法事

 この歳になって親の世代の葬式はほとんどなくなり、法事を行う機会が増えてきた。今日は父親の25回忌の法事であった。しかしながら、世の中はコロナが原因で、とても親戚が集まる場を持てるような雰囲気ではない。仕方なく、12時からお寺で法要を行ってもらい、その様子をユーチューブ配信で見ると云う方式をとった。iPadを仏壇の前に置き、読経を聞く形でつつがなく法要が始まったのだが、5分ほど経ったところでどうしたわけかSONYハンディカムデモサイトに切り替わった。近頃ユーチューブにも五月蠅いほどコマーシャルが入るようになったので、少し待てば元に戻るかと待っていたが、最後までSONYハンディカムの宣伝が続いた。

 法要自体は間違いなく執り行われていたので取り立てて文句があったわけではない。しかし、他の人々への法要でも同じ事が頻発していたらまずいと思ったので、起こった現象を説明し、配信機器設定を見直されて方が良いとメールを出した。折り返し、丁重なお詫びの電話とメールが送られてきた。3時頃から法要をやり直します。再度、ユーチューブのアドレスを送りますと言うことで、完全版の法事を視聴することができた。

 PCにしろネット関連の機器にしろ、まだその程度のものだと思っている。絶対的な信頼が置けるとは思っていない。それより、1回目の法要は配信がおかしかっただけで、ちゃんと行われていたのだからそれで良かったのだが、再度の法要をとり行っていただいたというわけである。つまり私の父親は、本日2回も同じお寺で25回忌の法要をしてもらったことになる。これはかなり珍しいことのように思う。いやいや、日々の私の供養が足りないということかもしれない。

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ちょっとした妄想です 1

  私は誰のものだろう。地球上での長い進化の産物であるとしたら地球のもの、神が作ったものであるから神のもの、私は私であり当然私のもの、まあ色々とあるだろう。私は地球が作った地球のものだと思っている。ここで、多くの人と摩擦とまでは言わないが齟齬が生じる。多くの人は私たちの地球と思っているようだが、私は地球の私たちと思っているからだ。私がもっとも嫌いな言葉は、「地球に優しい」、「環境に優しい」、「自然に優しい」などという言葉なのだが、それらはよく考えれば皆あんた自身に優しい事を意味しているだけじゃないか。本音は私に優しくあれと思っているにも拘わらず、地球に環境に自然に優しいと口当たりの良い言葉で誤魔化しているのが気にくわない。「凄まじい環境の破壊が行われている。このままでは地球とか、環境とか、自然とか言ってはおれない。私に被害が及びそうだ。しかし、私にはどうして良いか分からない。取り敢えず、ちょっと止まって考えようよ。そうしないと私の将来が、いや私と私の子孫の将来がどうなるか分からない。」と云うのであれば理解できるし賛同できる。

 近代文明は私を確立したとする錯覚から生まれた。デカルトの言葉、我思う故に我あり、Ich denke also bin ich を最初に聞いたとき、すごい言葉だなと思った。後にデカルトがフランス人だと知り、フランス語では何というのだろうと調べてみたら Je pense, donc je suis だったのだが、困ったことにどう発音して良いか全く分からない。大学に入って、軽い気持ちでドイツ語だけではなくフランス語も受講したのだが、あまりの複雑さに尻尾を巻いて逃げ出してしまった。そのうち、ラテン語の Cogito ergo sum を覚えてしまってこちらを使うようになっていたのだが、ルネ・デカルトは17世紀の人、ラテン語はローマ帝国の公用語、西ローマ帝国であっても5世紀には滅んでいたのにと疑問を持った。大学2年の頃である。考えてみれば国が滅びたとしても、そこで使われていた言語が消滅する必然性はない。要するに、ラテン語は、自然科学・人文科学・哲学のための知識階級の言語として、またバチカン市国の公用語として生き延びてきたわけだ。

