酷暑そして秋の気配

 内陸に位置する当所では、先月22日の気温が36℃に達し、その後ずっと35-37℃の最高気温を続けてきた。この間、雨はほとんど降らず、梅雨明け10日どころか梅雨明け後、半月の間酷暑の晴天が続いてきた。昨日、午後に激しい雷雨があり、農作物は一息ついたと言ったところである。雨上がりの夜空の星も、一際きれいだった。今日も午後から雷雨である。当地はさほど強い雨ではないが、筑後川の対岸や少し下流域ではかなり強い雨が降っているようだ。

 雨が降ると涼しくなる。それだけで秋を感じるのだが、数日の酷暑の中にも秋を感じる光景を目にすることが増えてきた。何に秋を感じるかというのは極めて個人的な経験に基づく主観に過ぎない。私の場合、風に翻るイラクサの白い葉裏に秋を感じる。風に翻るイラクサの白い葉裏から素早く飛び回るの白い羽裏を連想し、このウラギンシジミに秋の訪れを感じるらしい。ウラギンシジミは夏にもいる。それは分かっている。分かってはいるが、初めてこの蝶を捕まえたのがススキの穂が揺れる初秋の草原であった記憶に起因しているようだ。

 そろそろ、秋作の用意を始めなければならないのだが、まだ何を植えるかが決まっていない。コナガの食害で手がつけられなくなった畑の前で、何を植えるべきか考え込んでいる毎日です。

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過剰と蕩尽 24

 少し前ようやくPCが復活しました。が、PC本体のHDは完全にアウトだったそうで、ここからのデータ回復は物理的に無理ということでした。タイムマシン(マッキントッシュのバックアップシステム)を動かしていたにもかかわらず、バックアップ用HDにも直近のデータが残っていなかったため、4月初旬の状態に逆戻りです。確かにその頃から作動が不安定だったので、危ういかなと思った記憶が残っている。

 それにしても、脳の記憶領域において置くべき事柄をコンピュータに預けっぱなしにすることの危うさを改めて感じている。そう、問題はそこにある。多忙な時期であっただけでなくPCがダウンした状況が続いたことで、何をどこまで書いていたのかという記憶が次第に薄れて来ている。一方、今まで使っていたATOKも使えなくなっていた。不思議なことに変換のキー操作だけは、筋肉が覚えている。Macに付属している「ことえり」では、筋肉が覚えている変換キーを押すたびに考えている結果と違う現象が起こり、凄まじいストレスが発生する。脳の記憶と筋肉の記憶の食い違いが、ストレスを引き起こす。惚けの症状に似ているような気がする。とうとう博多まで出かけてATOK 2016 for Macを買ってきた。

 今までのブログを読み返し、ようやく再スタートということになります。まず、KEGGの「ポルフィリンとクロロフィルの代謝」のアラビドプシスのページをプリントアウトして、これを参照してほしい。《http://www.genome.jp/kegg-bin/show_pathway?org_name=ath&mapno=00860&mapscale=&show_description=show》小さくて見にくいとは思いますが、一応下に示します。

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ポルフィリンとクロロフィルの生合成系(Arabidopsis thaliana

 そこで前回の続きだが、Chlorophyllide aに存在するカルボキシル基の酸素アニオンが、chlorophyll synthaseの触媒化にフィチルピロリン酸の1位の炭素原子を攻撃してピロリン酸が脱離し、高等植物のクロロフィルであるChlorophyll aの生合成は完了する。13位のカルボキシル基のメチル化同様に、この反応も通常のエステル化反応ではなくエステルのアルキル分解の逆反応の形をとる。つまり、核酸の生合成やペプチドの生合成とは異なり、エステル化において酸側を活性化するのではなくアルコールを構成するアルキル基を活性化するのである。何故かと聞かれても理由は定かではなく、そうなっているからそうなのであるとしか言い様がない。

