過剰と蕩尽 32
ここまでの話の中にもあれこれと付け加えるべきことはあるが、ピリミジン塩基の生合成を見た後で総合的に考えることにしよう。まず、ピリミジン塩基を持つ核酸塩基類、即ちリボース残基を持つウリジン3リン酸、シトシン3リン酸、チミジン3リン酸と、それらに対応するデオキシリボース残基を持つ核酸塩基類の生合成系についてである。最初に、すべての塩基の生合成に共通な部分、つまりUridine monophosphate(UMP)までの経路についての議論を行い、その後にUMPから放散していく興味深い経路の部分を見ることにする。
下にヒトのピリミジン塩基生合成の図を示す。いわゆる高等生物においては系の重層度が高いためどの系を選択して議論すれば良いか良いかの判断が難しい。(KEEGからの転載)
図を見れば明らかだが、一つの系を動かすのに複数の酵素群が存在する場合が多くこれを簡潔に説明するのはかなり以上に難しく感じる。また、それらの系の関係を正確に把握するのも難しい。従って、プリン塩基生合成の場合と同じように系統樹の根元に近い位置に位置する古細菌 である Pyrodictium delaneyi の持つ系をモデルとして話を進めることにしよう。
では次の図を見てほしい。ここに示しているのがピリミジン塩基生合成の前半部分、即ちUMPまでの生合成を有機化学的に見たものである。
まず原料である二酸化炭素が水和して生成する炭酸のアニオンがATPを攻撃して炭酸とリン酸の混合酸無水物を形成する所から始まる。言い換えれば、炭酸のカルボニル基の活性化が起こった訳だ。この活性化されたカルボニル基が、グルタミンの加水分解で生じたアンモニアによる求核攻撃を受けカルバミン酸が生じる。カルバミン酸は不安定な物質で普通の条件下ではすぐに二酸化炭素とアンモニアに分解するのだが、多分この場合は酵素と結合した形で安定化しているのであろう。そのカルバミン酸がもう一分子のATPと反応して、カルバミン酸とリン酸の混合酸無水物であるカルバモイルリン酸が生成する。このカルバモイルリン酸においても、カルボニル基の反応性が高くなっているため、そのカルボニル基をアスパラギン酸のアミノ基が攻撃しリン酸が脱離する求核置換反応が起こりN-Carbamoyl-L-aspartate が生成する。化合物名から見て分かるように、アスパラギン酸のアミノ基がカルバモイル化されたモノとして見て良いが、視点を変えれば尿素の窒素原子がアルキル化されたモノとして捉えることも可能であろう。
N-Carbamoyl-L-aspartateのα位のカルボン酸とカルバモイル基のアミノ基との間で脱水を伴う閉環反応が起こると(S)-4,5-Dihydroorotateが生成する。次に、酵素の塩基性の部分が4位の炭素上にある水素原子を引き抜くのだが、この引き抜きに伴って図示したような電子対の移動が起こり、最終的に5以上の水素原子がハイドライドイオンとしてNADP+に存在するピリジン環の4位へと移動する。このハイドライドイオンの移動に伴う電子対の移動は図に示したとおりである。何度も繰り返すようだが、水に極めて不安定なハイドライドイオンが、ヒトを含むすべての生物の中で動き回っている訳だ。とにかく、NADP+の還元に伴う4,5-ジヒドロオロト酸の酸化(脱水素)によって、オロト酸が生成する。
次の反応は、このページの最終産物であるUMPの形に合わせるため、オロト酸を60度だけ右向きに回転させて描いている。オロト酸2位の水酸基のエノール化に伴い3位の窒素原子がアニオンとして5-Phosphoribosyl diphosphateの1位の炭素を攻撃し、ピロリン酸の脱離とともにオロチジン-5’-リン酸を生じる。生じたオロチジン-5’-リン酸は脱炭酸酵素によって脱炭酸され、このページの最終産物であるUridine monophosphate(UMP)を与える。
