ABA生合成系に見る時間の残滓 1

 ここで植物の持つ色素、つまり「花の色についての試論1~7」が入る予定でした。とはいうものの、あの部分だけである程度まとまった話であるだけでなく書き終わっていたと云う理由で先にアップしていた訳である。一寸だけ読み返していただければありがたい。そこでだが、「花の色についての試論1~7」においては植物の色素についてはまあ一応の議論がなされているとして、それが「本題のアブシジン酸とルヌラリン酸にどこでつながるのか」というのが、読んでおられる方々の感想かもしれない。だが、つながっていないわけではない。その話をしよう。

 花の色素として重要な役割を果たしているカロテノイドは、現生生物だけでなく太古の生物においても.活性酸素の消去に働いてきた物質である。リコペンなど、嫌気的に作られるβ-カロテンまでの化合物群にも同様な生物活性があることはすでに述べた通りである。さてβ-カロテンは、大気中の酸素濃度の上昇に伴い出現したオキシゲナーゼの基質となり自らが酸化を受けることで、活性酸素だけではなく活性酸素の原料である「酸素分子そのものの消去」にも係わることになったと捉えている。この酸化反応はカロテノイド分子の色々な位置で起こるだけでなく、共役した二重結合をもつ炭素鎖の解裂まで起こすのだが、その連鎖した酸化反応の結果としてアブシジン酸の生合成が起こるわけである。つまり、カロテノイドやキサントフィルについての議論は、いわゆるアブシジン酸生合成の中間体についての議論なのである。アブシジン酸がアポカロテノイドに分類される理由である考えられるこの部分は、分かり易い議論であると思う。

 もう一つの通底する話は、フラボノイドに関する議論である。花の色としてのフラボノイド、植物のフラボノイドがポリフェノールの一種であり健康に良いなどと云う視点でからは決して見えないある関係が存在しているのである。見えない関係をどのように掘り起こすか。それはやはり生合成系をじっくりと観るところから始めるしかないのだが、いくぶん複雑な議論になる。

 一寸だけ回り道、二十代の終わりの頃、体力は無尽蔵にあると錯覚していた。徹夜明けなど何となく熱っぽくて、快調だと感じていた。だが、この感覚を人に強要するのは間違いである。それは理解していた。少し年を取って、少しばかり責任ある立場に立った時、改めて感じたことは、人は人それぞれのキャパシティを持つという当たり前のことである。これは動かしがたい事実であろう。さて、大学と呼ばれる職場に勤めていたのだが、第二次ベビーブームが去って18歳人口が120万人台に落ち込んでからの話ある。私立大学間の受験生獲得競争が激しくなり、高校生に媚びを売る競争が起こっていた。いまもである。オープンキャンパスの回数を増やそう、提示物を魅力的なものにしよう、演示実験を面白くしよう、お土産を持たせよう、接客態度?を良くしよう、学内をきれいにしよう、トイレを改修しよう、オープンキャンパス以外の日にも見学を可能にしよう、出前講義に行こう、入学前教育をしようと、デパート顔負けの集客策は止めどなく増え実行されていった。短期間であれば少々無理をすれば済むのだが、上記の施策のほとんどは年中行事である。そこでつけはどこに回ったか。在学生教育である。

 入学している学生は、途中退学さえしない程度に単位を出しておけば、4年の間学費は取れるという悪意ある判断を大学側が持っていたかどうかは不明だが、結果としてそのようなことが起こったことは否めない。いくつかの会議で、これらの策を実施する場合、いままで行ってきた何を止めるのかと質問したが、お前は大学のために頑張る気持ちはないのかと、私よりはるかに働いていない人達に非難された。空気に迎合して、正論らしき意見を声高に吐く人は嫌いである。当然の話だが、しわ寄せは在学生教育で起こっていた。分かりやすい授業を、試験における不合格の学生を減らせという施策も、その一環だったのかもしれない。しかしながら、人のキャパシティは決まっている。新しく大事なことを始めるのであれば、いままで行ってきた何かを捨てる必要があると考えている。

 さて、フラボノイド類はいわゆる高等植物と呼ばれる維管束植物にしか存在しない。そして、太陽光に含まれる有害な紫外線を吸収する能力が優れている。従って、上陸を果たした原初の植物が、後の陸上植物へ向かう進化の道を辿るに際して、大きく寄与したと考えられていることはすでに述べた。この意見はおそらく正しいであろうし、取り立てて異論はない。植物がまだ花という生殖器官を持っていなかったこの時期に、すでに花を彩る二種類の色素を獲得していたのである。

