日本ミツバチ

 転倒事故から六日目、幾分痛みは引いた。体重をかけることはできないが、ビッコを引きながら歩くことは何とか可能になった。この時期、椎茸の原木や法面の雑木の伐採、果樹の剪定など、仕事は目白押しの状態にあるので気分は焦っているのだが、いまの状態で急斜面に踏み込むのは自殺行為である。自重している。

 午後から回復の遅さが気になって整形外科に行った。さすがはプロである。ここでしょうなどと言いながら、痛いポイントを押さえてくる。まあとにかくレントゲンをということでX線写真を撮った。現在のX線写真の撮影装置はすごく進歩した。即座に解像度の良い画像が現れる。その画像を見ながら、折れてはいないようですね、でも靱帯は傷ついていると思われるのでまあ最低で3ヶ月くらいはかかるでしょう。いや、冗談ではない。3月かかったらすぐ4月ではないか。農作業は待ってくれない。そこを何とかとお願いしたら、足首用のサポーターを処方してくれた。確かに、装着すると楽である。これはいいやと思ったら、無理はしないようにと釘を刺された。素直なもので、すぐに顔に出るらしい。今年もまた剪定は控えめになってしまいそうである。

 先日、日々観察などと偉そうななことを書いたが、観察が不足していた。作業をするには足の回復が不十分である。仕方なく覚束ない足取りで畑を見回ったのだが、そこで気がついた。菜の花に集まるミツバチの半数くらいが、何となく黒いのである。

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中央の飛翔中のハチが西洋ミツバチ
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日本ミツバチではなく多分ハナアブの仲間?

 日焼けしているわけでもあるまいにと、近づいてみるといわゆる西洋ミツバチとは違う。ちょっと小振りで黒みが強く、黄色の縞模様がシッポの方までクッキリしている。これは日本ミツバチではないか。いやいや楽しみが増えた。分蜂の季節までには、是非巣箱を用意しよう。金陵辺を買って植えよう。

追記

 今日、改めて見ていたのだが、何処か雰囲気が違う気がする。飛び方も違うし飛翔音も違う。吸蜜するときの口器も違う。ハチと言うよりハエっぽいのである。どうも日本ミツバチではなくハナアブの仲間のようだ。危ない危ない、早とちりでした。

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命名は難しい 1

 Papilionidaeはアゲハチョウ科のことである。この科に属する日本産のチョウは21種が存在するが、この科の命名には咎めるには値しない混乱と、首を捻らざるを得ない混乱がある。殆どのチョウは‥‥アゲハと命名されており、‥‥の部分に形、色、分布などについての情報を含む形容詞がついているわけだ。

 ギフチョウ、ヒメギフチョウについては、岐阜で採集されたチョウの標本を基に、両者の区別なしにイギリス人の博物学者プライヤーが命名したらしい。岐阜に地名を採った命名であるが、アゲハチョウに属すことを明示せずギフチョウとしてしまったため、名前からアゲハチョウであることは判断できない。とはいえ、ギフチョウの古名である錦蝶、あるいはダンダラチョウを採用していたとしても、分類群が明示されない同じ欠点が存在することを考えれば、咎める必要を感じない程度の例外としても良いかと思う。ホソオチョウについても、外来種であるかどうかの問題はあるにしろ、ギフチョウと同じ条件であろう。問題は次の3種である。

 まずウスバシロチョウとヒメウスバシロチョウ、この命名ではシロチョウ科に属するとしか思えない。漢字で書けば薄羽白蝶であり姫薄羽白蝶であろう。しかしこの2種、アゲハチョウ科のチョウである。ウスバキチョウはもっとややこしい。漢字で表記すると薄羽黄蝶であろう。命名の基となったであろうキチョウと呼ばれる蝶がいる。可愛い黄色い蝶だが、困ったことにこのチョウはシロチョウ科に属する。キチョウ科という分類は存在しないのである。そして、このウスバキチョウはキチョウ科でもシロチョウ科でもなくアゲハチョウ科に属するチョウである。これでは首を捻らざるを得ない。

