歴史生物学 解糖系についての考察 1

少しだけ格調が高過ぎる序論

 生化学におけるもっとも基本的でかつ重要とされる解糖系、TCA回路、ペントースリン酸経路などに対して、世の常識とは全く異なった解釈をしてみたい。山里に隠遁してしまった時代遅れの老爺の解釈であるため、誤謬である可能性を否定はできないが、これらの代謝系の意義づけに対して、長い間持ち続けてきた私の違和感を世に問うことにした。この私論が、これらの代謝系に関する独断と偏見に満ちた認識にすぎないのか、それとも今まで続いてきた認識の誤謬を正すものとなるのか、それはまだ分からない。判断は歴史に任せるしかない。

 もっとも、今までにも私と似た感想を持っていた人がいたかもしれない。でも、なかなか言い出せない雰囲気が学会に漲っている。そんな自分の足下を掘るような議論はするな、先に進めというのが主流にいる人々の考え方である。しかしながら、自らの依って立つ学問の足場を常に検証する営為は学者として不可欠なものであろう。だがそんなことを考えているのはきっと少数だろうな。序文としてはいくぶん長くなりそうであるが、現在認められている各系の常識的解釈を批判しようとするのであるから、どのような視座からこれを行うのか、何故そんなことを考えるようになったのか個人的な経験を含め書き留めておくことにする。

 40年以上前だったのだが、親父が倒れたという切迫した母からの電話が、下宿していた大家さんの家にかかってきた。午前2時過ぎだったと記憶している。下宿を出て小走りに国道まで出てタクシーを拾った。タクシー代の手持ちはなく家に着いたら払うという約束で乗った車の中で、これで私の黄金時代は終わるのかも知れないと考えでいた。この頃、研究活動を含む研究室での生活が楽しくて、この生活をあと数年は続けたいと願っていたのである。親父が倒れたというのに、自分の将来のことを考えているなんて、親不孝者だなと何処かで感じていた。タクシーから降りて家に戻ろうとした時、見上げた異様に澄み切った夜空に、オリオン座、おおいぬ座、そしてこいぬ座が絢爛と輝いていた。この星空に、伝承してきた神話を貼り付けた古代の人々の想像力(創造力)に畏怖を感じた。

    別に意図はありません。関係がありそうななさそうな写真です。懐かしいと思われる人がいるとすれば、同じ時代を生きた人でしょう

 4ヶ月の入院生活の後、奇跡的に親父が生還した。だが最も幸運だったのは、学生生活を中断せずに済んだ私だったに違いない。それはそうとして、絢爛たる星座を見た日から星を見る目が変わってしまったのである。誠文堂新光社から出版される天文ガイドや野尻抱影氏の著書を楽しむ程度の単なる天文ファンであった私が、星座とは何であるのかと改めて考え始めたのであった。当時、それが自らの専門分野である農薬化学、そしてその基礎をなしている生化学という学問を、根底から批判する営為に繋がってくるなどとは夢にも思わなかった。

オリオン座 https://www.civillink.net/sozai/kakudai/sozai2157.htmlより借用

 夜空を眺めていたら、生化学の論理が間違っているかもしれないと気付いたなどという話は、常識的にはありそうにない。こんなことは書かずに本論に入ったほうが良いと、私の常識も判断するのだが、人という生き物は全く関係のないものを見てとんでもないことを思いつくものである。何度も何度もそんな経験をしてきた。以前に、わからないものを分からないものとして考え続ける知的持久力について書いた記憶があるが、いわゆるセレンディピティとは、そういう知的持久力によって具現化されるものであろう。

 さて、蛇足かも知れないが、少しだけ先走った議論をしておくことにする。現代においても、いまだ多くの人々を魅了する占星術という体系が、星々の恣意的な分類に依存していることは間違いない。私としては、こうした分類に基づく占いの体系を、盲信することはないが、頭から否定するつもりはない。各自の人生の中で賢く向かい合えば良いと考えている。しかしながら、古代の人々が星座という形で星空の分節(星空に切れ目を入れる行為)を行うに際して、失われた情報についてはいま少しの注意を払う必要があるだろう。