  では、そこに何も問題はないかと問われれば、そう簡単に頷くわけには行かない。問題とは、無いはずのところにあるのが常である。フラボノイドの分布を考慮すれば、原初の植物が陸上植物になろうとしていた時間の中でその生合成系を獲得したと考えて間違いはない。では、彼らは、フラボノイド生合成系の獲得と引き替えに、何を失ったのだろう。

  余談ばかり続けている気がする。大学にいた頃、学生による授業評価アンケートという制度ができた。習う側が教える側を評価するというもので、学生の評価をどう生かすかという点で侃々諤々の議論を巻き起こした制度である。文科省の方針を押しつけるのが仕事と思っていたらしい学長の説明では、分かりやすい授業、良い授業をするための方策であり、大学の将来に不可欠なものであるとのことであった。ただし、当然の話だが分かりやすい授業、良い授業とはどんなものかという説明はなされなかった。学生が教員を評価するなど失礼だ、教授の沽券に関わると激怒される方もいたし、時代でしょうと淡々とされていた方もいた。私は、卒業して5年あるいは10年を経過した卒業生の意見を聞いたらどうですかという提案をしたが、全く無視された。

 結局は授業評価アンケート委員会なる場所で、小骨ではなく椎骨を抜いたような質問項目を並べたアンケート用紙ができた。さらに、その授業評価アンケートの結果をどう評価するかという話が始まったときには、大学人もお役人だなと妙に感動したものである。一寸やけになっていたので、授業評価アンケートの結果評価委員会でもつくったらどうですかなどと言って、顰蹙を買ったものである。

  振り返ってみると、私が本当の意味での学問を始めたのは、全く理解できない講義に出会ってからである。大学に入学したとき、ラザフォード・ボーアの原子論くらいはなんとか理解していると思っていた。しかし、それは幻想であって、私にできたのは公式に従ってバルマー系列やライマン系列の軌道半径を求める程度のことであり、その物理学的・量子論的な意味について、全く無知な状態にあることにさえ気付いていなかった。そして、4月の第3週、その講義は

 「時間に依存しないシュレーディンガー方程式」は、HΨ=Eψで与えられる。水素原子のハミルトニアンは・・・極座標におけるラプラシアンは・・・。と始まった。

 いやはや主語と述語は聞き取れても、内容が皆目分からないという不思議な感覚を、生まれて初めて味わった。これが大学だと妙に感動した。帰りに量子論の本を4冊買った。そして、4月の小遣いはこれでなくなった。全く理解できない世界の存在を端的に示された、実に不親切だった先生にいまでも心から感謝している。もちろん、丁寧なプリントを用意して分かりやすい講義をされた先生もおられた。その努力は十分評価した、が?、授業中に分かったと思ったので、後は何もしなかった。まあ、これは錯覚だったのだが。では量子論はわかったのか。それ以降、本だけは沢山買った。鉛筆をなめながら読むのは読んだ。数学的に途中まで追っかけたのだが、それ以上は無理だった。概念的には分かったと思った瞬間があったが、近年これもまた錯覚だったように感じている。

 さて、私に対する授業評価の結果であるが、声の大きさ、板書のきれいさ、進む早さなどなどいろんな評価項目は、良くもなく悪くもなくという程度であった。この評価表には自由記述欄があったのだが、通常この欄に何かを書き込む学生は殆どいない。ところが、私の評価表の自由記述欄には、余談、雑談と書いた学生が半数を超した。雑談が面白かったと書いた学生が数人いただけで、残りの学生は良かったとも悪かったとも書いてない。しかし、講義がなにがしか記憶に残ったのであろうと納得している。とはいえ、講義とは落語に似ている。如何にして枕で学生を捕まえるか、ここに講義の成否がかかっている。数分の枕のために、今日的話題を新聞・週刊誌・学会誌・科学雑誌から探しまわるのに使った時間は、半端ではない。若い頃に、この時間を論文書きに当てていたらと思わないでもないが、うまくはまった講義後の満足感は捨てがたいものである。

