過剰と蕩尽 10

 いくぶん焦りすぎた感のある前回の投稿であった。論理的な穴が散見されるし、文章のつながりも悪い。甚だ不満だが、それもまた私の実力であろう。取り敢えず、何が言いたかったのかを少しだけ整理してみよう。

1) 生物の創生は、生物が利用できる地球科学的に存在する物質群が高濃度にある領域で起こったと考える。生物を構成する成分の生物が関与しない合成と濃縮が十分な速度で起こるためには、高温・高圧下であることが望ましく、この条件を満たすのはかなり深い地殻中で(10 Km以内をイメージしている)マントルからの物質供給ある領域であると考える。

2) かなり深い地殻中であると考えれば、地表で起こった地質学的大変動の影響は殆ど受けなかったに違いない。

3) 地球科学的に生産され生物が利用できる物質群が高濃度にある領域で発生した原初の生物には、飽食の条件下に生存していたが故に、生きていくために過剰な生産物を外界に捨てる能力(蕩尽能力)が不可欠であった。

4) 原初の生物が貧栄養条件の領域へと分布を広げていくに際して、一部の生物はこの捨てる能力(蕩尽能力)を失っていった。

5) 我々が常温と思っている温度は、我々がそう思っているにすぎない。好熱性の生物にとっては高温が常温であり、好冷性の生物にとって低温が常温である。

 「生命の起源」に関しては、多くの著作を読んだし報告も読んだ。いまもある程度のフォローはしているつもりである。(生命は生物の属性であって、生命だけが独立して発生することはない。従って、「生物の起源」とするのが正しいと云う批判はもっともだと思う。このブログの中で私も生命という言葉は控えているつもりだ。しかし、Life scienceが生命科学と翻訳された時点からこの流れは始まっており、いま異論を唱えても多分無駄だろう。生物科学より生命科学の方が、語感がきれいでスマートに響くからだ。但し、本来のLife scienceが持っていた生活科学の領域は、日本の生命科学からはほぼ抜け落ちている。)

 それはそうとして、1)と2)は過去の研究者の説をなぞったと云ってもよく、大した新規性は無い。新奇性を持つ推論は3)で示した内容で、原生物には蕩尽能力が不可欠であったとする推論だろう。相手は生物であるので、3)が成立すれば4)の成立は当然のこととなる。5)はマンハイムの言をまつまでもなく言わずもがなの内容である。

 さて、先にも云ったように、生命と生物とのなんとも云えない混用が起こっているが、世間では生命の方が優勢のようだ。とはいえ、少し注意して読んでみると生命は生物に依存し、生物は生命に依存する循環論法的定義になっている様に感じている。ウィキペディアで記載してある分量を見ると、生物の項より生命の項がはるかに分量が多い。ああ、また少数派か。だが生物に対比される用語「無生物」は存在するが、生命に対して「無生命」と云う用語は存在しない。生物図鑑はあるが生命図鑑はない、原生生物・微生物などに対応する原生生命・微生命も存在しない。これらの使い分けを見ると生物はものであり、生命は現象に近いようだ。私は生物が基本で、生物の持つ属性を生命と考えている。

 ところがである、私も時としてお世話になったDDBJ(DNA data bank of Japan)のサイトにおいては、無生命という用語が使われている。DDBJのホームから利用の手引きに入り遺伝子とゲノムというペ−ジにはいると、「生命と無生命のちがい」という項目が存在している。ちょっと引用したい。

生命と無生命

 《生きているってどんな意味があるんだろう?ここでは,このような哲学的質問に答えることはできませんが,「生きている」,生命を持っているというのはどういうことなのか,生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。物質というからには,生命を持たない物質と本質的に違っているわけではありません。そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。》

