進入禁止

進入禁止

  恥をさらすようだが、また警察の世話になった。前回、ネズミ取りで捕まって、あと2日で3ヶ月という日に捕まってしまった。免許証がきれいになるようにとひたすら丁寧に運転していたのだが、たまに通っているY字路の左折部分が、7時から9時までの進入禁止道路になっていたのである。

  全く気付かず進入したもので、哀れな袋のネズミとなった。それが8時50分頃である。あと10分ほど遅ければと悔やんだが、警察は無慈悲である。この道路は小学生、中学生、高校生の通学路になっていまして・・・・と、若い警官が説明するのだが、そんな説明は要らない。早く処理してくれと免許証を渡し少々ふてくされていたら、またもや強烈に腹の立つ光景を見てしまった。

  Y字路の分岐点にセブンイレブンがある。Y字路の突端部分が駐車場になっている。ところがこの駐車場が通り抜け可能なのである。事情を知ったドライバー達は、交差点の15m程先で左折してセブンイレブンの駐車場を抜け、右折で進入禁止の道路を走っていく。子供達が通るからこの道路を通らせないようにしているという説明なのに、「あれはいいの」と聞いたら、「あれは合法です」と答えやがった。

  いや何とも教育が悪い。せめて、「好ましくないのは重々判っていますが、法的には現状どうにもなりません。」程度の受け答えはできないのか。その後、もっと腹の立つ話を聞いたのだが、もう書かない。これ以上反芻して腹を立てたら、明日の運転に差し支える。

  捕まって約2ヶ月、ようやく自分を馬鹿にして書けるところまで回復した。次の更新で、免許証の色はどうなるのだろう。

カテゴリー: 未分類 | 進入禁止 はコメントを受け付けていません

ハチミツ中毒

2014/1/6

  しばらく書くのが空いてしまった。一昨日だが、東南アジアで購入した蜂蜜を食べた事によるグラヤノトキシン中毒のニュースがあった。呼吸困難、視覚異常、歩行困難の症状が報道されていたが、原因はグラヤノトキシンⅠ(アセボトキシン)と呼ばれるツツジ科の植物によく含まれる化合物という。中近東においてはかなりよく見られる中毒のようで、アザレア、キョウチクトウの花蜜から得られたハチ蜜を食べて、中毒する例が良く知られている。

スクリーンショット(2014-01-06 20.40.52)

  と書くと外国の話だと思われるかもしれないが、グラヤノトキシンⅠ即ちアセボトキシンは、奈良公園に沢山ある馬酔木(アセビ or アシビ)の毒性分である。アシビはツツジ科に属する植物で、アシビ以外にもホツツジ、イソツツジ、ハナヒリノキ、レンゲツツジ、ネジキなどが、グラヤノトキシン類を含む有毒植物として知られている。

  鹿はアシビに毒があることを知っているのかどうか判らないが、とにかく馬酔木を食べない。馬やヒツジは、これを食べて中毒を起こす。中毒を起こすと歩行が困難となる。これが語源となって「馬酔木」という命名がされたらしい。

  さて、ツツジは「躑躅」と書く。そういえば戦国時代、武田氏の居城も「躑躅ヶ崎館」であった。絶対書けない字の代表みたいな字であるが、蓮華躑躅、灯台躑躅と書いてあれば、レンゲツツジ、ドウダンツツジと読めないことはない。では躑躅とはどういう意味か。両方の字に足偏がついていることを見ると、歩行に関係があるかもしれないと思い、漢和辞典を覗いてみた。読みは「テキチョク」、意味は「足踏みをすること、ためらう、躊躇すること」であった。動物がこれを食べ、うまく足を運べなくなった状況を意味するらしい。馬酔木の命名と同源で納得である。

  昨年の春、わが家の庭にも馬酔木の花が咲いていた。研究者として一度は味わっておきたいと思っていたので、数枚の葉をちぎり味わってみた。口に入れただけでは、全く味も香りもしない。ひんやりしただけである。そこで、少しずつ葉っぱを噛んでみたのだが、すぐにかなり強い苦みを感じた。通常、苦みは舌の奥の上面部分で感じるとされているが、この苦みはそこだけではなく、舌の全面、特に側面の部分でも強く感じたと記憶している。数分ほど噛んで吐きだしたのだが、思ったよりも爽やかな苦みであった。苦みの持続時間は、センブリ(苦さで有名なリンドウ科の植物)より短いようだ。次は、満天星(ドウダンツツジ)を味わってみるつもりである。

カテゴリー: 未分類 | ハチミツ中毒 はコメントを受け付けていません

代謝系という概念に対する異論 5

   宗教的な枠組みを含めて、我々が生きている今という時代において、我々を縛っている「パラダイム」(大多数の人々が是とし、いつの間にかそれに従い、かつ結果的に現代という時代を支えている基本的考え方の枠組み)とはどういうものであろうか。この枠組みを自覚することなしに現代文明を理解しようとする試みは、無根系統樹の中に祖先を捜すことに似ている気がする。

  では、改めて問う、現代という時代の基底にある「パラダイム」とはどういうものであるか。さらに、このパラダイムを評価するために必要な、別の視座を担保する思想、つまりアウトグループになり得るパラダイムとは?