初めの頃から拙ブログを読んでいる方であれば、さほど難しい反応は存在しない。基質レベルでの酸化反応と脱炭酸反応がそれぞれ1段階あるのみで、それ以外はすべて単純な2分子求核置換反応である。この生合成に関与している物質については、グルタミンがよく出てくるな、アミノ基の導入にアスパラギン酸を使うのか、ATPの消費が激しいな、プリン塩基生合成と同じくリボース残基は5-Phosphoribosyl diphosphateに由来するのかなどという感想が存在するかも知れない。2種類のアミノ酸については、以前から疑惑の俎上にあげているTCA回路と呼ばれている系に由来する。5-Phosphoribosyl diphosphate はペントースリン酸経路から流れてくる化合物であり、この経路に意義づけに重要な役割を果たすべき物質であろう。ATPはATP問題として最後に議論する予定である。
そこで次の図だが、まず反応は横に置いて全体像を示すことにする。出発物質が右上で生成物が左になっているが、特に理由はない。KEGGの図を参照しながら描いていたら、こうなってしまったということである。
代謝の各段階の上にそこで働く酵素のECナンバーを示している。さらに青色で示した酵素反応はすべてキナーゼの仲間であり、ここで起こる反応すべてATPからのリン酸基の転移であり、いままで何度も描いてきた反応である。一方、赤色で示した酵素が働く段階は幾分難解である。とは言え、EC1.7.4.1およびEC1.7.4.2が働くリボース残基のデオキシリボース残基への変換反応は、プリン塩基生合成ですでに述べている。
では総論から始めることにしよう。前ページで生合成されたUMPが、UMP kinaseの触媒下にATPからリン酸残基の転移を受けUDPとなった後、再びATP:nucleoside-diphosphate phosphotransferaseの存在下にもう1個のリン酸残基をATPから受け取ってUTPが生産される。UTPまで来れば、EC6.3.4.2即ちCTP synthaseによってCTPへと変換された後、EC3.5.4.13つまりdCTP deaminaseによって脱アミノ化を受けdUTPになるのだが、後者の反応はUTPからCTPへの変換と逆向きの反応である。
とにかく生合成されたdUTPはATP:dUDP phosphotransferaseの触媒下に1つのリン酸残基をADPへ移してdUDP、dUDPはATP:dUMP phosphotransferaseの触媒下にもう1つのリン酸残基をADPへと移してdUMPとなった後、葉酸を補酵素とするメチル基転移酵素によりdTMPに導かれる。その後2段階に渡るATPからのリン酸基の転移を受けdTTPが作られる訳である。この生物には、UTPから直接dUTPに行く系も存在するし、dUTPからピロリン酸を除去して直接dUMPへ向かう系も存在する。
全体を眺めたときに感じる違和感は、シトシンをデオキシシトシンへとデオキシ化する系がなぜ重複しているのかということ、dUTPからdTTPへの変換が何とも遠回りだなということ、さらにRNAとDNAの生合成では使われないのにdUTPが生産されていることくらいだろうか。また、ATP-ADPの変換に伴う反応がこの系を支配しているように思えるのだが、読者の方々はどのように感じられるのだろうか。勿論、そうなっているのだから仕方ないだろうという捉え方があるのは理解している。神はそうお作りになったのだといわれれば平伏するしかないが、私は密教に興味を持つ仏教徒であり神が作ったとは考えない。少なくとも、知力の限りを尽くして考察した後で、そうなっているのかと思いたい。考えることなしにこの結論に至るのは、知的怠慢であるというのが私の意見である。
過剰と蕩尽 33 に続く
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豚と猪
今年の春に、12本アンズの苗木を植えた。苗木は結構高価であり、いつ元が取れるか分からない。とは言え、アンズはバラ科に属する樹木で、花は桜や梅に似てとても美しい。花を楽しめればいいかという気分が半分ほどある。実がなるのは2年後くらいからだろう。私は現代風の甘さを強調し酸味を抑えた果実の品種は余り好きではない。イチゴでいえばあまおう、イチジクでいえばとよみつひめ、リンゴではふじなどである。もちろんこれは個人的好き嫌いにすぎないので、そうじゃないという人がいても何ら問題はない。(どこかの幹事長みたいだな)ただ、甘さを重視する人が増え、酸味の強い品種が店頭に出なくなりつつある現状はいくぶん寂しいと感じているだけである。そんな理由から、アンズは酸味のきいた品種「信濃大実」2本、「新潟大実」2本、「平和」6本とし、甘い生食用の品種は「ゴールドコット」の2本に押さえた。