 私はこの文章に対して漠とした違和感を感じるのだが、読者各位はどのように思われるのだろうか。前半の決めつけ〜「生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。」〜の部分だが、私には答えが出ているとは思えない。こんなにすっきりと言い切れる感覚は私にはない。さらに、タイトルが「生命」としているにもかかわらず、主語が「生き物」に入れ代わっている。ペ−ジの後ろの部分で生物が生き物の意味で使われていることをみれば、どうやら「生命」と「生き物」と「生物」が完全に重なる概念であることが前提にありそうだ。

 次の文章〜《生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。》〜においても、生命とは物質であると事もなげに記述されている。生物には入れものすなわち細胞が必要だなどとクレームを付ける以前に、このさばさばとした筆致に憧憬さえ感じるほどだ。アリストテレスが云うところのプシュケー、あるいはプラトンが云うところのイデアなどを疑いもなく信じているわけではないし、旧来の生気論に立つつもりもない。ただ、この歳になると生命すなわち物質であるとためらいも無く断ずるには、些か心理的な抵抗がある。

 要するにこの文章は、《そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。》とする最後の文章に話を振るための前振りであることは理解するが、ちょっと急ぎすぎたのではないだろうか。もう一つ付け加えるとすれば、読者の位置づけが分かり難い。少なくとも、DDBJを使いこなす人が対象ではないだろう。たまたま迷い込んできた高校生あるいは大学の1〜2年生程度をイメージした文章に思える。(英語版にはこのページは存在しない)

 それはさておき、生物あるいは生命とは何かと正面から問われると、多くのヒトは口ごもってしまうようだ。余り細かいことは云わず伝統的な立場から定義をするとすれば、代謝を行う・遺伝と生殖能力を持つ・外界と区画される細胞を持つものとなるだろう。私は、上記の項に付け加えて、生物にとって有用であれ不要であれ、過剰なモノ(熱を含む)の蕩尽能力を必須な属性としたわけだ。ウィキペディアの生物の項には「不要な物質を外に捨てる」とする記述があり、生命の項にも「老廃物の排泄」という記述がある。これらに比べると、私の捨てるという認識はより積極的な廃棄を意味しているため、これを「蕩尽能力」として定義したわけである。では「蕩尽能力」を持たざるを得なかった生物は、どのような進化を辿ったのか?

過剰と蕩尽 11 に続く

カテゴリー: 未分類 | 過剰と蕩尽 10 はコメントを受け付けていません

筑水キャニコム

筑水キャニコム(http://www.canycom.jp/)

 先日、TVQ(テレビ東京系列)の番組「カンブリア宮殿」で、件の会社「筑水キャニコム」についての放送があった。20年近く、テレビの放送は殆ど見ていないのだが、この放送はたまたま見る機会があり最後まで楽しんでみてしまった。この会社の機械類、そのネーミングのなんとも云えないこじつけが魅力的である。いくつか例を挙げるが、キャタピラ式の運搬車で人も乗れるタイプの「ヒラリー」、大型の草刈機「ブッシュカッタージョージ」、三輪駆動の電動自転車「三輪駆動静香」、マルチ電動カート「ついてくるか〜い」、ホイール運搬車「こまわりくん」など、人名や機能をもじっているようでありながら、その特徴もそこはかとなく伝えている。機械を見て、機能の説明を受けて、名前を聞いて、思わず笑ってしまうだけでなく、覚えてしまう点で、このネーミングは成功していると云えるだろう。

 じつは私もこの会社の乗用モア(乗用草刈車)を使っている。この会社が作っている草刈機は大きく分けると3種類に分けられるようだ。1つが男シリーズと呼ばれるもので、草刈機を人が押して動くタイプのものである。ここにも駄洒落の効いた名を持つ「男前刈清」が存在する。乗用タイプの草刈機には「Hey まさお」と名付けられているが、草刈(機)まさおの捩りとともに、Hey とHayが暗喩として使われているようだ。