 そういえばカイネチンの生合成、主要な経路ではないとはいえtRNAの分解産物がカイネチンであるのだが、tRNAに組み込まれている特定の位置のアデニン残基のアミノ基が、イソペンテニルピロリン酸によりアルキル化された後、このイソペンテニル化されたtRNAが分解を受けカイネチンが生成する。ここで起こるイソペンテニル化もアルキル化である。エステル生成とアミノ基のアルキル化を同列に扱うのは幾分以上に気が引けるのだが、こうした反応群を見ているとアルキル化によるエステル生合成が優勢であった時代の存在を感じてしまう。

 高等植物でChlorophyll aと共存するChlorophyll もまたChlorophyllide aから生合成される。Chlorophyllide a はchlorophyllide a oxygenaseによって7位のメチル基が水酸化された後、同じ酵素あるいはちょっとわかりにくい酵素chlorophyll(ide) b reductaseによってさらにアルデヒドまで酸化される。その後、Chlorophyll aの生合成でも働いたchlorophyll synthaseの触媒下に13位のカルボキシル基のフィチル化が起こり、高等植物のいま1つのクロロフィルであるChlorophyll の生合成は完了する。ここまでならさほど理解に苦しむことはないのだが、Chlorophyll から7位のアルデヒド基をメチル基まで還元するChlorophyll aへと導く系が存在する。Chlorophyll aとChlorophyll の歴史はどちらが長いのだろう。勿論、Chlorophyll a であることは自明であると思うのだが・・・。

 ここまでの話において、気づいたことについて述べたいと思う。一つは我々の興味の持ち方についてである。光合成は現在の地球における炭素循環系の基盤であり、ほぼすべての生物の活動はこの反応に依存している。そして、その光合成反応を進める色素がクロロフィルである。大雑把な書き方であるが、そうした意識を持ってみれば、クロロフィルの生合成までが大事な反応であって、それから先は単なる分解反応という理解になるのだろう。KEGGにおいてもChlorophyllide aからさきはマグネシウムイオンが外れてPheophytin aになると描いてあるだけである。あれ、先ほど書いたことの繰り返しになるかもしれないが、この反応を分解反応であると考えれば、Chlorophyll の分解中間体がChlorophyll aであるとする言明が成立するのかな?

 まあ揚げ足取りのような議論は横に置くとして、我々がクロロフィルの議論をする場合往々にして高等植物に存在するクロロフィルであるChlorophyll aに重心を置いた議論になりやすい。議論の終わりの方で、光合成をするバクテリアにはバクテリオクロロフィルが存在するという一文を入れて、一応責任は果たしたとする書き方である。私もまた、この後バクテリオクロロフィルに言及するつもりだが、上記の轍を踏んでいることになる。カール・マンハイム言うところの「意識の存在拘束性」を意識せざるを得ない状況である。

 もっとも、彼の立場から見れば用語の使用範囲において範を超えているというかもしれない。「お前の使い方は演繹が過ぎる」と。なぜならば、彼はこの用語を知識社会学の範囲に限定して使っているからだ。しかし、トーマス・クーンが提起したパラダイムの概念が、彼自身がこの概念を取り下げたにもかかわらず、後にある時代の人々の物の見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組みを指すように拡大されて定着したように、「意識の存在拘束性」という概念は、科学に対して、これを行うヒトの生き様が大きな拘束をかけていることを指摘する重要な概念になるのではないだろうか。つまり、食糧や住まいの材料をChlorophyll aを持つ高等植物に依存し、こうした植物が生合成する酸素に呼吸を依存しているヒトという生物は、Chlorophyll aを持つ高等植物の光合成を重要なものとして考えてしまう。