 古代の人々が創った星座は、地球を中心に置いた仮想の天球面へ星々を貼り付けた、いわゆる投影図を基礎としているのだが、この投影図を作るに際して2つの情報の欠失が発生する。一つは、地球から恒星までの距離情報、もう一つは星本来の明るさ(絶対光度)の情報である。もちろん、古代の人々にそれを求めるのは酷であるし、求めるつもりもない。だが、結果として、彼らは距離という3次元の情報(これは時間情報でもある)と、個々の星の本来の明るさと(絶対光度)いう2つの重要な情報を欠いた投影図を基礎として、星座の切り抜きを行ったことは否定できない。さて、生化学という学問の精華である代謝マップが作られるに際して、同様な情報の欠失が起こってはいないだろうか。

 このような疑いを持って代謝マップを眺めると、幾つかの疑問が浮かんでくる。第一の疑問は、歴史的産物である代謝のネットワークの中から、「何」に従って化合物群を選び、これらを連ねて代謝系と定義したのかという疑問である。換言すれば、星座の成立における「神話・伝承・器械のイデア」に対応する「概念」は何かという疑問である。研究者達は、代謝物の集団の中から、「神話・伝承・器械のイデア」に対応するある「概念」に従って、恣意的に化合物群を選択・配置し、一連の系として記述したのではないか。もしそうであれば、その「概念」とはどのようなものであろうか。

 第二の疑問は、量の問題である。これは星座を構成している星の絶対光度に対応する。生物界において、年間にギガトンオーダーで流れている代謝物と微量なオーダーでしか流れていない代謝物が、代謝マップの上では同じ大きさで記載されているのである。付け加えれば、量的に少ない代謝物であっても生物活性が高ければ「大きく」あるいは「boldface」で描いてもらえる場合もある。代謝マップにおける生物活性は、天球図における実視等級と等価な判断基準になっているのであろう。この量に関する問題を前面に出した認識体系はまだ構築されていないような気がしている。

 さらに第三の疑問は、代謝系内の流れの方向についてのものである。代謝系が歴史的産物である以上、その理解のためには、系がいつ成立したかという時間軸さえも包含すべきであると考える。代謝の流れにおいては、原則として代謝系の上流に位置する物質が歴史的に古い化合物であり、代謝系の下流に位置する物質は新しい物質でなければならない。これは自明のことのように思えるが、多くの代謝過程で働く酵素が可逆的に働くことを考えると、ある代謝物を上流におくという判断は、第一の概念に依存することになる。さらに、代謝系の進化の過程に於いては、一般的に描かれている代謝物の新旧関係が逆転しているとする仮説も存在する。

 考えてみると、代謝マップは時系列を意識して作られた物ではないようである。こうした時間的要件を重視した立場から時間生物学という名称で持論を纏めようと考えたことがあったが、時間生物学という用語はすでに生物時計を対象とする学問で使われていた。従って、生物現象の歴史性を組み込んだ生物学という視座から歴史生物学という用語を作りこれを使用することにした。

 独断だが、我々が作り上げてきた代謝マップは、進化を続けている代謝のネットワークを現代という時間で切断し、その断面図をもとに構築されている。従って、切断する時間を変えると、代謝の流れる方向が変わるだけでなく、構成要素である代謝物の種類や意義付けも変化する可能性を否定できない。現代の代謝マップは、ある方向付け(概念)の下で、系を流れる代謝物の量の情報と、系の成立に関する時間的な情報をも失った形で投影された物ではないか。このような懐疑を通底する基盤としておき、各代謝系を吟味していった時、どのような世界が現れるのか、それを信じるか信じないかは読者の良識に任せよう。

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良い雨だった 明日も頑張ろう

 いつだったかな、とにかく少し前にジャガイモの植え付けをした。品種はダンシャク、名前は明治41年(1908)に函館ドッグ取締役になった川田龍吉男爵が、外国の苗業者から種イモを購入し、自家農園である「清香園」で栽培したことに由来するという。粉質でホクホクとしているため熱に弱く煮崩れしやすいが、マッシュポテト、ポテトサラダ、コロッケなどにすると美味しいイモである。もう1品種植えたのがシンシア、肌がきれいでメークインに近い食感を持つ品種、休眠が深いため貯蔵性に優れた品種である。すぐそばに道の駅があるとはいえ、そんなに大量に売れるわけではない。客は名の通った品種を求める傾向が強い。従って、休眠が浅くよく知られた品種であるダンシャクを6~7月にかけて売り、その後は休眠が深く、見かけの良いシンシアを売ろうとする販売戦略なのだが、上手くいくかどうかはわからない。シンシアの休眠の深さはアブシジン酸と関係があるのかななどと考えている。