 命名の統一性から考えれば、ウスバシロチョウ、ヒメウスバシロチョウ、ウスバキチョウに対して使われるもう一つの呼び方、つまりウスバアゲハ ヒメウスバアゲハ、キイロウスバアゲハを使うほうが混乱を招かない。

 何故、突然にこんな事を書くのか。幼かった頃、モンシロチョウの命名に不満だった。紋は黒いではないかという疑問である。モンキチョウの雄にも雌にも不鮮明ではあるが黄色い紋がある。だからモンキチョウは理解できる。モンキアゲハもカラスアゲハもシロオビアゲハも理解できる。モンシロチョウではなくモンクロチョウが正当な名前ではないかと思っていたのである。

 だが、これは誤りであった。モンシロチョウは紋が白いチョウではなく、紋のあるシロチョウ科のチョウだったのである。つまり、名前はモン・シロチョウという構造であった。クロモンシロチョウにしてくれれば悩むことはなかったのに。ではモンキチョウはどうなるか。モンシロチョウの例を踏襲すれば、モン・キチョウとなり、モンのあるキチョウと考えるべきだ。ところが、キチョウと云う分類はないのである。モンキチョウもシロチョウ科に属する。従って、モンキチョウはモン・キチョウではなくモン・キ・チョウとなる。モンキシロチョウとすれば合理的な命名になるが、この命名からシロを省略したのだろうか。

 されど、クッキリとした黒紋をモンとして黒を省略し、薄ぼんやりとした黄色い紋はモン・キと明確に示すやり方は何となく分かり難い。慣用名を採用するときによく見かける混乱である。さらにであるが、ヤマキチョウ、ツマキチョウ、ツマグロキチョウなどのようにキチョウと云う語尾を持つ一群のチョウがいる。これらのチョウも全てシロチョウ科に属する。命名は難しい。

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やはりケチ?

 老後用にと考えて建てた家は、お世辞にも広くない。その中心には薪ストーブを設置した広めの居間(当世風にいえばリビング)がある。そこに収穫した富有柿8コンテナと愛宕柿(干し柿用渋柿)1コンテナがのさばっている。今日は朝から段々と冷えてきたため、ストーブを焚こうかと思うのだが、ここで暖めると柿が一気に柔らかくなってしまいそうで不安である。あと1件だけ注文が来ているが、この注文にはまだ木になっているもので対応できる。では8コンテナを自家消費できるか。血糖降下剤を飲んでいる身としては、それはちょっと危険である。

 食べきれないほどあるのだから熟したものはさっさと捨てたらと思わないでもないのだが、勿体なくてなかなか踏ん切りがつかない。あきらめるのは、柿が柔らかくなってショウジョウバエがたかり始めた時である。今朝は2コンテナを捨てた。明日も同じくらい捨てざるを得ない。

 噂では、今年はいつまでも暖かかったため柿の熟すのが非常に早く、収穫が間に合わないという。一部の柿農家は穴を掘って埋めているという話も聞こえてくる。この見切りの良さ、ここがプロと新米の違いとは思うものの、やはり捨てがたい。自分で育てたものは可愛いからななどと言い訳をしているが、本当は小ゲチいだけの爺かも知れない。

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過剰と蕩尽 12

 生物はそもそも飽食という条件下に、過剰な生産能力をもってこの世界に出現した。この過剰生産能力こそが、生長と生殖と進化を支える基本的な能力であると考えるわけである。まず、この過剰生産力を可能とする環境、物質的基盤とエネルギー的基盤があったかどうかについて少し述べてみたい。

 最初に現れた原初の生物、この生物はどのような性質を持っていたか。まず偏性嫌気性で高い耐熱性を持ち、飽食に耐えることのできる微生物であったはずである。飽食に耐えると云っても大した問題ではなかったと思う。彼らはまだ微小な単細胞生物であり、多細胞化していたわけではない。もしある代謝物が過剰に生産されたとしても、いまだ未完成であった彼等の細胞膜は、過剰な代謝物を濃度勾配にしたがって細胞外へ排出したに違いない。同時に、代謝に伴って生成する熱は、彼等が微細生物であったが故にすぐに外部へと放散されたことは間違いないであろう。

