アイガモ

  田んぼの草取りである。除草剤は使わない方が良いのではないかというアドバイスをもらうことが多い。アイガモ農法が思いの外知られているらしく、アイガモを入れたらどうかともいわれる。確かに、上手くできればいいのだろうが、2つ問題がある。一つは水田の初期に入れるアイガモは、まだ幼い鳥である。幼鳥に対しては、田んぼの周りに網を張って逃げ出すのを防ぐだけでなく、イタチやカラス、野生化したネコなど捕食性の野生動物から守ってやらねばならない。土日の週末農民では、ちょっと以上に厳しい。

  いま一つは、私個人の問題である。現行の野鳥の会はあまり好きではないが、中西悟堂氏が主催していた頃の日本野鳥の会には参加していた。要するに小鳥が好きなのである。アイガモは人為的交雑種であり、放鳥することは禁止されている。ある程度大きくなると羽を切って飛べなくしなければならない。アイガモ農法で働いてもらったアイガモは、継続して飼うのは難しいらしく、秋には殺して食用にするのが一般的である。

  理解と納得は違う。たとえ、人為的交雑種であるから殺さなければならないという理屈は理解するにしても、それを自ら行うには心理的負担が大きすぎる。鳥として生まれた彼らに、大空からの世界を見せてやりたいと、切実に思ってしまう。誤解されると困るのだが、アイガモ農法に反対しているのではない。この農法に優れた点があることは十分認めているし、アイガモ料理が出れば、私も間違いなく食べる。他の方がおやりになるのに何の異論もない。ただ、秋になれば情の移った鳥たちを殺さざるを得ないという現実の下で、私がアイガモを飼うことは納得できないようだ。実に我が儘な1愛鳥家の感傷にすぎない。

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健康診断

  昔から健康診断が嫌いだった。一応教育に携わる職にいたため、胸部検診は義務だと思っていたが、胃の検診とか大腸ガン検診とかは不必要であろう。その部分は、正しい意味での自己責任である。

  十年ほど前に、国民健康増進法などという法律が作られ、国民は新たな義務を背負わされた。第二条 に次のように書いてある。「国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。」これをそのまま施行すれば、夜更かしをする人も、沢山食べる人も、いくぶん過度なダイエットをする人も、法律違反である。相撲取りは全員が平均体重をはるかに超していることを理由に悪質な違反であろう。マラソンランナーは、脳内麻薬が出るほどに体をいじめるから、これもまた悪質な違反であろう。別件逮捕の理由になるのかな?

  我々は、他人に迷惑をかけないという限りにおいて、愚行権をもつ。国がこうした法律を基に、お前の血圧は高すぎるだの、血糖値も高すぎるなどと口を挟むのは越権行為というより大きなお世話であろう。人間、還暦を過ぎれば体のあちこちにガタが来るのは自然である。天から授かった能力を、天に返していくプロセスが始まったに過ぎない。

  国民の健康を心配する暇があるようなら、国のきわめてメタボな財政問題とか、情報の流れる血管の詰まりとか、視野狭窄に陥った外交とか、そっちを心配してくれ。

  それで、先日健康診断があった。毎年、朝から食事をしてきたことを理由に胃の検診を受けなかった。だが、検診をとりまとめている方が、私のために困っていたらしい。あまり我が儘を言っても大人げないと思い、前日の夜から飲まず食わずで、検診に至った。ところが、この暑さである。どうやら、軽い熱中症になったらしく、検診後に頭痛と目眩に襲われた。次の日には回復したが、検診を実施したメンバーは健康増進法違反であったように思える。

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炎天下の農作業

7/20  カキ摘果

  午後から、柿の摘果を行った。摘蕾の段階で十分に落とし切れていないため、実が鈴なりになった枝が曲がって垂れてくる。いや〜垂れ柿だなどという余裕はない。専門で作っている人の農園では、しっかりとした枝に充実した実がなっている。私のところでは細い枝に、小さな実が鈴なりである。あらためて気を取り直し、7時過ぎまで実を落とし続けた。落とした果実の数は800個を越えた。植えてから30年くらいたった木だそうだが、その生産力の高さには驚くしかない。

