GM作物

  4月13日の西日本は、春の嵐が吹き荒れた。昼になっても気温は15℃に達せず、横なぐりの雨とあって体感温度は10℃以下であったようだ。こんな日には、たまの休みを楽しむべきかもしれないが、別の用事があり結局出かけていくことになった。

  別の用事、ある人からGM作物について話をしてくれと頼まれていた。「物事の判断は良く知った上で行うべきだ」というのが、私の持論である。従って、賛成・反対と言う立場ではなく、GM作物とはいかなるものかという立場からの話をした。グリフォサートを始めとして、遺伝書操作による耐性化の対象になっている化合物群、GM作物として開発されつつある作物群、化合物の毒性と製剤の毒性の違い、ADIを算出する時の基本的考え方、毒性試験の方法、食品の安全性審査、作物への遺伝子導入の方法と導入に伴って起こりうる問題、アレルギーをどう考えるか、種子産業と食糧の安全保障などについて説明したのだが、感動的であったのは、居眠りするヒトが居なかったことである。眠気に襲われたヒトがいたのは間違いないが、それでも眠らないようにと努力されていた。大学の講義とは大違いである。

  話が終わった後も、TPPとの関連、情報入手の方法と情報の質の見分け方、ネオニコチノイドとミツバチの関係などなど、2時間近い密度の濃いディスカッションとなった。聴衆となった人達が非常に意識の高い人達であったのだろう。

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遠くから見たSTAP細胞

  「STAP細胞に関する論文の問題」が燃え上がっている。1月の終り頃だったと記憶しているが、Natureにこの論文が掲載されたというニュースで世の中は沸き立っていた。職場だけでなくいろんなところでこの論文の凄いところはどこにあるのかという質問を受けた。未分化の細胞で特異的に発現するOct4遺伝子のプロモーターに緑色蛍光蛋白を発現する遺伝子配列をつないだ遺伝子をもつマウスを作り、その脾臓から取ったリンパ球を弱い酸で処理するという単純な方法で、リンパ球が初期化された未分化な細胞が得られることを、緑色蛍光タンパク質の発現によって確認したことだ。などと云ったところで、一般の方には理解してもらえない。結局は、マスコミと同じレベルでの説明をし、今からどんな細胞にでもなれる幹細胞と似た細胞を、簡単に作る方法を見つけたのが凄いと言わざるを得なかった。

  ただ、この説明をするとき、私の発言に熱気が感じられなかったらしく、何か問題でもあるのかと尋ねた勘の鋭い人もいた。iPS細胞の研究にしろ、STAP細胞の研究にしろ、研究の方向はガンの治療であり、損傷した臓器・器官の製作と移植であり、老化した臓器、器官の入れ替えであるようだ。

  云うまでもないことだが、これらの研究に於いては、命をどう捉え、何時、いかに、そして尊厳を保たせて死なせるかという観点は希薄なように思える。死は医学の敗北であるようだ。しかし、私にとって死は敗北ではない。役割を終えた個体が次の世代にニッチを譲るだけことであろう。臓器移植というとても新しいとは思えない、免疫抑制剤に頼り切った医療技術を褒めそやしていた人達が、褒める対象を変えただけではないだろうか。

  私は臓器移植に対して今も反対である。免許証の裏には「臓器は提供しない」の部分にチェックを入れている。もちろん、私が危ない状況になってもヒトからもらう気もない。仏教徒として、時が来れば死ぬのが当然と考えている。死ぬのが当然と考えている私にとって、臓器と器官を入れ替えてまで生かそうとする医療は、はなはだグロテスクな医療としか思えない。とはいえ、他の人がどうしても生きたいと考え行動することを頭から否定できるかと考えると、そこはちょっと考えてしまう。

  ただ、脳死がどのような状態かを全く知らない人に、安易に移植を誘導するコマーシャルは実に嫌だ。過去、多くの学生や社会人に脳死とはどんな状態なのかと聞いたことがあるが、正しく答えられた人は殆どいなかった。全脳死と植物状態の区別がつかず、脳幹死や深昏睡に至っては聞いたこともない、ましてやそれらの判定基準も判定方法も知らない人が、何故脳死という概念について賛成したり反対したりできるのだろう。

  臓器移植を認めないと世界から遅れてしまうという雰囲気の中で、平成9年に臓器移植法が成立した。この法律が臓器移植を可能にすることを目的にした立法であったがために、死をどう捉えるかという点での議論は不十分だったと思う。それが脳死臨調の答申が両論併記となった原因であったのだろう。私はここにおいても少数派、少数意見の方にシンパシーを感じている。

