紅葉良媒

 柿の話が続いているが、未だもって柿の重荷を背負っている。昨日も9コンテナほど採ったが、まだ未収穫の4本の木が残っている。あと数日もすれば、鳥のエサになるだろう。渋柿の処理もまだである。今年は暖かいせいかコバエが異常に多い。前回つくったつるし柿に群れをなして止まっている。数匹のハエなら我慢もするが、ここまで群れられるとさすがに食べる気がしない。もちろん売るなんて事はしません。穴を掘って埋めました。

 現物としての柿の圧力は横に置くとして、夕日に映える柿は本当に美しい。有田の陶工、初代酒井田柿右衛門が、夕日に輝く柿の実の色に魅せられ、この色を出すために努力を重ねたと云う物語は、私より少し上の世代であれば皆知っているだろう。国定教科書に載っていた陶工柿右衛門の物語である。

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 とはいえ、余り知られていないのが柿紅葉である。柿の実よりももっと赤い。場合によっては、ハゼよりも赤いのではないかと思える程である。

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 品種によって赤さに差があるため、すべてのカキ畑が紅葉色に染まるわけではないのが少し残念だが、観るに値する場所が何カ所も存在する。

     柿紅葉 山ふところを 染めなせり・・・・・虚子

     柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺・・・・・子規

 アララギ派の歌人たちは柿が好きだったのかな?

 うきは市の商工・観光課の方が見ておられればと思うが、1つの提案である。奈良では紅葉した柿の葉を名物として売り出している。こんな商品開発に手を貸せと云われれば、すぐにでもお手伝いするのだが。

     (http://www.otakaki.co.jp/topics/mahoroba.html)

 さて、

  いかにして 柿の紅葉を ながしけん

           その水ぐきの かくれなきよに

                 ・・・・・・ (六華和歌集、室町)

 紅葉良媒、すなわち紅葉に想いを綴って流せば恋が成就するという室町時代の風習を基に、観光の振興を図ってはいかがでしょう。水神社など最高の舞台と思いますが。

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快適環境

 カキの話の続きである。朝9時頃から収穫して、夜の10時頃まで選別、袋詰めをしていると、「過剰と蕩尽」のブログ書きが疎かになってしまう。これは、少しばかりの余裕がないと思考が中断して書くのが難しい。この連休には12をアップする予定である。

 4日前、九大のY君が手伝いに来てくれた。3日前には、研究室で同期だったやはりY君が手伝ってくれた。二人の援助で、ノルマであった31コンテナの出荷が終わったと安心していたら、昨日追加の注文があったという。身体不良老人にはちょっと過重なノルマを果たすため、折からの雨を無視して収穫を続けていたのだが、まだ不足と云うことで今日も朝から柿ちぎりである。天気は最悪の土砂降りである。レインコートに長靴、ゴム手袋にゴーグルをはめるという完全装備での収穫、ゴーグルにワイパーが必要であると痛感した。Sさん曰く、「こげな日に柿を採ったのは初めて」。なんだ、ワイパーは不要か。

 Sさんとは別人のSさんが(S’さんとしておく)、雨の日には柿は採ったらいかんと教えてくれた。雨の日に収穫したカキは、濡れたヘタがすぐに黒くなってしまうと云う。下手をするとすぐに商品価値がなくなるという。とはいっても、採ったものはどうしようもない。S’さんにどうしたら良いかと聞いたら、拭いて水分を除けばいいという。試しにタオルで拭いてみると2、3個なら問題ないが、数が増えるとタオルが濡れてしまう。つまり水分を拭き取っているのか濡らしているのか分からなくなる。

 仕方なく贅沢な方法を採った。薪ストーブを点け、除湿設定でエアコンをつけ、扇風機で風を送った。

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柿に占領される居間 後ろのコンテナも柿

 柿にとっては快適な環境かも知れないが、折角の居間を占領された人間はいくぶん納得がいかない。さらに、柿のヘタの下には蜘蛛が潜んでいる。今年はカメムシが少なく9月の殺虫剤の散布をパスしたため、イラガと蜘蛛の数は例年よりはるかに多い。この蜘蛛たちが作業の段階で逃げ出し、部屋の中に散って行く。作業場を持たない新米の農家は、蜘蛛の巣の下で明日の朝を迎えるしかない。

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喜ぶべきか?