植える場所の周りを耕し堆肥を入れて丁寧に植え付けたのだが、悔しいことにそれから毎日3〜5本の苗木が、悪意でもあるかのごとく根っこから倒されている。原因はイノシシ、彼らは四つ足である。上側に通っている道路から、鵯越さながらの急斜面を駆け下って私の畑に侵入するらしい。罠をかけて捕獲するのはたやすそうだが、捕獲すれば猟友会にでも頼んで射殺するしか方法はない。畑は本来彼らのテリトリーであったのかも知れない。私が新規の侵略者かも知れないなどと考えて我慢していたのだが、昨日はまた3本が倒された上にワラビ畑を掘り返されてしまった。
豚を放牧して、耕作放棄地を再生させる話をいくつか聞いたことがあるが、確かにそれができるかも知れないと思う。イノシシは豚の本家筋に当たるだろう。話によれば、70Kgくらいの岩であれば掘り起こすという。上の場所も、ワラビの根っこが縦横に走っており、人力でここまで掘るのは大変な作業である。
桑の木の場合は、PVP(Plant Vareity Protecection: 植物品種保護)のかかっていない品種を必要な本数の3倍程度を挿し木しておき、被害があればすぐに補充するのだが、アンズでは母木がないのだからそういう訳にはいかない。掘られては植え直して水をやる繰り返しである。こんなことを繰り返していては活着など夢の話だと思い、仕方なく電柵を引っ張り出して設置することにした。二時間ほどかかってラインを張り出力チェック、果たして効果があるかどうか、明日が楽しみである。
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過剰と蕩尽 31
先ず、原核生物と真核生物でほぼ共通なDNA生合成系の前半部分を、構造式抜きの物質名羅列の形で示しておく。ここまでの各段階は、既に反応機構付きで述べたものである。
何度も言うようだが、この図を見て各段階で起こっているであろう森羅万象をイメージできる人がいるだろうか。化合物の名称からその構造を描ける人でさえごく稀であると思う。とは言いながら、この命名自体の正しさ、使っている命名法の統一性について、書いている本人が不安を感じている。ともあれ、生物は化学反応によって生き、化学反応によって次世代を生産しているのである。生物の持つ機能・情報は、(ほぼ)すべてが化学反応に還元されるだろう。
それはそうと、次にInosine 5′-monophosphateから先の概念図を提示した後で、各反応についての説明に入ることにする。前回述べたように、高等と評される真核生物の系は複雑すぎるので、もう少しシンプルな系を構築している原初的生物を例に進めることにする。下に、真正細菌であるThermotoga maritima MSB8と古細菌である Pyrodictium delaneyiの持つプリン代謝系から本質的と思われる系を抜き出した図を示す。
この図の前半部分は既にのべた。ここで議論すべきはGMPからGTP/dDTPへの変換、並びにAMPからATP/dATPへの変換過程であろう。其処でだが、この図から読みとれることはいくつかある。
1. GDPからGTPへと変換する酵素とdGDPからdGTPへと変換する酵素 EC 2.7.1.40 は同種の酵素である。ADPからATPへと変換する酵素とdADPからdATPへと変換する酵素もまた同種である。こう書くとXDPからXTP生産酵素のように聞こえてしまうが、XDPとXTPの相互変換酵素といった方が良いだろう。ちなみに、ここで働く酵素群 EC 2.7.1.40は よく知られた phosphoenolpyruvate kinase である。