年が明けて2日間、家から殆ど出なかった。年賀状を書いていたのと寒かったのが原因である。引き籠もるのが3日目ともなると、少々運動不足気味になるだけでなく、精神衛生上よろしくない。しかしながら、外で働くのはまだいくぶん気が引ける。お屠蘇気分のなかで、チェンソーの音を響かせるのは無粋であろう。近所には走る車は少なく、ほぼ無音である。とすれば、初詣でに行くしかない。
まず、地元の氏神である賀茂神社に行った。歩いても30分くらいだから車で行く必要はなかったのだが、3社参りを考えていたので、車で出かけた。この神社はとても格式の高い神社で、ここの宮司さんから紹介状をもらって伊勢神宮に行くと、通常は入れない内部にまで入れると聞く。祭神は、神日本磐余彦尊つまり神武天皇と、賀茂建角身命、賀茂別雷命、玉依姫命で、京都の上賀茂神社と下賀茂神社の祭神に神武天皇が加わるという構成になっている。一度書いたことがあるのだが、この神社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座された。神武天皇が日向から大和へ御東遷に際して、宇佐から山北へ来られた時、賀茂大神は八咫烏(やたがらす)と姿を変え御東幸を助け奉られた。今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と書いている。つまり神武東征における道案内をしたと云う八咫烏の飛び立った地である。日本サッカー協会は挨拶に来たのだろうか?
すごく由緒のある神社であるが、残念なことに少々寂れている。参拝したときも誰もいなかった。まあ私は雑踏が嫌いだから閑散とした雰囲気は好きなのだが、余りにも参詣者が少ないのは少々寂しい。
次に出かけたのが高御霊神、社別名を的(いくは)物部の宮である。これも殆ど知られていない神社で、うきは市の合所ダムの東岸を遡上して、姫治郵便局のすぐ上、新川派出所の向かい側にある古社で、ここも由緒深い神社である。祭神は高皇産霊神、天御中主神 、神皇産霊神 の三神で、古事記の始めの頃に出てくる神々である。全く知らなかったのだが、旧姫治村のこの神社の社家は、物部の本家であることを10年ほど前まで隠し通してきたと云う。確かにうきは市から久留米市にかけて物部という性を持つ人が多数存在する。先に書いた合所ダムに沈んだ多くの集落には物部姓の人がたくさん済んでいたそうだ。もっと興味深いのは、この合所ダムのすぐ西側にある藤波ダムというダムがあるのだが、その藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っているそうだ。これは先日探しに行ったのだが、まだ見つけきれていない。少し暖かくなったら、再度探しに行くつもりである。
物部氏の総本家の神社であるとすれば、少し参詣者がいてもおかしくないと思うのだが、この神社にも誰一人いなかった。神社の佇まいは良いし、境内の御神木はかなり大きなイチイの木(多分)で、私好みの神社である。偶々だが、母方の祖母がこの辺りの物部さんであったというごくか細い縁で見つけた神社だが、年に数回は参詣している。
最後の神社は、極々日本的な神社で祭神は人である。江戸時代(1663年)に筑後川から潅漑用水路開削工事を行った山下助左衛門をはじめとする五人の庄屋さんたちを祭っている。水の神である罔象女神(ミズハノメの神)が祭神であるかどうかは見落とした。時々通るところだから、次に通った時に確認しよう。うきは市は筑後川のすぐ横にあるとは云え、その水を使うのは地形的に難しかった。そこで大石地区に堰を作りここから潅漑用水を流す水路を作ったわけである。かなりの難工事であったようだが、この用水のおかげで川の南岸での米の生産が安定したと云う。このため、五人の庄屋さんの偉業を伝える8社の水神社が存在する。
私の田はここの用水から水を得ているわけではないが、まあ正月と云うことで参詣した。人は少なかった。私以外には一組の夫婦が来られただけであった。3日の午後だったし、コロナの件もあり皆さん外出を控えていたのも原因だったかもしれない。ほとんど人に会わない清々しい初詣でであった。
蛇足だが、筑後川の対岸にも2社の水神社が存在する。筑後川の北岸でも水が不足する干ばつを防ぐために、享保7年(1722年)に堀川下流の農民による開削工事が行われ、作られたのが堀川用水と呼ばれる水路である。この工事の安全と水難消除のために建立されたのが、国道386号線沿い恵蘇八幡宮の南隣りにある水神社が建立されている。この社殿の地下に堀川用水の切貫水門が掘られているのだが、この水門に水を導くために作られたのが山田堰である。この堰は、アフガニスタンで潅漑事業を続け、一昨年凶弾に倒れた中村哲さんが、現地で取水堰を作るときに参考にしたと云うことで有名になった。ここから取り込まれた水は、筑後川の北岸に沿って流れ、現在でも三連水車、二連水車によって水位を上げられた後近隣の農地を潤している。