 別にこの会社の宣伝のために書いているわけではないが、草刈機まさおに乗ったときにはじめて農業機械の機能のすばらしさを知った。クラッチなしで前進と後進の切り替えがスムースにできることに驚いた。速度の切り替え、草刈の高さ、刈り刃の駆動、デフロックなどの機能が、軽トラックの荷台に収まる小さなボディーに装備されていたのである。かつ、クラッチがニュートラルで刈り刃の駆動がオフになっていないと、エンジンが掛からない。安全性への考慮も十分になされていた。私のマシンはいくぶん古いタイプのものである。輸出仕様のマシンであるらしくオイルクーラーまで完備しているらしい。時には掃除をしようと思いながらもそのまま酷使を続けているが、ありがたいことに、泥まみれ、草まみれになっても何の異常もなく動いてくれる。

カテゴリー: 未分類 | 筑水キャニコム はコメントを受け付けていません

過剰と蕩尽 9

 書く気が失せていたブログをそろそろ再開することにする。

 私は真実を信じない。こう云うとよく誤解されるのだが、ある人の述べる真実を聞かないというわけではない。その真実を無批判に信じ込むことをしないだけである。では、物事を判断するとき何を基準に考えるかと尋ねられるのだが、私は事実を基礎として判断するように心がけている。曲がり角でAさんとBさんがぶつかって双方ともに怪我をした。AさんはBさんが飛び出してきたと言い、BさんもAさんが飛び出してきたと言う。ここにおいて、2つの真実が存在する。Aさんの主観による真実と、Bさんの主観による真実である。こんな時、客観的に見るとAさんが飛び出したように見えるよねなどという客観的真実を述べるヒト(Cさん)がいるが、これもCさんの主観を通した真実である。この客観的真実も、Cさんの物理的・心理的立ち位置に大きく支配されるため、なかなか判断が難しい。結局のところ、ある人の主観によって事実が咀嚼されデフォルメされて顕現したものが真実であると考えてよいだろう。

 従って個々人の持つ真実が、相互に完全に重なり合うことは決してない。ある個人が抱く真実のみを基盤として物事を決めることは、決定に個人の偏見が大きく影響することを意味する。ここに、非効率と言われながらも手続きを重視する民主主義が成立する基盤がある。奥歯にも前歯にも物が挟まっているような云い方だが、このご時世だから許していただこう。議論は、まず可能な限り偏見を含まない事実、実体の把握から始めなければならない。

 さて、「いわゆる抗生物質の発酵生産・アルコール発酵・乳酸発酵と云われるプロセスにおいて(グルタミン酸発酵でもいい、酢酸発酵でもメタン発酵でもよい)、すべての発酵に共通する条件は何であるのか」という問いを発していたのだが、私の視座からみると、微生物がこれらの生産物を作る理由は1対の条件に収斂する。その条件とは飽食と蕩尽である。

 もちろん、この結論は私の視座から見た事実群の解釈であり、私の真実である。つまり、私といういつも少数派の個性を持つ人間が、自らの学問的背景を基に考えたものに過ぎない。故に、その正しさについて絶対に正しいと保証されるものではない。他の人々が、同じ微生物による発酵生産をみて、異なった視座から異なった真実を語ることは十二分にあり得ることである。どちらがより正しい真実であるかは、一応客観的と称される視座にいる人々の数によって決まるが故に、正しいとされる真実も宗教や時代の風や常識、そして利害関係にとらわれた錯誤である可能性を捨てきれない。ここにおいては、多数決という決定方法が持つ原理的欠陥が露呈するというよりも、常識と利害関係の方がより大きく働くであろう。

 では飽食とは何か。現代の微生物学(特に発酵産物の生産菌探索)において用いられる培地群は、自然条件に比してかなりな富栄養条件を用いている。(これは偏見かも知れない。動植物の死骸や、動物の消化管内で増殖する微生物は十分以上に富栄養条件であろう)そうした培地で見いだされ働く菌は富栄養条件に適応した種類に限られる。言い換えれば、飽食に対する耐性を持った微生物群である。もっと言い換えれば、微生物による「いわゆる二次代謝産物の生産」は、命を保つために生産物を菌体外へ放出する蕩尽とも云える行動であると捉えるわけである。一方、そんな富栄養の培地には生育できない貧栄養条件に適応している多くの微生物群が存在する。その証拠に、一定量の土壌に生息する菌数を、貧栄養条件下で測定すると、富栄養条件下における菌数よりはるかに多い菌数が測定されるではないか。

