やはりいつも少数派

 世の中から新型コロナ感染症と云う重大な病気はなくなって、ただの風邪、いわゆる旧型コロナ感染症に戻ったわけだ。政府は最早この病気に注意を喚起するようなことをしないと思うが・・・。マスクについては極めて消極的な態度をとり続けるだろう。マスクは一応不要ということになったが、世の中のマスク信仰は今も健在である。先日、銀行に行った。郵便局にも市役所にも行った。私以外は全員マスクをしていた。ここまで来るといつ、彼らがマスクを外すのか予測できない。要するに、郵便局や市役所あるいは地域の代表的企業が先に立って、マスク不要キャンペーンでもしないかぎり、この流れは変わらないだろう。でも郵便局や市役所あるいは地域の代表的企業は、お客様がマスクをつけ続けるかぎり、先に立って職員に外せとは指示しないように感じている。

 そう、先日さほど乗り気ではなかったが老人会の宴会に参加してきた。近くの温泉ホテルで30人弱の宴会だった。自宅近くの公民館前までマイクロバスでの送迎があったのだがマスク解禁の後だったにもかかわらず、ここでもノーマスクは私だけ。ホテルで出迎えの職員も完全武装であった。しかし、宴会が始まると同時に全員がマスクをかなぐり捨てて、久しぶりの宴会は良いなと大いに盛り上がっていた。私は隅っこで黙って飲んでいたのだが、多くの人が徳利を持って歩き回り、合間にはカラオケ三昧である。二時間半の宴会が終わり帰りのマイクロバスに乗ると、私以外ほぼ全員がマスク着用である。理解できない。いわゆる新型コロナ感染症が流行っていた時、一人で車に乗っているのにマスクを付けている人を多数見てきた。理解できなかった。僕から私にコロナが移ったら大変なのかな。明らかに夫婦とみえる人達もマスクをしていた。濃厚接触を避ける為かなと思ったが、彼らは家に帰ってもマスク着用を続けていたのだろうか。

 ワクチンは打たない、健康診断には行かない、PCR検査もしない、旅行もしない、可能な限り国からの補助金を当てにしないで生活していたのに、初期の頃は非国民のように、そして病原菌のように扱われたことがある。「俺は国の金に集ることなく質素に生きているのに、何でそこまで云われなければならないのか」と怒っていた。だが、今となっては不条理だと思う怒りはない。何とか昔の日常に戻せないかと考えているだけの保守派である。

 ワクチンを打たない人、健康診断に行かない人、PCR検査をしない人、旅行に行かない人さらにマイナンバーカードを作らない人の重なり集合をとるとどれくらいの人が残るのだろう。正直な話、上記の5条件を満たす人に出会ったことはない。とすれば、やはり私は少数派、それも究極の少数派らしい。これは生き方として、正しい–間違っているという話ではない。各個人が、それなりに選択した結果であろう。それにしても「日本人はなんとガバナビリティの高い民族なんだろう」と思うこの頃である。

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梨原木の薪化がようやく終わった

 梨の栽培をしていた方が樹種の変更をするに伴い、切断した枝をあげると云われ約50本分の薪原木を入手した。1月の半ば頃の話である。50本分の原木と云っても、1本の幹から3本の枝が出ている。さらに1本の枝から3~4本の玉切りした枝が取れる。この枝の1本から少ない枝で4本、大きな枝であれば10本近い薪が取れる。考えただけでもゾッとするほどの量である。2月中に凍結した山道を走って山の畑に積み上げ、4月の初旬には作業を終わらせる予定で玉切りを始めていた。ところが3月の初めに畑に残っていた幹を根っこまで抜いたからこの幹も持って行っていいよと云われた。嬉しいと云うかなんというか、嬉しいけど誤算である。結局、他の作業を手抜きして時間をつくり薪棚への収納が終わったのが今日である。

