訪問者 2

 前回の続きだが、ツマグロヒョウモンの雄の写真を撮った後、なんと私の庭にタテハモドキが飛来し遮光ネットに止まった。もう少し背景を考えてくれと云いたかったが、無理な話だろう。いくぶん羽の赤みが強い気がするが、タテハモドキであることは間違いないと思う。

スクリーンショット(2015-11-09 22.38.34)
遮光ネットに止まったタテハモドキ

 タテハモドキは南方系のチョウで、私が探鳥と探蝶にふけっていた頃は鹿児島であっても迷蝶扱いされていた。近年、分布を北に広げているという話は聞いていた。やはり南方系の蝶であるイシガケチョウもよく見かけるので、この蝶も定着しているのかも知れない。休耕田、作付けを止めてしまったた水田に生えるオギノツメが食草であるため、食べ物に困ることはないだろう。

 それにしても、命名という営為は難しい。モドキは擬きであり、偽物を意味する。大辞林に依れば、名詞の下について「そのものに似て非なるもの」を意味する。そして、そこはかとない非難の意味を含んでいることが多い。虫の命名においては‥‥モドキ、‥‥ダマシ、ニセ‥‥などの命名がなされるが、これらの修飾語が付いたから別のグループに属するムシと云うわけでもなさそうだ。

 タテハモドキもタテハチョウに似た他のグループに属するわけではなく、れっきとしたタテハチョウ科の一員である。では何故そんな名前がついたのか。タテハチョウは漢字で書くと立羽蝶であり、羽を立てて止まることに由来する。ところがこの蝶は羽を広げて止まることが多いのである。立羽蝶のくせに羽を開いて止まる、従ってタテハモドキと云うわけである。

 私の悪い癖であるが、タテハモドキは何故羽を開いて止まるのかと考えてしまう。この蝶、英語名はPeacock pansy、孔雀のような目玉模様を持つパンジーと云う。目玉模様が印象的であることが原因であろう。これを逆さまにしてみると、フクロウの目玉に見えないこともない。機能主義的に捉えれば、フクロウを恐れて捕食者が近寄らないから生存に有利だというストーリーになる。

スクリーンショット(2015-11-09 22.39.27)
先ほどの写真を180度回転したもの(フクロウチョウとは非すべきもないが、フクロウに見えないこともない)

 よくあるベーツ型擬態による説明である。しかし、フクロウの目玉に似るように進化したとは云っても、それはある程度の形ができてからの話で、目玉模様出現の理由にはならないだろう。

カテゴリー: 未分類 | 訪問者 2 はコメントを受け付けていません

ブヨ、ブト、ブユ

11/7

 数日前、11月とは思えないほど暖かかった。再来年の冬用の薪を集めるために、山に入った。出かけたのが3時過ぎで夕方近くまで木樵をしていたのだが、日が傾く頃から季節外れのブヨが出現した。九州ではブトあるいは(目)セセリと呼ぶ場合が多く、標準語ではブユと云うらしい。いまでは制服となった作業服を着ており、手に軍手ははめていた。夏場であれば首にはタオルを巻き、麦わら帽子に虫除けネットを付けてかぶっているのでやられることはないのだが、防備不十分な首筋を3カ所刺されてしまった。

 この虫、刺すのではなく皮膚をかみ切って吸血するので、刺されると云うより切られたと云った方が適切かも知れない。切られた直後は、気づかない程度の咬傷だが、1~2日後には強烈なかゆみとともにパンパンに腫れ上がる。2日後からは頭痛まで出た。たかがブヨに食われたくらいでと医者には行かず1日寝ていたら、今日は何とか回復したようだ。

 とはいえ今日は、山に土地を持っている人たち総出での道路整備である。参加しないわけにはいかない、連続してやられるのはいやなので、完全防備をして出かけた。この判断は正しかったようだ。季節外れの生暖かく湿った微風に乗って、多数のブヨが出現した。皆さん、手で追い払いながら作業をしていたが、何人かのヒトが噛まれたらしい。月曜日は皮膚科の患者が増えるかも知れない。