 つまり私の視座からは、通常の培地で使われるような富栄養条件に適応できない多数の菌群とともに、飽食条件下に抗生物質・エタノール・乳酸・グルタミン酸等の二次生産物を捨てる(蕩尽する)ことで生きられる微生物群がいると観るわけである。蕩尽されたものがたまたま我々にとって有効であった場合に、その生物が脚光を浴びているにすぎないと捉えるわけである。最近、熱帯魚屋さんに行って熱帯魚とともに珊瑚(ミドリイシ)を飼育している水槽を見た。面白かったのは、横に置いた瓶の中にパン酵母とブドウ糖を入れて、発生する二酸化炭素を水槽内に導入していたのだ。珊瑚にとっては、エタノールではなく二酸化炭素が有用なのである。二酸化炭素施肥の一例だが、蕩尽されたもののなかで何が有用であるかは、同じ時間を生きている他の生物の都合で決まるのである。

 さて、富栄養条件に適応できる微生物と、できない微生物の関係はどのようなものだろう。生き延びるために蕩尽という方法を持つ微生物は、いつそのような能力を獲得したのか。ある程度、進化という概念になじんでいる人であれば、進化がある能力の喪失を伴う場合があることに違和感はないと思うが、一般の人の中には進化=進歩、新たな能力の獲得であると考える人がかなりの割合を占める。この場合、蕩尽という能力を持って発生した原生物の一部がその能力を失ったと考えてもよいし、蕩尽能力を持たずに発生した原生物の一部がその能力を獲得したと考えてもよい。では、どちらがより蓋然性の高い仮説であるのだろう。

 アメリカの北西部にイエローストーン国立公園がある。私はすぐ近くのソルトレークシティまで行った事があるのだが、残念ながらイエローストーン国立公園には足を伸ばしていない。世界最古の国立公園であるこの公園は、アイダホ州、モンタナ州、及びワイオミング州にまたがる8,983平方キロメートルの面積を持つ。日本でいえば四国のおよそ半分の面積と思えばよい。ここの地下には巨大なマグマだまりがあり、一旦噴火するとアメリカ大陸のみならず地球規模で被害を及ぼすと云われている。とはいえ、現在のこの公園はとても美しいそうだ。ここには地下から熱水を噴き出す噴出口と、それに伴う熱い池が存在する。TBSのTHE世界遺産の写真の中にきれいな写真があるのだが、個人レベルのブログであっても掲載が止められているので、そのアドレスとSecondglobe.com amazing places & people のアドレスを記載しておく。

http://www.tbs.co.jp/heritage/img/feature/2008/1280_1024_01.jpg
http://secondglobe.com/item/the-morning-glory-pool-at-yellowstone-national-park-rainbow-pool/

 これらの写真において、湖の色の変化はそこに棲息する微生物の作る色素が原因である。さらにこの池から熱水が冷えながら溢れ出していく温水湖群が成立しており、温度に依存する生態系を見ることができるわけだ。何で読んだのか出典をどうしても思い出せないのだが、温度の違う池の連なりの中に棲息する微生物群を比較すると、泉源に近い高温の池の微生物群の方がより古いグループに属するという報告があった。これは、高温に適応していた祖先から低温に適応した種が分れてきたことを意味する。この報告を読んだのは数十年前であり、かなりな違和感を感じた記憶がある。私自身が、無意識にホモサピエンスであるヒトの一員として、我々の棲息温度を基準に、好熱菌あるいは好冷菌などという表現を認めていたわけである。16SrRNAの塩基配列を用いた生物系統樹の根本付近には、真性細菌であっても古細菌であっても好熱菌・超好熱菌が位置することが常識になった現代においては、超好熱菌の方が起源が古いという話は何ら不思議なことはなくなった。彼等こそが生物が出現した時代の形質を維持していただけの話である。彼等から見れば、常温で暮らす生物こそがすぐにメルトしてしまうDNAと、低い温度で変性してしまうタンパク質しか持たない堕落した生き物であるのかもしれない。