 当然だが、春の作業は遅れに遅れ未だに畑には苗がない。水田の周囲は草だらけの状況である。今日から苗の植え付けと草刈りを始めるのだが、今週末から桑の収穫が始まるのだが、先に書いたように菌核病の防除に失敗したため、病気に罹った白い果実が半端ない割合で割合で混じっている。さらにだが、今年はクワキジラミの発生数が多いだけでなく、カメムシの数も多い気がしている。この二種の虫に対して適応のある農薬は存在しない。

 明日、いや今日から、カボチャ、トウガラシ、ナス、タケノコイモ、ソルゴー、ゴーヤ、さらに何種類かのハーブの植え付け始める。水田周りの草刈りも待ったなしだ。春先からみすぼらしい畑の目隠しにと道路際に植えていた菜の花を切った。ここにトラクターを入れて夏の目隠しであるソルゴーを蒔く予定だが、間に合うかどうか分からない。

 と書いて5日が過ぎた。今日は19日である。トウガラシ、ナス、ソルゴーは植えた。水田周りの草切りもした。周囲の長さが約500m、法面の高さが1.5m程あるので最低 2 回は回る必要がある。南側は耕作放棄された水田に面しているので、2m程越境して切って行く。結局1,5 往復せざるを得ない。マムシがいた。アオダイショウの幼蛇がマムシとよく似た模様を持つのだが、マムシの方がズングリしているだけでなく動きが遅い。近づいて見れば顎が張っていわゆる毒蛇顔をしている。蛇がいると素早く追いかけて苅払い機で首を刎ねる人がいる。農作業中に噛まれる可能性があるのだから間違った判断ではない。では私にできるかといえば、躊躇してしまう。蛇に対するこの感情は、何が原因なのだろう。いっそのこと、攻撃してくれれば反射的に行動できるのだが。

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晩春

 当地の春はイヌフグリの空色から始まる。続いて臘梅の淡黄、梅の紅白、菜の花の黄蘗、桜の淡紅、桃の紅白が咲き分ける世界につづいて、純白の塩原とも見える梨の開花が続く。この間、柿の花の開花があるのだが、柿の花は地味な存在で普通の人は気付かないようだ。連休が明けた頃から山藤の若紫と山法師の白が目立つようになった。ヤマボウシの白は良い。近づいて見るよりも少し距離を置いて見たほうが風情を感じる。ただし、花びらに見える白いものは総苞片であって花弁ではない。改めて考えてみると、私は白い花、それも幾分緑色を帯びたものが好きなようだ。薔薇の品種で云えば花弁がゴテゴテしていない小振りな緑光あたりである。

 たわいのないことを書きつづっているブログなので余り役には立たないが、清少納言が紙の白さに拘っていた。枕草子における色々な事柄の描写のなかで、色に関する感受性が特に優れているように思う。そういうことはどうでも良い、いまは山法師の花が綺麗だと言いたいだけである。山法師は花水木に似ている。花弁と見まがう白い総苞片の先端が少し窪んだ形をしている。この木とその窪みについては、キリストに関する伝説らしきものがあるそうだが、信頼性のある話ではないので書かない。そういえば数日前から庭石菖の花も咲き始めた。因みに花水木も庭石菖も北米原産である。さらにつけ加えれば、花水木は1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄が、アメリカ合衆国ワシントンD.C.へ桜を贈った返礼として3年後にワシントン市から東京市に寄贈されたものだそうだ。

 桑を育てている。実取りの桑である。近所に育てている人は全くいない。こうした作物には適用を持つ農薬はほとんど存在しない。だが、それを食害する害虫や病害菌(我がままな定義だな)は存在する。ややこしい話になるが、蚕の餌としての桑には散布して良い農薬がある。この農薬を桑の葉茶を採る為の桑に使っている人がいるらしいが、気持ちは分かる。実採りの桑に対してはロブラールという農薬が1シーズンに2回だけ使える。菌核病に効く薬なのだが、今年は散布するタイミングを間違えたらしい。実った果実の半分くらいが菌核病にかかり、商品にならない。もう一つ、オレートという農薬が使えるのだが、これはただの石鹸水である。高級石鹸であるオレイン酸石鹸の水溶液を農薬として登録した商品であり、アブラムシに牛乳をまくのと同じく、虫の気門を封じて窒息死させる。