 この現象に対してことさら批判するつもりはないが、歴史的に見ればChlorophyll aに先行するバクテリオクロロフィルの時代が存在する。化石記録によれば、酸素発生型光合成は最古のストロマトライトが27億年前の地層から見つかっているこのあたりにあるのだろう。一方、酸素非発生型光合成の始まりの時期は今ひとつ確認できていない。とはいえ生物の出現が37-38億年前に遡るとすれば、かなり長い期間バクテリオクロロフィルの時代が続いたのである。酸素を作らないとはいえクロロフィルよりも早い時期から地球上の光合成を担ってきただけでなく、構造においてもほとんど差異のないクロロフィル群を、バクテリオクロロフィルと区別して表記する必要性は何処にあるのだろうか。それはバクテリアが持つからだといえば一般人はそうだと思うかもしれない。しかし、シアノバクテリア(藍色細菌)はクロロフィルとクロロフィルを使っているのである。科学という営みが、冷静かつ客観的な事実とそれに基づく判断を求める物であるなら、いま少し退いた視座からの議論があっても良さそうな気がしないでもない。朝三暮四、サルもヒトも目先の事柄で簡単にだまされる生物だよと割り切れば、まあそれも一つの見識かもしれないが。

 クロロフィルを含むポルフィリン生合成系については、次回いくつかの概念を整理した後で述べることにする。

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学力詐称

 学歴詐称、近頃はやりなのかもしれない。もっと一般的に言えば、経歴詐称とすればよいだろう。ちょっとネットで検索すれば、話題には事欠かないほどの事例が挙がってくる。昨日は神戸市で、大学を卒業しているのに、高卒限定の採用試験に合格して約18年間勤務した技術職員を懲戒免職処分にしたとの報道があった。確かに、経歴の詐称ではあるが、神戸市としては高学歴の人間を低給与で雇用していたわけで、さほどの被害を受けたわけではないだろう。(本人の勤務ぶりを知らないのでここは推測、勤務状況が悪ければそれは別の話)就職氷河期と言われた時代、この手の話はいくつも聞いた。確かに嘘と言えば嘘に間違いはないが、低学歴を高学歴と詐称する場合より、実害は少なそうだ。

 そういえば、医師の免許を持たない偽医者には、患者からの評判のよい場合が多いと聞く。問題を起こして資格のないことが発覚しないように、患者に対する対応が丁寧であることが原因らしい。さらに言えば、医師の仕事が、標準治療すなわち治療ガイドラインに沿って行えばよい場合が多く、ある程度の医学的知識があれば勤まると考えていいのだろう。

 いや、経歴詐称したヒトを擁護しているつもりはない。それは望ましくないことであり、法的に罰されることがあって当然である。この結論を前提にした上での話だが、世の中には学歴詐称よりももっとたちの悪い合法的詐称がある。それは、学歴詐称ではなく学力詐称である。大学という教育機関においても、教授、准教授などという地位に明らかに適さない程度の学力しかないと思われるヒトが、それなりの頻度で存在する。これは大学だけの問題ではない。高校にも中学校にも小学校にも同じことがいえるようだ。

 もっともこの現象は教育者に限った話ではない。学生にも多数の学力詐称者が存在する。高校卒業の経歴であるのに、割り算ができない、比例計算ができない学生の存在は、かなりの数の私立大学においてはさほど珍しくない。学力詐称の教員と同罪の学生が、なあなあの関係で動いている大学なんて掃いて捨てるほど存在するようだ。

 いろんな大学の真面な先生方と、どうしたら良いのだろうと言う話をよくしたものだ。解決策、そんなものがあるわけはない。絶望的な現状認識があるだけだ。よく考えなくても分かることだが、人口の半分は平均学力以下である。教員の半数も、教員の平均学力以下なのである。教員の平均学力が一般人の平均学力よりも高いという調査結果を見たことはない。せめて彼らが、人格者であることを期待しよう。私?、いまも人格者であるべく努力中です。