 確かに芽立ちはダンシャクの方が早いし、多くの芽が生えてくる。ジャガイモ栽培では芽かきという、生えてきた芽の数を2~3本に減らす作業が必要である。多数の芽が込み合っていると小さなイモしか入らないためである。シンシアでは芽かき作業は余り必要なさそうだ。ではシンシアの方が良いかといえばそうでもない。ダンシャクで芽かきを行った芽の部分を、挿し木ならぬさし苗してやると、ちゃんと活着してイモができるのである。この場合は芽かき作業もいらない。去年やってみたら上手くいった。つまり、少量の種イモを霜でやられないように注意して植え付け、たくさん出てきた芽の部分を植え付けてゆけば、種イモの購入量がかなり少なくて済むのである。もっとも、人件費を考えればペイするかどうかは別の話である。

 昨日はタケノコイモを植え付けた。畝立て機を畝立て用ではなく植え溝を掘るために使うという反則技でつくり、この溝の中に貯蔵していたイモを植えていった。このイモは土寄せすることが大事なのだが、土寄せは重労働である。真夏の太陽の下でするような体力はない。つまり、畝間を広くとった深めの植え溝にうえつけ、畝立て機で土寄せをしようという魂胆である。どうなるかは分からないが、歳なりのやり方を工夫するのはそれなりに楽しいものである。

 今日の雨で時間がとれたため「アブシジン酸の総合的理解に向けて」とする総説?的書き物が終わった。一段落である。書きたいことはまだいくらでもあるのだが、まあ少しづつ付け足していくことにする。そこで次に何について書くか、考えている。世の常識に反抗するのが好きであるため、無知蒙昧の状態で書くわけにはいかない。今用意しているタイトルは、「TCA回路は回らない」、「ブドウ糖は逆解糖系の盲腸である」、「植物は海からは上陸しなかった」などである。古希を過ぎた爺でさえ一所懸命畑を作り、学問的なことを考え続けているのだから、若者もいろんなことを学んで欲しいな。SNSに取り込まれて常識的判断を失っていないか、常識的判断といわれるものが時としていかに危険なものであるか、理系とか文系かいう壁の中に閉じこめられた囚人になってはいないか、などなど、常に考え続けることがいよいよ必要とされる時代になっているようだ。

 明日はワラビの収穫とダンシャクの芽かきと芽の植え付け、時間があればタマネギ周囲の草取りと茎倒しかな。全部やると一寸きつそうなので途中でやめるかもしれないな。いつも通り、体力と相談しながらの判断になりそうだ。

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ABA 思えば遠くへきたもんだ!

最終章 思えば遠くにきたもんだ!!

 考えてみれば四半世紀ほど昔のことであった。バブルに踊り前のめりにお金を追い求める風潮に反発を覚えて、生長にブレーキをかけるホルモン−アブシジン酸—を研究の対象とした。ところがアブシジン酸研究のフィールドにおいても、アブシジン酸の有効利用、高活性なアナログの合成、安価なアブシジン酸の製造などと、現代文明の流れに沿った研究が主流であり、落ち着いた科学としての研究を行うような雰囲気はすくなかったような気がする。多くの研究者にとって、「アブシジン酸の生合成が、何故C40のカロテノイド、キサントフィルを経由するという迂遠な経路を通るのか」などと言う疑問は、路端にうち捨てるべき雑音にすぎなかったようだ。まして「アブシジン酸はどうして植物ホルモンなのか」などという懐疑は、学会において存在するはずもなかった。