 いまクワキジラミと云うアブラムシのような小さな虫が発生している。上記のオレートが効くことになっているのだが、1寸の虫にも五分の魂、彼らは桑の葉を巻き込んでその中に隠れているのでオレートをまいても薬液がかからない。生態的防御手段というべきか、塹壕にもぐって敵弾から避けている兵士と同じである。仕方なく、巻いた葉っぱの1枚1枚にスプレーでオレート溶液を吹き込んで行くのだが、とても間に合わない。それだけではない、周辺の梨や柿畑にいたカメムシが、薬剤散布に追われてうちの畑に逃げ込んでくる。カメムシに対する薬は何も認められていない。今年はダメだ。畑の中に蚊取り線香でも吊るしたらなどと妄想するが、蚊取り線香にはアレスリン(ピレスロイド系農薬)が含まれている。ということで、ポジティブリスト制の下では全く動きが取れない。

 これはポジティブリスト制を否定しているのではなく、そこで決まっている数値が現実とそぐわないと云っているだけである。近年、世界的に農業に対する締めつけが厳しくなってきた。オランダの状況をみれば、先は暗い。地球温暖化の原因になると云うことで稲作を制限しようと云う議論がある、牛のげっぷにメタンが含まれるから牛の飼育を制限しようと云う話もある、ペットは気候変動の原因、肉食のペットは安楽死させて、温暖化にあまり影響しないカメや爬虫類にしようという提言もある、コオロギを食べろ、ゴミムシダマシを食べろ、ハエのウジを食べろと言っているグループの主張である。どうも人間としての尊厳を奪いに来ているようだ。

 好きな花について書いていたのに、後味の悪い終わり方になった。やはり最後は綺麗に終わりたい。シャガ、射干あるいは著莪と書く。アヤメ科の植物で、清楚な花をつける。やや湿り気味で半日陰に咲く。中国から渡来した日本に咲く射干は3倍体であるため種子ができない。川沿いの登山道の脇などに群生しており、疲れを癒やしてくれる植物である。ちょうど今頃が開花期に当たる。有毒植物と云われているが、使い方さえ間違えなければ民間薬としても使える。そういえば上で書いた庭石菖、これもアヤメ科の植物だった。後で写真を付けるかもしれない。

 とはいえ、地震が多いですね。水と数日分の食料、家具の固定、枕元に長靴程度の用意は必要かも。八丈島、かなり危なそう。

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今日はコマ打ち

 一月の半ば過ぎだったと記憶しているが、近所のNさんの手を借りて切りかけのクヌギの木を切って放置していた。切る時期が少しばかり時期遅れだったため、玉切りの時期も半月ほど遅らせて行い、今日のコマ打ちとなった。註釈だが、クヌギの木は椎茸栽培用の原木であり、玉切りとは原木を1m弱に切りそろえる事を意味する。その原木にドリルで穴を開け椎茸菌を前もって生育させた木片(コマ)を打ち込む作業をコマ打ちと呼ぶ。原木の直径が30cm程あったので、根際から切り出した原木は優に50Kg を超える。これをキャタピラタイプの運搬車に乗せてヨタヨタと斜面を登り、軽トラに乗せ変える。この作業を七八回繰り返したあと自宅に帰る。それから15cmおきに電動ドリルで穴を開けコマを打ち込むのである。来年の年明けには正真正銘の原木椎茸が食べられるという期待がなければとてもできない。

