過剰と蕩尽 24

 少し前ようやくPCが復活しました。が、PC本体のHDは完全にアウトだったそうで、ここからのデータ回復は物理的に無理ということでした。タイムマシン(マッキントッシュのバックアップシステム)を動かしていたにもかかわらず、バックアップ用HDにも直近のデータが残っていなかったため、4月初旬の状態に逆戻りです。確かにその頃から作動が不安定だったので、危ういかなと思った記憶が残っている。

 それにしても、脳の記憶領域において置くべき事柄をコンピュータに預けっぱなしにすることの危うさを改めて感じている。そう、問題はそこにある。多忙な時期であっただけでなくPCがダウンした状況が続いたことで、何をどこまで書いていたのかという記憶が次第に薄れて来ている。一方、今まで使っていたATOKも使えなくなっていた。不思議なことに変換のキー操作だけは、筋肉が覚えている。Macに付属している「ことえり」では、筋肉が覚えている変換キーを押すたびに考えている結果と違う現象が起こり、凄まじいストレスが発生する。脳の記憶と筋肉の記憶の食い違いが、ストレスを引き起こす。惚けの症状に似ているような気がする。とうとう博多まで出かけてATOK 2016 for Macを買ってきた。

 今までのブログを読み返し、ようやく再スタートということになります。まず、KEGGの「ポルフィリンとクロロフィルの代謝」のアラビドプシスのページをプリントアウトして、これを参照してほしい。《http://www.genome.jp/kegg-bin/show_pathway?org_name=ath&mapno=00860&mapscale=&show_description=show》小さくて見にくいとは思いますが、一応下に示します。

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ポルフィリンとクロロフィルの生合成系(Arabidopsis thaliana

 そこで前回の続きだが、Chlorophyllide aに存在するカルボキシル基の酸素アニオンが、chlorophyll synthaseの触媒化にフィチルピロリン酸の1位の炭素原子を攻撃してピロリン酸が脱離し、高等植物のクロロフィルであるChlorophyll aの生合成は完了する。13位のカルボキシル基のメチル化同様に、この反応も通常のエステル化反応ではなくエステルのアルキル分解の逆反応の形をとる。つまり、核酸の生合成やペプチドの生合成とは異なり、エステル化において酸側を活性化するのではなくアルコールを構成するアルキル基を活性化するのである。何故かと聞かれても理由は定かではなく、そうなっているからそうなのであるとしか言い様がない。

 そういえばカイネチンの生合成、主要な経路ではないとはいえtRNAの分解産物がカイネチンであるのだが、tRNAに組み込まれている特定の位置のアデニン残基のアミノ基が、イソペンテニルピロリン酸によりアルキル化された後、このイソペンテニル化されたtRNAが分解を受けカイネチンが生成する。ここで起こるイソペンテニル化もアルキル化である。エステル生成とアミノ基のアルキル化を同列に扱うのは幾分以上に気が引けるのだが、こうした反応群を見ているとアルキル化によるエステル生合成が優勢であった時代の存在を感じてしまう。

 高等植物でChlorophyll aと共存するChlorophyll もまたChlorophyllide aから生合成される。Chlorophyllide a はchlorophyllide a oxygenaseによって7位のメチル基が水酸化された後、同じ酵素あるいはちょっとわかりにくい酵素chlorophyll(ide) b reductaseによってさらにアルデヒドまで酸化される。その後、Chlorophyll aの生合成でも働いたchlorophyll synthaseの触媒下に13位のカルボキシル基のフィチル化が起こり、高等植物のいま1つのクロロフィルであるChlorophyll の生合成は完了する。ここまでならさほど理解に苦しむことはないのだが、Chlorophyll から7位のアルデヒド基をメチル基まで還元するChlorophyll aへと導く系が存在する。Chlorophyll aとChlorophyll の歴史はどちらが長いのだろう。勿論、Chlorophyll a であることは自明であると思うのだが・・・。

 ここまでの話において、気づいたことについて述べたいと思う。一つは我々の興味の持ち方についてである。光合成は現在の地球における炭素循環系の基盤であり、ほぼすべての生物の活動はこの反応に依存している。そして、その光合成反応を進める色素がクロロフィルである。大雑把な書き方であるが、そうした意識を持ってみれば、クロロフィルの生合成までが大事な反応であって、それから先は単なる分解反応という理解になるのだろう。KEGGにおいてもChlorophyllide aからさきはマグネシウムイオンが外れてPheophytin aになると描いてあるだけである。あれ、先ほど書いたことの繰り返しになるかもしれないが、この反応を分解反応であると考えれば、Chlorophyll の分解中間体がChlorophyll aであるとする言明が成立するのかな?

 まあ揚げ足取りのような議論は横に置くとして、我々がクロロフィルの議論をする場合往々にして高等植物に存在するクロロフィルであるChlorophyll aに重心を置いた議論になりやすい。議論の終わりの方で、光合成をするバクテリアにはバクテリオクロロフィルが存在するという一文を入れて、一応責任は果たしたとする書き方である。私もまた、この後バクテリオクロロフィルに言及するつもりだが、上記の轍を踏んでいることになる。カール・マンハイム言うところの「意識の存在拘束性」を意識せざるを得ない状況である。

 もっとも、彼の立場から見れば用語の使用範囲において範を超えているというかもしれない。「お前の使い方は演繹が過ぎる」と。なぜならば、彼はこの用語を知識社会学の範囲に限定して使っているからだ。しかし、トーマス・クーンが提起したパラダイムの概念が、彼自身がこの概念を取り下げたにもかかわらず、後にある時代の人々の物の見方・考え方を根本的に規定している概念的枠組みを指すように拡大されて定着したように、「意識の存在拘束性」という概念は、科学に対して、これを行うヒトの生き様が大きな拘束をかけていることを指摘する重要な概念になるのではないだろうか。つまり、食糧や住まいの材料をChlorophyll aを持つ高等植物に依存し、こうした植物が生合成する酸素に呼吸を依存しているヒトという生物は、Chlorophyll aを持つ高等植物の光合成を重要なものとして考えてしまう。

 この現象に対してことさら批判するつもりはないが、歴史的に見ればChlorophyll aに先行するバクテリオクロロフィルの時代が存在する。化石記録によれば、酸素発生型光合成は最古のストロマトライトが27億年前の地層から見つかっているこのあたりにあるのだろう。一方、酸素非発生型光合成の始まりの時期は今ひとつ確認できていない。とはいえ生物の出現が37-38億年前に遡るとすれば、かなり長い期間バクテリオクロロフィルの時代が続いたのである。酸素を作らないとはいえクロロフィルよりも早い時期から地球上の光合成を担ってきただけでなく、構造においてもほとんど差異のないクロロフィル群を、バクテリオクロロフィルと区別して表記する必要性は何処にあるのだろうか。それはバクテリアが持つからだといえば一般人はそうだと思うかもしれない。しかし、シアノバクテリア(藍色細菌)はクロロフィルとクロロフィルを使っているのである。科学という営みが、冷静かつ客観的な事実とそれに基づく判断を求める物であるなら、いま少し退いた視座からの議論があっても良さそうな気がしないでもない。朝三暮四、サルもヒトも目先の事柄で簡単にだまされる生物だよと割り切れば、まあそれも一つの見識かもしれないが。

 クロロフィルを含むポルフィリン生合成系については、次回いくつかの概念を整理した後で述べることにする。

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