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内緒は不可能

3/8 3/9

   三月の声を聞いたというのに、昼間の温度が10℃前後と真冬に近い。にもかかわらず、季節を読んだスギの木は大量の花粉を飛ばす。山の畑の側に40年程の樹齢を持つスギの木があるのだが、この木からもろに花粉が飛んでくる。風媒花は受粉率が低いなどと書いてある本が多いが、風媒花は花粉の量を増やして受粉の確率を確保していると書くのが正しそうだ。

  ここしばらく送別会を初めとして種々の会合が重なり、ブログの更新が遅れ気味である。とはいえ、畑へは律儀に出没している。この時期はさすがに収穫するものが少ないとはいえ、ワケギと早生のタマネギが食べ頃である。いまならタマネギの葉っぱもまだ柔らかい。

  先日から、今度建てる家には薪ストーブを入れるといっていたら、薪が集まってきた。師匠の家から薪割り器も届いた。田舎では隠し事はできない。わが農舎の棚になにがあるかまで皆ご存じのようで、地区全体が1つの家族のようなものである。物心ついた頃から、地域社会の異邦人として暮らしてきた私にとっては、異次元の世界である。こうした人間関係を鬱陶しいと思うか、何でも知られているのだから気楽だと思うか、それは人によるだろう。私にとっては気楽に生きられる世界だと感じている。

  師匠からよばれた。「近くの田を売るという話がある、買わんか」という。いま持っている田んぼには、側道を広げる計画がありかなり狭くなってしまう。もう少し欲しいなと思っていたところである。話に乗ったら、すぐ売り主のところに連れて行かれた。なんと、師匠の親戚である。前置きも駆け引きもない、すぐ決まった。次の日、農業委員会へ提出する書類を受け取りに再訪したら、見慣れた車が止まっている。家に入ると、わが家のお向かいのおばさんがお茶を飲んでいる。あはは、親戚です。あの田んぼの横は私の田、水の駆け引きはしとってやるよ。あと1年は、働くっちゃろ。全てお見通し!!

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Necydalis

2/15

  解糖系ブログの更新が止まっている。理由は幾つかあるのだが、読みたい文献があって少し考え込んでいるというのが本音である。大学の図書館に行きたい気分だが、ウイークデイは仕事があって動きにくい。

  今日は敷地の横の市有地に生えている、真竹を切った。敷地の東側に昔の道らしき幅60 cm程の土地があって、ここに真竹が生えている。栄養状態は良いらしく、直径10 cmを超える大きな竹が乱立しているのだが、そのせいで日当たりが余り良くない。目の細かい鋸を使っての作業だった。この廃道と隣の家との間に2 m程度の段差があるため、この竹を全部からしてしまうという判断は、実際的ではない。毎年、少しずつ間引きながら共存するのがいいと思っているのだが、5月から生えてくるタケノコは我が家の敷地で100本を軽く超える。初めの数回は喜んで食べるのだが、その後は切り倒して、竹の侵略から畑を守るので精一杯、何しろ1日で1 m近く伸びる。タケノコの中には生長促進物質があるに違いないと考えた田村三郎博士に、実感を伴って同意する。

2/16

  今日は柿の木の2本と栗の木1本を切った。すべて樹齢40年ほどの木である。カキの2本は、収穫の時期をずらすための樹種の変更であり、栗の木は庭の日当たりをよくするためである。とはいえこれらの木は、前所有者の生活とその家の子供達の成長を支えてきた木である。鋸を入れようとして、ちょっと躊躇してしまった。特別信心深いわけではないが、気持ちが引っかかったままでは仕事がはかどらない。酒を買ってきて木に注ぎ、手を合わせた。

  それで気持ちが吹っ切れた。40年かかって生長してきた木を30分もかけずに倒した。チェーンソーの力は偉大である。数億年の時間をかけて蓄積してきた石油や石炭を、2〜300年で使い切ろうとしている人類の行動に似ている。とはいえ、これらの木の後には、桑—それも大きな実のなる桑を植えるつもりである。

  数十年後、大きくなった桑の木にNecydalis gigantea (オニホソコバネカミキリ)が住み着いてくれれば、とても嬉しい

  倒した木は、ストーブの燃料として再来年に燃やす予定である。

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Myrmecophyte

  化学生態学(Chemical ecology)という学問がある。生物と生物の間、生物と環境の間で起こる現象を化学的に理解しようとする学問である。使われる頻度はいくぶん低いとはいえ生態化学(Ecological chemistry)という学問も存在する。用語的に云えばこちらの学問のほうがより化学的側面が強い。学生だった頃、ハルボーン著「化学生態学」、高橋信孝著「生理活性天然物化学」、J. A. Bailey & J. Mansfield (著) 「Phytoalexins」などを読み、複雑怪奇な生物間の相互作用と多岐にわたる化合物群に魅惑・幻惑されながらも、矛盾と混乱にみちたアドホックな説明に違和感を感じていた。