 とは云うものの、駒を打てば終わりというものではない。プロの椎茸農家は駒を打った仮伏せという形で保温・保湿・適当に乾燥・直射日光遮断などなどの条件を満たすように6月頃まで世話をする。その後、本伏せと呼ばれる木組みを作り適切な保湿と乾燥且つ遮光を行い収穫に至るのであるが、アマチュアの私に出来るかといえば仮伏せ・本伏せに適した場所がないだけでなく、暑い時期に木組みを変えるほどの体力もない。仕方なく、幾分密着した合掌組みで仮伏せ期間を過ごしてもらう事にしている。日光は透水性の遮光ネットと去年買っていたワラを使い何とかする予定である。手抜きの集大成といっていいだろう。それでも、自家消費を賄う程度には収穫できるので満足している。とはいえ、費やした時間と労力、ガソリン代、さらに打ち込むコマ代を計算すれば赤字かもしれないな。

 もう昔の話である。ローマに1週間ほど滞在した事がある。いわゆる普通の観光客としてぶらついていたのだが、いわゆるキリスト教的建築物に馴染めなかった。冬は寒そうだなとか転んだら痛そうだなとか、掃除が大変だろうな、などと考えていた。無意識に木で作られた寺や神社と比較していたようだ。寺だろうが神社だろうが冬は寒いし、畳であっても転べば骨折するかもしれない。もちろん掃除は大変である。とはいえ、畳や木の床の冷たさと石造りの床の冷たさに何らかの差違を感じていたのだろう。近頃気付いたのだが、私が風景や建築物を見る場合、そこにいる人々を取り除いて観ていたらしい。人のいない社寺からは静謐さを感じ、人のいない教会建造物からは廃虚的なイメージを感じていたようだ。これは偏見だなとは思うもののそう感じるのだから仕方ない。

 そんな個人的な感想は横において、観光客の常としてバチカン市国へも足を伸ばした。この場所にも全く馴染めなかった。依って立つ文化と宗教が違うだけでなくキリスト教の思想について無知同然であったのだから当たり前といえば当たり前である。私に理解する素地がなかったことは間違いないだろう。記憶に残っているのは、やけに立派な彫刻と壁画、そして暖房が効きそうにもない高い天井で溢れていたことである。以前に書いたかもしれないが、バチカン市国の人口は800人余り、男女比は極端に男に偏っている。当然ながら子供は原則として産まれないそうだ。こうした偏った社会では色々な問題が頻発するが、そんな事を書きたいわけではない。誰もが一寸調べれば分かることだからである。私が気になったのは、出会った司祭や修道女の皆さん(言葉遣いが正しいかどうか分からない)の多くが、肥満気味であったと云う記憶である。かなり以上に偏った社会のストレスが、食事の量に表れているのではと邪推してしまった。

 

 

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TCAサイクルの話は終わったのか・・・2

 何が言いたいのか。解糖系とTCA回路の意義付けが変われば、必然的にこの系路に含まれる物質群や関連している系路群の意味付けも変わってくるに違いない。そこが悩ましい。

 まず簡単に、いわゆる解糖系とTCA回路の存在意義をまとめておく。いわゆる解糖系、常識に従えば嫌気的にブドウ糖を分解して2分子のATPを生産するとともに、ピルビン酸を通って2分子のアセチルCoAをTCA回路に供給する意義を持つ。送り込まれたアセチルCoAはTCA回路と電子伝達系を通る間に大量のATPが作られ、この作られたATPが生物の主要なエネルギー源であるという形での常識的理解だけでなく、送り込まれたアセチルCoAは2−ケトグルタル酸から分岐するグルタミン酸・グルタミンを通って各種アミノ酸・タンパク質のみならず核酸塩基の生合成系の原料としての大きな役割を果たしていると明記すべきであろう。

 先に解糖系について書いた際に、ブドウ糖(グルコース)は解糖系から突き出した盲腸であると書いた。これが書きすぎであることはある程度理解している。解糖系についての研究が行われた時代背景を考えれば、人のエネルギー代謝を念頭に置いた解糖系研究であったことは明らかであろう。とすれば、経口的に取り込んだ食品中の炭水化物がブドウ糖まで消化された後、小腸から吸収されて血液にはいり体中のエネルギー源になるというストーリーとの相性は良い。だが、高血糖で少し困っている一人として考えれば、血液にはいったブドウ糖は、G-6-P、G-1-Pを経由してグリコーゲンとなり、肝臓や筋肉中に貯蔵される系路の重要性を無視できないのである。大まかな計算だが、肝細胞は食後直後に肝臓の重量の8 %程度(大人で100~120 g)までのグリコーゲンを蓄えることができる。この肝臓に蓄えられたグリコーゲンは他の臓器でも利用することができる。骨格筋中ではグリコーゲンは骨格筋重量の1-2 %程度の低い濃度でしか貯蔵できない。筋肉は、体重比で成人男性の42%、同女性の36%を占める。このため体格等にもよるが大人で300g程度のグリコーゲンを蓄えることができる。