 現代においてこの傾向はいっそう強まり、すぐにあるいは近い将来に金銭的利益を生み出す研究だけが評価されるようになってきている。グーグルあるいはヤフーでアブシジン酸を検索してみられたらよい。まず、物質としてのアブシジン酸はどんなものかというサイト群がある。次に、アブシジン酸は植物ホルモンであることを前提とした研究についての発信が並んでいる。これをどう使えばあるいはどう制御すれば有益であるかという話に連なる発信群である。今ひとつは、アブシジン酸が動物における抗炎症性サイトカインとして働くという報告が基になったのかどうかは知らないが、アブシジン酸は健康に悪いと声高に述べ立てるサイト群が並んでいる。私のサイトはウイルスの進入で破壊され、しばらく行方不明が続いていた。

 科学から技術へと、時代の要請が変化してしまったようだ。「しかし、それでよいのか?」などという疑問は、時代遅れの人間がもつ述懐に過ぎないのだろう。さりとて、持ってしまった懐疑は、無かったものにするわけにはいかない。本来、アブシジン酸は何であったのかと考え続けていたとき、3つの大きな転機があったように思っている。

 一つは生理活性天然物化学・高橋 信孝、丸茂 晋吾、大岳 望 (1973)の中にルヌラリン酸を見つけ、Pryceらの論文に出会ったことにある。ルヌラリン酸の構造式をあれこれといじっていたとき、平面構造ではあるにしても両化合物の官能基の配置が似ていることに気が付いた。ここから、両化合物の類似性についての研究をはじめた。

 しかし、構造の類似性と両化合物の植物界での分布だけでは、「アブシジン酸によるルヌラリン酸のニッチの乗っ取り」に必然性を感じさせる説明をすることができない。両化合物の類似性について、色々な方向からデータを取りながら考えていたのは、高等植物においてルヌラリン酸はなぜ消えたのかと言う疑問である。高等植物においてルヌラリン酸が消えてしまった理由は何か?この疑問を追いかけていった結果、ルヌラリン酸(スチルベノイド)とフラボノイドとの進化的な関係に気付いた。同じく、アブシジン酸とルヌラリン酸の問題を理解し解決するには、時間軸の導入が不可欠であると思い至った。これが第二の転機であろう。

 いま一つの大きな転機は、「活性酸素―生物での生成・消去・作用の分子機構 」edited by中野 稔・浅田浩二・大柳 善彦 (1989)との出会いである。この中にアブシジン酸やルヌラリン酸について記述があるわけではない。しかし、活性酸素の物性、P450に代表されるオキシゲナーゼによる活性酸素の消去、カロテノイドを含む低分子物質による活性酸素の消去などの項目を何度も読みながら、オキシゲナーゼと呼ばれる一群の酵素といわゆる二次代謝物質の関連などについて考え続けた。その結果が、ルヌラリン酸とアブシジン酸の歴史の長さに関する考察、酸素添加による代謝爆発:Oxygenative Burst仮説となったわけである。

 さらに、全体を大きな矛盾なく考えるに当たって重要な意味を持ったのが、オーファンレセプターのミラーイメージとなるオーファンリガンドの概念である。Oxygenative Burst仮説から導かれるオーファンリガンドとオーファンレセプターの概念を組み合わせて考えていたとき、ある生理活性をもつ化合物の「化合物としての歴史」と「生理活性物質としての歴史」の長さが一致しないことに気付いた。これが種々の物質や生物現象の出現の歴史を重視する仮説群を基礎とする歴史生物学という分野を提唱する原因となった。

 こうしたいくつかの新しい仮説の組み合わせで、アブシジン酸によるルヌラリン酸レセプターの乗っ取り仮説を大きな矛盾なく論証できるようになったし、高等植物におけるルヌラリン酸の消失が、フラボノイドの分布とも重なる非常に大きな広がりをもつ事象群であることも明らかになった。ルヌラリン酸、アブシジン酸、これらに係わるカロテノイド、フラボノイド、スチルベノイドなどについて、いままでにない総合的な視座からの説明ができたのではないかと考えている。勿論、これは自己評価にすぎず、他の方々がどう評価するかは全くわからない。とはいえ、私が25年ほど前に何気なく持った疑問—高等植物になるときに植物はその抗ストレスホルモンをルヌラリン酸からアブシジン酸へと変更したのではないか−という些細な疑問は、当初思いがけないほどの広がりと深みを持った問いであったようだ。

