過剰と蕩尽 1

 「一次代謝と二次代謝」でいろいろと書き続けてきたが、いくぶん書きにくくなってきたので「過剰と蕩尽」と云うタイトルに変更し先に進めることにする。また、古い言葉を持ち出してきたなと思う人もいるだろう。団塊と呼ばれる世代の人であれば、1980年頃に話題になった「パンツをはいたサル:栗本愼一郎著」の中で紹介されていたバタイユの過剰蕩尽論を思い出す人がいるだろう。ポトラッチと呼ばれる財の蕩尽を通して尊敬を得る社会システムについてその時初めて知ったのだが、バタイユはこの蕩尽という概念が経済人類学と呼ばれる範囲にとどまるのではなく、生物においても成立すると仮定している。当時は、この言明に全く注意を払うことなく読み飛ばしていたわけだが、近年になってバタイユの先見性に驚いている。

 上の文章ではポトラッチの定義がいくぶん以上に偏っていて、お前は間違っていると云われそうなので少しだけ、付け加えておく。ポトラッチは財の偏在がもたらす共同体の緊張・危機・破綻を回避するための過剰の削減システムであると云っていいだろう。誰にとっても嬉しいことではないであろう財喪失の対価として、社会的地位の向上・尊敬の授与などが付加されるシステムであると私は理解している。この財の蕩尽によって、共同体内部での貧富の差が解消され、緊張が緩和されるというわけだ。あれ、現在の政府の方針を批判しているような話になってきた。そう云えば所得分配の不平等さの指標ジニ係数を考案したコッラド・ジニ(1884-1965)も、バタイユ(1897-1962)と同時代を生きていた。

 生物は、エネルギー源と物質源を外界に依存している。従属栄養生物においては、これは自明のことである。一方、植物、光合成細菌、化学合成細菌などの独立栄養生物は、独立という言葉から外界に依存せずに生きているように誤解されがちであるが、それは間違いである。彼らもまた、エネルギー源とともに炭素源、窒素源など生きるために必要な無機物を、やはり外界に依存している。独立栄養生物という表現から、環境から独立して生きていけるかのように考える学生をよく見かけたが、環境にエネルギー源と物質源を依存しているという意味では従属栄養生物と何ら変わりはない。エネルギー源と物質源のヒエラルキーが違うだけである。今回書きたいのはそんなことではない。現代文明の欠陥部分について書きたいと思っている。

 さて、エネルギー源と物質源があれば生物は生きてゆけるのか。現在までの生物学教育において、このような問題の立て方をすることはまずない。しかしながら、エネルギー源と物質源が存在することは、生物の生存にとって必要条件にすぎない。外界は生物に必要なエネルギーを供給し、体を構成する物質源を供給していると同時に、生体の活動に付随して生成するエントロピーと生産物を、熱または廃棄物として廃棄する「捨て場」としての役割を担っている。この十分条件となる「捨て場」としての意義については、今まで重要視されることはなかった。現代の産業が生産の効率化のみを重視し、廃棄物に対して十分な目配りをしてこなかったことと軌を一にしていると考えて良いだろう。しかし、外界の果たすこの「捨て場」としての役割は、資源を供給するという役割と比べて重要さにおいて軽重はない。現在までの科学界では、エネルギーを使って生体成分を構成していく、いわゆる生合成に焦点が当てられ、廃熱や生産物の廃棄/解毒の問題は、薬物代謝などのいくつかの例外分野を除けば、常に軽視されてきたように思われる。さらにだが、「捨てる・廃棄」という言葉には、対象となる物質が「不要なもの」であるという前提が存在する。だが、何が不要なものであるかという判断基準は存在しない。

 ミクロスケールの生物においては、細胞内で発生した熱はすぐに外界に流出するであろうし、不要な反応生成物も濃度勾配に従い細胞外に拡散するに違いない。つまり、生物のしめる容積に対し表面積が十分に大きい場合は、熱と反応生成物の廃棄は大きな問題にならないため、我々の注意を引かなかったであろう。とはいえ、原生動物の収縮胞(浸透圧調節が主たる機能といわれているが、収縮胞液の成分についてはまだよくわかっていない)をみていると、このサイズの細胞にあっても排泄行為は十分注意を払うべき段階に達しているのではないだろうか。ましてや、生物が多細胞化し、生合成の能力を増大させていく過程において、この体内で生成した熱と生産物をいかに処理するかということは、その重要性において先に述べた必要条件と同等の重みを持つ。とすれば生産物をいかにして捨てるかという問題は生物の生存に関わる問題である。

 しかしながら、この”捨てる”という視座からみた代謝系の存在意義について、十分な注意を払った体系的考察はほとんど見あたらない。安定した社会の維持に「蕩尽」という過剰の削減システムが必要であるのであれば、生物においても「蕩尽」すなわち「捨てるためのシステム」が必要ではないか。こうした蕩尽が必要ではないかとする視座から生物の代謝を考えてみよう。

過剰と蕩尽 2 に続く

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