 なんだか当たり前のことをしつこく繰り返しているような気がする。本人がそう感じるのであれば、他の人はもっと強く感じているかも知れない。そろそろ、過去30年余りの時間をかけて、何をどう考えてきたかを述べるべきであろう。

 まず原初の生物が、独立栄養的(autotrophic)な生物であったのか従属栄養的(heterotrophic)な生物であったのかを考えなければならない。 しばらく前までは、前生物的に集積した糖やアミノ酸や核酸塩基に依存した独立栄養生物であったと考えられていた、そして、この前提を基礎として代謝系構築の仮説が提出されていた。つまり、前生物的に合成され(地球上でなくてもよい)、蓄積されていた物質を用いて、従属栄養的に生きる生物群が、多様な可能性を求めて試行錯誤を繰り返す日々であったと考えたわけである。この間、明言されてはいないが、生物は潤沢な栄養条件にあったと考えられてはいないようだ。

 Horowitz が、1945年に提唱した代謝系の進化仮説もこの流れに乗っている。この仮説は、「地球化学的に合成され、蓄積されていた生体構成分子の原料が消費されていくに従って最初の飢餓が起こったと考える。その時、本来の基質の前駆体となりうる化合物を基質へと変換できる酵素を持ちえた生物が、淘汰的に有利であったであろう。前駆体も枯渇してきたとき、その前駆体へ他の化合物を変換できる酵素を持った生物が現れたに違いない。ここで前駆体は1種類とは限らないことから、多種の基質間で相互変換を触媒する酵素群が生まれ、代謝の net work が成立した。従って代謝経路は、最終産物から中心代謝へと、代謝の流れとは逆方向に伸長していった。」これが Horowitz の代謝起源説である。生物の出現などについて余り真剣に考えていなかった私も、20年程前まではこの代謝系進化についての仮説を概ね正しいと考えていた。つまり、生物が光合成という手段を獲得するまでは、周辺にある前生物的資源を何とかして利用しようと藻掻気ながら進化していた期間と考えるわけである。

 しかし、どうもそうではなさそうである。1977年、深海調査艇アルビン号がガラパゴス諸島近海で熱水噴出口を発見し、その周辺に光合成産物に依存しない豊穣な生物圏が存在することを発見したのだが、この発見を契機に、生物の出現が熱水噴出口周辺に、あるいはかなり深い地殻中にあったのではないかという仮説が議論に上るようになってきた。先に述べたように、現在の私は後者の説を支持している。炭素源を二酸化炭素に求めるか、それともマントルから湧出する炭化水素に求めるかが問題だとは思うが、いずれにしても栄養源は十分にある条件下に生物の発生は起こったと考える。

 この飽食条件下における過剰な生産力こそが、生物の生長と生殖を支えるだけでなく、累々たる死を踏み台にした進化を担保していたわけだ。同時に、彼等が周辺に放散していく過程で飢餓に対する適応能力を獲得していったに違いない。つまり、膨大に生み出された少しずつ異なる性質を持つ子孫たちが、彼等の先祖が住んでいたエデンの園を出て、苦難に満ちた多様な環境へと進出していったのであろう。もっとも、私はこうした場合に採用される適者生存という概念が、無条件に正しいと思っているわけではない。そういう場合があった事を否定はしないが、多くの場合においては偶然がより優先したと考えている。