 考えてみれば、アブシジン酸とルヌラリン酸という2つの化合物を通して、私は植物の進化を追いかけていたことになる。この間、お金に溺れることなく愛知者(フィロソフォス)としての道を踏み外さなかったことだけは誇って良いのかもしれない。

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ABA 沈思黙考 6

 KEGGに改訂に伴い、双子葉並びに単子葉植物はすべて完成したアブシジン酸生合成系を持つようになったようだ。しかしながら、アブシジン酸は「スギゴケ以上の高等植物に分布し・・・」という考え方に従うとすれば、困ったことになる。スギゴケの仲間に分類だれるヒメツリガネゴケはXanthoxinからAbscisic aldehyde、Abscisic aldehyde からアブシジン酸への二つの段階の酵素を欠き、シダ植物であるイヌカタヒバはAbscisic aldehyde からアブシジン酸をつなぐ酵素を欠く。では代謝系がアブシジン酸まで伸びていない植物はアブシジン酸を生合成できないのか。そんなことはない、アブシジン酸はそれなりに生合成され、色々なストレスに応じて増減しているようだ。この矛盾をどう説明すればいいのだろう。

 柿本人麻呂といえば、日本語という言語の黎明期に極めて大きな役割を果たした智の巨人である。彼の作歌は、彼の年齢とともに表記法が変わっていくのだが、その表記法が日本語の成立と同期しているようだ。勿論、私が言っているのではない。梅原猛氏が「歌の復籍」という本の中で述べていることである。ところが、柿本人麻呂歌集を、その表記法の違いを基に、彼が作った歌ではなく柿本人麻呂が集め編集した歌集として理解しようとする立場を取る人がいるらしい。日本版ホメーロス問題であろう。私は、私より遙かに優れた【天才】の存在を認め、歌の基底に流れる人麻呂独特の構想の大きさ・特有な調べから、柿本人麻呂歌集は柿本人麻呂一人の作品であるとする説に同意する。また関係のないことを書き始めたと、眉をひそめる読者がおられるかもしれないが、アブシジン酸の活性とは何であるか、アブシジン酸の生合成はどのように起こっているのかという2つの問に答えるには、ホメーロス問題が1つの指針になると考えている。

 かなり昔の話だが、ジベレリンの活性について考えていた頃、なぜこんなに多種類のジベレリンが存在するのかという疑問とともに、ジベレリンの活性とは植物体内に存在している活性型ジベレリンの活性の和として捉えるべきではないのかと考えていたのだが、そう言っても余り相手にされなかった。

 もう一つ、ジベレリンについては言葉の使い方に大きな矛盾が存在すると思っている。いままでに知られているジベレリンの仲間は100種を軽く越える。その中にはGA1、GA3、GA4など少数の活性の高い化合物群とともに、活性がないとされる多数の化合物群が存在する。微量で高い活性を持つ植物ホルモンという集合の中にジベレリンという物質群があるのだが、その中に生理活性を持たないジベレリン類を含ませることにはかなりな違和感を感じてしまう。つまり、生理活性のないホルモンという言明、これは自己撞着以外の何者でもない。ただ、ジベレリン研究の歴史的経緯から見れば、そんな言葉尻を捉えるような批判はするなとたしなめられる可能性が高い。

 それはそうとして、アブシジン酸の話である。先に述べたように、いくつかの植物がアブシジン酸に達する生合成系を持っていない。しかし、それら植物の体内にもアブシジン酸は存在する。存在するだけでなく、ストレスに応じて量が増減するらしい。この現象をどのように理解すればいいのか。

 答えは何度も書いてきた。賢明な読者には何を今更と思われるかもしれない。本ブログでは、酵素の基質特異性を意識的に否定するような発言を繰り返してきた。酵素の特異性なんて、酵素発見の初期においては驚くような特性であったことは理解できるが、大したものではない。酵素の中で多くのものは大した基質特異性は持たない。消化酵素を考えれば、それは明らかなことである。アミラーゼやペプチダーゼなどが高い基質特異性を持っていたら、食物中に含まれる雑多な鎖長をもつデンプンや種々のタンパク質に対応できないではないか。甘い基質特異性こそが必要なのである。