 言葉の意味というよりある言葉が含む概念の範囲を正しく理解するには、語源まで戻ることが必要な場合が多い。英単語の意味をラテン語やギリシャ語まで戻って考えるなど、当たり前のことである。同じく、フラボノイドと呼ばれる分子群についても、その包括的な理解には生合成まで戻る必要がある。またもや、あの構造式の羅列に戻るのかと、気を重くするヒトもあるやに思うが、今回は割と楽である。ストーリーが大事なので、途中のごちゃごちゃしたところは書かないからである。


 フラボノイドの生合成経路ようやく本論

 上にフラボノイドの生合成系の系路図を再度示す。ただし、この図が全てを網羅してないことに注意して欲しい。桂皮酸からシンナモイルCoAを通ってクマロイルCoAになる経路を省いているし、コーヒー酸からの流れも省いている。マメ科植物に含まれ健康にいいとか悪いとかよく話題に上る有名な植物エストロゲンであるダイゼイン生合成系も省いている。何故そんなに省くのかって?一寸ばかり面倒に感じたのと、話の大筋に影響がないと考えたからである。

 フラボノイドはフェニルアラニンとチロシンに由来するが、この2つのアミノ酸はシキミ酸経路に由来する物質である。フェニルアラニンはPAL(フェニルアラニンアンモニアリアーゼ)によって脱アミノされ桂皮酸となる.桂皮酸はオキシゲナーゼによって4位に水酸化が起こりクマル酸となる。チロシンはTAL(チロシンアンモニアリアーゼ)の働きで4-クマル酸となってフェニルアラニンからの代謝系と合流した後、4-coumarate:CoA ligaseの触媒下にATPを消費しながらCoAと結合し4-クマロイルCoAとなる。ここまではリグナンあるいはリグニンに代表されるフェニルプロパノイド生合成系と同じ流れの上にある。(ただし、原初の植物がリグニン生合成系を持っていたわけではない)4-クマロイルCoAは、カルコンシンターゼ(CHS)と呼ばれる酵素の働きで3分子のマロニルCoAと連続的に縮合した後、芳香化反応を起こしてナリンゲニンカルコンを与える。このナリンゲニンカルコンがカルコンイソメラーゼによって分子内閉環したナリンゲニンがフラボノイド生合成におけるハブ中間体である。

 ナリンゲニンからはアピゲニンのようなフラボン類、ケンフェロールのようなフラボノール類、ジヒドロケンフェロールを含むフラバノール類が分岐していく。このように描いてあれば、どこに問題があるかと問われても、問題はないと応えざるを得ないだろうう。では、どこに問題があるのか?次の図を見て欲しい。


フラボノイドとスチルベンは同じ根っこを持っていた

 ややこしい名前で抵抗があるかもしれないが、クマロイルCoAに3分子のアセチルCoAが結合した9-(4’-ヒドロキシフェニル)-3, 5, 7-トリオキソ-8-ノネノイルCoAはカルコンになる直前の化合物である。前躯体といったほうがいいか、このポリケチド鎖は、クネクネしていて取り得る構造の自由度が高い。カルコンシンターゼと呼ばれる酵素の中に取り込まれたこの分子は、左側の構造を中間体として、ナリンゲニンカルコンを与える。ところが、スチルベンシンターゼという酵素の中に取り込まれた同じ分子は、右側の構造を中間体としてスチルベン類を与えるのである。さらにだが、フラボノイドとスチルベノイドは、植物における分布が原則として重ならない。高等植物は例外なくフラボノイドをもつが、スチルベノイドはごく一部の高等植物しか持たない。一方、下等植物はスチルベノイドを持っているが、フラボノイドは持たない。これらの事実を矛盾なく説明するとすれば、下等植物におけるスチルベノイド生合成系は、フラボノイド生合成系へと置き換えられたと考えざるをえない。言い方を変えよう、フラボノイドとスチルベノイドは生合成において、全く同じ根っこを持っていたのである。そして、我々が今問題にしているルヌラリン酸はスチルベノイドの一員なのである。