 人によるこの2種類のグリコーゲンの利用様式を見てみると、肝臓のグリコーゲンはグリコーゲンホスホリラーゼの作用を受けグルコース−1−リン酸となった後、ホスホグルコムターゼによりグルコース 6-リン酸へと転換される。このグルコース 6-リン酸はグルコース-6-ホスファターゼによって加水分解を受けブドウ糖に変えられ血流中に放出されたあと体内の細胞中で解糖系を通って利用される。(肝細胞においてはグルコース 6-リン酸の形で、そのまま解糖系へ導入されている。そもそもグルコース 6-リン酸がグルコース-6-ホスファターゼによってブドウ糖に変えられ血流中に放出されること自体がエネルギーの無駄遣いと言えないこともない)。筋肉細胞においては、グリコーゲンホスホリラーゼの触媒下にグルコース−1−リン酸となった後、ホスホグルコムターゼによりグルコース 6-リン酸へと転換される。ここまでは肝細胞の場合と同じだが、筋肉細胞にはグルコース-6-ホスファターゼが発現していないため、グルコース 6-リン酸がそのまま解糖系へと流入し代謝される。さて、消化・吸収されてグリコーゲンまでの代謝は糖新生系として捉えるとして、グリコーゲンから解糖系に流れ込むに際して、グルコースを経由する物質量よりグルコース−1−リン酸を経由する物質量の方が多そうに見えるところが悩ましい。

 植物においては、糖新生系から生じるブドウ糖をそのままの形である程度含む例は、ブドウ、プルーン、バナナなどに限られさほど多くない。大多数の植物では光合成で生産された3単糖リン酸すなわち3−ホスホグリセリン酸の形でいわゆる解糖系と糖新生系へと流入するのだが、下流へと流れる3−ホスホグリセリン酸はブドウ糖などを経由する事なくTCA回路へと流れ込んでゆく。一方糖新生系を流れる3−ホスホグリセリン酸は、これまたブドウ糖を経由せずに、セルロース、デンプンなど多糖類という分類される化合物群へと変換されて行くのである。ここにおいてもブドウ糖の影は限りなく薄い。植物においては、ブドウ糖(グルコース)は解糖系から突き出した盲腸であるという言明が成立しそうだ。上のように考えると、動物のエネルギー代謝に於けるブドウ糖の存在意義についてはある程度認めるにしても、植物の代謝におけるブドウ糖の存在意義はかなり低下してしまいそうだ。(植物が分泌する蜜にはブドウ糖が高濃度に含まれる。この現象に関する考察は別途せざるを得ない。)

 植物生理学を専門とする研究者達は、何故動物で確立された解糖系の図をそのまま使うのだろう。植物には動物における消化器と連動して働く肝臓はないし筋肉もない。植物は独立栄養生物であり動物は従属栄養生物である。生き方において全く異なった二種の生物のエネルギー代謝が異なっているのが当然だと思うのだが、世の常識はどうもそうではないらしい。解糖系・TCA回路の意義づけを物質生産側に少しばかり拡大し、動物と植物におけるをれらの糖代謝の異なる側面を考慮すると、今まで糖代謝の中心的位置にあるとするブドウ糖の存在意義が思い掛けなく薄くなってしまった。まあいいか、どうせ少数派の遠吠えとして扱われるだろう。だが、解糖系とTCA回路の存在意義の変更は、思い掛けないほど周辺の代謝系に影響を与えるのである。

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