 突然来客があった。近所でちょっとだけ変わった商売をしているSさんである。変わった商売といっても立派な農家で、出荷先が他の方とはちょっと違うようだと云うだけである。(これも正しいかどうかまだ不明・感想にすぎない)そのSさんが朝7時過ぎに現れて、私のカキ畑の柿を出荷して欲しいという。何となく分からない。周りのカキ畑には3L、4L サイズの立派な柿がいくらでもなっている。皆、市場に出しているのだから、それを分けてもらえば済むことだと思った。3月までは仕事をしていたと云えば言い訳になるが、摘果不十分でいくぶん小振りである。いや、いくぶん小振りであるというのは誉めすぎで、貧弱であると云った方がいいかもしれない。世の中、3L、2L、L、M、Sと云うサイズがあるが、我が柿園の柿はMが殆どである。余所ではまず見られないS、SSサイズの柿もたくさんある。すくなくとも、世の中には大きすぎる柿ではなくMまたは大きめのSサイズの柿が欲しいと指定してくる業者さんがいるらしい。

 SM指定(?)で来た注文だと云われても、何処か引っかかる。この柿ね、あんたの畑で採ってきた柿やけど、このサイズがいいんですとニコニコされても、お前の栽培は下手だと云われているような、・・・??と云うニヤニヤしながらの交渉で、4個で750~850グラムの柿を出荷することになった。

 そう云うわけで、午後から1本の木に実っている果実を全部ちぎった。コンテナ6個が満杯になった。これを分別し、出荷用の袋に詰め、シール作業が終わったのは午後8時を過ぎていた。

 出荷できないサイズの柿がコンテナで2個分以上残った。明日の作業を考えると勿体ないとは思うが、中身は捨てるしかない。これを捨てたらイノシシにエサをやるようなものだと思うのだが、師匠の意見は違っていた。この季節、イノシシにとって柿は食べ放題である。そげな質の悪い柿は食わん。私、出荷できない、イノシシも食わない柿を毎日食べているらしい。

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過剰と蕩尽 11 

 ダーウインが彼の進化論を構築するに当たって、公理のように扱った2つの事実がある。

  (1) 同じ種に属する個体でも、必ず個体差が存在する。

  (2) その種の維持保存に必要以上の子孫を残す。

 (1)は優れた個体が生き残るとする適者生存という概念が成立するための条件であり、(2)が個体差を持つ多数のcandidateの存在を担保する構造になっている。彼の進化論は、生物が種の維持保存に必要以上の子孫を残すことを自明のこととして提出されているわけだ。そしてこの第2項、必要以上の子孫を残す事を自明の条件として扱うことに対して異論を唱えたヒトはいないようだ。

 ヒトであっても昔は10人を超える子供を持つことは不思議でなかった。白色レグホンは年に300個以上の産卵をする。もっとも、ニワトリの原種と云われる赤色野鶏は年20個程度の産卵数だそうだ。先日写真を載せたスジグロシロチョウでは雌1頭で300個から400個産卵するという。魚類ではもっと多く、サバでは小型の成魚(30 cmほど)で30万個、40 cmにもなると100万個近い卵を産む。寿命は10年ほどだという。ざっと計算して一生の産卵数は500万個を超えるかも知れない。上には上があるもので、マンボウの成魚は一度に3億個の卵を産むと云われている。ただ、原報(Schmidt J (1921) New studies of sun-fishes made during the‘‘Dana’’ Expedition. Nature 107:76–79)は読んでいないが関連する報告を当たってみると、135 cmの雌のマンボウが3億個の卵を持っていると推定されたという書き方になっている。マンボウの大きな個体は3 mを越え、体重も2トンを越える。この時何個の卵を持つかは推定できない。このような事実を見ている我々としては、「その種の維持保存に必要以上の子孫を残す。」という事を公理として捉えても不思議はない。

