いくぶん焦りすぎた感のある前回の投稿であった。論理的な穴が散見されるし、文章のつながりも悪い。甚だ不満だが、それもまた私の実力であろう。取り敢えず、何が言いたかったのかを少しだけ整理してみよう。
1) 生物の創生は、生物が利用できる地球科学的に存在する物質群が高濃度にある領域で起こったと考える。生物を構成する成分の生物が関与しない合成と濃縮が十分な速度で起こるためには、高温・高圧下であることが望ましく、この条件を満たすのはかなり深い地殻中で(10 Km以内をイメージしている)マントルからの物質供給ある領域であると考える。
2) かなり深い地殻中であると考えれば、地表で起こった地質学的大変動の影響は殆ど受けなかったに違いない。
3) 地球科学的に生産され生物が利用できる物質群が高濃度にある領域で発生した原初の生物には、飽食の条件下に生存していたが故に、生きていくために過剰な生産物を外界に捨てる能力(蕩尽能力)が不可欠であった。
4) 原初の生物が貧栄養条件の領域へと分布を広げていくに際して、一部の生物はこの捨てる能力(蕩尽能力)を失っていった。
5) 我々が常温と思っている温度は、我々がそう思っているにすぎない。好熱性の生物にとっては高温が常温であり、好冷性の生物にとって低温が常温である。
「生命の起源」に関しては、多くの著作を読んだし報告も読んだ。いまもある程度のフォローはしているつもりである。(生命は生物の属性であって、生命だけが独立して発生することはない。従って、「生物の起源」とするのが正しいと云う批判はもっともだと思う。このブログの中で私も生命という言葉は控えているつもりだ。しかし、Life scienceが生命科学と翻訳された時点からこの流れは始まっており、いま異論を唱えても多分無駄だろう。生物科学より生命科学の方が、語感がきれいでスマートに響くからだ。但し、本来のLife scienceが持っていた生活科学の領域は、日本の生命科学からはほぼ抜け落ちている。)
それはそうとして、1)と2)は過去の研究者の説をなぞったと云ってもよく、大した新規性は無い。新奇性を持つ推論は3)で示した内容で、原生物には蕩尽能力が不可欠であったとする推論だろう。相手は生物であるので、3)が成立すれば4)の成立は当然のこととなる。5)はマンハイムの言をまつまでもなく言わずもがなの内容である。
さて、先にも云ったように、生命と生物とのなんとも云えない混用が起こっているが、世間では生命の方が優勢のようだ。とはいえ、少し注意して読んでみると生命は生物に依存し、生物は生命に依存する循環論法的定義になっている様に感じている。ウィキペディアで記載してある分量を見ると、生物の項より生命の項がはるかに分量が多い。ああ、また少数派か。だが生物に対比される用語「無生物」は存在するが、生命に対して「無生命」と云う用語は存在しない。生物図鑑はあるが生命図鑑はない、原生生物・微生物などに対応する原生生命・微生命も存在しない。これらの使い分けを見ると生物はものであり、生命は現象に近いようだ。私は生物が基本で、生物の持つ属性を生命と考えている。
ところがである、私も時としてお世話になったDDBJ(DNA data bank of Japan)のサイトにおいては、無生命という用語が使われている。DDBJのホームから利用の手引きに入り遺伝子とゲノムというペ−ジにはいると、「生命と無生命のちがい」という項目が存在している。ちょっと引用したい。
生命と無生命
《生きているってどんな意味があるんだろう?ここでは,このような哲学的質問に答えることはできませんが,「生きている」,生命を持っているというのはどういうことなのか,生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。物質というからには,生命を持たない物質と本質的に違っているわけではありません。そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。》
私はこの文章に対して漠とした違和感を感じるのだが、読者各位はどのように思われるのだろうか。前半の決めつけ〜「生き物は水や石とはどう違うのか,どこが同じなのか,については昔から多くの人が考えてきて,すでに答えは出ています。」〜の部分だが、私には答えが出ているとは思えない。こんなにすっきりと言い切れる感覚は私にはない。さらに、タイトルが「生命」としているにもかかわらず、主語が「生き物」に入れ代わっている。ペ−ジの後ろの部分で生物が生き物の意味で使われていることをみれば、どうやら「生命」と「生き物」と「生物」が完全に重なる概念であることが前提にありそうだ。
次の文章〜《生命とは,「自己複製」と「物質交代」をする物質です。》〜においても、生命とは物質であると事もなげに記述されている。生物には入れものすなわち細胞が必要だなどとクレームを付ける以前に、このさばさばとした筆致に憧憬さえ感じるほどだ。アリストテレスが云うところのプシュケー、あるいはプラトンが云うところのイデアなどを疑いもなく信じているわけではないし、旧来の生気論に立つつもりもない。ただ、この歳になると生命すなわち物質であるとためらいも無く断ずるには、些か心理的な抵抗がある。
要するにこの文章は、《そして,生命の本質である「自己複製」と「物質交代」の中心にゲノムがあり,遺伝子があるのです。》とする最後の文章に話を振るための前振りであることは理解するが、ちょっと急ぎすぎたのではないだろうか。もう一つ付け加えるとすれば、読者の位置づけが分かり難い。少なくとも、DDBJを使いこなす人が対象ではないだろう。たまたま迷い込んできた高校生あるいは大学の1〜2年生程度をイメージした文章に思える。(英語版にはこのページは存在しない)
それはさておき、生物あるいは生命とは何かと正面から問われると、多くのヒトは口ごもってしまうようだ。余り細かいことは云わず伝統的な立場から定義をするとすれば、代謝を行う・遺伝と生殖能力を持つ・外界と区画される細胞を持つものとなるだろう。私は、上記の項に付け加えて、生物にとって有用であれ不要であれ、過剰なモノ(熱を含む)の蕩尽能力を必須な属性としたわけだ。ウィキペディアの生物の項には「不要な物質を外に捨てる」とする記述があり、生命の項にも「老廃物の排泄」という記述がある。これらに比べると、私の捨てるという認識はより積極的な廃棄を意味しているため、これを「蕩尽能力」として定義したわけである。では「蕩尽能力」を持たざるを得なかった生物は、どのような進化を辿ったのか?
過剰と蕩尽 11 に続く