カテゴリー: 未分類 | ブヨ、ブト、ブユ はコメントを受け付けていません

訪問者 1

 野菜畑を200坪ほど維持している。たかが200坪と思っていたが思った以上に大変である。今年は異常に雨が少なく雑草の生長が遅いので、何とかコントロールできている。ダイコン、山東菜、カラシナ、ワサビ菜、ターサイ、タマネギ、ジャンボニンニクなどを植えているのだが、この畑には4~5匹のモンシロチョウがいつも舞っている。従って、何もしなければ穴だらけの野菜になってしまう。

スクリーンショット(2015-11-05 18.26.29)

 世の中では農薬の評判は良くないが、様子を見ながらBt剤を使っている。Bt剤とは鱗翅目昆虫だけに病原性を持つ細菌とその毒素蛋白を製剤化したもので、ヒトやその他の生物に対する毒性が極めて低い生物農薬である。この農薬を使用しても、有機栽培の野菜として出荷できる。こんな事を書くと、怒り始めるヒトがいて困るのだが、朝から日没までチョウを追い続けるわけにもいかない。他にもすることは沢山あるのです。

 この畑にはモンシロチョウだけではなく、スジグロシロチョウあるいはヤマトスジグロシロチョウモ飛来する。(昔はエゾスジグロシロチョウと呼ばれていたものが、北海道の中部から東部に分布するエゾスジグロシロチョウと北海道西部から九州中部に棲息するヤマトスジグロシロチョウに分類された)

スクリーンショット(2015-11-05 0.18.52)
多分、スジグロシロチョウ

 この2種類のチョウは、区別が難しい。ダイコンに興味を示す様子から判断するとスジグロシロチョウのように思えるが、サイズから見るとヤマトスジグロシロチョウのようにも思える。スジグロシロチョウの仲間の雄は、発香鱗と呼ばれる鱗粉を持ちレモンに似た香りを発している。35年ほど昔の話だが、当時はスジグロシロチョウ、エゾスジグロシロチョウと分類されていた2種のチョウを捕え、発香鱗の部分をエーテル抽出してガスクロで分析したことがある。もはや記憶が曖昧で断言はできないが、香気成分であるゲラニアールとネラールの比率に差があったと記憶している。但し、基本となる分類が正確であったかどうかの検証できなかったため、残念ながらこの比率の差が、個体差である可能性を排除できなかったし、食草由来である可能性も残った。さらに、この2つの化合物はEZ異性体であるため、光で異性化する可能性も捨てきれない。とすれば、チョウの生存期間と異性体比の変化も見なければならないだろう。

スクリーンショット(2015-11-05 0.39.16)

 この畑にはヒョウモンチョウもよくやってくる。ヒョウモンチョウの仲間も素人には区別が難しい。写真を撮って見たのだが、多分ツマグロヒョウモンの雄であると思っている。ホトケノザの花から吸蜜していた。

スクリーンショット(2015-11-05 0.19.42)
ホトケノザで吸蜜中のツマグロヒョウモンの雄
カテゴリー: 未分類 | 訪問者 1 はコメントを受け付けていません

過剰と蕩尽 10

 いくぶん焦りすぎた感のある前回の投稿であった。論理的な穴が散見されるし、文章のつながりも悪い。甚だ不満だが、それもまた私の実力であろう。取り敢えず、何が言いたかったのかを少しだけ整理してみよう。

1) 生物の創生は、生物が利用できる地球科学的に存在する物質群が高濃度にある領域で起こったと考える。生物を構成する成分の生物が関与しない合成と濃縮が十分な速度で起こるためには、高温・高圧下であることが望ましく、この条件を満たすのはかなり深い地殻中で(10 Km以内をイメージしている)マントルからの物質供給ある領域であると考える。