 さて生物がどこでどのようにして発生したかということを考えたいのだが、アリストテレスまで戻って説き始めると現代まで来るのに何ページかかるか分からない。私は「生物の発生」としているが一般には[生命の発生]として扱われており、無数の書籍と報告が存在する。このブログの筋を理解して(反論をお持ちでも構わない)トレースしている方であれば、ユーリーミラーの実験に始まる現代的な仮説群についてある程度以上の知識をお持ちであろう。私は赤堀氏のポリグリシン説、ヴェヒタースホイザーの黄鉄鉱 (FeS2) 表面で有機物の重合反応を含めた多様な化学反応が起こることを基礎にした表面代謝説を基盤において、マントルから湧出する硫化水素や二酸化炭素、炭化水素などが流れている高温・高圧の地殻中をイメージしている。高温であるということは生成物の分解が早いであろうとして好ましくない環境であると考える仮説があるが、反応が早いため多くの組み合わせを試すことができる。作らなければ壊せもしないのである。樹形図の根本に生きる生物たちは、高温でも壊れない遺伝子を、そしてタンパク質を選抜して持っているではないか。ここで発生した生物が、熱水鉱床周りの生物圏を形成しただけでなく周囲の低温域に適応していったと考えるわけである。こう考えれば、後期重爆撃期の地表の激変やこれに伴う地殻変動などに対して余り影響を受けずに生き延びることができたであろうことは容易に推測できる。

 要するに、生物の構成原料となり得る簡単な分子類がかなり多量に存在する高温高圧下の地下領域において、多様な分子が作られたり分解されたりしながらその環境で存在しうる分子群が集積していく。集積した分子群がいかにして自己組織化し生物創生へと導かれたかについては分からないが、少なくとも何とかワールド仮説群のようなストーリーを辿ったのであろう。(パンスペルミア説と呼ばれる生物の起源を地球外に求める仮説があることは承知しているが、この説に従い地球に他天体の生物が到達した可能性を認めるにしても、最初の生物はどこで生じたかと云う問題は残るわけである。)

 さて、上の話がどこで過剰と蕩尽に関連するかと訝しく思いながら読んできたヒトもいるだろう。私だって、同感である。ただ云えることは、ある程度以上の化合物群の濃度がないと、反応そのものが起こらない。反応が起こらないことには、次のステップへ進みようがないのである。従って、生物が創生されたときの環境中には、かなり高濃度な原料分子群の存在があったに違いない。

 さらに、深海のブラックスモーカー周辺では、光合成に依存しない生態系が極めて高い生物生産性を持つことが知られている。ブラックスモーカー周辺で密集して棲息しているチューブワームと共生系を構築している共生細菌は、自らの生産物を体外に放出するのだがその体外がチューブワームの体内であり、チューブワームはその生産物で生きている。チューブワームは口も排出口も持っていない。つまり、この共生細菌(チオバクテリウム科に属する真性細菌)は、富栄養条件下に生命の維持に必要とする以上の生産物を生合成するだけでなく、これを外界に放出する蕩尽能力を持っている。チューブワームはこの菌が蕩尽した生合成産物に依存して生きているわけである。まるで、真核細胞と共生を始めた頃の、ATPを体外に放出する原ミトコンドリアを見ているような気がする。

 個人的な推測であるが、こうした真性細菌だけでなくブラックスモーカー生態系を構成する古細菌の仲間も、飽食条件下に(放出する分子が未知であるにしても)同じような蕩尽能力を有すると考えている。つまり、原生物はかなりな富栄養条件下に蕩尽能力を持って出現したと考える。そのような原生物から分岐した微生物群が、貧栄養条件にある周囲の岩石中や海洋中に分布を広げていくに際して、かなりな割合の菌群が蕩尽能力を失っていったのだろう。