 さらに、かなり高い基質特異性が求められる酵素群、例えばシナプスでの正常な神経伝達に不可欠なアセチルコリンエステラーゼという酵素、本来の基質であるアセチルコリンと間違えて有機リン剤、カーバメート剤、そしてネオニコチノイド剤と呼ばれる極めて多数の化合物群を取り込んで本来の機能を失うではないか。酵素は容易に騙されるのである。さらに何度か強調したように、いわゆる解毒という代謝系の中で働くオキシゲナーゼ(シトクロームP450)の、酸素ではない基質に対する特異性は甘くないと、本来の機能は果たせない。

 アブシジン酸生合成系を見たとき、β-カロテンから後は殆どがオキシゲナーゼによる酸化反応の連続である。植物におけるオキシゲナーゼ分子種の多さを考えれば、ある段階が1種の酵素で触媒されていると考える必然性はないのではないか。もちろん、何種かの植物には萎凋性を示すミュータントが知られており、原因となっている遺伝子まで特定されていることは周知の事実である。だが、そうした代謝系のブロックが起こっているミュータントにおいても、アブシジン酸濃度が完全にゼロになってはいないのである。つまり、ある段階を触媒しているのは複数の酵素であり、その中で主要なものを○○代謝酵素として認識し、他のものを無視するということが起こっているのである。ひょっとしたら我々は、幾つかの種類の植物がアブシジン酸を抗ストレス性の生長調節物質として使用するようになる最終段階に立ち会っているのかもしれない。

 さて、先の考察を読んだ多くの人が、現在認められている定説の瑕疵部分をつなぎ合わせて構築したような考察だとの感想を持たれるかもしれない。その感想は分からないでもない。定説を信じる立場から見ればそう見えるだろう。しかし、私の立場は違う。定説というものは、物質にしろ酵素にしろ活性の高い、目立つものをだけ集めて紡いだ Noisy minority のための物語である。私が提出しているのは、量的には多くあっても活性の低い。あるいはない代謝物質と基質特異性の低い酵素を基礎にして構築した Silent majority を重視した仮説である。Silent majorityを説明するための仮説を、学会ではNoisy minorityであったかもしれない私が提唱する、人の世とは面白いものである。

 これから先は仮説というより単なる想像に過ぎないが、蓋然性のある想像として述べておく。β-カロテンからアブシジン酸に至る生合成経路において、酵素の関与しないtrans体からcis体へ異性化反応がある。9-cis-Violaxanthinと9-cis-Neoxanthin生成段階である。この異性化は光によって起こる異性化反応である。さらに、アブシジン酸の生合成の5つのステップが、モノオキシゲナーゼによる酸素分子の消去を伴う水酸化であり、いま1つもやはり酸素分子の消去を伴うジオキシゲナーゼによる二重結合の開裂反応である。これは何を意味するか。

 太陽光の照射が始まり光合成が起こると、先に述べた9位の2重結合のcis体への異性化とともに植物体内の酸素濃度は必然的に上昇する。酸素分子をこれらオキシゲナーゼの本来の基質であると考えれば、アブシジン酸の生合成が加速するのは必然の結果となる。つまりアブシジン酸は、光合成が起こる環境下において生合成量が増加するという基本的な動態を持つことが予想できる。さらに、太陽光が当たると当然気温が上がる、気温が上がると蒸散量が増える、従って、水の不足が起こりやすい。そんな条件下に、アブシジン酸の生合成が加速するのである。

 アブシジン酸が基本的にもつこの濃度変動特性は、植物で抗ストレス的に働く化合物として極めて望ましい特性であったに違いない。そしてこの望ましい特性を持つアブシジン酸の構造が、“原ホルモン”として働いていたルヌラリン酸とよく似ていた。二つの化合物が共存したと思われる5億年余りの時間の中で、アブシジン酸はルヌラリン酸の役割を補完する化合物としてのニッチを獲得していったのであろう。

 ところが、4.7億年ほど前に、陸上への進出を試みていた原始植物の中で、偶然にもスチルベンシンターゼがカルコンシンターゼへと変化を起こし、ルヌラリン酸の生合成系が消失した。この偶然と先述した二つの特性が、アブシジン酸によるルヌラリン酸に代わる次代の抗ストレスホルモンとして地位獲得を可能にしたのではないだろうか。さらにだが、スチルベンの喪失に伴って生合成が始まったフラボノイドと呼ばれる物質群が高い紫外線防御能を持っていたことも、原始植物の陸上への進出を助けたであろう。