いわゆる解糖系がXDPからXTP生産する段階に関与するだけでなく、その解糖系から分岐したペントースリン酸経路がプリン塩基生合成の出発物質であるD-Ribose 5-phosphateを供給するという2つの接点を持つというわけである。私も酵素ナンバーは酵素の機能様式からの表示であり、一つのナンバーの下に多数の酵素群が存在する程度のことは知っている。しかし、生物によっては1種のphosphoenolpyruvate kinaseしか持たない場合が多々存在するようだ。とすれば、そうした生物において、生産物である4種のXTPの量の制御はどうなっているのだろう。さらにいま少し見方を変えれば、この酵素の反応生産物はピルビン酸である。ピルビン酸はこれまた極めて重要なピルビン酸代謝系の出発物質である。色々と妄想が膨らみそうな気配が濃厚・・・。
2. デオキシリボ核酸の原料であるdATP・dGTPの生合成において、ADPからdADP、ATPからdATPへと変換する経路、およびGDPからdGDP、GTPからdGTPへと変換する系路はあるが、GMPとAMPをそれぞれdAMPとdGMPへ変換する系は存在しない。これは存在していないのだからそうですかと云うしかない。ADP をdADPにする酵素と GDP をdGDPに変換する酵素群 EC 1.17.4.1とATP をdATPにする酵素と GTP をdGTPに変換する素 EC 1.17.4.2 は、要するにリボース残基をデオキシリボース残基へ変換する酵素である。きっと似ているだろうと思って、両グループの酵素間でBLAST解析を行ってみたところ、反応様式が同じでありかつ基質もよく似ているにもかかわらず、殆ど相同性は存在しない。これらの酵素群は、基質のリン酸化の程度に極めて高い特異性を持つようだ。
3. 先に示したヒトやアラビドプシスなど真核生物の持つ系と比較すれば、進化に伴って多くの系が付加されてきたことが明らかである。
余りに小さな所ばかりつついても仕方ないので、反応を進めることにする。まずADPとATPそしてそこからのdADPとdATPの生合成についてである。
余りすっきりしない話だが、ATPを作るためにATPから1つのリン酸基をAMPに移し、生成した2分子のADPをPEP(Phosphoenol pyrvate) を基質とするキナーゼの作用により2分子のATPまで変換するというプロセスである。すっきりしない点はATPを生合成するためにATPを消費する点にある。つまり、元々のATP はどこから来たのかが問題になるだろう。もっとも、ここに至るプロセスの中でATPは何カ所も働いている。上図では、最終生産物であるATPと消費されるATPが余りにも近くにあるため、この矛盾が露骨に見えただけである。この問題も、記憶に残しておこう。
次は、GTPの生合成である。
またもやすっきりしない話だが、GTPを作るためにATPから1つのリン酸基をGMPに移し、生成したGDPをPEP(Phosphoenol pyrvate) を基質とするキナーゼの作用によりGTPへ変換するというプロセスである。副生物であるADPはPEP kinaseによりATPに再生されて再度この系で働くと言い切ってしまえば、最初に消費されるATPは触媒だと定義して良いのだろうか。何とも錯綜する話だが、この論理はATP生合成においても使えるかも知れない。
屁理屈はそこそこにして先に進もう。次はヌクレオチドの糖残基であるリボースの2位の水酸基を除去してデオキシリボースに変換する反応である。この反応は糖残基上で起こるのだけでなく、そこで働く還元剤がチオレドキシンであることから、リボースからデオキシリボースへの変換は同じメカニズムで起こっていると考えて良い。ということで、デオキシリボースへの変換に入ろう。
