歴史生物学 解糖系についての考察 1

少しだけ格調が高過ぎる序論

 生化学におけるもっとも基本的でかつ重要とされる解糖系、TCA回路、ペントースリン酸経路などに対して、世の常識とは全く異なった解釈をしてみたい。山里に隠遁してしまった時代遅れの老爺の解釈であるため、誤謬である可能性を否定はできないが、これらの代謝系の意義づけに対して、長い間持ち続けてきた私の違和感を世に問うことにした。この私論が、これらの代謝系に関する独断と偏見に満ちた認識にすぎないのか、それとも今まで続いてきた認識の誤謬を正すものとなるのか、それはまだ分からない。判断は歴史に任せるしかない。

 もっとも、今までにも私と似た感想を持っていた人がいたかもしれない。でも、なかなか言い出せない雰囲気が学会に漲っている。そんな自分の足下を掘るような議論はするな、先に進めというのが主流にいる人々の考え方である。しかしながら、自らの依って立つ学問の足場を常に検証する営為は学者として不可欠なものであろう。だがそんなことを考えているのはきっと少数だろうな。序文としてはいくぶん長くなりそうであるが、現在認められている各系の常識的解釈を批判しようとするのであるから、どのような視座からこれを行うのか、何故そんなことを考えるようになったのか個人的な経験を含め書き留めておくことにする。

 40年以上前だったのだが、親父が倒れたという切迫した母からの電話が、下宿していた大家さんの家にかかってきた。午前2時過ぎだったと記憶している。下宿を出て小走りに国道まで出てタクシーを拾った。タクシー代の手持ちはなく家に着いたら払うという約束で乗った車の中で、これで私の黄金時代は終わるのかも知れないと考えでいた。この頃、研究活動を含む研究室での生活が楽しくて、この生活をあと数年は続けたいと願っていたのである。親父が倒れたというのに、自分の将来のことを考えているなんて、親不孝者だなと何処かで感じていた。タクシーから降りて家に戻ろうとした時、見上げた異様に澄み切った夜空に、オリオン座、おおいぬ座、そしてこいぬ座が絢爛と輝いていた。この星空に、伝承してきた神話を貼り付けた古代の人々の想像力(創造力)に畏怖を感じた。

    別に意図はありません。関係がありそうななさそうな写真です。懐かしいと思われる人がいるとすれば、同じ時代を生きた人でしょう

 4ヶ月の入院生活の後、奇跡的に親父が生還した。だが最も幸運だったのは、学生生活を中断せずに済んだ私だったに違いない。それはそうとして、絢爛たる星座を見た日から星を見る目が変わってしまったのである。誠文堂新光社から出版される天文ガイドや野尻抱影氏の著書を楽しむ程度の単なる天文ファンであった私が、星座とは何であるのかと改めて考え始めたのであった。当時、それが自らの専門分野である農薬化学、そしてその基礎をなしている生化学という学問を、根底から批判する営為に繋がってくるなどとは夢にも思わなかった。

オリオン座 https://www.civillink.net/sozai/kakudai/sozai2157.htmlより借用

 夜空を眺めていたら、生化学の論理が間違っているかもしれないと気付いたなどという話は、常識的にはありそうにない。こんなことは書かずに本論に入ったほうが良いと、私の常識も判断するのだが、人という生き物は全く関係のないものを見てとんでもないことを思いつくものである。何度も何度もそんな経験をしてきた。以前に、わからないものを分からないものとして考え続ける知的持久力について書いた記憶があるが、いわゆるセレンディピティとは、そういう知的持久力によって具現化されるものであろう。

 さて、蛇足かも知れないが、少しだけ先走った議論をしておくことにする。現代においても、いまだ多くの人々を魅了する占星術という体系が、星々の恣意的な分類に依存していることは間違いない。私としては、こうした分類に基づく占いの体系を、盲信することはないが、頭から否定するつもりはない。各自の人生の中で賢く向かい合えば良いと考えている。しかしながら、古代の人々が星座という形で星空の分節(星空に切れ目を入れる行為)を行うに際して、失われた情報についてはいま少しの注意を払う必要があるだろう。