 ただ、飢餓に対する耐性の獲得は、さほど難しくはなかったように感じている。地殻の内部で発生した原初の生物が、熱水噴出口を通って周辺に拡散していく場合を想定すれば良いだろう。周辺から取り込める栄養分が少なくなったとき、どうすればよいか。代謝回転率すなわち生物を構成している細胞や組織が生体分子を合成し、一方で分解することで起こる新旧の分子の入れ替わりの速度、を落とせばよい。現生の生物においてもこの能力は維持されている。哺乳動物のような進化の進んだ生物においても冬眠という現象は珍しくない。緩歩動物に属するクマムシは、代謝をほぼ止めることで、クリプトビオシスと呼ばれる代謝活動を止めた休眠状態に入ることが知られているし、一部の細菌は芽胞と呼ばれる耐久性の胞子を形成する。

 当時の細菌が休眠に相応する生理的メカニズムを完成していたとは思わないが、熱水噴出口から噴き出された微生物は、すぐに周辺の冷たい海水で冷やされるだけでなく環境水のpHも変化するだろう。彼等の持つ酵素は、我々の持つ酵素と違い最適温度は高温側にあったに違いなく、低温においては反応速度が劇的に落ちるだろう。もちろんpHも変化する。それは休眠とよく似た状態に陥ることを意味する。もちろん、そのまま死亡する細菌が大多数であったことは容易に推定できるが、熱水域と冷水域の中間に位置する領域で、ごく一部の細菌が彼等にとっての低温域に適応したとしても不思議ではない。低温域に最適温度を持つ堕落した酵素群を発明したのであろう。我々はその末裔である。そうして低温域に適応した細菌の中から、生き残りに失敗した先祖の死骸を利用する従属栄養的生き方を選ぶグループが発生したと考えている。

 生物は過剰な生産力を持って出現したなどという話をすると、エネルギー源は何であるかとの疑問を抱く方が多い。現代文明におけるエネルギーの重要さを考えれば当然の質問である。ATPだよなどと答えると、ATPがそんなに都合よくあるものかと怒られそうだが、あった可能性は否定できない。原初の生物が持っていた遺伝子がDNAあるいはRNAであったとすれば、これら核酸生合成系においてアデノシンやグアノシンがすでに存在していたことを意味する。アデノシンやグアノシンの核酸塩基であるアデニンとグアニンは青酸の5量体であり、シアン化水素からかなり容易に生成する。アデノシンやグアノシンの糖部分に、何故デオキシリボースとリボースが選ばれたのかという疑問ついては、なかなか説明がつかない。しかし、一旦アデノシンやグアノシンが作られた場合、これらはアビオティック生成するポリリン酸によってリン酸化されることが知られている。広島大学の黒田教授の受け売りだが、ポリリン酸をマグネシウムイオン存在下で加熱すると、環状の3リン酸であるトリメタリン酸が優先的に生成する。このトリメタリン酸はアデノシンによる求核攻撃を受けて、無生物的にATPがワンステップで生成するそうだ。

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マグネシウムイオン存在かでのポリリン酸からのトリメタリンサンの生成と、アデノシンとトリメタリンサンからのATPの生成

 それ以上に面白いのは、ポリリン酸を生体内に蓄積する細菌が多数存在するだけでなく、ポリリン酸を基質として用い、グルコースからグリコーゲンを生合成する菌がいることである。別にこの反応が太古の昔から動いていたと云うつもりはない。そうではなくて、ポリリン酸を基質とする酵素があるという事実が面白い。そして、その酵素群の中に、ポリリン酸からATPを生産する酵素もあるというわけだ。海底火山の噴出物中にポリリン酸が発見されている。熱水噴出口からポリリン酸が噴出していると考えても間違いはないだろう。地殻中でポリリン酸がアビオティックに生産されているとすれば、これをエネルギー源とした生態系の存在も否定できないだろう。

 近年ポリリン酸については、非常に面白い知見の報告が続いている。いつか項を改めて書いてみたい。

 過剰と蕩尽 13 に続く

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勤労感謝の日と北帰行

 私学に勤めていた頃、この日は推薦入試の日と決まっていた。二十年以上、勤労感謝の日に休んだことはなかった。そんなものだと思っていたので、別に不満も感じなかったが、ここ数年勤労感謝の日に休んでいる。今年など、ほとんど稼いでいないので、勤労感謝の日として休むことにそこはかとない違和感を感じている。