 この仮説が成立するかどうかについては、ブラックスモーカー周辺から、生物系統樹の根っこに近い部分に位置する微生物を分離し、私の意図するような耐富栄養能力・蕩尽能力に有無について検討すればいいのだが、当分、この検討がなされることはないだろう。耐富栄養能力については、培地の浸透圧の問題に置き換えられる場合が多く、栄養分が多すぎるという話にはなりそうにない。さらに、蕩尽能力と云う概念は、残念ながら微生物学の中だけでなく現在の生物学のパラダイムの中に存在しないのである。存在しないものを研究テーマとする変人はなかなかいないだろう。

 段々、気違いブログと呼ばれそうな雰囲気になってきた。飽食と蕩尽 10 に続く

カテゴリー: 未分類 | 過剰と蕩尽 9 はコメントを受け付けていません

稲刈り完了

 台風被害の修復には一冬かかりそうだが、まあ何とか形はついた。数日前に稲刈りを行い、一昨日玄米を受け取った。天日干しにすれば、もっと旨い米になるかとは思うが、田んぼが湿田気味である。2週間近く晴れが続いたにもかかわらずぬかるむ場所があるため、体力的にとてもできる話ではない。

 今回は初めてコンバインに乗った。コンバインは、ハンドルの遊びが少なく切れが非常に鋭い。車よりも鋭敏に反応する。コンバインの動きに神経質に応答するのではなく、ゆったりとしたコース取りが求められるようだ。この点、田植機の動きにいくぶん似ている。稲作農家になって5年、農作業で使用する機械類を一応経験した。(畦塗り機はまだ未経験である)私より年上の方々が皆使っているのだから使えて当たり前だろうといわれれば、ごもっともだというしかないが、これでようやく半人前の稲作農家になった気がする。

スクリーンショット(2015-10-22 8.03.36)

 残りの半人前は、使った後の機械類の洗浄と整備である。泥濘の中で使った機械には想像以上の泥が付着する。高圧洗浄機で洗浄を試みるが、簡単な話ではない。トラクターを洗うのに2時間以上かかった経験を持つが、コンバインであればその2倍は優にかかりそうである。

 我が家の近くにJAではない民間のライスセンターがある。従って家の前の道路はこの季節に軽トラの通行量が激増する。取り入れたばかりの籾を積んだ軽トラと、脱穀・乾燥のすんだ玄米を満載した軽トラが交錯する。米作りでは利益は出ない、とても飯は食えないと云われて久しいけれど、取れたばかりの玄米を積んで走るおじさん、いやお爺さんたちの顔は生き生きと綻んでいる。

 穫り入れが終わり新米の販売を開始したわけだが、本人はまだ食べていない。古米が残っているからである。多分、あと数ヶ月は古米の生活が続く予定である。

カテゴリー: 未分類 | 稲刈り完了 はコメントを受け付けていません

書く気がしない

 近頃ブログを書く気がしなかった。原因は政治にある。何故あんな姑息な法案群が出てきたのか理解に苦しんでいる。この安全保障関連法案群に関しては、内容の是非を考える前に、あまりにも常識のない説明ばかりで嫌になっていたからだ。

 まず出だしが最悪だった。「紛争地から逃げようとする日本人(説明パネルは女性と子供)を乗せた米国船が、航行中に紛争相手国から攻撃を受けた場合、現行法ではこの米国船を自衛隊が守れないのは理不尽ではないか」という話から始まった。何とも情緒的なデマだなと思った。この時の表現は以下のようになっている。

「今や海外に住む日本人は150万人、さらに年間1,800万人の日本人が海外に出かけていく時代です。その場所で突然紛争が起こることも考えられます。そこから逃げようとする日本人を、同盟国であり、能力を有する米国が救助、輸送しているとき、日本近海で攻撃があるかもしれない。」