 何を書こうとしていたのか忘れそうだ。妄想であるから忘れた方が健康的なのだが、思い出してしまった。ラウンドアップの話の演繹版だった。ラウンドアップはとても人気のない、いや人気は最悪の除草剤である。さて、ラウンドアップはモンサント社(現在はバイエルの傘下にはいっている)の商品名であり、一般の人はラウンドアップだけに問題があると誤解しやすいので、商品名ではなく化合物名であるグリホサートという用語を用いることにする。

 このグリホサートはもっとも単純なアミノ酸であるグリシンとよく似た構造を持っており、シキミ酸経路中の 5-エノールピルビルシキミ酸-3-リン酸合成酵素 (EPSPS) を阻害して生存に必須は芳香族アミノ酸(フェニルアラニン、チロシン、トリプトファン)の生合成を止め、作物も雑草も無差別に枯らしてしまう。実に良く効く、合成は容易で原価が安い。と云うわけで、世界中で売られることになったわけだ。

 さて、世界でNo1の売り上げを誇っていた除草剤「グリホサート」なのだが、近年発がん性があるのではないかという疑いが強まり、欧米やアジア諸国で使用禁止や規制強化に踏み切る動きが広がってきた。この流れに反して、日本では規制を大幅に緩和しており、どちらの判断が妥当であるのかは第三者には分かり難い。ある程度まとめたニュースがあるので、この観点からの話については以下のサイトを読んで欲しい。       https://news.yahoo.co.jp/byline/inosehijiri/20190725-00135499/         https://agrifact.dga.jp/faq_detail.html?id=104   

 さて、グリホサートは植物のシキミ酸経路にある 5-エノールピルビルシキミ酸-3-リン酸合成酵素(EPSPS) を阻害し芳香族アミノ酸の生合成を止める。従って、独立栄養生物である植物は作物であろうとその他の雑草であろうと無差別に枯らしてしまう。(雑草という言い方は雑草と呼ばれる植物群に対して極めて失礼だと思うが、今のところ他に適切な表現方法がない。名もなき花はない、名も知らぬ花があるだけだ、という牧野富太郎博士の言葉を思い出しながら、良い表現法を考えてはいるのだが・・・)問題はこの無差別に枯らす能力の高さにある。散布時に作物にかかると作物も枯れてしまう。効果が高いからなおのこと問題である。この問題に果敢に挑戦したのがモンサントの研究者達である。

 従来の研究者達であれば、グリホサートという化合物の構造を基礎にして、少しずつ構造を変えながら作物と雑草間の感受性の違いをさがして選択毒性を持つ化合物を見つけるという方法をとったと思う。実際にそうした方法論に基づく研究例はいくつもあった。しかしモンサント社のグループは全く違った切り口からこの問題にアプローチしたのである。このアプローチの方法が後に問題を引き起こすことになるのだが、その是非は別にして、発想自体は画期的なのであったと認めざるを得ないだろう。

 長くなりすぎそうなので、一旦ここで切ることにする。判断に迷う事件が連続していて、落ち着いて話を続ける気になれない。とはいえ骨子はできているので、変な妄想を期待して下さい。

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日々多忙

 今日はジャンボニンニクの植え付けをしようと張り切って畑に行ったのだが、まだ荒起の畑には堆肥も石灰も入れていない。5アールほどの畑にペレット堆肥40Kgと粒状消石灰40Kgを撒いたらもう昼である。思ったより気温が上がっているらしく、ブヨがつきまとってくる。仕方なくネット付きの帽子をかぶりその下にサングラスをかけ、エンボスタイプのビニル手袋の上から農作業用の手袋をつけての作業になった。見かけは怪しい。都会であれば通報されても仕方がない格好である。本人は極めて暑い。ブヨさえいなければと思うがこればかりはどうしようもない。奴等には奴等なりの生きる論理があるのだから、人の立場からだけであれこれ言ってもそれは我々の我が侭だろう。