  アリ植物(Ant plant, Myrmecophyte)という概念がある。一般的な理解のためには、ウィキペディアで「アリ植物」の項を見てもらえばよいだろう。但し、ウィキペディアでは論点が少しばらついているし、分かり難いと感じる方もいるだろう。http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/ant.html のサイトには、もう少し簡潔にまとめた説明がある。その中には「最も単純な例は、アリに餌を与えてガードマンとして雇っている例である。葉柄などにある花外蜜腺から分泌される蜜を目当てにアリが集まる現象はさまざまな植物で見られる。」と云う例が示されているし、「より親密度が高い例として、アリ植物 (ant plants, myrmecophytes) とよばれるものがある。トウサンゴヤシ属 (ヤシ科) やオオバギ類 (トウダイグサ科)、アカシア属 (マメ科) の中には、茎の一部が変形し、そこにアリが巣をつくっているものがある。これらの植物も花外蜜腺や脂肪体をつくってアリに食物を供給しており、ガードマンとしてのアリの利用がより進んだものだと思われる。またアリは食植性の昆虫を排除するだけではなく、そのアリ植物にとって不利益になる (光の奪い合いなど) つる植物や隣接する植物の葉や枝を切り落としてしまうことまでするらしい。」という記述がなされている。

  続いて「ただし植物にとってアリがガードマンとなっているという説は疑問視されることもある。もともと食植性昆虫はそれほど多くないという報告もあり、アリのガードマンとしての有効性はそれほど高くないのかも知れない。」とも書かれている。この疑問は、この現象を歴史的に考えれば当然起こってくる疑問であろう。アリ植物という概念形成における根本的な誤りは、アリを集めるために植物が蜜や脂肪体を提供していると考える部分にあると思う。

 植物が分泌する物質を食べに来ているに過ぎないアリの、単なる餌場を守ろうとする行動を、寄主植物保護行動と強引に読み替えることでのみ成立する概念にすぎないと考える。

  このアリ植物という定義は、何度読んでもどこか胡散臭い。 花の蜜線に集まるアリを見る場合があるが、この場合は虫媒(entomophily)とか盗蜜(nectar robbing)という別の概念で説明される場合が多い。この変幻自在な立ち位置の変更が気にくわない。確かに、あるアリとある植物に視野を狭めてしまえば、アリ植物として語られた見方ができる場合があるかもしれない。しかし、この定義を少し拡張しようとすると、とんでもないことが起こってくる。

  例えば、人がイヌに残飯をやる。イヌは人をホストであると捉え、他の生物からの攻撃からヒトを防御する。そういう場合、この人をどう呼ぶか。アリ植物という命名法に従えば、その人はイヌ人間と呼ばれることになろう。あるいは、アブラムシ(ゴキブリではない)は吸汁した篩管液中の過剰な水分と糖分を「甘露」として排泄する。これがアリの好物であることからアリは外敵からアブラムシを保護すると云われている。いわゆる、アリとアブラムシの共生といわれる現象である。ではこのような行動をとるアブラムシを、アリアブラムシと表現するか。どこかおかしい。アリはアブラムシが増えすぎると、これを間引いて食べるという。そうなると、まるでヒトとウシの関係と同じになる。共生という概念さえ揺らいでしまい、家畜という概念に当てはまりそうだ。

  ある現象に関与する生物の行動を、一つの概念—例えば共生—で説明することを試みる。それは悪いことではない。科学における仮説とはそういうものだ。次に、その仮説が成立するかどうか、多くの実例を観察する。ここまでは良いのだが、次のフェーズにおいて仮説と実例の主客転倒が起こってしまう場合が見受けられる。仮説が美しく魅惑的であればあるほど、仮説に合わない例の切り捨てが起こるのである。そして、恣意性におかされた集合間の擬似相関に基づく間違った概念が構築されるのである。

  要するに理由付けの時系列が間違っている。植物が、アリを呼び寄せるために蜜を出すのではなく、蜜を分泌したからアリが来たに過ぎない。アブラムシは単なる排泄をしただけである。その後、アリが来たのである。ここの時系列認識のおかしさが、その後の錯綜した議論の原因となっている。

 ヒトの行動には意図が存在する。従って、最初の行動であっても意図に即した解釈が可能であろう。しかし、生物のとある行動にはいくぶん違った解析・評価が必要であるに違いない。それにしても、なぜ植物は蜜を分泌するのだろう。ここに真の問題がある。

  何はともあれ、私が提唱している歴史生物学においては、生起する現象の時系列を重視する。時系列を重視する視座からみると、今まで行われてきた生物間の相互作用に対する説明が崩壊してしまう場合が少なくない。これらについて、生起する現象の時系列を基礎に再構築する作業は、私一人の手に負えるとは思えないが、行けるところまでいって、そこで反省すればよい。お前の辞書に反省という言葉があるのかい?という揶揄はあるにしてもだ。

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