一次代謝と二次代謝 13 

  前回までのブログを読んで、何を批判しているのかが分かりにくいと感じられるヒトが多いと思う。この筆者は、何故、一次代謝・二次代謝という分類に何故そこまで拘泥するのか。実はその点について本人も悩み続けてきたのである。これらの定義は、何故こんなにも私を苛立たせるのだろうかと。二次代謝物質という煌びやかな生理活性を持つ物質群がある。私はその物質群に魅了されているわけである。生物間の情報交信作用、動物・植物・微生物に対する薬理作用、化学物質を介した環境との相互作用など、のめり込んでしまいそうなほど蠱惑的な物質群が現実に存在し、二次代謝物質という括りで説明されているわけだ。よくよく考えてみると、私の不満はそうした魅惑的な物質群が、巷間行われている二次代謝物質という分類では説明しきれていないことに対する苛立ちから始まったようだ。

  現在の一般的考え方に従えば、二次代謝系・二次代謝物質をうまく定義できれば必然的に一次代謝系・一次代謝物質の定義もできる論理構造になっている。とすれば、まずこの考えを認めたときに問題が生じないかどうかを検討することから始めればよい。先に述べたように、二次代謝・二次代謝物質という technical term が広く使用されるようになったのは、1950年に Paech や Bonner が彼等の著書の中で用いてからである。その後この二次代謝(二次代謝物質)という用語は使い勝手の良さもあって使用範囲を拡大し、現在では ポリケチド(poliketides) 、イソプレノイド(isoprenoids)、 フェニルプロパノイド(phenylpropanoides)、 アルカロイド(alkaloids)をはじめとした種々の抗生物質や複合経路から生産される多種多様な化合物群を内包することになっている。この間、二次代謝物質として分類される化合物の数は増え続け、現在では30,000種以上の化合物が知られているばかりか、分離分析機器の進歩に伴い、毎月数十種の新規化合物が報告され続けている。そこで、この増え続けている二次代謝物質群は、二次代謝と定義されている系の生産物として適格であるかどうかを問わなければならないだろう。

  そのような問に対して先述した日本薬学会の説明は、実によく練られた説明になっている。下に再度引用する。

Secondary metabolism

  生物の体内で酵素や補酵素の作用により物質を合成するときの化学反応を代謝といい、その中ですべての生物に含まれることはなく、生物の共通の生命現象に直接関与しない物質を生合成する代謝を二次代謝といい、できた天然物を二次代謝産物(secondary metabolites)という。二次代謝産物はアミノ酸やアセチルCoAなど一次代謝の限られた中間物質を材料にして生合成され、一種類の植物の中でも莫大な数の物質を生成するが、生産者である植物自身にとっての役割は不明な物が多い。一方で、人類にとっては天然由来の医薬品又は、新薬へのリード化合物として重要な役割を果たしている。(2006.10.17 掲載)

  この記述の中で、重要な部分は下線を引いた部分である。この文脈に沿って解説するば、二次代謝とはある生物にはあって他の生物にはない代謝である。生物の共通の生命現象(これが何を意味するのかは不明)に直接関与しない(間接的に関与すると対語になると思うが、生命に間接的に関与するとはどういうことか不明)代謝が二次代謝ということになるだろう。この説明は、一般人が読んでも決して具体的イメージを持てない説明になっている。もう少し詳しい説明をと求められたら、生態相関物質の合目的的生産系のような例を出して、的を少し外しながらも「そうかな」と思わせる答えらしきものを提示できるだろう。いくつかのそれらしき例を並べられる間に、素直な質問者の「ある生物は何故そんな系を持つのか」という疑問は何となく消滅させられていく運命にある。

  それでもその疑問にこだわる少数の人には、「一種類の植物の中でも莫大な数の物質を生成するが、生産者である植物自身にとっての役割は不明な物が多い。一方で、人類にとっては天然由来の医薬品又は、新薬へのリード化合物として重要な役割を果たしている。」という後段が有効である。もっと研究が必要だ、研究が進めば人類の健康と幸福に寄与できるという流れに持っていけば、研究費の獲得にも有利に働くということだろう。

  なんとも悪意に満ちた批判に見える。要するに、それは因業爺の偏見に満ちた悪口であると云われても返す言葉は無い。しかし、何故生物は二次代謝系を持つのか、系の存在意義は何であるのか」という素朴な問に対する答えが欲しかった私にとって、常に失望を伴う答えしか得られなかったことへの恨み節である。ウィキペディアの二次代謝産物の項には、Fraenkel, Gottfried S. がScienceに書いたかなり古い定義が引用されている(“The raison d’Etre of secondary plant substances”. Science 129 (3361): 1466–1470)。

  しかし、その定義と例では全く納得できない。「ある生物は何故そんな系を持つのか、その系の本来の意義は何であるのか」という素朴な質問に、正面から答えていないという事実は否定できないだろう。

