我々は同じ世界を見ているのか?

 幼かった頃の記憶が乏しい私だが、変なことに疑問を持った瞬間だけは覚えている。中学校に進級したばかりの頃である。世の中では三井三池争議がもっとも激しかった時期に当たる。そんなことになっているとは露知らず、大牟田市の市役所の近くに住んでいたのであった。当時は何も感じなかったが、私の家あたりから上っていく道沿いには三井三池関連の社宅が並び、上に行くほどお偉方が住んでいたそうである。当然、下っていく道沿いにも住宅があり、それら低地の住宅は鉱員さん達の社宅であったらしい。こうした棲み分けは、日本の企業城下町では珍しくない。ボリビアのラパスでは、空気の濃い低地が高級住宅街であり、高所には貧民街が分布するという。全く逆の棲み分けである。

 そんな話は横に置いて、隣の家に私より3歳年上の息子がいた。まだ内気だった私は、顔は知っていたとはいえ話をしたこともなかったのだが、彼が「子供の科学」を片手に真空管式のラジオを作っていることは知っていた。後にその彼が、赤緑色盲であったため希望する工業高校に進めなかったと聞いた。確かに電線として、赤・白・青・緑・黄・黒の6色のコードが使い分けられており、赤と緑の識別に問題があればちょっと苦しいのかなと思わないでもない。いくぶん緩やかになってきたとはいえ、現在でもこうした色覚異常者に対する制限は残っている。気の毒に感じるが、安全を考えると仕方ない部分もあるだろう。

 この時、赤と緑の区別がつかない状態とはどんな状態なのだろうと懸命に考えた。しかし、風景がどういう風に見えるのかについては全く想像がつかなかった。赤と緑が単に逆転するわけでもなさそうなのである。木の葉が赤く見えるのだろうかとか、夕焼けの空が緑に見えるのだろうかとか、リンゴがなっているとき果実と葉っぱとの区別はどうなるのだろうなどと、なんとかイメージしようと思うのだが分からない。分からないことは、分からないものとして残しておき、時々考えるというのが私の生き方である。そういうわけで、この疑問をずっと残していたのだが、その後しばらくして変な考えに取り憑かれた。

 赤とは何だろうという疑問である。例えば、私一人が赤と緑を逆に感じている可能性はないのか、そうであった場合これを証明する方法はあるのかということである。分光学的に見れば、700ナノメーター前後の波長を持つ電磁波を赤色光といい、この光が目に入ると通常は赤く感じるわけだが、私がこれを緑色に感じるとする。成長する過程において、この緑色を赤色と教えられるのであるから、緑に感じていても答えは赤になる。森林の緑色を見た場合も同じである。この緑色を赤く感じていても、それが緑だと教育されてきたとすれば、森林の赤い色を緑色と答えるに違いない。

 ちなみに、赤外線温風コタツの赤色光は暖かさに関係はない。ランプだけでなく金網のコーティングの色も、我々が赤い色に暖かさを連想するから我々の感覚に合わせているだけである。赤外線は赤色光の外側(長波長域)の電磁波で、我々は暖かくは感じるにしても視覚的に見ることはできない。我々にとって、赤外線は無色である。しかしながら、コタツ内部が青い色で統一してあったら、それはそれで奇妙に感じるだろう。

 成長するに従って、共感覚や絶対音感という自らは体験することのできない感覚を持つ人々の存在を知った。同じモノ、同じ風景に対し、異なったヒトは、異なったモノを、異なった風景を見ているのではないかという思いが強くなった。発生学的に言えば、赤色光に反応する錐体細胞から出る神経繊維と緑色光に反応する錐体細胞から出る神経繊維が、ちょっとした間違いで交差してしまえば、赤緑逆転という色覚は可能なのかもしれない。

 考えてみると、ヒトや霊長類は赤、緑、青を3原色とする3色型色覚を持つ。一方、爬虫類や両生類は4色型色覚を持つという。爬虫類と共通の祖先から進化した哺乳類も、分岐した当初は4色型色覚をもっていた。爬虫類が覇権を握っていた中生代では、哺乳類は夜間に活動する生活様式を強いられたため4種類あった錐体細胞のうち2種類を失い2色型色覚となったらしい。現在のイヌ、ネコ、ウシ、ウマなどの多くの哺乳類は、2色型色覚を持ち、これらの生物は波長420~470ナノメートルの青い光を吸収する青錐体細胞と、緑から赤にかけての波長の光に対応した赤錐体細胞しか持っていない。ところが3,000万年ほど前に、旧世界の霊長類(狭鼻下目)の祖先において、X染色体に新たな長波長タイプの錐体視物質の遺伝子が出現し3色型色覚を有するようになったという。一方、いわゆる恐竜の子孫である鳥類は、現在も4色型色覚を維持している。つまり、鳥の見る世界、ヒトの見る世界、犬の見る世界は相互に異なっているわけである。例外的だがヒトにおいても4色型色覚を持つヒトがいるという。

 ヒトにおける3色型色覚と4色型色覚を持つ個体の識別であれば、遺伝子解析で区別できると思うが、神経繊維の配線ミスはどうしたら検出できるのだろう。50年近く悩んでいるのだが、未だに霧の中にいる。

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