ガソリンは危険です

雀(カラ)が群れを解き、ギンヨウアカシアの黄色い花が目立つようになった。春です。モンンシロチョウやモンキチョウなど定番のチョウに混じってテングチョウやヒオドシチョウ、たまにシータテハが日溜まりで暖を取っている。カワラヒワの甘ったるい囀りが孟宗竹の頂きから聞こえてくる。世の中は春である。

 朝から種まきをしようと、購入しておいたナス、トウガラシ、エゴマ、カボチャ、シロウリなどを用意していたら、横に薪を割ったとき捨てた残渣があった。これを燃やしながら種まきをしようと思った。バーナーで火をつけようとしたが上手く燃えない。小屋にガソリンの混じった軽油があった事を思いだした。300ml程のガラス瓶に小分けして、これをかけて燃やそうとしたのが大間違いで5本の指の松明を作ってしまった。まあ手を振り回して消すのは消したのだが、思い掛けないガソリン火傷、これ思ったより何倍が酷いです。冷水で冷やしながら5時間が経つが、まだ水から出すとヒリヒリと痛みが酷い。

 皆さん、ガソリン火傷には気をつけましょう。グーグル検索をしても治療法はヒットしません。とにかく冷やしています。今夜ねむれるかな?京都アニメーション事件の被害者の方々、熱かったでしょうね。心から哀悼の意を表します。中指、薬指、小指の全周と各指の下の3つの膨らみ、さらに月丘までが痛んでいます。水膨れができるのかな。ジャガイモの植え付けとタマネギの草取りを済ませておいて良かったと胸をなで下ろしています。

午後11時、有り難い事にようやく痛みが引いてきた。良かった、これで今夜は寝られそうだ。知り合いの坊さんが、大難は小難に、小難は無難になどという講話をされる。何ともない時は無難は何になるんだろう、何難なのかなあ〜などと茶化して聴いているのだが、今回は大難が中難で納まった気分である。仏壇の前で感謝感謝である。

とはいえ、近頃仏壇の前で何方を拝めば良いのかが次第に分からなくなってきた。私、真言宗の檀家だと自認している。とすれば大日如来が本尊という事になる。昔の私は浄土宗の門徒だった。浄土宗の本尊は阿弥陀如来である。もっと昔、我が家は浄土真宗の門徒であった。この場合も阿弥陀如来が本尊である。この宗派の変遷にはそれなりの理由があるのだが、それは横に置くとして構造主義的に見るととても興味深い。

先ず本尊とされる如来がいて、この本尊と衆生とを繋ぐ位置に宗祖と呼ばれる人が位置する。真言宗においてはそれが空海であり浄土宗においては法然、浄土真宗においては親鸞という事になる。名前を呼び捨てにしてごめんなさい、法然と親鸞には上人という接尾語があるのだが、空海には適切な接尾語がない。弘法大師という呼び方があるにはあるが、ここに弘法大師と書くと何となく座りが悪い。従って、各人を呼び捨てにした。ただ、各宗派ともに本尊、宗祖、門徒あるいは檀家あるいは信徒という構造になっている。周りを見回すと、日蓮宗であろうと禅宗であろうとこの構造を持つ。面白い事にキリスト教であっても、イスラム教であってもヒンズー教であっても同じ構造を持つ。つまり、信仰する神あるいは仏がいて、神と民衆を繋ぐ宗祖がいて、その下に民衆が存在するという構造は同じだという事である。

古希を過ぎてからそんな事に気付いてどうすると言われそうだが、自ら気付いた時の喜びは格別である。手を火傷して、大した事にならなかった事を仏壇の前に座って感謝し、そこでレビー・ストロースの構造主義を思い出す。佛教の各宗派の構造は共通している、いや世界の大宗教も同じ構造だと気付いてしまった訳である。

考えてみれば、人間が作る他の組織であって同じ構造になっている。いままで生化学における代謝系の解釈において構造主義とはいってもソシュールが唱えた言語論を利用してきた。レビー・ストロースの構造主義は数学的色合いが強いためちょと敬遠してきた経緯がある。でも本棚のどこかに「悲しき熱帯」と「野生の思考」が残っている筈だ。読み直してみよう。

 

 

 

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