歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 10 

  とはいえ、薬学の研究者達も、モルヒネの存在意義の説明の難しさを喉に刺さった小骨のように感じていたのではないだろうか。モルヒネはオピオイドのμ受容体に結合するのだが、哺乳類においてμ受容体に結合する内因性リガンドは見出されていない。内因性リガンドを持たない、いわゆるオーファンレセプターに、人ならぬケシがつくるモルヒネが結合して顕著な生理作用を示すという現実を、上手く説明することはなかなか難しいに違いない。

  この状況を何とか打破しようとする動きは1970年代からあった。ケシが何故モルヒネをつくるかは横に置くとしても、モルヒネが哺乳類の体内で生合成されることを証明して、少なくともモルヒネを内因性リガンドとして位置づけようというわけである。これが、Davis とWalsh により提唱されたモルヒネ内因性リガンド仮説であろう《Science, 167, 1005-1007, (1970)》。その後、Hazum 《Science, 213, 1010-1012 (1981)》らは、ヒトおよびウシの母乳からモルヒネの単離に成功したのだが,これは食物由来である可能性が高いと判断され、この仮説の証明とは認められらなかったようだが、このモルヒネ内因性リガンド仮説は生き続けた。

  そして1986年にはGoldstein 《Proc. Natl. Acad. Sci. USA., 83, 9784-978 (1986)》らがウシ脳内にモルヒネやその前駆物質であるコデインの存在を確認しただけでなく、Spector《Proc. Natl. Acad. Sci. USA., 83, 4566-4567(1986)》らは、コデインやその前駆物質と考えられるサルタリジン,テバインをラットに投与すると脳を含む様々な臓器でモルヒネ量が増加することを報じている。その後、Matsubara《J. Pharmacol. Exp. Ther., 260, 974-978(1992)》らは、L-ドーパの薬物治療を受けているパーキンソン病患者の尿中ではモルヒネおよびコデイン量が上昇することを報告し、Stefano のグループ《MolBrain Res., 117, 83-90 (2003)》が、最後に残っていた前駆物質であるレチクリンをラット脳内で検出(12.7±5.4 ng/g wet tissue)に成功した。

  ここでL-DOPAからモルヒネまでの生合成経路は完全につながっただけでなく、哺乳動物における生合成系がケシの生合成系と同様であることが明らかになった。これらの結果をもってすれば、人もモルヒネを生合成できる可能性が十分にあると言えるだろう。モルヒネが哺乳動物においてμ受容体に結合する本来の内因性リガンドであると結論づけて良いかどうかはまだ分からないが、何とかしてモルヒネと人を関係づけようとする努力が実りかけていると言えるかもしれない。「なぜケシはモルヒネをつくるのか」という疑問に答えてはいないにしてもだ。

  この話と全く裏返しの物語がアブシジン酸についても存在する。奇しくもSpectorらが、コデインやその前駆物質と考えられるサルタリジン,テバインをラットに投与すると脳を含む様々な臓器でモルヒネ量が増加することを報じた1986年に、植物ホルモンであるアブシジン酸がブタやラットの脳に存在するという報告がなされた《Le Page-Degivry MT et al., Proc Natl Acad Sci U S A., 83(4),1155-8 (1986)》。アブシジン酸が哺乳動物の脳内に存在するというこの報告に、やはり食物由来ではないかという疑いがつきまとったのは仕方のないことであったろう。いつ頃アブシジン酸が哺乳動物における内生の物質であると認知されたのかは定かでないが、植物ホルモンがヒトの脳にあるなどという状況は居心地が悪かったらしく、哺乳動物におけるアブシジン酸の影響についての研究が開始された。

  その結果、Bruzzone等《Proc. Natl. Acad. Sci. USA 104, 5759-5764 (2007)》は、アブシジン酸がヒトの果粒球(白血球の一種)を刺激するシグナルとして働いていると報じたあと、彼らのグループからはインスリンの分泌を刺激するという報告もなされている。さらにだが、国立感染症研究所の永宗らは、原虫であるトキソプラズマがアブシジン酸を生合成し、宿主細胞からの脱出を制御していることを明らかにすると同時に、アブシジン酸生合成阻害剤であるフルリドンがトキソプラズマのマウスへの感染を有意に抑えることを報じている。《Nagamune, K., et. al., Nature , 451, 207-10, (2008) ,Nagamune, K., et al., Comm. Integ. Biol. 1, 62-65 (2008)》 最後のフルリドンを用いた結果については、阻害位置がアブシジン酸生合成系とされているにしても代謝系のかなり上流にあり、カロテノイド生合成阻害なども視野に入れて考えるべきであろう。

  とはいえこれらの結果を見れば、さてモルヒネはそしてアブシジンはいったい何者であるのかとの疑問を誰もが持つと思うのだが。この疑問に拘泥して研究の手を止めるかどうかは別にしてもだ。

歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 11 に続く

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