 午後はトラクターを通そうと思っていたのだが、稲刈りの予定を思い出した。一方の田んぼが10日、もう一方の田んぼが14日である。今年の稲刈りは営農組合に頼んでいるので何もしなくて良い。雨が降らないように神頼みをしていれば自動的に玄米となるので、稲刈りの次の日に受け取りに行けば良い。とても楽なのだが少し淋しい。ということで、田の水を落としに行った。水源となる川に作っておいた堰を壊して水口につながる水路への流れ込みを止めた後、排水用のパイプの栓を抜く。もちろん表層水は止水板を外して水路へと流す後10日、上手く乾いてくれることを願うだけである。気にかかるのはトビイロウンカ、近隣の田んぼにウンカによる坪がれがではじめている。毎日見回っていたとしても一晩で褐色に枯れたサークルができる。そうなると取れた米も美味しくないそうだ。

 昨日書かなかったが、歴史的に見れば水媒花が先行し、風媒花が遅れて出現し、その後虫媒花が現れたのは間違いないだろう。しかしながら、イネ科植物をはじめとして一旦虫媒花というシステムを持ったにも拘わらず、多数の植物が、再び風媒花へと進化した歴史を持つという事実を、虫媒花の方が受粉効率が高いという証明できそうにない単純な理由で説明できるのだろうか。 植物が光合成で生産した糖とATPをどう使う(消費する)かというシステムの構築が、先に在ったように感じている。    

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思った以上に季節は進んでいる

 今朝、いつもより早く起きたのだが外気の冷たさに驚いた。季節は思った以上に早く進んでいる。栗のイガの焼却のためにクリ畑まで出かけたのだが、燃やし始めは暖かくて気持ちが良い程度だったのが、焼却が進むにつれて外気温が上がり、昼過ぎには暑くて近寄れなくなってしまった。一日の中に晩秋と晩夏が同居している。9時過ぎ頃から蝶が飛び始めるのだが、思いがけなくセンダングサでの吸蜜が頻繁に起こっていることを知った。畑の入り口にセンダングサの群落がある。切っても切っても新枝が出てくる植物で、季節が進むと衣服に種子がくっついて面倒なことになるため、除草剤でも撒こうかと思っていた。ところが、この草の花にヒョウモン蝶が集まって吸蜜している。ヒョウモン蝶の仲間は、よく似た斑紋を持つ種が多い上に、雌雄で全く違う斑紋を持つ種もいるため、いつも通りこの蝶が何ヒョウモンであるかは分からない。そしてヒョウモンだけではなく秋型で少し小ぶりのナミアゲハやモンシロチョウまで吸蜜している。

 そう言えば先日、山の入り口のコナラの木にルリタテハが止まっていた。タテハチョウの仲間では珍しい色彩を持つ種であるため、これは識別可能である。季節がら、タテハチョウの姿もよく見かけるのだが、野外ではアカタテハ、ヒメアカタテハ、ヒオドシチョウの区別は難しいしシータテハとキタテハも分からない。今の時期、これらのチョウと近縁のミスジチョウも何種類か飛んでいるが、書いている本人に識別能力が欠けている。遠くからアカゲラのドラミングが聞こえてくる。上の柿園からは園内で放し飼いになっている、イノシシ狩りで使う猟犬の鳴き声が聞こえる。長閑なものである。

 さてセンダングサだが、花は派手ではないが色々なチョウが吸蜜に来る、確かに触るとベタベタする。ではなぜ、センダングサは蜜をだすのか。もちろん、NHKの夏休み子供相談には模範解答が用意されていると思う。「受粉を効率的に達成するために植物は蜜を出して虫を集めているのです。だから、ヤブガラシ、ママコノシリヌグイ、ノウゼンカズラなどを含む多くの植物は蜜を出しているのです。○○君、分かりましたか?はーい」という想定問答が用意されているようだ。問題は子供ではなく大の大人でさえ、この枠組みに疑問を持つことなく騙されていることにある。この説明は、二つの重大な事実を無視したところでしか成立しない。

 一つは、発蜜が花だけで行われるわけではないという事実を無視している事にある。アカメガシワや桜などでは葉っぱの基部から蜜の分泌が行われているし、マメ科植物であるカラスノエンドウやスズメノエンドウなども花外蜜腺を持つ。もちろんこの現象に対してはアリ植物というトンデモ説明が行われており、子供相談の終わりにこんな役目もあるんですと付け加えられるかもしれない。

 もう一つは、効率的な受粉を達成するために虫を集めるという決めつけである。人が主食としているイネ、麦、トウモロコシは風媒花である。アワもヒエもそうだろう。これらの植物は非効率的な受粉様式を採っているのか。マツもスギも非効率的な受粉様式を採っているのか。NHKは決してこうした例外を言わない。要するに説明するストーリーに都合の悪いことをないものとして説明するわけである。

 この問題に対しては、以下のサイトにまとめた反論を書いておいた。参照してください。http://noisyminority.jugem.jp/?search=%B2%D6%B3%B0%CC%AA%C1%A3 いや、主要部分を転載しよう。

転載開始

 化学生態学(Chemical ecology)という学問がある。生物と生物、生物と環境の間で起こる現象を化学的に理解しようとする学問である。使われる頻度はいくぶん低いとはいえ生態化学(Ecological chemistry)という学問も存在する。用語的に云えばこちらの学問のほうが化学的側面が強い。学生だった頃、ハルボーン著「化学生態学」、高橋信孝著「生理活性天然物化学」、さらにJ. A. Bailey & J. Mansfield (著) 「Phytoalexins」などを読み、複雑怪奇な生物間の相互作用と多岐にわたる化合物群に魅惑・幻惑されながらも、矛盾と混乱にみちたその場しのぎの説明に違和感を感じていた。

 アリ植物(Ant plants)という概念がある。一般的な理解のためには、ウィキペディアで「アリ植物」の項を見てもらえばよいだろう。但し、ウィキペディアでは論点が少しばらついているし、分かり難いと感じる方もいるだろう。http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/ant.html のサイトには、もう少し簡潔にまとめた説明がある。その中から引用するが、

 「最も単純な例は、アリに餌を与えてガードマンとして雇っている例である。葉柄などにある花外蜜腺から分泌される蜜を目当てにアリが集まる現象はさまざまな植物で見られる。」という記述や、「より親密度が高い例として、アリ植物 (ant plants, myrmecophytes) とよばれるものがある。トウサンゴヤシ属 (ヤシ科) やオオバギ類 (トウダイグサ科)、アカシア属 (マメ科) の中には、茎の一部が変形し、そこにアリが巣をつくっているものがある。これらの植物も花外蜜腺や脂肪体をつくってアリに食物を供給しており、ガードマンとしてのアリの利用がより進んだものだと思われる。またアリは食植性の昆虫を排除するだけではなく、そのアリ植物にとって不利益になる (光の奪い合いなど) つる植物や隣接する植物の葉や枝を切り落としてしまうことまでするらしい。」という書いてある。
 続いて「ただし植物にとってアリがガードマンとなっているという説は疑問視されることもある。もともと食植性昆虫はそれほど多くないという報告もあり、アリのガードマンとしての有効性はそれほど高くないのかも知れない。」とも記載してある。

 後半の疑問は、少し現場を観察していれば当然起こってくる疑問であろう。結局、どちらの意見を採用するのかと思うのだが、現象自体が面白いため前半の立場に立った説明が多く、後半の部分はエクスキューズとしての叙述だと思われる。

 しかし、大事な問題はそこにはない。アリ植物という概念形成における根本的な誤りは、アリを集めるために植物が蜜を出していると決めつけている部分にある。アリ植物という概念は、蜜線から分泌される蜜をただ舐めに来ているに過ぎないアリと、同じく舐めに来たその他の生物間での餌の取り合いを、寄主植物保護行動であると強引に読み替えることでのみ成立する概念にすぎない。

 このアリ植物という定義は、いつ読んでも何度読んでもどこか胡散臭い。実に自然に、花にある蜜腺の話は除外されている。アリは、花の蜜腺には行かないのだろうか? 花の蜜線に集まるアリを見る場合があるが、この場合は花粉を運ぶかどうかで虫媒(entomophily)とか盗蜜(nectar robbing)という別の概念で説明するのであろう。この変幻自在な立ち位置の変更が気にくわないのである。

 確かに、あるアリとある植物に視野を狭めてしまえば、アリ植物として語られた見方ができる場合があるかもしれない。しかし、この定義の構造を少し他の生物に拡張しようとすると、とんでもないことが起こってくる。例えば、人がイヌに残飯をやる。イヌは人をホストであると捉え、他の生物からの攻撃からヒトを防御する。そういう場合、この人をどう呼ぶか。アリ植物という命名法に従えば、イヌ人間と呼ぶことになる。あるいは、アブラムシ(ゴキブリではない)は吸汁した篩管液中の過剰な水分と糖分を「甘露」として排泄するのだが、これがアリの好物であることからアリは外敵からアブラムシを保護すると云われている。いわゆる、アリとアブラムシの共生といわれる現象である。ではこのような行動をとるアブラムシを、アリアブラムシと表現するか。どこかおかしい。アリはアブラムシが増えすぎると、これを間引いて食べるという。そうなると、まるでヒトとウシの関係と同じになる。共生という概念さえ揺らいでしまい、家畜という概念に当てはまりそうだ。

 ある現象に関与する生物の行動を、一つの概念—例えば共生—で説明することを試みる。それは悪いことではない。科学における仮説とはそういうものだ。次に、その仮説が成立するかどうか、多くの実例を観察する。ここまでは良いのだが、次のフェーズにおいて仮説と実例の主客転倒が起こってしまう場合が見受けられる。仮説が美しく魅惑的であればあるほど、仮説に合わない例の切り捨てが起こるのである。そして、恣意性におかされた集合間の偽相関に基づく間違った概念が構築されるのである。

 要するに理由付けの時系列が間違っている。植物が、アリを呼び寄せるために蜜を出すのではなく、蜜を分泌したからアリが来たに過ぎない。アブラムシは単なる排泄をしただけである。その後、アリが来たのである。ここでの時系列を無視した理由付けの錯誤が、その後の議論が錯綜する原因となっている。

 ヒトの行動には、多くの場合目的を意識した意図が存在する。従って、意図を考慮に入れた解析・評価が可能である。人は飛行機を飛ばすために翼を作った。翼の機能を解析すれば作った人の意図が解析できる。リヴァースエンジニアリングと呼ばれる解析方法である。しかし、鳥は飛ぶために翼を作ったという考えは成立しない。翼ができたから飛んだのであろう。翼の機能を解析したとしても、作った理由には到達できない。同じく、植物が蜜を分泌するという行動に、リバースエンジニアリング的解釈はそぐわないだろう。それにしても、なぜ植物は蜜を分泌するのか。ここに真の問題がある。ある理由で分泌された蜜が、次なる生態学的連鎖をもたらす事は否定しないが、次なる生態学的連鎖を意図して、植物が蜜を分泌するとする常識には断固反対する。ロジカルに考えればそうならざるを得ない。

 何はともあれ、私が提唱している歴史生物学においては、生起する現象の時系列を重視する。時系列を重視する視座からみると、今まで行われてきた生物間の相互作用に対する説明が崩壊してしまう場合が少なくない。これらの全てについて、生起する現象の時系列を基礎に再構築する作業は、私一人の手に負えるとは思えないが、行けるところまでいってみたい。
 それはそうと、植物が分泌する蜜をこのロジックの中で捉えるとどうなるのだろう。植物はどこから蜜を分泌するのか。花だけではなく花外蜜腺と総称される器官からも蜜を出す。この命名の根底には花から出すのが当然で、それ以外の蜜腺といった響きがある。しかし、花以外の部分から蜜を出す植物は少なくない。ソメイヨシノ、オクラ、スズメノエンドウ、カラスノエンドウ、ホウセンカ、フヨウ、モッコウバラ、イタドリ、アカメガシワなどなど、花以外から蜜を分泌する植物には事欠かない。花から分泌する蜜に花粉を媒介する昆虫が集まると虫媒花という概念が成立し、鳥がやってくると鳥媒花という概念が成立する。花を横から食い破って蜜を吸うと盗蜜という概念も出現する。アリが集まり他の“害虫”を排除するとアリ植物という概念も成立する。先にそんなあやふやな定義があるものかと批判したが、定義をする上でその基本となる現象を認識する視座がふらついているのである。

