安全と安心

 “安全”、最も嫌いな言葉の一つである。安全と安心、昔はエキセントリックに食品添加物や残留農薬を責め立てる人々の常套句だったが、近年、官僚や政治家までが使うようになってきた。安全と安心の社会、そんなものがあるはずはないではないか。馬鹿野郎と云いたい。安全なんてないと分かっていて騙すつもりで使っているのならまだしも、ご本人まで信じていそうな所がなお嫌である。世の中に安全な物などあるはずがない。その辺の石ころだって、躓けばこけるかもしれないし、これを持って人を殴れば危険である。美味だという生クリームであっても食べ過ぎれば危険である。生クリームのはいったプールで溺死なんて考えたくもない。安全なはずの銀行預金も、新円切り替えと預金封鎖で動きを止められ財産税で吸い上げられるとすれば、これもまた危険なものであろう。いや1946年の日本の話です。

  文科省に科学技術・学術審議会という審議会がある。その中に「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」があった。その懇談会の報告書が文科省のホームページに掲載してあるので、その第2章を一寸引用する。

第2章 安全・安心な社会の概念

 安全・安心な社会を構築するためには、目指すべき安全・安心な社会のイメージを明確にすることが必要である。そこで、そもそも安全とは何か、安心とは何かについて検討し、それらの検討結果と前章で述べた社会を巡る諸情勢の変化を踏まえ、目指すべき安全・安心な社会の概念を提示する。

2‐1.安全とは何か

 安全・安心な社会の概念を提示するにあたり、まず、安全とは何かについて、社会との関わりを中心として検討を行った。検討の結果は、以下の通りである。

1 安全とは

 安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。

2 設計および運用段階の安全

 社会において、様々なシステムや制度が人間の手で設計され、運用されている。これらの安全について考えた場合、安全とは、設計段階において安全性が十分に考慮されているとともに、人間が運用する際における安全が確保できている状態である。また、安全を侵害する意図が存在する場合は、上記の状態に加えて、その意図の抑止・喪失が実現できている状態である。

3 事前および事後対策の実現による安全

 安全を脅かす要因(以下、リスクと記す)による被害を最小限に抑えるためには、発生抑止や被害防止等の事前対策に加え、発生後の応急対応や被害軽減、復旧復興等の事後対策も含めた総合的な対策が必要である。したがって、リスクに対して、事前および事後対策の両方がなされている状態が安全であるといえる。

4 個人の意識が支える安全

 社会システムが、利用者である個人の行動と密接に関連しているということは、社会システムの安全が何らかの方法で確保できても、安全を考慮せずに個人が行動すれば、安全な社会は容易に崩れることを意味している。したがって、社会システム固有の安全性に加えて、利用する個人が安全に対する知識・意識を持ち、それに沿った行動をとることで初めて、安全が確保されるといえる。

5 リスクの極小化による安全

 世の中で起こりうる全ての出来事を人間が想定することは不可能であり、安全が想定外の出来事により脅かされる可能性は常に残されている。そこで、リスクを社会が受容可能なレベルまで極小化している状態を安全であるとする。同時に、社会とのコミュニケーションを継続的に行う努力をすることにより、情勢に応じて変動しうる社会のリスク受容レベルに対応する必要がある。

6 安全と自由のトレードオフ

 安全を高めようとすればするほど、利便性や経済的利益、個人の行動の自由等が制約され、プライバシーが損なわれる可能性がある。よって、安全性を向上させる際には、このようなトレードオフの関係を考慮する必要がある。しかしながら、より高いレベルの安全を実現するためには、安全と自由のトレードオフの次元にとどまらず、安全性と行動の自由やプライバシーを並立させる努力を続けることが重要となってくる。・・・ここまで

  日本の立派な大学と先進的企業のトップから選ばれたと思われる審議会の委員達が、本当にこの内容で納得したのだろうか。多分、前もって官僚が作文した原稿をもとに少しばかりの懇談をし、まあまあまあという形で了承したものであろう。作文をした官僚にしても国家公務員試験を通り、能力あるとされていた人に違いない。しかし、「安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。」という文章で、これが安全の定義だといわれてもなんとも判断が下しにくい。私は安全という概念はあるが、安全を具現化する現実はないと考えている。その証拠に、2-2〜2-6の項に於いて下線を付した部分は、安全維持の条件を並べ立てそれが守られなければ危険であると言っているではないか。ここ数年の社会の動きを見ていると、無責任に安全神話を振りまくと、そのことが安全を脅かすことになると思うのだが。