 この日、9時過ぎに栗畑へいったのだが、途中で事故を起こした。対蝶事故である。ほとんど羽の傷んでいないアサギマダラが相手である。こちらは軽トラ、狭い山道でありスピードは出していなかったが、フロントガラスに衝突した蝶は、後ろの道路に落ちた。落ちた蝶を拾って怪我はないかと見ていたら一時的脳震盪?だったらしく、少し身繕いをしたあと元気に飛び去っていった。アサギマダラは渡りをする蝶である。この蝶も台湾へ向かう旅の途中であったのかも知れない。写真が撮れなかったのが残念である。

 我が家の庭はひょっとすると蝶道に当たるのかも知れない。色々な蝶が毎日訪れる。23日は小春日和であったため、その数も多かった。まず、先日も現れたタテハモドキが今回は千日紅の花に上手く止まってくれた。アカタテハ、ヒメアカタテハ、キタテハ、ちょっとお疲れ気味のベニシジミ、コミスジ、それにウラナミシジミを撮影した。キチョウとイシガケチョウは通過しただけ、せせり蝶の仲間にはすぐに逃げられた。もちろん、シロチョウの仲間やヒョウモンチョウの仲間も見かけたが、撮影には至らなかった。

タテハモドキ
タテハモドキ
アカタテハ
アカタテハ
ヒメアカタテハ
ヒメアカタテハ
キタテハ
キタテハ
ベニシジミ
ベニシジミ
コミスジ
コミスジ
ウラナミシジミ
ウラナミシジミ

 そういえばこのウラナミシジミも、渡りとまではいかないにしろ北へ向かう性質を内包した蝶であると云う。この蝶、越冬地は温暖な太平洋側、つまり九州南部、四国の南部、紀伊半島の南部、伊豆半島南部、そして房総半島の南部である。ここで越冬した親から生まれた個体群が、夏にかけて北帰行を試みるのである。だが、南方系の蝶であるため、決まった越冬形態を持たず、北へ行った個体群は越冬できずに死滅するという。北へ行きたい遺伝子を持った個体は毎年北へ行って死滅する。つまり北へ向かう遺伝子は毎年淘汰され続けているのに、何故この蝶は北帰行を続けることができるのか。

 詳細は記憶していないが、池田博士が楽しませてくれる話を書いていた。「Aと云う遺伝子がある。AAの個体は地元にとどまる性質を示す。Bと云う遺伝子がある。BBの個体も地元にとどまる性質を示す。AAの個体とBBの個体が交配してできるAB型の遺伝子を持つ個体は北へ向かう性質を示すと仮定すればよい」という内容であったと記憶している。もっともこれは、社会生物学を揶揄した話であって彼の本意ではない。(これが書いてあった本をいま捜索中です。誤りであったら修正します)彼の本意は「ウラナミシジミの北上行動は、自然選択の結果獲得されたものではなく、ウラナミシジミという種に内在する構造として無根拠に定立したに違いない」と云う部分にあるのだが、単純な私は全く別の意見を持っている。

 ウラナミシジミの北上行動は、我々がそう見ているだけにすぎないのではないだろうか。彼等はエサと生育に適した気温の土地があれば、西に向かっても東に向かっても分布を広げる性質を持っているだけだろう。(もちろん南へも向かうのだが、南は海です)彼等の越冬できる場所が、日本の温暖な太平洋沿岸であるために、北向きのベクトルだけが強く見えているにすぎないと考える。特に、南東からの季節風が優勢になってくる季節には、そうした北向きの印章が強まるのだろう。そうでないと、浜松のあたりに、それも春の早い時期にこの蝶が出現する現象の説明が難しくなる。紀伊半島を北上した個体群が東に向かって、あるいは伊豆半島を北上した個体群が西に向かって拡がったと考えた方が無理のない解釈であると思う。

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