 などなど、屁理屈かもしれないがよくも考えたと自ら呆れている。

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ABA 沈思黙考 5

 沈思黙考の5、データが古い以前の分をアップしてしまいました。新しいKEGGのデータを基に書き直したのですが、間違って消してしまいました。明日にでも新規なものに入れ替えますので、以下の分は読まないで下さい。

《 だが、生き物というものは一筋縄で理解できるものではない。進化的に見ると、単子葉植物は双子葉植物から分岐して進化してきたようである。進化していることが良いとか悪いとか言う判断はすべきではない。単に単子葉植物の方が進化が進んでいるというにすぎない。そこでだが、ゲノム解析の終わった植物群の中にも、単子葉植物が存在する。イネ(japonica)、ソルガム(モロコシ:年のヒトはコーリャンといった方が分かり易いかも)、トウモロコシ、セイヨウヤマカモジとアワの解析が終わっている。これらの植物についてアブシジン酸生合成系を眺めてみると、困った事実が判明する。下にジャポニカ種のイネの代謝系を占めそう。

イネ(ジャポニカ種)のアブシジン酸生合成系

 図13-7にイネのデータを示しているが、XanthoxinからABA-アルデヒドまでの代謝系はあるのだが、ABA-アルデヒドをアブシジン酸に導くaldehyde oxidaseが存在しない。アブシジン酸生合成の最終段階にあるはずのaldehyde oxidaseが存在しない?この酵素がないのにアブシジン酸生合成系と言えるのだろうか。

  ところが、この段階の酵素を欠いた植物はめずらしくないのである。マメ科のダイズ、タルウマゴヤシ、バラ科のエゾノヘビイチゴ、ウリ科のキューリ、ヤナギ科のポプラ(black cottonwood)そしてナス科のトマトもこの酵素を欠いている。ゲノム解析の終わった蘚類以上の植物18種の中で、この酵素を持つのはシロイヌナズナ、ミヤマハタザオ、トウゴマ、そしてヨーロッパブドウの4種に過ぎない。いろいろな植物でABA生合成系が何処まで機能しているのかをまとめると、以下のようになる。

各種の植物においてアブシジン酸生合成系はどの段階まで機能しているか

  結論だが、β-カロテンを通ってアブシジン酸に達する生合成経路と、これを消去して8-ヒドロキシアブシジン酸にする酵素を併せ持つ植物は、カラシナ科、トウダイグサ科そしてブドウ科にしかみいだせない。この事実を基に、アブシジン酸はストレス存在下に急速に生合成されるとか、ストレスが解除されると速やかに代謝されるなどという一般化した言明は、本当に可能なのであろうか。我々が見ていたのは、色々な植物の持つ代謝系を重ね書きして、一見完成したように見える「苟且の代謝マップ」ではなかったか。》

 以下の分は読まないで下さいと書いてはみたものの、読まないはずはないでしょうね。こんな場合、人は読むなといわれれば読むし、見るなといわれれば見る生き物です。鶴の恩返しであっても伊邪那岐命の神話であっても、見るなといわれれば見るものです。従って、上の部分がどう変わったかをこの下に書き加えることにした。書き換えていた原稿の保存を忘れ、編集ページを閉じたのが原因であるため、書き換えた原稿は消えてしまっているので、再度新たに書くことになってしまった。

 だが、生き物というものは一筋縄で理解できるものではない。進化的に見ると、単子葉植物は双子葉植物から分岐して進化してきたようである。進化していることが良いとか悪いとか言う判断はすべきではない。単に単子葉植物の方が進化が進んでいるというにすぎない。そこでだが、ゲノム解析の終わった植物群の中にも、単子葉植物が存在する。イネ(japonica)、ソルガム(モロコシ:年のヒトはコーリャンといった方が分かり易いかも)、トウモロコシ、セイヨウヤマカモジとアワの解析が終わっている。これらの植物についてアブシジン酸生合成系を眺めてみると、困った事実が判明する。下にジャポニカ種のイネの代謝系(2013年)を示そう。