 いまひとつ、生長をどう捉えるかという問題が存在する。もちろん生長は必要であり、生長という現象を抜きにして生殖を続けることはできない。だが、そこまで生長する必要があるのかと思う場面に遭遇しないだろうか。またもや例えばだが、私が植物の生長力に疑問を持ったのは、カボチャ、それもジャイアントカボチャのコンテストを見たときだった。今年の朝日新聞の写真を使おうと思ったが、無断転載禁止とあったので http://www.asahi.com/articles/photo/AS20150921001227.html を参照して下さい。

 今年の日本一のカボチャの重量は561 Kgであったそうだ。世界に目を向けるとこれで驚いてはいけない。米カリフォルニア州ハーフムーンベイで行われた世界カボチャ重量選手権では、オレゴン州出身のスティーズ・ダレタス氏が栽培した1969ポンド(約893 Kg)の巨大カボチャが優勝した。http://www.xinhuaxia.jp/social/82681参照 だがこれで驚いてもいけない。2014年にはスイス人農民が栽培したカボチャは1054 Kgであったという。正直な話、カボチャの実とは何であるのかと考えた。これらの巨大カボチャの種であっても普通のカボチャの種と殆ど違わない。では何故このように巨大になるのか。ジベレリンが、オーキシンが、ブラシノライドが働いて・・・・・などという品種に特有な植物生理学的説明ではなく、大きくなる意義が分からなかったのである。

 いまになって、幾分かの理解ができたと思っている。先に述べたように、生物とは過剰の生産能力を持って創生したものである。生長とか増殖とか生殖とか云う現象は、ある生物が生きていく上で必要な量以上の生産をしていることに立脚している。生物が生長し増殖し生殖を行うのは当たり前ではないかと思われるかも知れないが、そうではない。生物が過剰な生産能力を持つという事実がそれらの現象を可能にしているのである。原初の生物においても、子孫を残すことが欠かすことのできない営為であった事は否定できない。彼等は、自らの生を維持するだけでなく、次世代の体を構成するに必要な物質群を作ったのである。この生物の生存と増殖と生殖を担保する生産能力は、当たり前のこととして等閑視されているが、生物にとって不可欠な能力である。そして、この余剰の物質群を作るという生物の属性は、彼等が飽食の条件下に発生したことに由来するのであろう。

 生物を語るときに、生物の持つ、生存を含め種の維持に必要と思われる以上の生産能力を自明のものとして論を立てるのか、何故そのような能力を持つのかという立場から論を立てるのかによって、かなり大きな隔たりが生まれてくるに違いない。もちろん私は、後者の立ち位置にいる。

過剰と蕩尽 12 に続く

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本格派農民

11/9

 今日は久しぶりの本格的な雨である。この雨が上がれば気温は下がるかも知れないが、雑草とともに冬野菜が一気に生長するだろう。農作業ができないこと理由に少しだけ朝寝をして、その後は銀行と郵便局を回ってきた。何でこんなに払うものが多いのかと、頭を抱えながら年金額と比べている。まあ何度も依願退職を繰り返したあげく、定年まで8年も残して辞めたのだから仕方がない。

 先日から畑作の規模を大きくしたのでとても食べきれない量の野菜が取れるようになった。毎食が菜っぱづくしで青虫の気分である。我が家を訪れる友人やあちこちの知人に配っていたのだが、それでも余ってしまう。仕方なく、一旦湯がいて冷凍保存していたが、冷凍庫も満杯になってしまった。いや、贅沢な悩みである。

 我が家から歩いて5分ほどのところに道の駅がある。今日は余った菜っ葉類を販売しようと、道の駅に出向き販売者登録の申し込みをしてきた。使った肥料代でも回収できればと考えている。先月は、減反故に植えていたダイズの販売代金は農協の口座にしか振り込めないと云われ、農協の組合員になった。農協の組合員になり道の駅の販売者になれば、収入はないにしても形だけは立派な農家である。消費者ではなく生産者である。

 生産者になると見る目が変わる。これはぼったくりだろうと思える値付けがないわけではないが、これでは生産者が可哀想だな感じるケースの方がはるかに多い。さらに残念なのは、ただただ安いものを求めるだけの人が結構目に付くことである。車で道の駅の入り口まで乗り付け、周りの風景1つ見ないで、これは安い、これは安くないという言葉とともに、安いものだけを買って帰る。そんな人生寂しくないか。

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