  アルビントフラーはその著書「第三の波」の中で、人類は二つの大きな波を乗り越え、現在第三の波に遭遇しつつあると説いた。言うまでもなく第一の波とは、一万年程前に始まった農業革命である。それまで狩猟と採集に依存していた人類が、栽培という技術を獲得し新しい農耕生活を始めた事実を指す。この革命は数千年の時間をかけて全地球に広がり、今やこの波から逃れ得ている地域はアフリカや南米、あるいはパプアニューギニア奥地のごく一部の部族社会にすぎないだろう。

  第二の波−すなわち産業革命−は、17世紀の末に始まり、ほんの数百年の間に地球上の各地域へと伝播した。そしてこの第二の波が、いわゆる先進諸国の人々の生活を覆い尽くしたと思われる20世紀の終末期に、新たなる波が人類社会に出現した。

  この第三の波−情報革命−によって生み出される社会あるいは時代を”脱工業化社会”と呼ぼうと”情報の時代”と呼ぼうとそれは何れでもよい。トフラーは、この様な捉え方−パラダイム−を設定して、来るべき人類の社会を解析してみせたわけである。

  しかしながら、私はこれら3つの波の基底に、彼が見落としたより根源的な価値観があると考えている。第一の波以前から存在し、少なくとも最初の二つの波を乗り越え、現在の我々の生活を規定しているパラダイムである。それは「多収と多所有を善」とするパラダイムである。第一の波以前の原始部族においても、多産と多くの獲物そして大きな権力を善としていたであろうし、現在社会においても多量の情報と金銭と権力を持つことが善であるとする現実を見ると、このパラダイムこそ、最も長期にわたって最も強く人類を縛ってきたものではないだろうか。

  人類は、改めて考えてみると大量生産・大量所有・大量消費という目的に向かって歩いてきた動物といえるのではないか。全人類の命を代償にするような形で対立を続けていた資本主義と社会主義でさえ、結局は大量生産のやり方と生産物の分配方法についての違いがあるだけで、「多収と多所有を善とする」パラダイムの枠内にあったように思う。

  このパラダイムはいま、その乗り物を物質から情報へと変更し、情報革命という次なる変革が進行中である。このパラダイムに導かれる社会変革に異を唱える考え方は、ネイティブアメリカン(この言葉には様々な立場からの意見があるが、ここでは素直にコロンブス以前からアメリカに住んでいたインディアンと呼ばれた人々の意味で使用)やアジアのいくつかの民族の考え方や宗教の中に存在したが、それらは産業革命以後の人間社会の中ではほとんど力を持ち得なかった。

  とすれば、まず我々の科学が「多収と多所有を善」とする枠組みの中に組み込まれ、事象の判断において正当さを失っていないかどうかを吟味しなければならない。さらに、もしそうであるならアウトグループとなり得る異なったパラダイムの視座から、新たに考え直す必要があるだろう。

  さて、いつまでも「多収と多所有を善とするパラダイム」などというまどろっこしい言い方をしていたのでは、論は進まないし社会からの認知も難しいだろう。このパラダイムに対して、時代を切り取るような命名がなければ理解(命名故の誤解も含む)を得ることは出来ない。ではどう名付けるか。英語であれば「リッチ パラダイム: Rich Paradigm」で良いのではと思う。リッチという言葉ではいくぶん権力を持ったという意味が薄くなるとは思うが、私が意図するその他の要素は網羅しているようだ。「Rich and Power Paradigm」では少し長いような印象をもつが、ネイティブにとってはそうではないような気がしないでもない。

  ところが、これを日本語で考えるとなかなか適切な言葉がないようだ。モノが豊富にあり、かつ生産的であることを考慮すると、富饒あるいは豊饒という言葉が考えられるが、権力を持ったという意味は全く含まれない。さらに、私が使っているATOK 2009において、富饒に対して「ふじょう orふにょう」と入れて変換をかけても富饒はでてこない。豊饒にたいして「ぶにょう or ぶにゅう」としても、豊饒は現れない。「ほうじょう」と入力すれば、かろうじて豊饒と変換されるが、これは三島由紀夫のおかげであろう。ただ、豊饒では肥沃な・多量のという意味が強く、富饒に含まれる所有の意味がほとんど消えてしまう。

  リッチに的確に対応する言語がないということは、ヨーロッパ型の社会と日本型社会の在り方の違いに由来するのであろう。日本の歴史では、桁外れの冨と情報と権力と権威、そして力をも持ち合わせた階層が現れなかったが故に、その階層に対する形容詞が育たなかったのかもしれない。ではどうするか。「富饒パラダイム」が最も近いかなとは思うが、仮名漢字変換で出てこないのでは話にならない。外来語を安易に使うことに心理的抵抗があるとはいえ、「Rich & Power Paradigm」を「多収と多所有を善とする社会的パラダイム」として使うことにする。言い換えれば、人、物、冨、権力、情報に対してリッチであることを善であるとする考え方である