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いよいよ分からん、アメリカ大統領選

 明日の午前2時頃からアメリカに大きな動きがありそうなのだが、どうにも予想がつかない。こう言うと売田さんが勝ったではないかと軽く切り捨てられる。だが、ワシントンDCに集まった軍隊の数を見れば、言い方は悪いが殺すか殺されるかの争いのように見える。去年の8月頃から、この選挙は何であるのかといろいろな資料を読み漁ってきた。今の日本で、ロスチャイルドとかロックフェラーとかいうと、即座に陰謀論者とレッテルを貼られる。そうなると、何を言っても全く聞いてもらえなくなるので、私もできるだけ口にしないようにしてきた。しかし、ロスチャイルドがとかロックフェラーがと言った時点で陰謀論として議論を封じるのは無知蒙昧なリテラシーの低い人である。何故なら、ロスチャイルド系企業、ロックフェラー系企業と入れて検索をかけてみれば良い。世界の大企業がずらりと並んでいる。これらの企業から、アメリカの政界にどれだけの人間が登用されていたか。さらにだが、日本銀行はロスチャイルド系の私企業である。FRB(アメリカ中央銀行)もイギリス中央銀行もフランス中央銀行もロスチャイルド系の私企業である。日本の旧民主党、アメリカの民主党もロスチャイルド系に分類される政治団体である。一方、アメリカの共和党、日本の自民党はロックフェラー系の政治団体である。

 さらにだが、ニューヨークタイムズ、ザ・サン、ワシントンポスト、ロイター通信、ABC、NBC、CBSなどはロスチャイルド系企業であり、NBCテレビ、AP通信、USNEWSなどはロックフェラー系企業に分類されている。とすれば、一つのニュースが流されるとき、そのニュースがどのような価値観、立ち位置の報道機関から流されているのかを考慮するのは当然であると思うし、考慮しないに人の方がリテラシーに欠けると考える。もっといえば、第二次世界大戦前の日本人は、これらのことをよく知っていたし、関連する書籍もかなりあった。敗戦と同時にGHQの支配下に置かれた際、これらの書籍は廃棄させられたらしい。

 但し、ロスチャイルド系、ロックフェラー系と言っても、その内部は一枚岩ではないようだ。今回の大統領選、売田さんはごりごりのロスチャイルド系政治家に分類されそうだ。戸灯さんはロックフェラー系の政治家に分類されそうだが、ロックフェラー系企業がすべて応援しているわけではない。田舎の爺がこれ以上深堀しても、判断する材料がネット上にある情報とあっては、信頼性に欠けると思っている。ただ、ほぼすべてのSNSとメジャーなマスコミが戸灯氏の発言を封じ込めたことについては、強烈な違和感を感じている。日本においても、報道しない自由が大手を振って歩いている状況にあったことは認識していたが、国家の元首である大統領の発言を、私企業が封じるという信じられないことが起こったわけだ。

 おまえは戸灯応援団かと聞かれる場合が多い。応援するほどではないが、売田さんのバックについている人たちよりも、戸灯

の後ろにいる人たちの方がまだましだと云う判断であるに過ぎない。個人的な予想だが、売田さんが当選するとコロナが酷くなり、皆はワクチンを打たれ、戦争が起こり、中国経済への依存が加速すると判断している。他にもいろいろあるのだが、それらは大したことではない。ああそうだ、戸灯さんが19代大統領にと言う噂が流れているが、この19代の意味を理解している人がどれほどいるのだろう。もっとも、いくら言ってもごまめの歯ぎしり、なんの役にも立たないことは十二分に分かっている。そこを間違うほど耄碌はしていない。

 ずっとウェッブ上を彷徨って、メラニア夫人の最終演説を見つけこれを聞いた。

 思わず、安倍首相夫人と比べてしまった。

 さらにだが、

 も聞いてしまった。この中で「アメリカ」を「日本」に変え、プロンプターを使わず語ってくれる日本の政治家はいないものかと、無い物ねだりをしてしまった。このビデオを作ったのは一般社団法人 JCUというところである。さて、なぜ一般社団法人 JCUは戸灯さんを支援するのだろう。思うに、対中国政策の部分を評価しているのかもしれないな。よく分からない。

 あと数時間後に何が起こるか?それは分からない。場合によっては、寝不足がまだ続くかもしれない。時差があると、ニュースを追うにも体力が必要だ。寝るのが3時から4時、朝9時に起きると午前中の仕事が全くはかどらない。昼飯は抜きになる。体重が3Kg落ちた。健康的な減少ではなく、不健康な生活による体重減である。でも、ある意味で革命的な変化が起こるかもしれないと考えれば、これに立ち会える機会を得たことはすごく嬉しい。

 いまひとつ、ラピ・バトラの書いた「貿易は国を滅ぼす」という本の中で、未来を予測をするにあたり「軍人の時代」→「知者の時代」→「商人の時代」→「軍人の時代」→「知者の時代」→「商人の時代」という形で世の中は循環するという基本的考え方を述べていたのが記憶に残っている。さて、この考えを今のアメリカの適用したらどうなるのだろう・・・?