  今年は暑い。暑い年にはカメムシの発生数が急増する。山口県ではカメムシ注意報が、すでに発令されているそうである。周囲の桃畑は出荷の最盛期、ナシ園とブドウ園もそろそろ最盛期を迎える。これらの園では、袋を掛けることでカメムシに対応している。カキには袋を掛けるという対応法を見たことがない。柿の袋掛けができないか考えて見よう。

7/21  道路整備

草刈後の山道
草刈後の山道

  今日は、果樹園周辺の人が総出で行う道路整備事業である。集合時刻が7時半ということで5時に起きて5時半前に出発した。昨日の疲れが幾分あるとはいえ、早朝の空気は気持ちがよい。ところが、私と同世代とおぼしき人々が、何人も歩いている。中には汗をかいて走っている人もいる。私はただ歩くことやただ走ることには、あまり意欲が涌かないらしい。健康のためと言われても、長続きしないのである。どうやら私の意欲向上には、もっと具体的な目標を必要とするらしい。

  7時半から一斉に草刈り開始、全山で草刈り機の音が湧き上がる。耕作放置された農園では、草は伸び放題になり道路へと侵入してくる。この時期、放っておくと、侵入する草の壁で道幅は半分くらいに狭まってくる。植物の生長力は凄い。2時間半ほどで作業終了後に朝食を取ってあと昼寝、昼過ぎからカキ園と水田に顔を出す。カキはまだなりすぎているが、水田は順調、コブノメイガとイモチに注意が要りそうである。そして、選挙であることから早めに帰宅する。問題にすべきことが殆ど論じられていない空虚な選挙だが、棄権はしたくない。

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Profile

   アブシジン酸を中心にして、植物を語ってみたい。幾分変人と評されることの多い著者が書くものであるから、一般的なアブシジン酸の理解とは可成りな違いがある。説の正否はもちろん大事だが、どのような視座からものを見たのかという点で楽しんで頂ければそれで良い。さて、人が他人の書いたものをある程度でも理解しようとする場合、著者の育ち、経歴、社会における立ち位置などをある程度知っておいたほうが良いだろう。文体と論理の明晰さだけから、女性である著者を男性に違いないと長い間誤解していた経験があるが、これは希有な例外であって、こんなことはまず起こらない。同時代のすべての人から全く理解してもらえないほどの天才(別名を気違いという)ではない著者が書くものであれば、そこで提示される発想が著者の人となりから大きく乖離する場合はほとんどないだろう。とすれば、恥ずかしながらも私自身について、ある程度のプロフィールを書いておくほうがいいのかなと思い書くことにする。

  幼い頃から体が弱く、幼稚園には半分ほどしか行けなかったらしい。体の発達とともに知能の発達も遅かったらしく、私には幼稚園の記憶はもとより小学校と中学校の記憶さえほとんど残っていない。早生まれの一人っ子で、かつ父の仕事ゆえにほぼ1年ごとの転居をくり返していた私には、社会性はほとんど育っておらず、人間関係は疲れるだけのものであったような気がする。私の中で、記憶がつながりとして残ってくるのは高校の頃からである。それ以前は、いくつかの断片的な記憶が残っているだけで、いわば他人の人生のように感じている。どうもこれは私に特有な症状のように思える。幼いときからの細かな記憶を保持している人を時々見かけるが、こんな人は生まれてから転居することなく育った人に多いようだ。

  彼らは、一本の木、いつも通る道、良く出会う人、いつも見る町並みなど、そういう何でもないものを見る度に、記憶をたどり再確認する作業をしているのではないだろうか。免疫におけるブースター効果みたいなものだろう。これがなかった私は、幼年時代の記憶をほとんど失って、現実の故郷だけでなく,精神的な郷里をも失った異邦人のような存在になっている。従って、先に書いた幼稚園に行けなかったという話も、93歳で他界した母親の昔話にすぎない。いわゆる虚弱児童であった私は、虫の図鑑をみながら日々を過ごしていたという。昭和30年頃の図鑑であるから印刷は悪かったであろうし、それほど立派なものであったとは思えないが、不思議で煌びやかなチョウの斑紋に、奇妙な甲虫の形と輝きに心ときめかせたのであろう。記憶は定かでないが、人並みに昆虫採集をはじめたことがあった。しかし、死にかけたギンヤンマの最後の痙攣をみて号泣し、採集を止めてしまった。まだ感受性が高かった頃の話である。