さて、一万年以上の長期にわたって人類の指導原理であったRich & Power Paradigmは、我々の科学観あるいは科学の成り立ちそのものに影響を与えていないであろうか。現代の科学はその片足をデカルトに端を発する合理主義、還元主義におき、もう一方の足をRich & Power Paradigmに乗せて成立しているのではないだろうか。

  そうした懐疑をもって現代の科学を眺めたとき、物理学、工学、化学がこのパラダイムに沿って進歩してきたことは否定できまい。そして博物学的側面を多量に残してきた生物学さえもが、1980年代後半から生物工学や遺伝子工学等に代表される、工学すなわちテクノロジーの波に飲み込まれてしまった。

  物を速く、安く、大量に作り、速く、安く、大量に移動させ、大量消費と大量の富を獲得することが、これらの学問の目的となったのである。畢竟、この目的に合わない研究には、なかなか研究費が配分されない状況が生まれてきた。科学研究費の申請においてでさえ、予想される結果と意義の項目で、その研究がどのように社会に役立つか、うまくいったらどのようなインパクトがあるかを書かないといけない時代になっている。

  書生臭い記述になるが、科学(サイエンス)が Rich & Power Paradigmの軍門に下ったということだろう。科学は、知りたいという欲求から行うものではなく、役に立つか(儲かるか)という観点から行うものに変わってきたのである。

  このような状況において、生物体内に存在する代謝系や代謝産物についての解釈が、この Rich & Power Paradigm から逃れ得ているという保証はどこにも存在しない。我々は、生物体内に存在する多種多様な代謝物群から、ATPやNAD(P)Hの生産系となるように、あるいは研究者が興味を持っている代謝物への生合成系となるように、恣意的に抜き出し、配列し、意義づけるということを行ってはいないだろうか。

  以下の議論は、ある提示された生合成系が Rich & Power Paradigm を底流として成立しているが故に、どこかで判断の正当性を失ってはいないかという視座から検証しようとする捻くれた試みである。

解糖系に関する考察 1 に続く

カテゴリー: 未分類 | 代謝系という概念に対する異論 5 はコメントを受け付けていません

迷惑御免

  柿が採れすぎて困っている。樹齢40年近い柿の木20本に鈴なりになっている。採果が間に合わないだけでなく、取った果実を捌くのも間に合わない。世の中、何でも一桁上がるとフェイズが変わると言われるが、まさにその通りである。10 Kg採れたのであれば、喜び且つ楽しんで食べるであろう。100 Kg 採れたら、近所に配り、友人に配りして、周囲の人に喜んでもらえる行動がとれると思う。

  富有柿、一般に出回っている柿と違って充分に熟したものを採果しているため、糖度は極めて高い。農薬の散布回数は、通常の三分の一程度である。その分、見かけは今一つであるが、食べた人の評価は極めて高い。

  しかし、販売するルートを確立していないのに 1,000 Kg 以上採れたら、これはもはや地獄である。友人に配って喜んでもらうなどと言う生やさしいものではない。軽トラに積んで友人宅を訪れ、脅迫しながらコンテナごと置いてくるしかない。昔のソフトボール仲間にも、1〜2コンテナずつ山盛りにしておいてきた。近所のスーパーで柿の売れ行きが悪いということであれば、原因は私かもしれない。

カテゴリー: 未分類 | 迷惑御免 はコメントを受け付けていません

柿 収穫

        近頃、果物の収穫期がだんだん早くなっている。出始めの頃の方が価格が高いということもあって早生品種への切り替えが進んでいるのだが、味という点から見ると従来種の方がおいしい場合も多々見うけられる。まあ、味の評価は各人の嗜好に左右されるので、絶対的な評価はありえないが。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

  私の柿畑も収穫の時期になってきた。近年はやりの早生品種ではなく、昔からの富有柿である。前の地主さんが可愛がっていたらしく、樹齢30年を過ぎているにもかかわらず、木の勢いは甚だ強い。枝の剪定を行い、摘蕾を行い、摘果もしたつもりだったが、全く不十分でブドウと見紛うように実をつけた。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

  先週から今週にかけて収穫を始めたのだが、1本の木に少なくとも200個、場合によってはその倍近い実がなっている。ざっと数えて5,000個は超えるだろう。販売するつもりは未だないため、ルートの開拓は行っていない。どうするか。知人にもらっていただくしか方法はない。本人も責任を感じて、1日に5〜6個は食べているのだが、とても間に合わない。

隣に桃の畑がある。桃畑とはいうものの、外周には小梅の木が植えてあるし、所々に甘夏も植えてある。その中に一本、すばらしい柿の木がある。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

高さは15mを超すような渋柿である。毎年、秋の風物詩として写真に撮っても良いほどの実をならせる。今年も豊作で、柿右衛門にみせたいような姿である。先日、持ち主のご夫婦と出会った。本当に立派な柿ですねと話していたら、うちでは取り切れないのでご自由にどうぞといわれた。田舎の豊かさである。しかし、我が家の敷地にある20本の柿の収穫さえ間に合いそうにない。あの木もなどと考えると、きっとうなされるに違いない。

カテゴリー: 未分類 | 柿 収穫 はコメントを受け付けていません