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清々しい初詣で

 年が明けて2日間、家から殆ど出なかった。年賀状を書いていたのと寒かったのが原因である。引き籠もるのが3日目ともなると、少々運動不足気味になるだけでなく、精神衛生上よろしくない。しかしながら、外で働くのはまだいくぶん気が引ける。お屠蘇気分のなかで、チェンソーの音を響かせるのは無粋であろう。近所には走る車は少なく、ほぼ無音である。とすれば、初詣でに行くしかない。

 まず、地元の氏神である賀茂神社に行った。歩いても30分くらいだから車で行く必要はなかったのだが、3社参りを考えていたので、車で出かけた。この神社はとても格式の高い神社で、ここの宮司さんから紹介状をもらって伊勢神宮に行くと、通常は入れない内部にまで入れると聞く。祭神は、神日本磐余彦尊つまり神武天皇と、賀茂建角身命、賀茂別雷命、玉依姫命で、京都の上賀茂神社と下賀茂神社の祭神に神武天皇が加わるという構成になっている。一度書いたことがあるのだが、この神社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座された。神武天皇が日向から大和へ御東遷に際して、宇佐から山北へ来られた時、賀茂大神は八咫烏(やたがらす)と姿を変え御東幸を助け奉られた。今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と書いている。つまり神武東征における道案内をしたと云う八咫烏の飛び立った地である。日本サッカー協会は挨拶に来たのだろうか?

 すごく由緒のある神社であるが、残念なことに少々寂れている。参拝したときも誰もいなかった。まあ私は雑踏が嫌いだから閑散とした雰囲気は好きなのだが、余りにも参詣者が少ないのは少々寂しい。

 次に出かけたのが高御霊神、社別名を的(いくは)物部の宮である。これも殆ど知られていない神社で、うきは市の合所ダムの東岸を遡上して、姫治郵便局のすぐ上、新川派出所の向かい側にある古社で、ここも由緒深い神社である。祭神は高皇産霊神、天御中主神 、神皇産霊神 の三神で、古事記の始めの頃に出てくる神々である。全く知らなかったのだが、旧姫治村のこの神社の社家は、物部の本家であることを10年ほど前まで隠し通してきたと云う。確かにうきは市から久留米市にかけて物部という性を持つ人が多数存在する。先に書いた合所ダムに沈んだ多くの集落には物部姓の人がたくさん済んでいたそうだ。もっと興味深いのは、この合所ダムのすぐ西側にある藤波ダムというダムがあるのだが、その藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っているそうだ。これは先日探しに行ったのだが、まだ見つけきれていない。少し暖かくなったら、再度探しに行くつもりである。

 物部氏の総本家の神社であるとすれば、少し参詣者がいてもおかしくないと思うのだが、この神社にも誰一人いなかった。神社の佇まいは良いし、境内の御神木はかなり大きなイチイの木(多分)で、私好みの神社である。偶々だが、母方の祖母がこの辺りの物部さんであったというごくか細い縁で見つけた神社だが、年に数回は参詣している。

 最後の神社は、極々日本的な神社で祭神は人である。江戸時代(1663年)に筑後川から潅漑用水路開削工事を行った山下助左衛門をはじめとする五人の庄屋さんたちを祭っている。水の神である罔象女神(ミズハノメの神)が祭神であるかどうかは見落とした。時々通るところだから、次に通った時に確認しよう。うきは市は筑後川のすぐ横にあるとは云え、その水を使うのは地形的に難しかった。そこで大石地区に堰を作りここから潅漑用水を流す水路を作ったわけである。かなりの難工事であったようだが、この用水のおかげで川の南岸での米の生産が安定したと云う。このため、五人の庄屋さんの偉業を伝える8社の水神社が存在する。

 私の田はここの用水から水を得ているわけではないが、まあ正月と云うことで参詣した。人は少なかった。私以外には一組の夫婦が来られただけであった。3日の午後だったし、コロナの件もあり皆さん外出を控えていたのも原因だったかもしれない。ほとんど人に会わない清々しい初詣でであった。

