ダーウインが彼の進化論を構築するに当たって、公理のように扱った2つの事実がある。
(1) 同じ種に属する個体でも、必ず個体差が存在する。
(2) その種の維持保存に必要以上の子孫を残す。
(1)は優れた個体が生き残るとする適者生存という概念が成立するための条件であり、(2)が個体差を持つ多数のcandidateの存在を担保する構造になっている。彼の進化論は、生物が種の維持保存に必要以上の子孫を残すことを自明のこととして提出されているわけだ。そしてこの第2項、必要以上の子孫を残す事を自明の条件として扱うことに対して異論を唱えたヒトはいないようだ。
ヒトであっても昔は10人を超える子供を持つことは不思議でなかった。白色レグホンは年に300個以上の産卵をする。もっとも、ニワトリの原種と云われる赤色野鶏は年20個程度の産卵数だそうだ。先日写真を載せたスジグロシロチョウでは雌1頭で300個から400個産卵するという。魚類ではもっと多く、サバでは小型の成魚(30 cmほど)で30万個、40 cmにもなると100万個近い卵を産む。寿命は10年ほどだという。ざっと計算して一生の産卵数は500万個を超えるかも知れない。上には上があるもので、マンボウの成魚は一度に3億個の卵を産むと云われている。ただ、原報(Schmidt J (1921) New studies of sun-fishes made during the‘‘Dana’’ Expedition. Nature 107:76–79)は読んでいないが関連する報告を当たってみると、135 cmの雌のマンボウが3億個の卵を持っていると推定されたという書き方になっている。マンボウの大きな個体は3 mを越え、体重も2トンを越える。この時何個の卵を持つかは推定できない。このような事実を見ている我々としては、「その種の維持保存に必要以上の子孫を残す。」という事を公理として捉えても不思議はない。
いまひとつ、生長をどう捉えるかという問題が存在する。もちろん生長は必要であり、生長という現象を抜きにして生殖を続けることはできない。だが、そこまで生長する必要があるのかと思う場面に遭遇しないだろうか。またもや例えばだが、私が植物の生長力に疑問を持ったのは、カボチャ、それもジャイアントカボチャのコンテストを見たときだった。今年の朝日新聞の写真を使おうと思ったが、無断転載禁止とあったので http://www.asahi.com/articles/photo/AS20150921001227.html を参照して下さい。
今年の日本一のカボチャの重量は561 Kgであったそうだ。世界に目を向けるとこれで驚いてはいけない。米カリフォルニア州ハーフムーンベイで行われた世界カボチャ重量選手権では、オレゴン州出身のスティーズ・ダレタス氏が栽培した1969ポンド(約893 Kg)の巨大カボチャが優勝した。http://www.xinhuaxia.jp/social/82681参照 だがこれで驚いてもいけない。2014年にはスイス人農民が栽培したカボチャは1054 Kgであったという。正直な話、カボチャの実とは何であるのかと考えた。これらの巨大カボチャの種であっても普通のカボチャの種と殆ど違わない。では何故このように巨大になるのか。ジベレリンが、オーキシンが、ブラシノライドが働いて・・・・・などという品種に特有な植物生理学的説明ではなく、大きくなる意義が分からなかったのである。
いまになって、幾分かの理解ができたと思っている。先に述べたように、生物とは過剰の生産能力を持って創生したものである。生長とか増殖とか生殖とか云う現象は、ある生物が生きていく上で必要な量以上の生産をしていることに立脚している。生物が生長し増殖し生殖を行うのは当たり前ではないかと思われるかも知れないが、そうではない。生物が過剰な生産能力を持つという事実がそれらの現象を可能にしているのである。原初の生物においても、子孫を残すことが欠かすことのできない営為であった事は否定できない。彼等は、自らの生を維持するだけでなく、次世代の体を構成するに必要な物質群を作ったのである。この生物の生存と増殖と生殖を担保する生産能力は、当たり前のこととして等閑視されているが、生物にとって不可欠な能力である。そして、この余剰の物質群を作るという生物の属性は、彼等が飽食の条件下に発生したことに由来するのであろう。
生物を語るときに、生物の持つ、生存を含め種の維持に必要と思われる以上の生産能力を自明のものとして論を立てるのか、何故そのような能力を持つのかという立場から論を立てるのかによって、かなり大きな隔たりが生まれてくるに違いない。もちろん私は、後者の立ち位置にいる。
過剰と蕩尽 12 に続く