 古代の人々が創った星座は、地球を中心に置いた仮想の天球面へ星々を貼り付けた、いわゆる投影図を基礎としているのだが、この投影図を作るに際して2つの情報の欠失が発生する。一つは、地球から恒星までの距離情報、もう一つは星本来の明るさ(絶対光度)の情報である。もちろん、古代の人々にそれを求めるのは酷であるし、求めるつもりもない。だが、結果として、彼らは距離という3次元の情報(これは時間情報でもある)と、個々の星の本来の明るさと(絶対光度)いう2つの重要な情報を欠いた投影図を基礎として、星座の切り抜きを行ったことは否定できない。さて、生化学という学問の精華である代謝マップが作られるに際して、同様な情報の欠失が起こってはいないだろうか。

 このような疑いを持って代謝マップを眺めると、幾つかの疑問が浮かんでくる。第一の疑問は、歴史的産物である代謝のネットワークの中から、「何」に従って化合物群を選び、これらを連ねて代謝系と定義したのかという疑問である。換言すれば、星座の成立における「神話・伝承・器械のイデア」に対応する「概念」は何かという疑問である。研究者達は、代謝物の集団の中から、「神話・伝承・器械のイデア」に対応するある「概念」に従って、恣意的に化合物群を選択・配置し、一連の系として記述したのではないか。もしそうであれば、その「概念」とはどのようなものであろうか。

 第二の疑問は、量の問題である。これは星座を構成している星の絶対光度に対応する。生物界において、年間にギガトンオーダーで流れている代謝物と微量なオーダーでしか流れていない代謝物が、代謝マップの上では同じ大きさで記載されているのである。付け加えれば、量的に少ない代謝物であっても生物活性が高ければ「大きく」あるいは「boldface」で描いてもらえる場合もある。代謝マップにおける生物活性は、天球図における実視等級と等価な判断基準になっているのであろう。この量に関する問題を前面に出した認識体系はまだ構築されていないような気がしている。

 さらに第三の疑問は、代謝系内の流れの方向についてのものである。代謝系が歴史的産物である以上、その理解のためには、系がいつ成立したかという時間軸さえも包含すべきであると考える。代謝の流れにおいては、原則として代謝系の上流に位置する物質が歴史的に古い化合物であり、代謝系の下流に位置する物質は新しい物質でなければならない。これは自明のことのように思えるが、多くの代謝過程で働く酵素が可逆的に働くことを考えると、ある代謝物を上流におくという判断は、第一の概念に依存することになる。さらに、代謝系の進化の過程に於いては、一般的に描かれている代謝物の新旧関係が逆転しているとする仮説も存在する。

 考えてみると、代謝マップは時系列を意識して作られた物ではないようである。こうした時間的要件を重視した立場から時間生物学という名称で持論を纏めようと考えたことがあったが、時間生物学という用語はすでに生物時計を対象とする学問で使われていた。従って、生物現象の歴史性を組み込んだ生物学という視座から歴史生物学という用語を作りこれを使用することにした。

 独断だが、我々が作り上げてきた代謝マップは、進化を続けている代謝のネットワークを現代という時間で切断し、その断面図をもとに構築されている。従って、切断する時間を変えると、代謝の流れる方向が変わるだけでなく、構成要素である代謝物の種類や意義付けも変化する可能性を否定できない。現代の代謝マップは、ある方向付け(概念)の下で、系を流れる代謝物の量の情報と、系の成立に関する時間的な情報をも失った形で投影された物ではないか。このような懐疑を通底する基盤としておき、各代謝系を吟味していった時、どのような世界が現れるのか、それを信じるか信じないかは読者の良識に任せよう。

カテゴリー:  解糖系への異論, 歴史生物学 タグ: パーマリンク