  実は、40年近く納得のいく定義を探してきた。いろんな本を読み論文を読んだ。しかし、二次代謝物質の華麗でかつ有益な生理活性を前面に出して、その本質的存在意義についての考察を看過する傾向は段々強まっているように感じる。例えば、1992年に Julian Davies はその著書 “Secondary Metabolites : Their Function and Evolution ” の中で二次代謝産物に対して予想される機能をいくつか列挙している。それは

(1)他の生物に対する化学兵器としての役割

(2)金属運搬剤としての役割

(3)植物ー微生物の共生に関わる役割

(4)ネマトーダー微生物の共生に関わる役割

(5)昆虫ー微生物の共生に関わる役割

(6)性ホルモン or フェロモン(個体内もしくは個体間情報伝達の共生に関わる役割)

(7)細胞内または細胞間での分化に関与するエフェクターとしての役割

(8)有害生産物の排泄

(9)利己的遺伝子の生産物

(10)新しい pathway のための貯蔵プール

  である。つまり二次代謝物質の存在意義をその物質のもつ機能(生理活性)によって説明しようと試みているわけである。彼の文脈の上では、(1)は抗生物質と呼ばれる物質群やファイトトキシンなどをイメージしているのであろう。(2)はムギネ酸のようなキレート能を持つ植物シデロフォア物質を(3)はマメ科植物と根粒菌の間で働くフラボノイドあるいはイソフラボノイドなどを考えればいいのであろう。(4)〜(7)についても、(1)〜(3)の場合と同じように、生物間の情報を伝達する物質群としての解釈と捉えていると思われる。(8)の項は、先に述べたモルヒネの解釈と被る部分があるかもしれない。モルヒネの場合は有害生産物ではなく、有用な物質が廃棄に向かって代謝されるという違いがあるにしてもだ。こうした考え方は、現在のところ最も広く受け入れられているものであろう。

  しかしながら(9)、(10)の項に到っては、何を言いたいのか理解が難しい。「新しい pathway のための貯蔵プール」などという説明は、私にとっては全く理解不能である。生存にとって有利な系が、進化の過程で成立する可能性を否定するつもりは毛頭ないが、新しい pathway のための貯蔵プールがあって、ここから始まる代謝系のために、オーファンジーン、オーファンエンザイム、オーファンレセプター等々が予定調和的に用意されているという意味であるとすれば、それは話のつくりすぎであろう。

  とはいえ、二次代謝物の生理活性をもってその存在意義とする考え方は、Martin Luckner の ” Secondary Metabolism in Microorganisms, Plants, and Animals ” (1990) や J. B. Harborne and F. A. Tomas-Barberan による “Ecological Chemistry and Biochemistry of Plant Terpenoids” (1991) あるいは Haslam (1986) の総説などにおいても共通している。

  こうした観点から“一応”説明できる二次代謝産物はほんの少数にすぎないのだが、それらの合目的的に働くように見える生理活性を例に挙げ、それらが生物内あるいは生物間で示す機能をもとに、一見合理的な説明を加えるという形を取っている。しかし、それは特有な生理活性を持たぬ大多数の二次代謝産物の存在を無視した議論であろう。こう批判すると、その他多数の二次代謝物質群も何らかの機能を持っており、知識の充実に伴い上記の説明の範疇に収まるに違いないと強弁する人が少なくないのである。しかし、生理活性からの二次代謝物質の説明も上記の反論も、決して成立しないと私は思う。何故か?

  生理活性から二次代謝物質の存在意義を説明しようとする場合、二次代謝産物の生合成が、二次代謝産物による機能獲得に先行して起こっているという歴史的事実に目を瞑る必要がある。つまり地質学的時間の中でみた場合、生物によるある代謝産物の生合成能力の獲得は、その生合成産物による機能獲得に先行するに違いない。「見えざる神の手」を盲目的に信じるのであれば上記の説明は成立するかもしれない。しかし、理性的に考えればその説明は時間的シークエンスに致命的な矛盾を含んでいる。生物体内で前もって生合成された代謝産物の存在を、生合成された後に代謝産物が獲得した機能によって説明するのは不可能であるに違いないからである。

  “いわゆる”二次代謝産物をより合理的かつ総合的に理解するには、代謝産物の機能からその存在意義を説明するという倒錯した考え方を否定せざるを得ない。ここでは、二次代謝物の個別的生理活性を問題にするのではなく、それら化合物群を生み出している前段階の代謝に存在する生物学的意義を問わなければならない。我々は、ヒトが作ったものに対して成立するリバースエンジニアリングという工学的解析方法が、生物に対しては成立しないという原則に従うしかないと思う。爪は引っ掻くためにできたのではなく、爪ができたから引っ掻けるのである。

  以後、私は生物を歴史的存在として時間の中で捉えるとともに、生物体内で消費される物質あるいは過剰に存在する物質の排泄、解毒、消去の重要性を強調する立場から各種代謝系の解釈に関する異論を述べることにする。

一次代謝と二次代謝 14 に続く

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