この段階で働く酵素は2種類存在する。両者の関係については後で述べるとして、この段階の反応は少々分かりづらい。リボースの2位の水酸基を、どうすれば除去できるのか、私を含めて大多数のヒトが考え込むと予想する。無学なヒトであれば、水酸基を除いて水素をつければ良いと 簡単に答えてしまうかも知れないが、そんなに簡単な話ではない。以前、ポルフィリンの生合成において、ラジカル SAM 酵素に分類されるanaerobic magnesium-protoporphyrin IX monomethyl ester cyclase [EC:4.-.-.-]について少し言及した。その中で「これらは[4Fe-4S]クラスターをもつ酸素感受性酵素群で、S-アデノシル-L-メチオニン(SAM)を還元的に開裂して生成するラジカル(通常は5′-デオキシアデノシルラジカル)を中間体として用い、種々のラジカル反応を触媒する。要するに、イオン反応では起こりえないような反応を触媒する酵素と考えて良い。さらに、これらラジカル SAM酵素が働いている位置は、生命現象の根幹の部分に近いように感じている。」と書いたのだが、リボースからデオキシリボースへの変換を触媒するレダクターゼもまたラジカル反応を触媒する酵素である。
図に示すように、レダクターゼのシステイン残基上にあるイオウ上に発生したラジカルが、リボースの3位の炭素上に存在する水素原子を攻撃することから反応が開始される。図において赤色の片矢印は電子1個の移動を示す。水素原子を引き抜かれたリボース残基では、3位の炭素上にラジカルが発生する。この中間体の3位の水酸基の水素を酵素中の塩基性の部分が攻撃してカルボニル基が生成するのだが、炭素の軌道上にはオクテット、即ち8個の電子しか存在できないため不対電子は追い出されて2位の炭素上に移動するのだが、2位の炭素は同じ理由でこの不対電子をそのまま取り込むことはできない。つまり、不対電子の移動と協奏して2位の水酸基がアニオンとして離脱する。このアニオンは補酵素とでもいうべき補タンパク質であるチオレドキシンのスルフヒドリル基の水素を引き抜いて水を生成する。この時、2位の炭素上には不対電子が存在している。
リボース残基の2位の炭素上の不対電子は、チオレドキシンのもう一つのスルフヒドリル基の水素をラジカル反応により引き抜くことで、2位の水酸基の除去が起こったことになる。しかし、この段階ではリボース残基の3位はカルボニル基になっているし、チオレドキシン側はラジカル反応によるSーS結合の形成に伴い、図に示すようにイオウ原子がアニオンラジカルになっている訳だが、この不対電子が3位の炭素を攻撃するとカルボニル基の立ち上がりを伴う酵素中の酸性部分のプロトンを引き抜き水酸化が生成する。但し、生成した水酸基の根元にはラジカルが存在する。このラジカルが、最初に働いた酵素のSH部分から水素原子をラジカル反応により引き抜いて、デオキシリボヌクレオチドがめでたく生合成されると同時に、最初のイオウラジカルを持つレダクターゼが再成することになる。
通常の有機化学において、ラジカル即ち遊離基は非常に反応性が高いのが通例であり、それらの反応を制御するのはなかなか難しい。我々にとって馴染み深いポリエチレンやポリスチレンなどの合成高分子はラジカル重合で作られたポリマーであるが、これらの反応においては立体選択性、位置選択性が期待できないだけでなく、鎖長の制御もまた難しい。そうした性質を持つラジカル反応が、生物現象の根幹ともいうべき核酸生合成の最終段階に織り込まれているだけでなく、生産される化合物が立体選択的に作られていることに対して、言いようのない畏怖さえ感じてしまいそうである。
過剰と蕩尽32に続く
ここまで書いて、生合成の図を5時間ほどかけて完成と思った瞬間、原因不明のChemDrawフリーズ、中間段階で保存していなかったため、何も残っていない・・・。気分は最悪。
取り敢えず、ここまでをアップすることにした。気を取り直して再度書き直し、近日中に追加します。まだ若かった頃、全く洗車しないクルマに乗り続けていた。友人たちのクルマは雨が降ると汚れるのに、私の車は雨が降るときれいになった。2年以上洗わずに乗っていたらさすがに汚くなった。そこで後部ガラスの汚れの中に、指で「近日洗車予定」と書いて乗っていたら、後ろで信号停車したクルマのドライバーが爆笑していた。いや、近日中という言葉に端を発したちょっとした思い出です。
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我々は同じ世界を見ているのか?
