歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 4

  少しだけ補足をしておきたい。ヒト1人の二酸化炭素放出量が約1 Kgと書いた。考えてみると70億人の人間が年間に放出する二酸化炭素量は25.5億トンにも上る。化石燃料の使用による二酸化炭素の放出量が260億トンであることを考えると、ほぼ1割に当たる。あらためて何とか云うつもりはない。ちょっと計算すると、結構な値になるなと思っただけである。

  熱廃棄の問題も、化学工学の分野では余りにも当たり前の話である。化学合成を行う場合の反応温度の制御は、少量であれば何でもないのだが、スケールアップすると急に難しくなる。研究レベルでの合成しか経験はないが、スケールアップして発熱する実験を行うときの怖さは、身にしみて感じていた。10倍にスケールアップして実施したのに、分離が大変になっただけで得られた量は10分の1スケールの場合に達しないなどという思いがけない収率の低下に愕然としたことも一度ならずあった。

  固形排泄物(雲古)についても簡単に書き流したが、未消化の固形物は別として同時に排泄される微生物の栄養源は何かという問題は残るだろう。消化管の中には酵素と呼ばれるタンパク質が分泌される。肝臓からは食物に含まれる脂質を利用しやすくするために胆汁酸と呼ばれるステロイド骨格を持つ界面活性剤が分泌され、同時に赤血球の分解産物であるビリルビンのグルクロン酸抱合体も分泌される。消化管の内壁は常に剥落を繰り返している。温度は37℃前後で、こうした栄養分だけでなく消化されて生じた単糖類やアミノ酸がある消化管内は、微生物にとっては天国にも等しい。しかし、野放図に微生物に増えられたらホストの命が持たない。ホストは消化管からIgA(イムノグロブリンA)を分泌して、腸内微生物をコントロールする。こうした秩序ある混沌の結果として、ステルコビリン輝く雲古となるわけだ。これに含まれる微生物は、我々の分身の変化したものであることを考えると、廃棄物いや廃棄生物とみなす事も可能のようだ。

  そろそろ植物についての議論になるが、動物と植物は基本的に違う側面を持つ。色々な見方ができる。例えば、動物は動き植物は動かない。それはまあ概ね認めるとして、動物は消費者であり植物は生産者である、動物は酸化的に生き、植物は還元的に生きる、などなど。ここでは、捨てるという視座から、植物を考えることにしよう。植物は、何をどのようにして捨てるのか。植物においては、前回の廃棄の話を逆の順序で進めることにする。

  熱廃棄、植物にとって生成する熱をどのように捨てるかという問題である。こんなことを言うと馬鹿にされそうだが、植物であっても代謝熱を発生する。陸上動物で最大と云われるアフリカゾウの体重が10トン弱、このゾウが体温調節のために大きな耳を持ち、ここを通る血液を通して放熱を行うとされている。では、植物はどうか?植物が発熱するということ自体に違和感を持つ方がいるかもしれないが、目に見える形で発熱する植物は存在する。例えばサトイモ科のザゼンソウ、東日本に分布し早春に咲く花で、肉穂花序での発熱により周囲の温度が氷点下になっても、花の内部は20℃以上の温度を保つという。写真を見ると早春の寒気の中で、周囲の雪を溶かして開花している。(http://www.sugadaira.tsukuba.ac.jp/column/201005column.htmlを参照)

  発熱を行う植物はザゼンソウだけでなくハス、ヤシ、ソテツなども発熱することが知られている。身近なものでは、緑豆(モヤシ)の発芽時の温度を測ってみればよい。結構発熱するものである。この発熱の意義については色々と論じられているが、どれも目的論的意義付けが過剰であるとの感は免れない。寒い中で、昆虫を集める、臭いを強める、寒冷傷害を免れる、花粉管の伸長を促す、受粉率を上げる、等々のために発熱するというわけである。私の立場から見ると、発熱植物は熱帯原産であるように見える。その熱帯原産の植物が、たまたま発熱する能力を持ったが故に温帯あるいは冷温帯への進出が可能になったと素直に考えるのだが、間違っているだろうか。まあ、結果は同じであり解釈の違いに過ぎないのかもしれないが。

  またもや脱線したようだ。植物の熱廃棄が論点であった。10トンのゾウの細胞は、ネズミの細胞に比して5.6%しか活動していないという。それでも体内に熱がこもるため、放熱装置を持つ。植物細胞はネズミの細胞に比してどの程度の割合で活動しているのだろうかと色々と本やネットのサイトを漁ったのだが、そうした発想自体が存在しないようである。理由は植物細胞の分布の形にもあるのだろう。植物で最大のものは(測り方でかなりな差が出るとは思うが)、カリフォルニア州のGiant Forest内にあるシャーマン将軍の木ということにしておく。このセコイアデンドロンの木は、樹高が約84 mあり、その体積は1,486 m3であるという。重さはどれくらいあるのか分からないが、気乾比重が0.45(含水率15%のときの比重)と書いてあることから概算すると、この木の含水率を15%まで落とした場合でも680トン程あることになる。ではこの植物において廃熱が問題になるかと云えばそれはないと考える。木の重量が500トンあろうが1,000トンあろうが、幹の大部分は死んだ細胞であり、発熱はしない。幹の周りの表皮を剥いで樹木を枯らす「巻き枯らし」という方法が示すように、いかに巨大な木であっても生きているのは幹外縁の形成層と師管の部分だけであり、その内側は死んだ細胞の集団があるだけである。巨樹のもつ圧倒的かつ神秘的な存在感は内包する無量の死に由来するのだろうか。とにかく、熱発生を行う細胞集団の放熱面積は極めて広く、熱廃棄の問題は生じないと考えて良さそうだ。葉は植物において最も活発に活動している細胞群からなるにしても、これもまた平板状の構造故に放熱面積は十分と考えていいのであろう。

  書き始めでちょっと方向を間違ったようで、なかなか本論に向かえない。この流れに従えば、植物の窒素の廃棄から炭素の廃棄へと論を進めざるを得ないだろう。苦し紛れに書いているので、支離滅裂、牽強付会、我田引水というタイトルを、自ら付けたくなるほどだ。とはいえ、ここまでの文章を全部消して書き直すというのも癪なので、このまま迷走を続けることにした。

 歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 5 に続く

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