  小学1年のときの唯一ともいえるエピソードだが(本人の記憶はない)、先生がスジグロシロチョウを教室に持ってきてモンシロチョウですよと教えたらしい。ところが、低能なはずの私が、違う!それはスジグロシロチョウであると言い張ったという。体は弱く、人付き合いもできず、手がかかるだけだったこのガキの行為は、反抗として受け取られたらしく、転校するまで数ヶ月ほど干されたそうだ。何度も母親から聞かされた故にいかにも覚えているような気がするが、本人は具体的な記憶を全く持ち合わせていない。

  この世では言ってはいけない事があることを、初めて知ったのがこの時であったのだろう。だが還暦を過ぎても、この手の失敗を続けている。正論を盾に、何度辞表を書いたことか?「智に働いて角を立て、意地を通して失職し、余り豊かじゃない暮らし、其れがあなたの生きる道」などと誉められながら暮らしている。生来の性格に対して、学習などというものが殆ど役には立たないと実感するこの頃である。

  さて、私が中学3年か高校1年、今から50年程前のことである。まだ品格を残していたNHKだったと思うが、フランスの科学者がアマゾン川流域に生える幻のキノコを、実験室で栽培し、その幻覚成分を突き止めたというラジオ番組があった。この放送に触発された私は、昆虫だけではなく毒キノコにものめり込み、将来は天然物化学の研究者になろうと決意した。こうした番組を作るヒトは、子供の運命を変えてしまう可能性を持つことを誇りに思って良いかもしれないが、その怖さをも自覚する必要があるだろう。

  この決意を持って年に一度の転居を重ねながら高校性となったわけだが、ここで大きな挫折を味わうことになる。同じクラスの友人が極めてよくできる奴で、特に数学の能力は抜きんでていた。当時、旺文社が実施していた全国模試で二桁に入るような男で、高校1年のときにブルバキの数学原論を原書で読んでいた。(後日これは、誤解であることが判明した。原書ではなく、英語への翻訳本であった) これに対し、当時の私の数学能力はかなり悲惨であった。当時、小・中学校の教科書は、単元の順序が出版社によってまちまちであったため、毎年の転校ごとに未習単元を積み重ねていたのである。正の数と負の数の概念があやふやで且つ因数分解の意味も分からずにうろうろしていた私は、ブルバキの彼と自らを比較し、人知れず劣等感にひたる毎日を過ごしていたのである。

  ところがある日、自分の持つ思いもよらぬ能力に気づいた。目の見えない人に鋭敏な聴覚や触覚が育つように、数学のできない私には化学構造式が何の苦労もなく覚えられるのである。虫や鳥や植物の形に集中してきた私には、化学構造式をいくつかのピースの組み合わせとして捉える訓練ができていたのかもしれない。これは、天然物化学を志向する私にとって最高の贈り物であった。私も彼に倣って大学用の有機化学の教科書を、理解もできないままに読みふけったものである。

  まあ当然ではあるが、人生がそう思い通りにゆくものではない。16歳のとき、4月に引いた風邪からチアノーゼを引き起こすような喘息を患い、7ヶ月ほど寝たきりに近い生活を余儀なくされた。成績は急降下、進学どころか進級さえも危ないという状況に陥った。この体で将来どうやって生きていこうかと悩まざるを得ない日々ではあったが、同時に病のもたらす独特の精神状態を楽しんだのも間違いない。堀辰雄の作品にひたり、立原道造の13行詩を読みふけった。身近に死の影を感じ、その影を恐れながらも、夭折とか病葉という言葉に憧れと共感を感じていた。病の原因は肉体的なものではなく、多分に精神的なものであったようだ。内容については余りに私的なことなので省くことにするが、要するに子供であったということだろう。原因に気づいた日から急速に回復し、それ以降無謀な生活を続けてきたが、まだ元気に暮らしている。

