代謝系という概念に対する異論 5

   宗教的な枠組みを含めて、我々が生きている今という時代において、我々を縛っている「パラダイム」(大多数の人々が是とし、いつの間にかそれに従い、かつ結果的に現代という時代を支えている基本的考え方の枠組み)とはどういうものであろうか。この枠組みを自覚することなしに現代文明を理解しようとする試みは、無根系統樹の中に祖先を捜すことに似ている気がする。

  では、改めて問う、現代という時代の基底にある「パラダイム」とはどういうものであるか。さらに、このパラダイムを評価するために必要な、別の視座を担保する思想、つまりアウトグループになり得るパラダイムとは?

  アルビントフラーはその著書「第三の波」の中で、人類は二つの大きな波を乗り越え、現在第三の波に遭遇しつつあると説いた。言うまでもなく第一の波とは、一万年程前に始まった農業革命である。それまで狩猟と採集に依存していた人類が、栽培という技術を獲得し新しい農耕生活を始めた事実を指す。この革命は数千年の時間をかけて全地球に広がり、今やこの波から逃れ得ている地域はアフリカや南米、あるいはパプアニューギニア奥地のごく一部の部族社会にすぎないだろう。

  第二の波−すなわち産業革命−は、17世紀の末に始まり、ほんの数百年の間に地球上の各地域へと伝播した。そしてこの第二の波が、いわゆる先進諸国の人々の生活を覆い尽くしたと思われる20世紀の終末期に、新たなる波が人類社会に出現した。

  この第三の波−情報革命−によって生み出される社会あるいは時代を”脱工業化社会”と呼ぼうと”情報の時代”と呼ぼうとそれは何れでもよい。トフラーは、この様な捉え方−パラダイム−を設定して、来るべき人類の社会を解析してみせたわけである。

  しかしながら、私はこれら3つの波の基底に、彼が見落としたより根源的な価値観があると考えている。第一の波以前から存在し、少なくとも最初の二つの波を乗り越え、現在の我々の生活を規定しているパラダイムである。それは「多収と多所有を善」とするパラダイムである。第一の波以前の原始部族においても、多産と多くの獲物そして大きな権力を善としていたであろうし、現在社会においても多量の情報と金銭と権力を持つことが善であるとする現実を見ると、このパラダイムこそ、最も長期にわたって最も強く人類を縛ってきたものではないだろうか。

  人類は、改めて考えてみると大量生産・大量所有・大量消費という目的に向かって歩いてきた動物といえるのではないか。全人類の命を代償にするような形で対立を続けていた資本主義と社会主義でさえ、結局は大量生産のやり方と生産物の分配方法についての違いがあるだけで、「多収と多所有を善とする」パラダイムの枠内にあったように思う。

  このパラダイムはいま、その乗り物を物質から情報へと変更し、情報革命という次なる変革が進行中である。このパラダイムに導かれる社会変革に異を唱える考え方は、ネイティブアメリカン(この言葉には様々な立場からの意見があるが、ここでは素直にコロンブス以前からアメリカに住んでいたインディアンと呼ばれた人々の意味で使用)やアジアのいくつかの民族の考え方や宗教の中に存在したが、それらは産業革命以後の人間社会の中ではほとんど力を持ち得なかった。

  とすれば、まず我々の科学が「多収と多所有を善」とする枠組みの中に組み込まれ、事象の判断において正当さを失っていないかどうかを吟味しなければならない。さらに、もしそうであるならアウトグループとなり得る異なったパラダイムの視座から、新たに考え直す必要があるだろう。

  さて、いつまでも「多収と多所有を善とするパラダイム」などというまどろっこしい言い方をしていたのでは、論は進まないし社会からの認知も難しいだろう。このパラダイムに対して、時代を切り取るような命名がなければ理解(命名故の誤解も含む)を得ることは出来ない。ではどう名付けるか。英語であれば「リッチ パラダイム: Rich Paradigm」で良いのではと思う。リッチという言葉ではいくぶん権力を持ったという意味が薄くなるとは思うが、私が意図するその他の要素は網羅しているようだ。「Rich and Power Paradigm」では少し長いような印象をもつが、ネイティブにとってはそうではないような気がしないでもない。

  ところが、これを日本語で考えるとなかなか適切な言葉がないようだ。モノが豊富にあり、かつ生産的であることを考慮すると、富饒あるいは豊饒という言葉が考えられるが、権力を持ったという意味は全く含まれない。さらに、私が使っているATOK 2009において、富饒に対して「ふじょう orふにょう」と入れて変換をかけても富饒はでてこない。豊饒にたいして「ぶにょう or ぶにゅう」としても、豊饒は現れない。「ほうじょう」と入力すれば、かろうじて豊饒と変換されるが、これは三島由紀夫のおかげであろう。ただ、豊饒では肥沃な・多量のという意味が強く、富饒に含まれる所有の意味がほとんど消えてしまう。

  リッチに的確に対応する言語がないということは、ヨーロッパ型の社会と日本型社会の在り方の違いに由来するのであろう。日本の歴史では、桁外れの冨と情報と権力と権威、そして力をも持ち合わせた階層が現れなかったが故に、その階層に対する形容詞が育たなかったのかもしれない。ではどうするか。「富饒パラダイム」が最も近いかなとは思うが、仮名漢字変換で出てこないのでは話にならない。外来語を安易に使うことに心理的抵抗があるとはいえ、「Rich & Power Paradigm」を「多収と多所有を善とする社会的パラダイム」として使うことにする。言い換えれば、人、物、冨、権力、情報に対してリッチであることを善であるとする考え方である

さて、一万年以上の長期にわたって人類の指導原理であったRich & Power Paradigmは、我々の科学観あるいは科学の成り立ちそのものに影響を与えていないであろうか。現代の科学はその片足をデカルトに端を発する合理主義、還元主義におき、もう一方の足をRich & Power Paradigmに乗せて成立しているのではないだろうか。

  そうした懐疑をもって現代の科学を眺めたとき、物理学、工学、化学がこのパラダイムに沿って進歩してきたことは否定できまい。そして博物学的側面を多量に残してきた生物学さえもが、1980年代後半から生物工学や遺伝子工学等に代表される、工学すなわちテクノロジーの波に飲み込まれてしまった。

  物を速く、安く、大量に作り、速く、安く、大量に移動させ、大量消費と大量の富を獲得することが、これらの学問の目的となったのである。畢竟、この目的に合わない研究には、なかなか研究費が配分されない状況が生まれてきた。科学研究費の申請においてでさえ、予想される結果と意義の項目で、その研究がどのように社会に役立つか、うまくいったらどのようなインパクトがあるかを書かないといけない時代になっている。

  書生臭い記述になるが、科学(サイエンス)が Rich & Power Paradigmの軍門に下ったということだろう。科学は、知りたいという欲求から行うものではなく、役に立つか(儲かるか)という観点から行うものに変わってきたのである。

  このような状況において、生物体内に存在する代謝系や代謝産物についての解釈が、この Rich & Power Paradigm から逃れ得ているという保証はどこにも存在しない。我々は、生物体内に存在する多種多様な代謝物群から、ATPやNAD(P)Hの生産系となるように、あるいは研究者が興味を持っている代謝物への生合成系となるように、恣意的に抜き出し、配列し、意義づけるということを行ってはいないだろうか。

  以下の議論は、ある提示された生合成系が Rich & Power Paradigm を底流として成立しているが故に、どこかで判断の正当性を失ってはいないかという視座から検証しようとする捻くれた試みである。

解糖系に関する考察 1 に続く

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