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水量調節

6/22

 強い雨が降っている。我がうきは市にも大雨・洪水警報と雷注意報が発令中である。昨日は山の畑添いの道路の法面が崩れた。今朝は植えた稲が水没していそうなので、朝から止水板を外しにいった。冬期に何もつくっていない水田は、排水口の水位を調節すればそれなりの水位になるのだが、二毛作で麦を作っていた場合はそう簡単ではない。コンバインで麦を刈り、葉と茎は細断して畑に戻しているのだが、強い雨がするとこの細断され水に浮いた麦わらが大挙して排水口に流れ込み目詰まりを起こしてしまう。そうなると水位は一挙に上がり、植えた稲はすべて水没という事態を招いてしまう。雨の中であっても、排水口に詰まった麦わらを取り除く必要があるのである。

 ニュースで田んぼを見に行った老人が水路に落ちて死亡という記事をよく見る。こんな雨の中、年甲斐もなく何をしに行っているのと批判的に見る人もおられるとは思うが、実際には行かざるを得ない場合も少なくない。イネは比較的水没に強いとは言え、長期の水没は好ましくない。早く活着してくれないと、除草剤を撒くタイミングを逸してしまう。植えた苗が、早く健康に育って欲しいと思えば、思わず体が動いてしまう。とはいえ、轟々と流れる用水路の横を歩くのは怖いものである。

 スケールの小さな化学反応において、溶媒量の変更など何の問題にもならなかった。スケールアップしたとき、反応熱の除去の問題で悩むことはあったにしろ、溶媒量の問題は反応物の溶解度と反応様式を考慮しておけばさほど本質的な問題にはならなかった。(もちろん、proticな溶媒であるかaproticな溶媒であるかとか、溶媒の極性が高いか低いかなどと言う原則的なことを考えておくのは当然である )

 ところが、水田における水量調節は思った以上に難しい。さほど広いわけではない3反の水田でも、1 cmの水位の変化は約30 トンの水量に対応する。豪雨で麦藁が詰まり10 cmも水位が上がった場合、これを元に戻すには300トンの水を流さねばならないのである。一般的な家庭の風呂の水量が250リットル、これを10秒間で排水する早さで流したとしても、300トンを流すには200分、つまり3時間と20分かかることを意味する。同時に、この水量は100ミリメターの雨に対応する。水口の止水版の調節は、雨の降り方と排水速度を、3時間後とか5時間後の水田の状態をイメージしながら調節する作業である。近頃少しは慣れてきたが、なかなか難しいものである。

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路肩崩落

6/21

 平成24年に起こった九州北部豪雨で、私の栗畑の横を通る市道の路肩が崩落した。道路から溢れた雨水が滝のように私の栗畑(この部分はサツマイモを植えている)へ流れ込み、表土を30cm近く流してしまったのである。この豪雨では市内の棚田の被害が大きく復旧もそちらを優先してなされたため、この崩落部分の復旧は遅れ今年の5月にようやく土嚢を積み上げる暫定的な処置がなされたのである。

 昨夜の10時過ぎ、緊急の豪雨に関する情報が流れた。激しい雨と雷がかなりの時間続いた。先の補修箇所が気になって朝から出かけたのだが、何と土嚢はほとんど流されイモ畑の中に落ちていた。植えていたサツマイモ「薩摩金時苗」の半分は流され、畑の表土も流れ去っている。苗を植え付け、枯れないようにと水をやりようやく元気になっていたのに・・・。

 私のイモの問題は横に置くとして、道路の路盤が見えるまでになっている。この道路は一応幹線として機能しているため、崩落してしまうと影響が大きい。写真を撮って、市役所に連絡に行った。損壊場所と被害状況の説明をして帰ってきたのは11時半、今日は欠け苗の植え付けするつもりだったのだが、この時間からでは暑すぎてやる気がしない。水をかぶった方がまだましだと思い、2時間ほどかけて泥にまみれたトラクターを洗った。乾いたらグリーシングをしようと思っているが、明日はまた雨らしい。本当に何をしているのやら、自然相手の仕事は思い通りには進まない。

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路肩まで崩落した法面
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無惨にも流れ落ちた土嚢群
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崩落した路肩を下から撮影
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