一月の半ば過ぎだったと記憶しているが、近所のNさんの手を借りて切りかけのクヌギの木を切って放置していた。切る時期が少しばかり時期遅れだったため、玉切りの時期も半月ほど遅らせて行い、今日のコマ打ちとなった。註釈だが、クヌギの木は椎茸栽培用の原木であり、玉切りとは原木を1m弱に切りそろえる事を意味する。その原木にドリルで穴を開け椎茸菌を前もって生育させた木片(コマ)を打ち込む作業をコマ打ちと呼ぶ。原木の直径が30cm程あったので、根際から切り出した原木は優に50Kg を超える。これをキャタピラタイプの運搬車に乗せてヨタヨタと斜面を登り、軽トラに乗せ変える。この作業を七八回繰り返したあと自宅に帰る。それから15cmおきに電動ドリルで穴を開けコマを打ち込むのである。来年の年明けには正真正銘の原木椎茸が食べられるという期待がなければとてもできない。
とは云うものの、駒を打てば終わりというものではない。プロの椎茸農家は駒を打った仮伏せという形で保温・保湿・適当に乾燥・直射日光遮断などなどの条件を満たすように6月頃まで世話をする。その後、本伏せと呼ばれる木組みを作り適切な保湿と乾燥且つ遮光を行い収穫に至るのであるが、アマチュアの私に出来るかといえば仮伏せ・本伏せに適した場所がないだけでなく、暑い時期に木組みを変えるほどの体力もない。仕方なく、幾分密着した合掌組みで仮伏せ期間を過ごしてもらう事にしている。日光は透水性の遮光ネットと去年買っていたワラを使い何とかする予定である。手抜きの集大成といっていいだろう。それでも、自家消費を賄う程度には収穫できるので満足している。とはいえ、費やした時間と労力、ガソリン代、さらに打ち込むコマ代を計算すれば赤字かもしれないな。
もう昔の話である。ローマに1週間ほど滞在した事がある。いわゆる普通の観光客としてぶらついていたのだが、いわゆるキリスト教的建築物に馴染めなかった。冬は寒そうだなとか転んだら痛そうだなとか、掃除が大変だろうな、などと考えていた。無意識に木で作られた寺や神社と比較していたようだ。寺だろうが神社だろうが冬は寒いし、畳であっても転べば骨折するかもしれない。もちろん掃除は大変である。とはいえ、畳や木の床の冷たさと石造りの床の冷たさに何らかの差違を感じていたのだろう。近頃気付いたのだが、私が風景や建築物を見る場合、そこにいる人々を取り除いて観ていたらしい。人のいない社寺からは静謐さを感じ、人のいない教会建造物からは廃虚的なイメージを感じていたようだ。これは偏見だなとは思うもののそう感じるのだから仕方ない。
そんな個人的な感想は横において、観光客の常としてバチカン市国へも足を伸ばした。この場所にも全く馴染めなかった。依って立つ文化と宗教が違うだけでなくキリスト教の思想について無知同然であったのだから当たり前といえば当たり前である。私に理解する素地がなかったことは間違いないだろう。記憶に残っているのは、やけに立派な彫刻と壁画、そして暖房が効きそうにもない高い天井で溢れていたことである。以前に書いたかもしれないが、バチカン市国の人口は800人余り、男女比は極端に男に偏っている。当然ながら子供は原則として産まれないそうだ。こうした偏った社会では色々な問題が頻発するが、そんな事を書きたいわけではない。誰もが一寸調べれば分かることだからである。私が気になったのは、出会った司祭や修道女の皆さん(言葉遣いが正しいかどうか分からない)の多くが、肥満気味であったと云う記憶である。かなり以上に偏った社会のストレスが、食事の量に表れているのではと邪推してしまった。