  さらに波線のアンダーライン部分は最悪である。あっ、Wordpressでは波線のアンダーラインは使えない。つまり以下の部分である。 安全とは、設計段階において安全性が十分に考慮されているとともに、人間が運用する際における安全が確保できている状態である。安全とは、安全性が十分に考慮されていること、さらに安全が確保されている事と言われても、これは最悪のトートロジー(同義反復)である。

  細かなことにケチをつけるのが本意ではないが、政府が出してくるこうした文書にはこれから実行したい政策の芽が見られることが多い。行間から政府の意向を読み取る位の能力は国民として持つべきであろう。次の安心についての項を含めて、現在の政府が行おうとしている政策の萌芽が読み取れるではないか。ちなみに、この報告書が出されたのは、2004年の4月である。もう少し引用する。

2‐2.安心とは何か

 安心とは何かについても、安全と同様に、社会との関わりを中心として検討を行った。検討の結果は、次の通りである。

1 安心について

 安心については、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。当懇談会では安心について、人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること、といった見方が挙げられた。

2 安全と信頼が導く安心

 人々の安心を得るための前提として、安全の確保に関わる組織と人々の間に信頼を醸成することが必要である。互いの信頼がなければ、安全を確保し、さらにそのことをいくら伝えたとしても相手が安心することは困難だからである。よって、安心とは、安全・安心に関係する者の間で、社会的に合意されるレベルの安全を確保しつつ、信頼が築かれる状態である。

3 心構えを持ち合わせた安心

 完全に安心した状態は逆に油断を招き、いざというときの危険性が高いと考えられる。よって、人々が完全に安心する状態ではなく、安全についてよく理解し、いざというときの心構えを忘れず、それが保たれている状態こそ、安心が実現しているといえる。

2‐3.安全・安心な社会の概念

 以上の安全および安心についての検討と社会を巡る諸情勢の変化を踏まえると、目指すべき安全・安心な社会とは、以下の5つの条件を満たす社会であると考える。なお、これまでも、安全確保に向けた不断の努力が社会の安全に大きく貢献してきたことを鑑み、社会においてそうした努力が継続して行われていることを前提とする。

1 リスクを極小化し、顕在化したリスクに対して持ちこたえられる社会

 安全な状態を目指した不断の努力によって、リスクを社会の受容レベルまで極小化することで安全を確保しつつ、危機管理システムの整備によって、リスクを極小化した状態を維持できる社会であること。同時に、リスクが顕在化しても、その影響を部分的に止め、機能し続けられる社会であること。

2 動的かつ国際的な対応ができる社会

安全はいつでもどこからでも予見の範囲を超えて脅かされることを前提として、新たな脅威が生じても常に柔軟な対応が可能な、動的な対応の仕組みが用意されている社会であること。さらに、安全を実現するための国際的協調ができる社会であること。

3 安全に対する個人の意識が醸成されている社会

 安全な社会の構築に関する組織とともに、個人も安全に対する知識と意識を持ち、安全な社会の構築に必要な役割を個人が果たしうる社会であること。

4 信頼により安全を人々の安心へとつなげられる社会

 社会的に合意されるレベルの安全が継続的に確保されると同時に、安全確保に関わる組織と人々の間で信頼が醸成され、安全を人々の安心へとつなげられる社会であること。

5 安全・安心な社会に向けた施策の正負両面を考慮し合理的に判断できる社会

 安全・安心な社会を実現する施策が持つ正と負の両面を十分に考慮した上で、どこまで安全・安心な社会を実現するべきか合理的に決めていける社会であること

 以上、5つの条件を満たす安全・安心な社会の構築を目指した上で、さらに心豊かで質の高い生活を営むことのできる社会の実現を目指すべきである。・・・ここまで

  要するにと簡単にまとめられる問題ではないのだが、これらの文章に於いては意図的とも思える「危険」隠しが行われている。いつから危険という言葉は使えなくなったのだろう。先にも書いたが「安全」という言葉は、概念だけあって包含する現実はない。一方「危険」という言葉には無限とでも言うべき事象群が存在する。その実態ある「危険」という言葉を隠して空虚な安全という概念で社会を語るが故に、なんとも意味不明な文章になっているのである。

  政府批判をするつもりはないが、危険隠しをしたところからではどんな議論も成立しない。政府が余りにも危険隠しに走ると、反作用として危険危険と騒ぐグループが出現する。危険か安全かというアンバランスな視点からでは、合理的判断などできるはずがないのである。文科省の資料を少し出したが、安全安心をタイトルに付けた文書はどこにでもある。厚生労働省、農水省、総務省、経産省、内閣府など政府機関だけではなく、痴呆自治体いや地方自治体にも安全・安心な町づくり条例なるモノが、氾濫している。安全・安心条例と入れて検索をかけると、半日は楽しめそうなくらいの数がヒットするのである。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク