春の兆し
今日、庭に植えてあるスウィートスプリングにウグイスがやって来た。かなり強めに剪定をしておいたため、見つけやすい。まだ囀りはしなかったが、もうすぐだろう。クリの畑に来るウグイスは下手な囀りを始めている。家の周りではコカワラヒワの群れがキリキリとかわいい声を上げている。この群れは、昨年植えていたヒマワリの種を食べ尽くしたグループであろう。
数日前にはイカルがやって来た。私のお気に入りの小鳥である。まだ囀りには早い季節だと思うのだが、澄んだ声で「蓑笠着いー・・・みのかさきいー」と一声鳴いて飛び去った。そのせいかどうかはわからないが、今日は午後から雨である。そういえば、日本人とポリネシアの人々は鳥のさえずり、虫の声を言語脳である左脳で聞き、その他の民族は音楽脳である右脳で聞くという。東京医科歯科大学の角田忠信教授であったと記憶しているが、この方が書かれた「日本人の脳」の中に書いてあった。そのため、日本人は鳥の囀りを「聞きなし」という方法で把握できるという。
いまの日本野鳥の会は少しならず金儲けに走っているようで好きになれないが、1970年台までのこの会は、唯々鳥が好きという風情の中西悟堂氏が会長をされていた。悟堂氏が書かれた定本野鳥記 (全8巻別巻1 春秋社 )は、小児喘息で外に出られない時期のわたしにとってはバイブルにも比すべきものであった。この本を通していくつもの聞きなしを知ったのだが、今となってはどの聞きなしがこの本由来の記憶であるかは分からなくなっている。
例えばツバメ、電線に止まってグチュグチュと囀るのだが、これを「土食って虫食って渋〜い」と聞きなせば、彼らの行動と相まってそう言っているような気になってくる。確かに言語脳で受け取っているのだろう。あまりに単純な囀りであれば聞きなしは擬音語にならざるを得ないが、適当な長さの囀りには色々な聞き方がある。これから囀り始めるホオジロ、「一筆啓上つかまつり候」、「源平つつじ白つつじ」と聞くのがオーソドックスだが、近年は「札幌ラーメン味噌ラーメン」とも聞くらしい。ウグイスに対しては、「ほう法華経」というそのままの聞きなしをする。メジロに対しては「鳥兵衛,忠兵衛,長忠兵衛」、「チルチルミチル青い鳥」などという言葉を当てている。
友人たちにこうした聞きなしを教えたのだが、なかなかうまく覚えてはもらえない。生活に必要ではないからであろう。覚える必然性がないのである。ところが面白いことに、我々の生活に関連のある聞きなしにすると、記憶率が向上する。例えばヒバリ、多くの人がヒバリの声を聞いても鳥が鳴いているとしか表現しない。しかし、ヒバリの鳴き声を「日一分,日一分,利取る,利取る」と教えると、覚えてくれる人の割合は間違いなく上昇する。ローンを抱えている人にとっては切ない囀りかもしれない。センダイムシクイ、この鳥はチヨチヨ・ビーと鳴くのだが、昔は「鶴千代君ー」と聞いていたという。歌舞伎「伽羅先代萩」由来の聞きなしだが、現代では幾分通りが悪い。世のおじさんたちに対しては「焼酎一杯グーイ」というのが好評である。我が家にも5月の始め頃に時々やってきて、早朝から「爺や爺や起きー」と鳴く。
もっと面白いのは、この鳴き声の聞きなしに少しエロチックな色合いを与えると、記憶率が劇的に上昇することである。例えばアカハラ、「キョロン・キョロン・チー」と鳴くのだが、これを「カモン・カモン・チュー」と教えると、アカハラは覚えないにしてもカモン・チューだけは覚えてくれる。サシバを知っている人はあまりいないと思うが、一部の人には渡りをするタカとして人気が高い。近頃は見かけることが少なくなったが、別名を「キンミー鷹」というようにキンミー、キンミーと鳴く。しかしキンミーではインパクトがない。そこでこれを「キス・ミー」教えればやはり覚えてくれる。間違いなく覚えてもらえる鳥はコジュケイである。ちょっとした藪の中で「ちょっと来い ちょっと来い」と大声でしつこく鳴き続ける。もちろん「ちょっと来い」で十分に印象的なので、それ以外の聞きなしが必要とは思わないが、これを「ペチャパイ・ペチャパイ」と教えれば、記憶の定着率は100%になる。されど、覚えるのはペチャパイであってコジュケイではない。ただ教える相手を選ばないと恨まれる恐れがあるため、教育には注意が必要だ。
別に、こんなことを書く予定ではなかった。ただ、聞きなしという現象が日本人に特徴的という議論があるということを書きたかっただけである。しかし、例外のない規則はないという言説があるように、やはり例外はあるようだ。先に述べたコジュケイ、英国においては「Peaple’s qeen, Peaple’s qeen」と鳴くという話を聞いている。