 蛇足だが、筑後川の対岸にも2社の水神社が存在する。筑後川の北岸でも水が不足する干ばつを防ぐために、享保7年(1722年)に堀川下流の農民による開削工事が行われ、作られたのが堀川用水と呼ばれる水路である。この工事の安全と水難消除のために建立されたのが、国道386号線沿い恵蘇八幡宮の南隣りにある水神社が建立されている。この社殿の地下に堀川用水の切貫水門が掘られているのだが、この水門に水を導くために作られたのが山田堰である。この堰は、アフガニスタンで潅漑事業を続け、一昨年凶弾に倒れた中村哲さんが、現地で取水堰を作るときに参考にしたと云うことで有名になった。ここから取り込まれた水は、筑後川の北岸に沿って流れ、現在でも三連水車、二連水車によって水位を上げられた後近隣の農地を潤している。

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いやな時代だな

 しばらく前にアメリカの大統領選について少しだけ書いたことがある。何とか云いながらも、世界の大国であるアメリカ合衆国、我が国も安全保障条約を結んでいるこの国の大統領が、売田になるか都灯になるかは大きな問題である。1月6日以来、毎晩というか毎朝3時から5時頃まで、情報が欲しくてネット上を彷徨っていた。寝不足である。朝と夜が入れ替わってしまった。

 1月6日の議事堂乱入事件が論外の事件であることは当然として、あの事件以来アメリカの民主党も発狂したように見える。あの日のトランプの演説会場にアーミッシュの人たちが参加していたのは驚きだったが、ペロシ下院議長がジェンダーフリー思想を強制する法案を提出予定だと聞いて納得した。今まで、ほとんど何も書かなかったのだが(一度だけトランプの方が less worst であると書いた記憶がある)、なかなか書きがたいことが多く困っていた。書いてしまえば陰謀論者と認定されてしまい、後の話を聞いてもらえなくなるからである。どちらかと云えば less worst であるトランプを支持する立場に立つ理由にはいくつかの理由がある。でもそれは書かない。困っているのは、世のトランプ支持者の中に私が余り評価していない宗教団体の人がかなり多く、そういう人々が数多くの記事を発信している。何処までが本当でどの部分が彼らの希望であるのかを読み解くのが非常に難しい。これは彼らが嘘を言っていると云うのではない。人は皆、自分の主義主張と云う色眼鏡を付けていると云うだけである。同じことが、アンチ中共を旗印とする報道機関の報道を読むときにも存在する。アメリカに限らず日本のマスコミはバイデンで決まったと云う前提の記事しか掲載せず、トランプに関しては不利な記事しか載せない。

 一寸だけ言い訳だが、私はグローバリズムの流れには危惧を抱いている。いつも云うように温和なローカリズムを好み、各民族の習慣や風習を尊重した国際社会を願っている。そういう意味ではGAFAが支配する世界には強い違和感を持っているわけだ。今回の大統領選に関してGAFAを始めとするSNSとマスコミのトランプ側の人々に対する処置には驚くを通り越して嫌悪感さえ感じているわけだ。SNS全体主義とでも言えるかもしれない。この選挙、日本的価値観からトランプの負け際が汚いなどとする批判はいろんなところで目にするのだが、反面判官びいきの論が述べられることはほとんどない。原点に戻るとすれば、不正選挙があったかどうかが判断の基礎であるべきだと考えるのだが、そこから説き起こす報道は日本にはなさそうだ。などと云っても、他国のことである。弾劾案が下院を通ったとしても、19日までは上院は閉会している。もちろん19日以前であっても、上院議員全員の合意があれば開会可能なのだが、共和党議員全員の合意がとれるとは思えない。つまり、そこまではトランプが法に則った大統領である、と書いた新聞はないような気がしている。これからどうなるのか、まだ全く分からない。

 昨年の11月3日以来、寝不足が続き視力がかなり落ちている。この選挙に決着がつかない限り、眼鏡が必要になりそうで免許更新にも行けないわけだ。でも、世界の金融史、アメリカ史、スイス、イギリスの凄さと強欲さなど、私はほとんど知らなかった。現代史を学習するには良い機会であったと云える。あと数日、早朝まで頑張ることにしよう。