2) かなり深い地殻中であると考えれば、地表で起こった地質学的大変動の影響は殆ど受けなかったに違いない。

3) 地球科学的に生産され生物が利用できる物質群が高濃度にある領域で発生した原初の生物には、飽食の条件下に生存していたが故に、生きていくために過剰な生産物を外界に捨てる能力(蕩尽能力)が不可欠であった。

4) 原初の生物が貧栄養条件の領域へと分布を広げていくに際して、一部の生物はこの捨てる能力(蕩尽能力)を失っていった。

5) 我々が常温と思っている温度は、我々がそう思っているにすぎない。好熱性の生物にとっては高温が常温であり、好冷性の生物にとって低温が常温である。

 「生命の起源」に関しては、多くの著作を読んだし報告も読んだ。いまもある程度のフォローはしているつもりである。(生命は生物の属性であって、生命だけが独立して発生することはない。従って、「生物の起源」とするのが正しいと云う批判はもっともだと思う。このブログの中で私も生命という言葉は控えているつもりだ。しかし、Life scienceが生命科学と翻訳された時点からこの流れは始まっており、いま異論を唱えても多分無駄だろう。生物科学より生命科学の方が、語感がきれいでスマートに響くからだ。但し、本来のLife scienceが持っていた生活科学の領域は、日本の生命科学からはほぼ抜け落ちている。)

 それはそうとして、1)と2)は過去の研究者の説をなぞったと云ってもよく、大した新規性は無い。新奇性を持つ推論は3)で示した内容で、原生物には蕩尽能力が不可欠であったとする推論だろう。相手は生物であるので、3)が成立すれば4)の成立は当然のこととなる。5)はマンハイムの言をまつまでもなく言わずもがなの内容である。

 さて、先にも云ったように、生命と生物とのなんとも云えない混用が起こっているが、世間では生命の方が優勢のようだ。とはいえ、少し注意して読んでみると生命は生物に依存し、生物は生命に依存する循環論法的定義になっている様に感じている。ウィキペディアで記載してある分量を見ると、生物の項より生命の項がはるかに分量が多い。ああ、また少数派か。だが生物に対比される用語「無生物」は存在するが、生命に対して「無生命」と云う用語は存在しない。生物図鑑はあるが生命図鑑はない、原生生物・微生物などに対応する原生生命・微生命も存在しない。これらの使い分けを見ると生物はものであり、生命は現象に近いようだ。私は生物が基本で、生物の持つ属性を生命と考えている。

 ところがである、私も時としてお世話になったDDBJ(DNA data bank of Japan)のサイトにおいては、無生命という用語が使われている。DDBJのホームから利用の手引きに入り遺伝子とゲノムというペ−ジにはいると、「生命と無生命のちがい」という項目が存在している。ちょっと引用したい。

生命と無生命

 《生きているってどんな意味があるんだろう?ここでは,このような哲学的質問に答えることはできませんが,「生きている」,生命を持っているというのはどういうことなのか,生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。物質というからには,生命を持たない物質と本質的に違っているわけではありません。そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。》

 私はこの文章に対して漠とした違和感を感じるのだが、読者各位はどのように思われるのだろうか。前半の決めつけ〜「生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。」〜の部分だが、私には答えが出ているとは思えない。こんなにすっきりと言い切れる感覚は私にはない。さらに、タイトルが「生命」としているにもかかわらず、主語が「生き物」に入れ代わっている。ペ−ジの後ろの部分で生物が生き物の意味で使われていることをみれば、どうやら「生命」と「生き物」と「生物」が完全に重なる概念であることが前提にありそうだ。

 次の文章〜《生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。》〜においても、生命とは物質であると事もなげに記述されている。生物には入れものすなわち細胞が必要だなどとクレームを付ける以前に、このさばさばとした筆致に憧憬さえ感じるほどだ。アリストテレスが云うところのプシュケー、あるいはプラトンが云うところのイデアなどを疑いもなく信じているわけではないし、旧来の生気論に立つつもりもない。ただ、この歳になると生命すなわち物質であるとためらいも無く断ずるには、些か心理的な抵抗がある。