 要するに、植物が何らかの“植物側の理由”で蜜を分泌するようになった。その蜜に対して、動物が、昆虫が、微生物がそれぞれの行動を起こしたのである。その行動に伴う副作用として、いくつかの現象の連鎖(植物との相互作用)が起こる。その現象が共進化という概念で表される過程を経て、現在の洗練された形になっていると理解したほうが、論理的不整合を招かないと主張しているのである。

 転載終わり

 あれはこれのため、これはあれのためと、現象と機能の時系列を無視したアドホックな説明を止めましょう。これは生物学の話だけではない。現在起こっている社会的現象についても、底流にある大きな流れを意識して判断しましょうという呼びかけである。そう言えばアストラゼネカ社が日本国内の支店・営業所(計67拠点)を2021年4月を目途に全て閉鎖することを決めたそうだ。この中には東京支店、関西支店、九州支店といった規模の大きい拠点が含まれる。同社広報部は本誌取材に、ワーク・ライフ・バランスを推進する働き方改革の一環として拠点閉鎖を行うと説明したそうだが、そうだろうか。我が国の政府はアストラゼネカ社のワクチンの購入を決めている。但し、ワクチン接種に伴う副作用など問題が起こったときはアストラゼネカ社は責任を負わず、我が国の政府が対応するという条件付きで、約6700億円での契約だった。https://www.mixonline.jp/tabid55.html?artid=69714

 今からワクチン接種が始まろうとする時期に、支店と営業所をまとめて閉める?常識では理解不能です。ワクチンが不良品であると知っているのであれば理解可能ですが。

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忙しい忙しい

 百姓きついか楽しいかに書くべき内容かも知れないが、彼岸前後はとにかく忙しい。昨日は朝から、畑の草刈りと肥料撒き、耕運、畝立て、これは昨日からというものではなく、一週間くらいずっとである。21日に少し大根の種を播き、昨日はワケギを100本ほど植え付けた。昨日は雨の影響が残っていたため圃場が湿っており、草刈り車が2度動かなくなった。トラクターを持ち出して、後ろから抱えて泥濘から押し出したのだが、刈刃の周りが泥だらけで、土を落とすのに1時間近くかかった。草が伸びているので、そのまま耕すとトラクターのローターに絡んでしまい、土を掘れなくなってしまう。つまり、一度草刈り車で草を砕いておかないとすき込みがうまく行かないのである。

 昨日は弱っていたナスビを数本抜いて跡地を耕運、山東菜を植える畝を作った。後は元肥を入れて再度耕運し畝を立てて播種なのだが、まだ作業が追いついていない。6月に植えていたサツマイモがそろそろ収穫期であるため、機械を入れるためにイモ畑周りの草を切った。こんな下ごしらえみたいな作業が延々と続く。それが百姓らしい。同じ作業ばかり続けていると、特定の筋肉が痛くなる。従って、1時間位を目途に次々と作業を変えていく。そう言えば知的に働いているように聞こえるが、何と云うことはない全ての作業が中途半端といっているわけである。播種期が終わってしまいそうで気は焦るのだが、身体は思ったようについて来ない。人間諦めが肝心だ。来年からは畑の面積を減らすことにしよう。

 今日は朝から水路の草刈り、その後2カ所の水田の畦草を切った。田んぼに電柵を設置して約2週間、電線に草の穂が接触するほど育っている。これを切っておかないとアースを取ったのと同じで電気ショックが伝わらない。午後からはクリ畑に行って7コンテナ分を拾い,ついでに栗のイガを燃やした。腰が痛い。その後、サツマイモの蔓を切ってマルチを剥がし、イモを掘った。体力の限界を感じていたので、芋掘りにユンボを使った。これは楽である、病みつきになりそうだ。でも何人かの近所の人達に見つかってしまった。皆笑って通っていったのだが、何となく、ユンボでイモを掘ったやつという噂が明日には広がっていそうな気がする。前科があるから仕方ない。田植え前に時間が足りなくて、トラクターのバケットに娘と肥料を積んで振ったことがある。一度しかやっていないのだが、あああの人ねと多くの人が覚えている。

 

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