稲刈り

 まだ書いている途中の段階で、間違って公開ボタンを押したらしい。習作段階での舞台裏を晒したようで、忸怩たる思いである。さほど文才に恵まれていると思ってはいないが、「推す」か「敲く」か程度の見直しをせずに人にみせるのは心苦しい。「過剰と蕩尽25」は一度取り下げ、見直した後に再度アップします。

 6月の半ば過ぎ、田植えのために代掻きをしたのだが、未だにトラクターの使い方が未熟である。代掻き用ウイングハローを持っていないことがひとつの言い訳になるかもしれないが、水田の均平化(土壌面が均一に水平になっていること)が不十分であった。要するに凸凹があったわけである。勿論、少々の凸凹があっても田植えはできる。できるのはできるのだが、除草剤で処理したときにこの水に浸っていない凸の部分の草は枯れない。枯れなかった草がこの時期になって急速に生長し、イネの草丈を追い越してしまう。

 8月初旬からチラチラ見えていたタイヌビエが、順調に生長してイネの草丈を超すようになった。仕方なく7日頃から毎日草取りである。とはいうものの、連日39℃を超すような晴天であるため、いくらか涼しい6時頃から10時過ぎまでの作業となる。あと2日ほど働けば一通り終わると思っていたら、最初に取った部分で抜き残したヒエが順調に穂をつけている。イネの中に頭を突っ込み、ヒエを探して引き抜くか、根際からノコギリ鎌で切り取っていくのだが、汗が目に流れ込む、イネの葉先が目に刺さる、泥濘に足を取られると苦行である。ここ数日はゴーグルをはめているのだが、これはこれで暑苦しい。

 今朝も朝からヒエ取りをした。そろそろ止めて帰ろうかと思いながらも、もう少しと暑さをこらえて働いていたら、目の前に大きな株が出現した。ここまで大きくなると引き抜くのは無理である。こんなに太りやがってと鎌で根元から切り取ったのだが、手応えが違う。正気に戻ると、手には一株のイネがあった。老眼と疲労がもたらした一寸早い稲刈りであった。

  コメントを可能にしました。変な売り込みのコメントが異常に増えない間は、オープンにしておきます。ご意見、ご指摘、反論、感想など、歓迎します。

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暑さの表現

 いや、とにかく暑い。39℃を超える日が続いている。犬を飼っているのだが、気息奄々の状態である。この季節に本物の毛皮を着ているのだから仕方ないだろう。エアコンの冷気を流してやってはいるのだが、ここまで暑いと犬用のスポットクーラーが必要になりそうである。

 気象庁によれば、正午から午後2時までの間に気温が25℃以上で30℃未満で夏日、30℃以上35℃未満で気象庁、日最高気温が35度以上の日が猛暑日となっているそうだが、一寸ばかり命名がお粗末な気がする。日本語には厳しい暑さを表す言葉はたくさん存在する。猛暑、酷暑、極暑、激暑、大暑、炎熱、厳暑、炎暑、焦熱、灼熱、極熱などなど。これらを暑い順番に並べよなどと言われたら、暑いどころか冷や汗が流しても正解することは難しいだろう。もっとも、正解があるかどうかも分からないが。

 それにしても、気温が体温を超えると暑さのレベルが一段と上がったように感じる。この体感に合わせて表現を決めたらどうだろう。33℃から36℃で猛暑日、36℃から38℃までは酷暑日、38℃から41℃までは焦熱日、41度を超えたら地獄の釜が開いたような暑さと言うことで釜開き日など。されど、決める前に各表現の暑さの順序が決まっていないと、これは難しいか。

 先の個人的な定義では焦熱日が続いている昨今、農作業は午前5時から10時頃まででいったん終えることにしている。炎天下で働けば脱水症状を起こしかねない。昼間の気が向いた時は、日陰になる小屋の中で薪棚を組んでいる。この暑さの中、暖房用木材の置き場所を作っているわけだ。汗だくで運び、積み上げた薪を眺め、これらが燃えると考えるとまたいっそうの汗が噴き出してしまう。

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完成?した薪棚(2ヶ月分程度の薪)
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ヒユナ壊滅

 ヒユナという野菜がある。別名ジャワホウレン草、バイアムともいう。暑さに強く乾燥に強い。他の青物野菜が切れるこの時期に収穫期を迎える野菜である。癖のない味で小松菜の代わりに使え。汁物に入れてもいいが、豚肉と一緒に炒めると結構いける。このヒユナを道の駅で売ろうと考え、昨年試験栽培を行った。5月中旬に播種したヒユナは、病虫害を受けることなく2メートルを超えるまでに生長した。産直販売をやっている近所の方が、少し分けてくれと持って行くほどの収穫であった。