 要するにこの文章は、《そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。》とする最後の文章に話を振るための前振りであることは理解するが、ちょっと急ぎすぎたのではないだろうか。もう一つ付け加えるとすれば、読者の位置づけが分かり難い。少なくとも、DDBJを使いこなす人が対象ではないだろう。たまたま迷い込んできた高校生あるいは大学の1〜2年生程度をイメージした文章に思える。(英語版にはこのページは存在しない)

 それはさておき、生物あるいは生命とは何かと正面から問われると、多くのヒトは口ごもってしまうようだ。余り細かいことは云わず伝統的な立場から定義をするとすれば、代謝を行う・遺伝と生殖能力を持つ・外界と区画される細胞を持つものとなるだろう。私は、上記の項に付け加えて、生物にとって有用であれ不要であれ、過剰なモノ(熱を含む)の蕩尽能力を必須な属性としたわけだ。ウィキペディアの生物の項には「不要な物質を外に捨てる」とする記述があり、生命の項にも「老廃物の排泄」という記述がある。これらに比べると、私の捨てるという認識はより積極的な廃棄を意味しているため、これを「蕩尽能力」として定義したわけである。では「蕩尽能力」を持たざるを得なかった生物は、どのような進化を辿ったのか?

過剰と蕩尽 11 に続く

カテゴリー: 未分類 | 過剰と蕩尽 10 はコメントを受け付けていません

筑水キャニコム

筑水キャニコム(http://www.canycom.jp/)

 先日、TVQ(テレビ東京系列)の番組「カンブリア宮殿」で、件の会社「筑水キャニコム」についての放送があった。20年近く、テレビの放送は殆ど見ていないのだが、この放送はたまたま見る機会があり最後まで楽しんでみてしまった。この会社の機械類、そのネーミングのなんとも云えないこじつけが魅力的である。いくつか例を挙げるが、キャタピラ式の運搬車で人も乗れるタイプの「ヒラリー」、大型の草刈機「ブッシュカッタージョージ」、三輪駆動の電動自転車「三輪駆動静香」、マルチ電動カート「ついてくるか〜い」、ホイール運搬車「こまわりくん」など、人名や機能をもじっているようでありながら、その特徴もそこはかとなく伝えている。機械を見て、機能の説明を受けて、名前を聞いて、思わず笑ってしまうだけでなく、覚えてしまう点で、このネーミングは成功していると云えるだろう。

 じつは私もこの会社の乗用モア(乗用草刈車)を使っている。この会社が作っている草刈機は大きく分けると3種類に分けられるようだ。1つが男シリーズと呼ばれるもので、草刈機を人が押して動くタイプのものである。ここにも駄洒落の効いた名を持つ「男前刈清」が存在する。乗用タイプの草刈機には「Hey まさお」と名付けられているが、草刈(機)まさおの捩りとともに、Hey とHayが暗喩として使われているようだ。

 別にこの会社の宣伝のために書いているわけではないが、草刈機まさおに乗ったときにはじめて農業機械の機能のすばらしさを知った。クラッチなしで前進と後進の切り替えがスムースにできることに驚いた。速度の切り替え、草刈の高さ、刈り刃の駆動、デフロックなどの機能が、軽トラックの荷台に収まる小さなボディーに装備されていたのである。かつ、クラッチがニュートラルで刈り刃の駆動がオフになっていないと、エンジンが掛からない。安全性への考慮も十分になされていた。私のマシンはいくぶん古いタイプのものである。輸出仕様のマシンであるらしくオイルクーラーまで完備しているらしい。時には掃除をしようと思いながらもそのまま酷使を続けているが、ありがたいことに、泥まみれ、草まみれになっても何の異常もなく動いてくれる。

カテゴリー: 未分類 | 筑水キャニコム はコメントを受け付けていません