さて、古細菌は35億年昔に少なくともGGPPまでの生合成を完成させていたと書いたが、真正細菌ではどうだろう。古細菌において「膜脂質がテルペン鎖をもつエーテル脂質であるという事実は何に由来するのだろう」と考えたことあったが。真正細菌つまりバクテリアがテルペン類を作るかどうかなど、ほとんど気にした記憶がない。かすかな記憶としては、テルペン構造を含む抗生物質があったよなという程度である。動物に至ってはコレステロールが膜脂質として働いているとか、プレニル化がタンパク質の活性調節に関与しているとか、プレニル化されたRNAがサイトカイニン生合成の原料の一部であるとか、その程度の断片的記憶しかなかった。ところが少し調べてみると、真正細菌においてもテルペン生合成系は十分に発達していたのである。いまは起源の問題を論じているので、系統樹の根っこ近くに位置する好熱性細菌を対象として論じることにする。
結果を先に言えば、真正細菌に属する(超)好熱細菌類は非メバロン酸経路を通ってIPPとDMAPPを合成した後、全ての菌がGGPPまでの生合成系をもっていた。さらに、図8-7に示すように、全ての菌がGGPPだけではなくより多くのイソプレンユニットを持つバクトプレニルピロリン酸やオクタプレニルピロリン酸あるいはヘプタプレニルピロリン酸の合成能力を持つ。どうやらユビキノンやテルペノイドキノンと呼ばれる酸化還元において働く補酵素群へ連なる系が存在しているようだ。さらに、グラム陰性で好気的真正細菌であるThermus thermophilusにおいては、リコペンまでの生合成系が成立している。リコペンの一重項酸素消去能はβ-カロテンを上回るという報告がある。Thermus属細菌が好気性を獲得する上で、この化合物は基盤となる役割を果たしたのかもしれない。真正細菌においても、テルペン生合成の歴史は深そうである。
さらに付け加えるとすれば、シアノバクテリア出現との時間関係だろう。32億年ほど前には、シアノバクテリアがその後の地球環境を方向付ける酸素発生型光合成を完成させていたのだが、それ以前に、嫌気的光合成を行う光合成細菌の仲間が出現していた。と簡単に書ければ楽なのだが、光合成細菌とはなんぞやと考え始めるとこれがまた難しい。昔は緑色硫黄細菌と緑色非硫黄細菌、紅色硫黄細菌と紅色非硫黄細菌を含む紅色細菌に分類されていたが、近年、紅色細菌の方はプロテオバクテリアに属するいくつかのグループに再分類されてしまった。困ったときのKEEG頼りだが、非酸素発生型光合成を行う細菌群について、Anoxygenic photosynthesis をキーワードに検索をかけると、紅色硫黄細菌2属5種、紅色非硫黄細菌4
属35種、緑色非硫黄細菌1属5種、緑色硫黄細菌1属11種、及びAcidobacteria の1属1種の計57種の細菌がヒットする。この書き方は昔の分類を踏襲しており、私にとってはわかりやすい。こうした、酸素を発生しない光合成を行う細菌においても、テルペン生合成系の発達は著しい。図8-8と図8-9に彼らの持つ経路と生産する化合物群を示している。一連の流れの中にいくつかの特徴が存在する。彼らは光合成のためにバクテリオクロロフィルをもつのだが、そのバクテリオクロロフィルの構成要素であるフィチルピロリン酸については全ての菌が生合成することができる。さらにSpheroidene、Spiroxanthin、 あるいはTetrahydrospiroxanthinの末端に存在するメトキシグループの生合成ルートである。メチル基の給源がS-アデノシルメチオニンであることは自明のこととして、これ等の原料となる水
酸基をもつ化合物群は、酸化に伴って作られるのではなく、末端の二重結合に対する水の付加反応で作られている。β-カロテンより先の酸素が関与する代謝系を持つ菌は例外的な3種しか存在しない。どうやら光合成細菌のカロテノイド代謝においても、酸素が関与する水酸化は反応は Zeaxanthin への水酸化から開始されるようだ。
これらの菌において、進化系統樹を描くと、先ず緑色非硫黄細菌、次いで緑色細菌、紅色細菌そしてシアノバクテリアが分岐したという。これらの事実を考慮しながら、各菌の生産する化合物を書きだした結果を、表8-1-1〜3に示す。興味深いことに、これらの酸素を発生を伴わない光合成をする細菌類57種のすべてにおいて、リコペンまでの生合成が成立している。どうやら、彼らにおいても活性酸素の消去系は必要であったと考えて良いだろう。さらに、緑色硫黄細菌と緑色非硫黄細菌の一部では、β-カロテンにまで生合成系が伸長している。嫌気的生物の時代に好気的光合成の準備は着々と進んでいたと考えて良さそうだ。要するに、真正細菌においてもまた、テルペン生合成の歴史はとてつもなく長いのである。
すこしまとめてみよう。古生物学と呼ばれる学問がある。少し前までの古生物学では、肉眼で見える化石として残ったモノしか扱わなかった。いまでも、一般社会では恐竜やウミユリや三葉虫のいた時代の学問とイメージされている。もちろん、先端を走る研究者が、微化石を追い、遺伝子から生物の起源を追求し、化学化石の微量分析を行っていることは知っている。分析技術の進歩が、これらの探求を可能にしたという形而下学な条件はあったとは言え、先述したリン・マーギュリスが化石で認識できる時代に先行する嫌気的微生物時代の重要性を唱導した功績は大きい。そして、テルペン類の生合成の歴史は、真正細菌においても古細菌においても、嫌気的微生物時代のごく初期にまで遡るのである。もし、アブシジン酸の生合成の原料をβ-カロテンと考えるたとしても、β-カロテンの歴史は30億年をはるかに超えてしまう。生物とは、それ自体が歴史を内包する存在なのであろう。
さて我々は、息を止めたら苦しいという絶対的な経験に基づく酸素の必要性を実感としているが故に、生物は酸素を使った酸化系(ミトコンドリアにおける酸化的リン酸化反応)を持つことによって、エネルギー危機を乗り越え多様な高等生物へと進化したとする概念は、殆ど抵抗なく受け入れられるようだ。しかし、一般的に高等生物といわれる多細胞生物の仲間の出現に先だって、彼等の生命維持に必要な代謝系—アミノ酸代謝、DNA・RNAの代謝(複製・転写)・翻訳、糖代謝、脂質代謝、補酵素の代謝などは、嫌気的時代に完璧な形で完成されていたのである。生物の持つ代謝系の根幹は嫌気的生物が創り、その修飾が酸素の時代に起こったと考えて良い。
歴史生物学への誘い アブシジン酸生合成のまとめ 8 に続く