  その年の12月に高校へ復帰した後、担任と校長の温情でなんとか進級した。成績も順調に回復したため自信を持って大学の入試に臨んだのだが、入試の前日、憧れの博多でパチンコ屋にデビューした。宿泊した旅館で友人たちと少しだけ酒を飲み、朝の四時近くまで騒いだ。実に馬鹿である。次の日の1時間目、国語の試験問題を一問解いたところで耐え難い睡魔におそわれ、ちょっとだけと思って寝た。肩をつつかれて目覚めると解答用紙の回収中である。よだれでまだ湿っているほぼ空白の解答用紙を恥ずかしながらも提出した。立ち上る淡い水蒸気を見たような記憶が残っている。もっと早く起こしてくれよと思ったが後の祭り、後日、一方通行の道路の出口で警官に捕まったとき、よく似た気持ちがした。もちろん落ちた。同じ部屋の友人達も皆落ちた。他の科目の得点は悪くなかったので、次の年は絶対大丈夫だと浪人の道を選んだのだが、ここでもまた世の中の厳しさを思い知らされることになる。

  この時代、私の受験した大学の試験科目は英語、数学、国語は当然として、理科と社会それぞれ2科目ずつ必要で、かつ大学からの科目指定であった。そして、最初に受験した年の指定科目は−世界史、人文地理、化学、生物—であったのに、なんと次の年6月には−日本史、倫理社会、物理、地学−が指定された。ちょっとだけ頭を抱えた。人間万事塞翁が馬、今振り返ってみると、この8科目を試験科目としたことが、いま考えを進める上で重要な基礎をなしているように感じている。

  大学4年になって研究室に配属され、修士課程にかけて菌の代謝産物の構造を2つほど決めて天然物化学から一時手を引くことになる。(これは正しくない、私は言われるままに分離作業をやっただけで、構造を決めたのはT先生である。) 修士課程を終え国家公務員の上級職を蹴ってとある地方自治体に就職したのだが、たまたま試験の成績が良かったばかりに、いわゆるエリートコースに乗せられてしまった。しかし、私にとって、このコースは居心地の良いところではなかった。研究的仕事はほとんどなく、多くの人との顔つなぎばかり、出勤すると机の上には見合いの写真という状況がいやで、本採用になる一週間前に辞表を出した。「おまえに公務員は無理、好きに生きろ」と、私の教育係だったT氏が笑って送り出して頂いたことに今も感謝している。(ところが現在、どうしたわけか公務員に分類される職にいる。)

同期の仲間より2年遅れて博士課程に戻った。天然物化学の研究では、単離した化合物が既知の物質であるというリスクが大きい。2 年も遅れているのだから早く博士号を取りたいというごくごく短絡的かつ近視眼的理由から、イソクマリンと呼ばれる天然物をモデルとした有機合成の仕事をすることにした。この時に、全く意識しなかったとはいえルヌラリン酸との縁ができていたのかもしれない。

  博士課程を修了した後、とある私立大学に籍を置いた。研究費を稼ぐ意味もあって有機リン系化合物・カーバメート系化合物などの合成を15年ほど続けた。しかしながら、天然物化学に対する興味を失っていたわけではない。日々、代謝マップを眺めながら、いわゆる二次代謝について考えることは続けてきた。何故、生物は、特に植物は多種多様な2次代謝物を作るのか?

  科学において「何故」と問うことは、時に致命的である。安易な目的論に陥らないにしても、論文が書けないからである。科学者として飯を食いたいなら、「何故」ではなく「How: どのように」という問題提起をせよと何度も有益なアドバイスを受けた。しかしながら、もって生まれたやっかいな性格というものは変えようがなく、「WHY?  WHY?  WHY?」と問う習性からいまだに抜けきれていない。

  25年程前になるだろうか、バブルといわれる時代に心理的な違和感を感じていた私は、研究対象を大きく変え、植物ホルモンであるアブシジン酸(図1-1)を扱うことにした。