 そこで今年、5月から200本あまりのヒユナを植えていたのだが、どうしたわけか早々に薹立ちを始めた。薹立ちが始まると栄養生長から生殖生長に切り替わるため、葉が固く小さくなって食味が落ちてしまう。そういえば、スイートバジルの薹立ちもとても早かった。去年のこぼれ種から遅れて発芽したものにはこの現象は見られなかったため、6月の日照不足が原因だったのかもしれない。薹の部分を切り落として出てきた小ぶりの新葉を集め細々と出荷を続けていたのだが、7月に入ると小さな蛾が飛び交うようになった。これはコナガ(小菜蛾、Plutella xylostella)ではないかと考えたのだが、コナガは広食性とはいえ基本的にアブラナ科の植物を食害する。しかし、コナガはヒユナを食害すると書いてあるサイトもあった。

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無傷な葉っぱは見当たらないヒユナ

 困ったことになったと頭を抱えた。何しろ、コナガはほんの小さい蛾にもかかわらず、多くの農薬に対して抵抗性を発達させた、もっとも防除が難しい虫の一つである。ただ飛び方に幾分違和感があったので、昨日飛んでいる親を捕まえてみたところコナガではない。シロオビノメイガのようである。シロオビノメイガなら納得がいく。この蛾はホウレンソウ、フダンソウ、アカザ、などのアカザ科植物、ハゲイトウ、ケイトウ、アオビユ、イヌビユなどヒユ科植物を食害するガであり、ヒユナについてもおかしくはない。

 ヒユナはさほど一般的ではない野菜であるため、登録農薬が少ない。これをコナガが食害するのであれば、手の打ちようがなさそうだ。しかし、シロオビノメイガであればBT剤が使えるかもしれない。来年、もう一度ヒユナの栽培にトライしよう。

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酷暑そして秋の気配

 内陸に位置する当所では、先月22日の気温が36℃に達し、その後ずっと35-37℃の最高気温を続けてきた。この間、雨はほとんど降らず、梅雨明け10日どころか梅雨明け後、半月の間酷暑の晴天が続いてきた。昨日、午後に激しい雷雨があり、農作物は一息ついたと言ったところである。雨上がりの夜空の星も、一際きれいだった。今日も午後から雷雨である。当地はさほど強い雨ではないが、筑後川の対岸や少し下流域ではかなり強い雨が降っているようだ。

 雨が降ると涼しくなる。それだけで秋を感じるのだが、数日の酷暑の中にも秋を感じる光景を目にすることが増えてきた。何に秋を感じるかというのは極めて個人的な経験に基づく主観に過ぎない。私の場合、風に翻るイラクサの白い葉裏に秋を感じる。風に翻るイラクサの白い葉裏から素早く飛び回るの白い羽裏を連想し、このウラギンシジミに秋の訪れを感じるらしい。ウラギンシジミは夏にもいる。それは分かっている。分かってはいるが、初めてこの蝶を捕まえたのがススキの穂が揺れる初秋の草原であった記憶に起因しているようだ。

 そろそろ、秋作の用意を始めなければならないのだが、まだ何を植えるかが決まっていない。コナガの食害で手がつけられなくなった畑の前で、何を植えるべきか考え込んでいる毎日です。

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過剰と蕩尽 24

 少し前ようやくPCが復活しました。が、PC本体のHDは完全にアウトだったそうで、ここからのデータ回復は物理的に無理ということでした。タイムマシン(マッキントッシュのバックアップシステム)を動かしていたにもかかわらず、バックアップ用HDにも直近のデータが残っていなかったため、4月初旬の状態に逆戻りです。確かにその頃から作動が不安定だったので、危ういかなと思った記憶が残っている。

 それにしても、脳の記憶領域において置くべき事柄をコンピュータに預けっぱなしにすることの危うさを改めて感じている。そう、問題はそこにある。多忙な時期であっただけでなくPCがダウンした状況が続いたことで、何をどこまで書いていたのかという記憶が次第に薄れて来ている。一方、今まで使っていたATOKも使えなくなっていた。不思議なことに変換のキー操作だけは、筋肉が覚えている。Macに付属している「ことえり」では、筋肉が覚えている変換キーを押すたびに考えている結果と違う現象が起こり、凄まじいストレスが発生する。脳の記憶と筋肉の記憶の食い違いが、ストレスを引き起こす。惚けの症状に似ているような気がする。とうとう博多まで出かけてATOK 2016 for Macを買ってきた。

 今までのブログを読み返し、ようやく再スタートということになります。まず、KEGGの「ポルフィリンとクロロフィルの代謝」のアラビドプシスのページをプリントアウトして、これを参照してほしい。《http://www.genome.jp/kegg-bin/show_pathway?org_name=ath&mapno=00860&mapscale=&show_description=show》小さくて見にくいとは思いますが、一応下に示します。

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ポルフィリンとクロロフィルの生合成系(Arabidopsis thaliana

 そこで前回の続きだが、Chlorophyllide aに存在するカルボキシル基の酸素アニオンが、chlorophyll synthaseの触媒化にフィチルピロリン酸の1位の炭素原子を攻撃してピロリン酸が脱離し、高等植物のクロロフィルであるChlorophyll aの生合成は完了する。13位のカルボキシル基のメチル化同様に、この反応も通常のエステル化反応ではなくエステルのアルキル分解の逆反応の形をとる。つまり、核酸の生合成やペプチドの生合成とは異なり、エステル化において酸側を活性化するのではなくアルコールを構成するアルキル基を活性化するのである。何故かと聞かれても理由は定かではなく、そうなっているからそうなのであるとしか言い様がない。

