシン、1948年にはクロロテトラサイクリン、1949年にはクロラムフェニコールと次々と新たな抗生物質の発見が続き、1960年頃までは「人類は感染症を克服した」かのようにな時代が続いた。こうした抗生物質の黄金時代に影を落とし始めたのが、耐性菌の出現である。1961年、MRSAすなわちメシチリン耐性黄色ブドウ球菌の出現を嚆矢として、医療現場で使われていた抗生物質に耐性を持つ細菌が出現することになった。そして、1986年には、最後の砦といわれていたバンコマイシンに耐性を持つVRE(バンコマイシン耐性腸球菌)が、2002年にはVRS(バンコマイシン耐性ブドウ球菌)が見つかり、抗生物質全能の時代は終わりを告げつつあるのかもしれない。

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よく知られた抗生物質類

 団塊という言葉で括られる私たちの親の世代は、第二次世界大戦という未曾有の困難をくぐり抜けると同時に、戦後に抗生物質の信じられない効果を実体験した。それまでの常識ではもう助からないと判断される肺炎患者、赤痢患者、結核患者たちが、抗生物質の投与によって何事もなかったかのように生還する姿を見たこの世代の人たちが、現代に続く日本人の薬好きという性癖を作ったように感じている。

 抗生物質の小史でも書いているのかと突っ込まれそうだが、ここまでは落語で云うところの枕である。

 さて私は、植物ホルモンは noisy minority 分子の一例であるという決めつけをおこなった。Noisy minority 分子とは、量的には微量であるにもかかわらず異常に生物活性の高い化合物であるという意味である。さらに植物体内に存在する種々の化合物の中で、これらの分子は活性が高い故に、不当に大きく取り扱われているとも述べた。ヒトという生き物は、少々知的水準が高い人であっても一つのことに目を奪われると、いとも簡単に総合的視座を見失う生き物であるらしい。持って回った云い方だが、抗生物質についての世の基本的理解は、微生物が生産する薬剤あるいは薬剤のリードとなる物質群であるというものであろう。もっと簡単に云えば、抗生物質は薬である。世間はその理解で渡っていける、いやその理解が正当とされる空間である。そうした世間の中では、「なぜ微生物は抗生物質を作るのか」などという大上段に振りかぶった疑問は発しにくい。いつも俎上に上げ批判している日本薬学会の「薬学用語解説」においても、残念ながらこの疑問については全く触れず抗生物質の定義と分類、そして耐性菌について淡々と記述している。

 勿論、「なぜ微生物は抗生物質を作るのか」という疑問が世の中に存在しないわけではない。抗生物質の説明の付け足しとして、簡単な説明が存在する場合もあるのだが、そこでは抗生物質の持つ機能、つまり抗菌性を基礎として、時系列を無視した説明がなされている。私が比較的頻繁に訪れ楽しんでいるサイトに、「有機って面白いよね:http://www.chem-station.com/yukitopics.htm」というサイトがある。有機化学を中心にいろいろな話題をタイムリーに伝えてくれるかなりレベルの高いサイトである。私も高い評価をしているのだが、このサイトに抗生物質に関するコラム(http://www.chem-station.com/yukitopics/antibiotics.htm)が存在する。このコラムも良くまとまっているのだが、「なぜ微生物は抗生物質を作るのか」という疑問に対する説明には納得できない。さらに、抗生物質耐性菌の説明の中に、「なぜ微生物は抗生物質を作るのか」という疑問への説明が位置している点についても違和感を禁じ得ない。議論の敲き台として、その部分を引用したい。

「薬剤耐性菌

 抗生物質絡みでよく話題にあげられるのが薬剤耐性菌の増加問題です。昔と違い、抗生物質が効かない菌が増えてきたのです。たとえばPenicillin耐性菌はpenicillinase (β-lactamase)という酵素の産生遺伝子を突然変異により獲得しています。これにより菌がβラクタム環を分解できるようになってPenicillinが失活してしまい、効果を発揮できません。」

 「そもそもなぜ菌は抗生物質を産生するのでしょうか?Louis Pasteurの行った実験で、2種の異なる微生物を同じ培地で培養すると、一方の菌が他方の菌の産生する物質によって発育が阻止される、という現象(抗生現象)が発見されました。光合成機能を持たない菌は、培地から栄養を摂取して増殖するのですが、そこに他の菌が介入してくると当然自分の栄養が減ります。栄養分を奪い合う結果になるのです。ここで菌は抗生物質を使用し、他の菌を排除して自分の領地を確保しようとするのです。つまり抗生物質は、微生物が自分の身を保つ為に、進化の仮定で獲得した産物だと言えます。」

「ここで他の菌と抗生物質を置き換えて考えてみましょう。抗生物質は菌に対して抑制的に働きます。菌は自分に害を及ぼすものを克服すべく変異・進化します。つまり抗生物質を沢山使うと、それに対して抵抗性を持つように、菌は進化してゆくのです。菌のように単純な生物だと進化のスピードも速く、かなりすさまじい勢いで耐性が獲得されてゆきます。」

 これで良いではないかと考える方々は少なからずいると思うし、こう書くしかないと思う人が大部分だろう。私であっても、20年ほど前まではこの説明で満足していたはずである。だが、現在の私の立場からすれば、生合成された抗生物質の活性をもって、創られた理由を説明している点に矛盾が存在すると考える。さらにここでの説明は、抗生物質とはある微生物が生合成して他の微生物の生育を阻害したり殺したりするものであるとする抗生物質の定義に縛られている。さらにだが、抗生物質が他の微生物を殺すよりもはるかに低濃度において、クオルモンとしての機能を持つなどという報告がなされているが、それとて構成物質が生産される原理由になるはずはない。(原理由と云う日本語はないかもしれない。機能を元にした後付けの理由ではなく、ある物質を作り出す前段階の代謝がもつ意味として造語した)すべてのモノはつくられた後に機能を獲得するのであり、生物がある機能を意図してつくる事はない。こうした機能を中心に置く考え方は、よく考えると科学的ではなく、明確な目的をどのように具現化するかという事に重きを置く工学的な発想に親和性が高い。微生物の行動を少しだけ普遍化して考えたとき、放線菌の仲間が抗生物質をつくることと、納豆菌(Bacillus subtilis natto )がポリグルタミン酸をつくること、Cupriavidus necatorAlcaligenes latusAzotobacter chrococcumなどが生分解性プラスチックであるPHB(ポリ 3-ヒドロキシ酪酸)をつくることと何が違うのか。どうもヒトの都合で、生物界の現象を分類しているような気がするのだが、考えすぎだろうか?

過剰と蕩尽 3 に続く

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