図1-1

図 1-1 アブシジン酸の構造

  社会の在り方についてちょっと立ち止まって考えないとまずいのではないかと思い始めていた私にとって、「ちょっと待てというシグナルとしてのホルモン」という点に親近感を感じたのが原因である。この時、この化合物が私の自然観を変えてしまうようになろうとは夢想だにしなかったが、それから後の人生はこの化合物に振り回されることになる。研究成果は実にささやかで、学会での評価に値するものではないと自覚している。しかしながら、この化合物について考えるという点においては、誰にも負けなかったという自負はある。アブシジン酸について愚直に考え続けた私に、この化合物が垣間見せてくれた世界は、今までの生化学、天然物化学の常識を覆すものであった。団塊世代のまっただ中にいて、心のどこかで世の中の規範と常識に反抗し続けてきた一研究者のモノローグである。

Profile   完

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歴史生物学への誘い アブシジン酸生合成のまとめ 7

  さて、古細菌は35億年昔に少なくともGGPPまでの生合成を完成させていたと書いたが、真正細菌ではどうだろう。古細菌において「膜脂質がテルペン鎖をもつエーテル脂質であるという事実は何に由来するのだろう」と考えたことあったが。真正細菌つまりバクテリアがテルペン類を作るかどうかなど、ほとんど気にした記憶がない。かすかな記憶としては、テルペン構造を含む抗生物質があったよなという程度である。動物に至ってはコレステロールが膜脂質として働いているとか、プレニル化がタンパク質の活性調節に関与しているとか、プレニル化されたRNAがサイトカイニン生合成の原料の一部であるとか、その程度の断片的記憶しかなかった。ところが少し調べてみると、真正細菌においてもテルペン生合成系は十分に発達していたのである。いまは起源の問題を論じているので、系統樹の根っこ近くに位置する好熱性細菌を対象として論じることにする。

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図8-7 超好熱性真性細菌においてテルペン生合成系はどこまで伸びているか

  結果を先に言えば、真正細菌に属する(超)好熱細菌類は非メバロン酸経路を通ってIPPとDMAPPを合成した後、全ての菌がGGPPまでの生合成系をもっていた。さらに、図8-7に示すように、全ての菌がGGPPだけではなくより多くのイソプレンユニットを持つバクトプレニルピロリン酸やオクタプレニルピロリン酸あるいはヘプタプレニルピロリン酸の合成能力を持つ。どうやらユビキノンやテルペノイドキノンと呼ばれる酸化還元において働く補酵素群へ連なる系が存在しているようだ。さらに、グラム陰性で好気的真正細菌であるThermus thermophilusにおいては、リコペンまでの生合成系が成立している。リコペンの一重項酸素消去能はβ-カロテンを上回るという報告がある。Thermus属細菌が好気性を獲得する上で、この化合物は基盤となる役割を果たしたのかもしれない。真正細菌においても、テルペン生合成の歴史は深そうである。

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図8-8 光合成細菌とテルペン生合成系 1

  さらに付け加えるとすれば、シアノバクテリア出現との時間関係だろう。32億年ほど前には、シアノバクテリアがその後の地球環境を方向付ける酸素発生型光合成を完成させていたのだが、それ以前に、嫌気的光合成を行う光合成細菌の仲間が出現していた。と簡単に書ければ楽なのだが、光合成細菌とはなんぞやと考え始めるとこれがまた難しい。昔は緑色硫黄細菌と緑色非硫黄細菌、紅色硫黄細菌と紅色非硫黄細菌を含む紅色細菌に分類されていたが、近年、紅色細菌の方はプロテオバクテリアに属するいくつかのグループに再分類されてしまった。困ったときのKEEG頼りだが、非酸素発生型光合成を行う細菌群について、Anoxygenic photosynthesis をキーワードに検索をかけると、紅色硫黄細菌2属5種、紅色非硫黄細菌4