 そういえばカイネチンの生合成、主要な経路ではないとはいえtRNAの分解産物がカイネチンであるのだが、tRNAに組み込まれている特定の位置のアデニン残基のアミノ基が、イソペンテニルピロリン酸によりアルキル化された後、このイソペンテニル化されたtRNAが分解を受けカイネチンが生成する。ここで起こるイソペンテニル化もアルキル化である。エステル生成とアミノ基のアルキル化を同列に扱うのは幾分以上に気が引けるのだが、こうした反応群を見ているとアルキル化によるエステル生合成が優勢であった時代の存在を感じてしまう。

 高等植物でChlorophyll aと共存するChlorophyll もまたChlorophyllide aから生合成される。Chlorophyllide a はchlorophyllide a oxygenaseによって7位のメチル基が水酸化された後、同じ酵素あるいはちょっとわかりにくい酵素chlorophyll(ide) b reductaseによってさらにアルデヒドまで酸化される。その後、Chlorophyll aの生合成でも働いたchlorophyll synthaseの触媒下に13位のカルボキシル基のフィチル化が起こり、高等植物のいま1つのクロロフィルであるChlorophyll の生合成は完了する。ここまでならさほど理解に苦しむことはないのだが、Chlorophyll から7位のアルデヒド基をメチル基まで還元するChlorophyll aへと導く系が存在する。Chlorophyll aとChlorophyll の歴史はどちらが長いのだろう。勿論、Chlorophyll a であることは自明であると思うのだが・・・。

 ここまでの話において、気づいたことについて述べたいと思う。一つは我々の興味の持ち方についてである。光合成は現在の地球における炭素循環系の基盤であり、ほぼすべての生物の活動はこの反応に依存している。そして、その光合成反応を進める色素がクロロフィルである。大雑把な書き方であるが、そうした意識を持ってみれば、クロロフィルの生合成までが大事な反応であって、それから先は単なる分解反応という理解になるのだろう。KEGGにおいてもChlorophyllide aからさきはマグネシウムイオンが外れてPheophytin aになると描いてあるだけである。あれ、先ほど書いたことの繰り返しになるかもしれないが、この反応を分解反応であると考えれば、Chlorophyll の分解中間体がChlorophyll aであるとする言明が成立するのかな?

 まあ揚げ足取りのような議論は横に置くとして、我々がクロロフィルの議論をする場合往々にして高等植物に存在するクロロフィルであるChlorophyll aに重心を置いた議論になりやすい。議論の終わりの方で、光合成をするバクテリアにはバクテリオクロロフィルが存在するという一文を入れて、一応責任は果たしたとする書き方である。私もまた、この後バクテリオクロロフィルに言及するつもりだが、上記の轍を踏んでいることになる。カール・マンハイム言うところの「意識の存在拘束性」を意識せざるを得ない状況である。

 もっとも、彼の立場から見れば用語の使用範囲において範を超えているというかもしれない。「お前の使い方は演繹が過ぎる」と。なぜならば、彼はこの用語を知識社会学の範囲に限定して使っているからだ。しかし、トーマス・クーンが提起したパラダイムの概念が、彼自身がこの概念を取り下げたにもかかわらず、後にある時代の人々の物の見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組みを指すように拡大されて定着したように、「意識の存在拘束性」という概念は、科学に対して、これを行うヒトの生き様が大きな拘束をかけていることを指摘する重要な概念になるのではないだろうか。つまり、食糧や住まいの材料をChlorophyll aを持つ高等植物に依存し、こうした植物が生合成する酸素に呼吸を依存しているヒトという生物は、Chlorophyll aを持つ高等植物の光合成を重要なものとして考えてしまう。

 この現象に対してことさら批判するつもりはないが、歴史的に見ればChlorophyll aに先行するバクテリオクロロフィルの時代が存在する。化石記録によれば、酸素発生型光合成は最古のストロマトライトが27億年前の地層から見つかっているこのあたりにあるのだろう。一方、酸素非発生型光合成の始まりの時期は今ひとつ確認できていない。とはいえ生物の出現が37-38億年前に遡るとすれば、かなり長い期間バクテリオクロロフィルの時代が続いたのである。酸素を作らないとはいえクロロフィルよりも早い時期から地球上の光合成を担ってきただけでなく、構造においてもほとんど差異のないクロロフィル群を、バクテリオクロロフィルと区別して表記する必要性は何処にあるのだろうか。それはバクテリアが持つからだといえば一般人はそうだと思うかもしれない。しかし、シアノバクテリア(藍色細菌)はクロロフィルとクロロフィルを使っているのである。科学という営みが、冷静かつ客観的な事実とそれに基づく判断を求める物であるなら、いま少し退いた視座からの議論があっても良さそうな気がしないでもない。朝三暮四、サルもヒトも目先の事柄で簡単にだまされる生物だよと割り切れば、まあそれも一つの見識かもしれないが。

 クロロフィルを含むポルフィリン生合成系については、次回いくつかの概念を整理した後で述べることにする。

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