 それはそうとコロナの問題なのだが、世界中の政府の対応はすべて優先順位の置き方が間違っている。と思うのではなく断定だ。コレラも、赤痢も、ペストも、結核も、チフスも怖い伝染病である。そうであるのに、なぜあなたは怖く感じないのか。治療薬があるからである。コロナウイルス感染症に対して、罹ったら飲めば効く薬があれば、ここまでの社会不安をもたらすことはなかったはずである。しかし、各国政府は治療薬を探すことに力を入れることなく、まだ成功したことのない抗RNAウイルスワクチンへの誘導を続けてきた。コロナウイルス感染症に効果がありそうな既存薬がいろいろリストアップされているのだが、これらが話題に上ることはほとんどない。ご老体の政治家は論外として、マスコミのサイエンスに対するリテラシーの低さに唖然とせざるを得ない。先日書いた20グラムの春菊の記事も無知の極みの報道であったが、それと同じことがはるかに大きなスケールで進行しているのである。まあ田舎の爺がいくらぼやいてもしょうのない話だが、何とかしないともっと悲惨な状況に陥ってしまいそうだ。

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年賀状、ようやく書いた

 新しく購入したマックに昔のデータが残してあった。そこで、昔使っていた古い宛名書きソフトのDVDを引っ張り出してインストールした。そこまでは良かったのだが、いざ宛て名面を編集しようとしたら、フレームがダウンロードできない。悪戦苦闘したにもかかわらず、どうしようもない。調べてみたら何でもない、サポート期間が過ぎていた。現在売られているバージョンのものを買えばいいかと安易に考えていたら、現在のバージョンには私のマックのOSが古すぎて非対応である。旧バージョンで3年前の住所録をかろうじて見ることができたので、csv形式でエクセルに書き出そうと思ったのだが、コンマ区切りでの出力が上手く行かず、これも断念した。

 仕方なく、残しておいた裏面の絵だけはPowerPointに移し、新年の挨拶文を挿入して印刷、その後Wordを使って、表面の自分の住所を印刷、宛て名は手書きで行うことにした。書いてみるとわかるのだが、いやいや漢字を忘れている忘れている。読めるのだが書けない字の多さに驚く。麒麟の麟、畷、渡辺さんの辺の異体字の数々、桑にも桒という異体字があったな。異体字という表記そのものに異體字という表記があるくらいだから仕方ないかもしれない。ご本人は自らの姓名を大事にしているのであろうとおもえば、勝手に変えるわけにもいかない。PCにひらがなで入力し、字体を決めたあと拡大して何度か練習しそれから年賀状に転記する。

 そう書けば、ある程度スムーズに書き進んだように聞こえるが、そうでもない。万年筆マニアである私は、ボールペンは殆ど使わない。ところが、インクジェット用の年賀状に万年筆で書くと、インクが滲んできれいに書けない。水性ボールペンも0.7ミリのやつを使うと少し滲む。ジェルインクを使った油性ボールペンであれば良いと感じたが、万年筆を使い慣れている人間としては、筆圧の強さに違和感があった。結局、水性ボールペンを少し早めに動かして滲みを少なくするようにして書いた。でも、そうすると字を間違えるのです。いやいや大変だった。元旦の夕方に6割ほどの賀状を投函し、2日の夕方に残りの4割位を投函した。明日はまた、出していない人からの年賀状が届くだろう。初詣でどころではない。

 年賀状、出さない人が増えてきたという話を聞いていたが、今年はコロナのせいで投函数が多かったと聞く。とはいえ、PC上で宛て名と裏面を印刷して投函するだけの賀状であれば不要に感じる。私は、原則として宛て名面と裏面の絵の部分は印刷し、少し残したスペースに肉筆で近況を書くというスタイルで通してきた。今後は、全部印刷の賀状に対しては返事を書かないようにしようかと思っている。もっとも、裏面の絵や写真に力を入れている方もいる。こうした人についてはその絵や写真から現況が読み取れるし、気持ちもわかるので、賀状の交換をやめるつもりはない。50年近く、賀状の交換は続けてきたが一度も会ったことのない人がいる。街で出会っても絶対にわからないと思う。互いにやめるきっかけを掴みかねているというのが実態だろう。どこかで、卒年賀状の連絡をすべきかなと思っているが、なかなか踏ん切りがつかない。

 今年も、文句の多い爺として生きていくしかなさそうだと、心から思っている。この歳になってそう簡単に変わるとは思えない。周りから見れば、実にこっけいなものであると認識している。従って、こうした拘りは自分に対してのものに限定し、他の人に対して強制するべきではないという原則は守るつもりである。

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