イネ(ジャポニカ種)のアブシジン酸生合成系(2013年)

 ジャポニカ種のイネのデータを示しているが、β-カロテンからXanthoxinを通ってABA-アルデヒドまでの代謝系はあるのだが、ABA-アルデヒドをアブシジン酸に導くaldehyde oxidaseが存在しない。つまり、アブシジン酸生合成の最終段階にあるはずのaldehyde oxidaseが存在しないのである?イネだけでなくソルガム、トウモロコシ、セイヨウヤマカモジ、アワのすべてがこの酵素を欠いている。この酵素がないのにアブシジン酸生合成系と言えるのだろうか。ところがKEGGも生き物であり、常に新しいデータを基に改訂が続けられている。そこでどうなったか。以下に示す。

イネ(ジャポニカ種)のアブシジン酸生合成系(2021年)

 なんと、1.2.3.14(Abscisic aldehyde oxidase)が存在している。つまり、先の議論は成立せず、イネを含むすべての植物は完全なアブシジン酸生合成を持つということになった。まあ、進化学的にもっとも進んでいるという単子葉植物であるので、そうかと思うだけである。だが、2013年時の代謝マップでこの段階の酵素を欠いた植物はめずらしくないのである。(マメ科のダイズ、タルウマゴヤシ、バラ科のエゾノヘビイチゴ、ウリ科のキューリ、ヤナギ科のポプラ(black cottonwood)そしてナス科のトマトもこの酵素を欠いている。ゲノム解析の終わった蘚類以上の植物18種の中で、この酵素を持つのはシロイヌナズナ、ミヤマハタザオ、トウゴマ、そしてヨーロッパブドウの4種に過ぎない。)と書いたのだが、2021年段階においては、これらすべての種に完全なアブシジン酸生合成系が認められていた。

ダイズのアブシジン酸生合成系(2021現在)

 話としてはこの方が合理的であり納得しやすいのだが、少しだけ疑問が残らないでもない。最終段階で働くAbscisic aldehyde oxidaseなのだが、イネにおいては3種の酵素が存在すると書いてある。植物において複数のイソ酵素があること自体は不思議ではない。だが、これらの酵素についてコメント欄を見ると次のように書いている。 While abscisic aldehyde is the best substrate, the enzyme also acts with indole-3-aldehyde, 1-naphthaldehyde and benzaldehyde as substrates, but more slowly. Abscisic aldehydeが最適の基質であるのだが、これらの酵素はインドール酢酸生合成におけるindole-3-aldehyde に対してもゆっくりではあるが働く。生育を抑制するホルモンとされるアブシジン酸の生合成、その最終段階を担う酵素が、成長を促進するインド−ル酢酸(オーキシン)の生合成、その最終段階で働く。いやいやどっちやねんといいたくなる。

 少し調べてみると、オーキシン生合成酵素としては別の酵素が比定してあり、その酵素がAbscisic aldehydeに作用するとは書いてないので、Abscisic aldehyde oxidase のインドール酢酸生合成への寄与は少ないのかもしれない。しかしながら、Abscisic aldehyde oxidaseを欠いたままにしておくことへの不安感があったとも考えられる。誤解して欲しくないのだが、これはKEGGがデータを変えたなどという批判ではない。自然界とはそういうものである。もっといえば、こうした議論ができるテーブルを用意していただいたことに、感謝している。

 残っている疑問はシダ植物であるイヌカタヒバと蘚類に属するヒメツリガネゴケがアブシジン酸に到達しないABA生合成系しか持たないことかな。それらに対し、アブシジン酸はストレス存在下に急速に生合成されるとか、ストレスが解除されると速やかに代謝されるなどという一般化した言明は成り立つのであろうか。さらに、紅総類と緑藻類においてはアブシジン酸だけでなくルヌラリン酸の生合成も欠いているように見える。緑藻類は陸上植物の直系の祖先とされているとはいえ、水性の藻類だから、水ストレスはないだろうなどという一言で片づけるのは少し難しい。現状では分からないというしかないだろう。結論としていえることは、我々は、色々な植物の持つ代謝系を重ね書きして、一見完成したように見える Reference pathway に基づいて議論をしていただけではなかったか。神は細部に宿る、自戒である。

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