初めに、前回紹介したコラムについて、少しだけコメントしておきたい。「抗生物質は菌に対して抑制的に働きます。菌は自分に害を及ぼすものを克服すべく変異・進化します。つまり抗生物質を沢山使うと、それに対して抵抗性を持つように、菌は進化してゆくのです。」という部分だが、そもそも抗生物質に耐性を持つ菌が自然界には存在しており、抗生物質の使用は耐性菌の選抜を行ったという側面をも説明しておく方が良いだろう。そうでないと抵抗性が抗生物質の使用によって出現するように読めてしまう。次の「抗生物質に対して抵抗性を持つように、菌は進化していくのです。」という部分も、評価が難しい。抵抗性遺伝子を乗せたプラスミドの交換を通して抵抗性が増大することと、本来のゲノム上での変異に基づく抵抗性が増大を区別すべきであると考えるからだ。スペースの限られたコラムという形式であるため、幾分かの簡略化は仕方ないが、この部分の説明はもう少し丁寧にした方が親切であろう。
よく勘違いされるのだが、現在の微生物(放線菌類を含む抗生物質生産菌)がつくる生産物(いわゆる抗生物質)が、巷間云われているような機能を持つことを否定しているわけではない。そんな馬鹿なことは、私がいくら半惚けであるとしても云うつもりはない。ある菌が作る化合物が周囲の微生物の生育を阻害して、いわゆる阻止円を形成する。そうしたことが起こることは事実である。しかし、他の生物の生育を阻害することを目的として、そのような活性を持つ化合物を創ったとするストーリーに異を唱えているわけだ。
さて、乳酸菌がつくる抗菌性物質バクテリオシンと乳酸、古草菌が生産する iturinn Aとplipastain、青カビの仲間であるP. chrysogenumが生産するペニシリン、麦角菌の仲間(Claviceps)が生産するエルゴタミン、酵母が生産するエタノールと二酸化炭素(?)、納豆菌がつくるポリグルタミン酸などについて、生産物の持つ機能や生理活性を抜きにして説明しようとしたらどうなるのだろう。これらの生産物から他の生物に対する生理活性という属性を抜きさると、通常なされている説明は完全に破綻するのではないか。
プロフィールでも書いたが、大学の入学試験において国語の試験時間の殆どを寝てしまうという失態をしでかした。この時は理学部の化学科を目指していた。浪人して、とある予備校に通いながら(4月から9月頃まで無茶苦茶な乱読をしていただけで、試験のある日しか出席などしていない)、人並みに将来のことを考えながらいろいろな本を読んだ。そして、自分の持つ興味と論理に相応する感覚を持つ著者には農学部の人が多いなと思った。そこで、幾分生物学の論理を重視する農学部へと志望を変えたわけである。周囲の反対がなかったわけではない。母親は経済学部への進学を勧めていたし、予備校の進学担当者からも、一応どの学部にでも行ける状況なのに何で農学部だと強く進路変更を迫られた。いつものことだが、自ら決めたことは変えないのが私の生き方である。そしていまの私がいるわけだが、博士課程修了後に職を得たのは、とある地方私大の工学部である。その後、別の私大に移籍したのだが、そこでの所属も工学部であった。そして、工学部という学部で過ごした約30年の間、強い疎外感を感じ続けてきた。
読者は、「それがどうした。論旨がずれているではないか。」と思われるかも知れないが、そうでもないのである。この疎外感は何に起因しているのだろうと問い続けてきた。そして、私の感じていたこの疎外感が、現代の社会における科学と技術の相剋の一部を反映していることに気付いた。農学部の論理と工学部の論理が全く違うのである。教授会における議論のロジック、そのロジックのベクトルがあべこべなのである。学生に対する一つの規則を作るにしても、私はその規則が妥当かどうか、つまり学生という生物にとってその規則は遵守可能であるかどうかを考える。例えばだが、学内をすべて禁煙にしようなどと云う話が持ち上がる。私は賛成しなかった。煙草がある程度の習慣性・依存性を持つことは事実であるが、法的には20歳以上の喫煙は許されている。この事実を基礎に学内での禁煙を実施するのであれば、喫煙場所の確保が不可欠であると思ったのである。ヒトという生物が、いくぶんかの習慣性を持つ喫煙という合法的行為を行っているという現実から議論を始めようとしたに過ぎない。だが、会議に於いては、どうすれば学内禁煙が可能になるかという技術論的立ち位置に多数の人がいたのである。