図8-9 光合成細菌とテルペン生合成系 2
図8-9 光合成細菌とテルペン生合成系 2

属35種、緑色非硫黄細菌1属5種、緑色硫黄細菌1属11種、及びAcidobacteria の1属1種の計57種の細菌がヒットする。この書き方は昔の分類を踏襲しており、私にとってはわかりやすい。こうした、酸素を発生しない光合成を行う細菌においても、テルペン生合成系の発達は著しい。図8-8と図8-9に彼らの持つ経路と生産する化合物群を示している。一連の流れの中にいくつかの特徴が存在する。彼らは光合成のためにバクテリオクロロフィルをもつのだが、そのバクテリオクロロフィルの構成要素であるフィチルピロリン酸については全ての菌が生合成することができる。さらにSpheroidene、Spiroxanthin、 あるいはTetrahydrospiroxanthinの末端に存在するメトキシグループの生合成ルートである。メチル基の給源がS-アデノシルメチオニンであることは自明のこととして、これ等の原料となる水

表8-1-1  光合成細菌の生産するテルペン系化合物
表8-1-1  光合成細菌の生産するテルペン系化合物
表8-1-2  光合成細菌の生産するテルペン系化合物 
表8-1-2  光合成細菌の生産するテルペン系化合物
表8-1-3  光合成細菌の生産するテルペン系化合物
表8-1-3  光合成細菌の生産するテルペン系化合物

酸基をもつ化合物群は、酸化に伴って作られるのではなく、末端の二重結合に対する水の付加反応で作られている。β-カロテンより先の酸素が関与する代謝系を持つ菌は例外的な3種しか存在しない。どうやら光合成細菌のカロテノイド代謝においても、酸素が関与する水酸化は反応は Zeaxanthin への水酸化から開始されるようだ。

  これらの菌において、進化系統樹を描くと、先ず緑色非硫黄細菌、次いで緑色細菌、紅色細菌そしてシアノバクテリアが分岐したという。これらの事実を考慮しながら、各菌の生産する化合物を書きだした結果を、表8-1-1〜3に示す。興味深いことに、これらの酸素を発生を伴わない光合成をする細菌類57種のすべてにおいて、リコペンまでの生合成が成立している。どうやら、彼らにおいても活性酸素の消去系は必要であったと考えて良いだろう。さらに、緑色硫黄細菌と緑色非硫黄細菌の一部では、β-カロテンにまで生合成系が伸長している。嫌気的生物の時代に好気的光合成の準備は着々と進んでいたと考えて良さそうだ。要するに、真正細菌においてもまた、テルペン生合成の歴史はとてつもなく長いのである。

  すこしまとめてみよう。古生物学と呼ばれる学問がある。少し前までの古生物学では、肉眼で見える化石として残ったモノしか扱わなかった。いまでも、一般社会では恐竜やウミユリや三葉虫のいた時代の学問とイメージされている。もちろん、先端を走る研究者が、微化石を追い、遺伝子から生物の起源を追求し、化学化石の微量分析を行っていることは知っている。分析技術の進歩が、これらの探求を可能にしたという形而下学な条件はあったとは言え、先述したリン・マーギュリスが化石で認識できる時代に先行する嫌気的微生物時代の重要性を唱導した功績は大きい。そして、テルペン類の生合成の歴史は、真正細菌においても古細菌においても、嫌気的微生物時代のごく初期にまで遡るのである。もし、アブシジン酸の生合成の原料をβ-カロテンと考えるたとしても、β-カロテンの歴史は30億年をはるかに超えてしまう。生物とは、それ自体が歴史を内包する存在なのであろう。

  さて我々は、息を止めたら苦しいという絶対的な経験に基づく酸素の必要性を実感としているが故に、生物は酸素を使った酸化系(ミトコンドリアにおける酸化的リン酸化反応)を持つことによって、エネルギー危機を乗り越え多様な高等生物へと進化したとする概念は、殆ど抵抗なく受け入れられるようだ。しかし、一般的に高等生物といわれる多細胞生物の仲間の出現に先だって、彼等の生命維持に必要な代謝系—アミノ酸代謝、DNA・RNAの代謝(複製・転写)・翻訳、糖代謝、脂質代謝、補酵素の代謝などは、嫌気的時代に完璧な形で完成されていたのである。生物の持つ代謝系の根幹は嫌気的生物が創り、その修飾が酸素の時代に起こったと考えて良い。

歴史生物学への誘い アブシジン酸生合成のまとめ 8 に続く

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