幼かった頃の記憶が乏しい私だが、変なことに疑問を持った瞬間だけは覚えている。中学校に進級したばかりの頃である。世の中では三井三池争議がもっとも激しかった時期に当たる。そんなことになっているとは露知らず、大牟田市の市役所の近くに住んでいたのであった。当時は何も感じなかったが、私の家あたりから上っていく道沿いには三井三池関連の社宅が並び、上に行くほどお偉方が住んでいたそうである。当然、下っていく道沿いにも住宅があり、それら低地の住宅は鉱員さん達の社宅であったらしい。こうした棲み分けは、日本の企業城下町では珍しくない。ボリビアのラパスでは、空気の濃い低地が高級住宅街であり、高所には貧民街が分布するという。全く逆の棲み分けである。
そんな話は横に置いて、隣の家に私より3歳年上の息子がいた。まだ内気だった私は、顔は知っていたとはいえ話をしたこともなかったのだが、彼が「子供の科学」を片手に真空管式のラジオを作っていることは知っていた。後にその彼が、赤緑色盲であったため希望する工業高校に進めなかったと聞いた。確かに電線として、赤・白・青・緑・黄・黒の6色のコードが使い分けられており、赤と緑の識別に問題があればちょっと苦しいのかなと思わないでもない。いくぶん緩やかになってきたとはいえ、現在でもこうした色覚異常者に対する制限は残っている。気の毒に感じるが、安全を考えると仕方ない部分もあるだろう。
この時、赤と緑の区別がつかない状態とはどんな状態なのだろうと懸命に考えた。しかし、風景がどういう風に見えるのかについては全く想像がつかなかった。赤と緑が単に逆転するわけでもなさそうなのである。木の葉が赤く見えるのだろうかとか、夕焼けの空が緑に見えるのだろうかとか、リンゴがなっているとき果実と葉っぱとの区別はどうなるのだろうなどと、なんとかイメージしようと思うのだが分からない。分からないことは、分からないものとして残しておき、時々考えるというのが私の生き方である。そういうわけで、この疑問をずっと残していたのだが、その後しばらくして変な考えに取り憑かれた。
赤とは何だろうという疑問である。例えば、私一人が赤と緑を逆に感じている可能性はないのか、そうであった場合これを証明する方法はあるのかということである。分光学的に見れば、700ナノメーター前後の波長を持つ電磁波を赤色光といい、この光が目に入ると通常は赤く感じるわけだが、私がこれを緑色に感じるとする。成長する過程において、この緑色を赤色と教えられるのであるから、緑に感じていても答えは赤になる。森林の緑色を見た場合も同じである。この緑色を赤く感じていても、それが緑だと教育されてきたとすれば、森林の赤い色を緑色と答えるに違いない。
ちなみに、赤外線温風コタツの赤色光は暖かさに関係はない。ランプだけでなく金網のコーティングの色も、我々が赤い色に暖かさを連想するから我々の感覚に合わせているだけである。赤外線は赤色光の外側(長波長域)の電磁波で、我々は暖かくは感じるにしても視覚的に見ることはできない。我々にとって、赤外線は無色である。しかしながら、コタツ内部が青い色で統一してあったら、それはそれで奇妙に感じるだろう。
成長するに従って、共感覚や絶対音感という自らは体験することのできない感覚を持つ人々の存在を知った。同じモノ、同じ風景に対し、異なったヒトは、異なったモノを、異なった風景を見ているのではないかという思いが強くなった。発生学的に言えば、赤色光に反応する錐体細胞から出る神経繊維と緑色光に反応する錐体細胞から出る神経繊維が、ちょっとした間違いで交差してしまえば、赤緑逆転という色覚は可能なのかもしれない。
考えてみると、ヒトや霊長類は赤、緑、青を3原色とする3色型色覚を持つ。一方、爬虫類や両生類は4色型色覚を持つという。爬虫類と共通の祖先から進化した哺乳類も、分岐した当初は4色型色覚をもっていた。爬虫類が覇権を握っていた中生代では、哺乳類は夜間に活動する生活様式を強いられたため4種類あった錐体細胞のうち2種類を失い2色型色覚となったらしい。現在のイヌ、ネコ、ウシ、ウマなどの多くの哺乳類は、2色型色覚を持ち、これらの生物は波長420~470ナノメートルの青い光を吸収する青錐体細胞と、緑から赤にかけての波長の光に対応した赤錐体細胞しか持っていない。ところが3,000万年ほど前に、旧世界の霊長類(狭鼻下目)の祖先において、X染色体に新たな長波長タイプの錐体視物質の遺伝子が出現し3色型色覚を有するようになったという。一方、いわゆる恐竜の子孫である鳥類は、現在も4色型色覚を維持している。つまり、鳥の見る世界、ヒトの見る世界、犬の見る世界は相互に異なっているわけである。例外的だがヒトにおいても4色型色覚を持つヒトがいるという。
ヒトにおける3色型色覚と4色型色覚を持つ個体の識別であれば、遺伝子解析で区別できると思うが、神経繊維の配線ミスはどうしたら検出できるのだろう。50年近く悩んでいるのだが、未だに霧の中にいる。
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