ここにおいて、問題は二つある。一つは禁煙に反対すると極悪人とされるような風潮に、何故多くの人が違和感なく同調できるのかという問いである。禁煙を標榜する団体、組織の人々が云うところのタバコの害が、事実であるかどうかを検証して納得した上でのことであればいいのだが、そうではないヒトが大多数であったようだ。少なくとも学問を生業にしているヒトビトが、偽相関の可能性を考える事なく同調するなど考えたくもないことだが、マスコミを通じて何度も刷り込まれると判断力を失うと云うのは本当のようだ。ちなみに、私は喫煙者ではない。喫煙が全学で行われようと、全県で行われようと、喫煙したら死刑と云うことになっても何の痛痒も感じない。しかし、マスコミを通じた間違っているかもしれない刷り込みによって、ある方向に社会を動かそうとするやり方に反発しているだけである。福島の原発事故が起こった時、民放テレビではコマーシャルを停止し子宮頸癌ワクチンの宣伝だけを狂ったように流していた。その後の流れは諸氏もご存知の通りである。
いま一つの問題、この方が当時の私にとっては重たい問題であったのだが、科学と技術の相克に関する問題である。近頃、科学技術という言葉に丸められてその関係が見えにくくなっているが、科学と技術は関連はあるにしても全く別物である。この問題に関しては、2010年に日本学術会議が文部科学省に対し「科学技術」という表現は好ましくない。「科学・技術」と書くべきだとの提言をしているので、その内容を参照して欲しい。ただ、この提言もまた福島の原発事故による混乱故に放置されたままになっている様だ。その問題は横に置いて、技術をもって作られたモノには、必ず作る目的という理由が存在する。従って、技術で作られたモノに対してはリバースエンジニアリングという手法が有効に機能する。しかし、分析対象を生物に変えた途端に、この手法は有効性を失うのである。「飛行機の翼は飛ぶために作られた」という言明は、疑いなく正しい。されど「トンボの羽は飛ぶために作られた」、「鳥の翼は飛ぶために作られた」という言明は正しいかどうかわからない。多分間違いであるだろう。それらは、創られたから飛べるようになったのであって、飛ぶために作られたのではない。
物事を考える場合、工学部の人々はリバースエンジニアリングという明確で乾燥したロジックと判断の基準を持っている。私は何かわからないグニャッとして湿った生物の論理みたいな所から考えるので、そこから出てくる結論にはヒトを納得させるような切れがない。工学部の中で生物を扱う少数派である上に結論が不明瞭なのだから、議論ではいつも負け犬であった。ただ、遠吠えをさせてもらうとすれば、私の意見が間違っていたことはあまりなかったように思う。生き物の形や行動の解析に対してリバースエンジニアリングは余り有効ではないようだ。
ある菌は周囲の微生物の生育を押さえるために抗生物質を生合成する。その結果、周囲の養分を独り占めにでき、生存競争に於いて有利である。こう書かれると、思わず頷きたくなるほど、目的と結果をつなぐ論旨がシャープである。小・中学生であればまず違うという子はいないだろう。高校生でも納得すると思う。社会人というモノは、高校生が卒業後に劣化した代物だからほぼ間違いなく異論は唱えない。(勘違いされては困るのだが、私自身もここでいう社会人に含まれる。近頃、高校数学の問題が解けなくなくなってきた。歴史関連の科目でも、流れは把握しているつもりだが具体的な年号や固有名詞は雲散霧消している)従って、この文章に異を唱える私は少数派になってしまう。
酵母という生物がいる。最も身近な酵母は、Saccharomyces cerevisiaeと呼ばれる出芽酵母の一種であり、ビール、ワイン、清酒、パンなどの製造に使われている。この酵母はアルコール発酵をして、エタノールを生産する。さて、エタノールには殺菌性がある。通常、殺菌目的では60〜90%の濃度で使うが、時間をかければ10%のエタノールでも殺菌性はある。ところが、清酒酵母であれば発酵が終わる頃には醪のアルコール濃度は20%を超えるのである。にもかかわらず、酵母はエタノールを生産して周りの微生物を殺し、養分を独り占めしているという説明は聞いたことがない。まあエタノール濃度が20%を超えるようになると、酵母自体がエタノールにやられて死滅して行くのだから、そうした説明をやりにくいのだろう。発酵中に共存するコウジカビにグルコースを供給してもらっていることも、そうした説明を阻害しているのかも知れない。そこでだが、酵母は何故エタノールを作るのだろう。
乳酸菌に対しても、よく似た議論が成立する。乳酸菌は、乳酸を生産することによって周辺培地のpHを下げ他の細菌の生育を押さえることで、優位な立場を作るような云い方をされるが、ある程度以上乳酸が蓄積すると彼等自身も増殖できなくなってしまう。細菌の自家中毒である。では何故、乳酸菌は乳酸をつくるのか。
過剰と蕩尽 4 に続く