 まず、突然紛争が起こって、多数の日本人が逃げ惑うような状況が生まれるとしたら、これは外務省の極端な無能さを意味すると思うが、外務省の人間はこのパネルをどのような気持ちで見たのだろうか。税金で購われる外交予算を高級ワインに使うことを一概に否定はしないが、それはこうした事態を事前にキャッチするためのお金ではないのか。

 次に、「能力を有する米国が救助、輸送する」という文章をどう捉えるかの問題だ。「能力を有する」とは、どんな能力を意味するのか分からない。日本語としては稚拙であるが、内容を分からないようにするためには巧妙な表現であり、救助して輸送する船の所属を誤魔化しているように思える。紛争が起こっている中で救助能力を持つという意味であれば、軍事的能力を連想する。そうすると、そうした中で輸送を行うのは軍用艦船を意味している可能性が捨てきれない。しかし、軍事常識から言えば、これはまずあり得ない。軍の船には民間人は乗せない。紛争が起こった地域で、米軍が日本人を保護し、その艦船に乗せて脱出させてくれるなどあるはずがないではないか。だが、そのように聞き取った人が私の周りでも何人もいたのは事実である。

 さて、パネルにおいて日本に向かっている米国船が民間の船であるとして、突然起こった紛争後、日本近海にまで出撃して米国籍のこの船を攻撃する軍事力を持つ国とはどの国だろう。分からないのは、この紛争がどことどこの間で起こっていると想定しているかが全く分からない。さらにさらにだが、この船が米国船であれば、まず米国民を乗せ、イギリス人を乗せる。空きがあればフランス人とかイタリア人とかを乗せる。日本人の優先順位が、船1隻を占有する程高いなど夢物語であろうし、万一そうした事態が起こったにしても、近隣の安全と思われる港で下船させるに違いない。アレ、最も近い安全な港が日本にあるのかな?

 当初この法案群は、ホルムズ海峡での機雷を掃海することも1つのオプションとして提案されていたようだが(これは、後に安倍総理自らが否定した)、この想定も理解できなかった。ホルムズ海峡は確かにイランに面しているが、アラビア半島側はオマーンの領土である。湾岸戦争が行われたときに調べたのだが、ホルムズ海峡における国際航路はオマーン側を通っている。この航路に機雷を敷設するとすれば、イランとオマーンは戦争状態にあることを意味するだろう。イランは湾岸地域の安全保障を担っている湾岸協力会議諸国との軋轢を抱え込むことになる。まあ、後に総理自身が取り下げざるを得なくなった話とはいえ、余りにも当初の事態設定が杜撰すぎる。

 ひっくり返るほど驚いたのは後方支援の話しだった。安倍首相は党首討論で、「戦闘が起こった時は、ただちに(後方支援活動を)一時中止、あるいは退避することを明確に定めている」と、危険になったら現場の判断で直ちに撤退できると説明した。ゲームじゃあるまいし、そんな甘い判断で後方支援が出来るはずはない。後方支援部隊の撤退は、前線にいる兵員に武器・弾薬・食料が届かないことを意味する。場合によっては、前線にいる兵員を見殺しにすることさえ意味する場合もあるだろう。 もし前線にいる兵士が首相の言う友好国の兵士であった場合、安易な撤退行動はこの友好国との関係を破綻に導くと思うのだが。こう云うと、お前は死んでも兵站を維持しろというのかとお叱りを受ける場合がある。そうではない。参戦するという判断は、そうした場合もあり得ることを受け入れた上での「極めて極めて重たい判断」になると云っているのである。

 このブログでこんなことを書く気はなかったのだが、暗い気持ちでつい書いてしまった。田舎の桃源郷みたいなところで、気分よく暮らすのはやはり夢なのか?

カテゴリー: 未分類 | 書く気がしない はコメントを受け付けていません