現況報告

 いつの間にかこのブログを書き始めて8年くらい経つ。その間、何だか分からないコメントが山ほどはいったり、データが消えたりと、散々な目に遭ったこともある。一時はかなりの数のアクセスがあったのだが、いまは記事にタグを付けていないため読者はほとんど増えない状況が続いている。要するに常連の人が主にやって来ているということだ。他の人が書いているブログに、どの程度の人が訪れ、どれくらいの時間内容を読んでいるのかは知らないが、このサイトに関してはログ解析機能を付けているので一応の状況は見ることができる。

 誰がきているなどと云うプライバシーに関することではない。どんな時間に訪れているか、サイトにどれくらいの時間滞在するか、お気に入りボタンを押してくれたかどうかなどが分かるだけである。少し紹介したい。どの月を見ても余り変わりがないので、今月の分を示すことにする。

 見てもらえば分かるように一日十人程度しか来ない弱小ブログであることが分かる。タグを付ければと思わないでもないが、タグ付けで時間をとるより書いたほうが良いと、いまの所考えている。ただ、読まれているページ数は多いのではないだろうか。次は訪問する時間帯について、

 深夜、11時から午前3時台が多い。ここに来る多くの人は夜更かしが好きな人と云うことだろう。健康と寝不足による交通事故に注意しましょう。次はサイトでの滞在時間、

 1時間以上の滞在者が38.1%、30分から1時間の滞在者が11.8%と、これだけでほぼ50%を占める。ということは、訪れた方々は時間をかけて結構まじめに読んでいると考えて良いだろう。

 興味深いのは上のデータ、なんと訪問者の96.9%がお気に入りに追加したことになっている。本当だろうか。もし本当なら、訪問数がいま少し増えても良いのではと感じているのだが、気には入ったがそれほどでもないと云う事かな。

 地道に書き続けていれば、訪問者は少しづつ増えてゆきそうな手応えはある。でも、コロナの話ではなくもう少し生産的なことを書きたいと願っている。

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知識は怖い 2

 ここ2年ほどの新型コロナ感染症騒ぎの経験を通して云えることは、病気の性質、感染対策、治療法、マスコミの報道、社会の動きなど、氾濫する情報の中から正しいフィルターを通して、正しいであろう情報を見つけるリテラシーが求められる時代になったことだろう。しかしながら、正しいフィルターというのが曲者である。多くの場合、我々の持つフィルターは、育てられた親の価値観、学校教育によって刷り込まれたかなり古くかつ少々偏った知識と、その後の人生経験を通して獲得した虚偽と偏見に満ち溢れているからである。従って、我々は各自の持つフィルターの偏りを、絶えず補正し続けなければならない。頭では分かっていても、これはなかなか難しい。自戒しているとは云え、これはある意味で自己否定の連続となるため、精神的に辛い作業を続けることを意味する。この作業をより高い視座を得るための営為として楽しむことができればいいのだが、多くの人は現状に居着いてしまっているようにみえる。

 より難しい問題は、「正しい」という概念に存在する。困ったことに正しさはアプリオリに存在するものではない。通常は、ある時代のある場所のある時点で、ある階級に属している人が決めるものに過ぎない。それはつまり天の理ではなく人の理に則した判断である。さて、天とは何かという難問は横に置くとして、人の理に従って行われる政治を人治政治という。通常は政治を行う人物が恣意的に判断基準を動かすという余り好ましくないニュアンスを含めて使われることが多い。人治政治の対義語は法治政治である。法治政治においては、法を判断基準として物事が決められ、政治家による恣意的な判断の振れがないという意味において、人治政治よりも好ましいとする場合が多い。しかしながら、法そのものが人によって決められたものにすぎず、これが無条件に正しいものであるという思い込みを持ってもいけない。例えば私の判断は、私の乏しい知識と幾分浅はかな智慧に基づいて行われる、ある現場における判断に過ぎない訳だ。その判断において個人的な欲や願望は極力排除しているとは云え、それが正しいかどうかは分からない。事が進んだ後で、虚心坦懐にその正誤を評価するしかないのである。

 この虚心坦懐にというのがまた実に難しい。何について書いているのかと云えばコロナウイルス感染症についてである。コロナウイルス感染症がさほど怖いものではないというのはデータを見れば明らかであり、インフルエンザの方がより怖いかもしれない。しかし、当初コロナが途轍もなく怖いという刷り込みがマスコミによって徹底的に行われたが故に、コロナウイルス感染症自体はさほど怖い病気ではないと云う新たに分かった事実を受け入れきれない人が多数存在する。その多くの人がコロナワクチン接種へと雪崩れ込んで行った、いや行かされたと考えている。現時点で8割程度の人々が接種することを選び、残りの2割程度の人達が接種しない道を選んだ。そして、事の善し悪しは別として、1回目の接種を受けたかどうかが2回目、そして3回目のブースター接種を受けるかどうか判断において大きな精神的影響を与えている。当然である。皆、命をかけた決断であったと思っているからだ。空気に流された人も多かったとはとは思うが、ワクチン接種を待ち望んで受けた人々にとって、今更意見を変えるなど最早できなくなっている。

 第一回、第2回目の接種をしなかった人にとっても、今更受けに行くと云う選択肢はないだろう。打たないと仕事が続けられない、施設に預けた親に会えない、入院した子供に会えない、職域接種の圧力など、泣く泣く接種を選ばざるを得ない人達は別として、ワクチンを打たないと云う選択をしたが故に受け続けた同調圧力を我慢してきた人にとって、ここで意見を変えるなぞ、命をかけたプライドの問題となっているように見える。

 ワクチン依存派に人々には、ワクチンの副作用(接種直後のアレルギーを含む)で悩む人の姿は見えないようだ。こう書くと、そんなことくらい知っているよという答えが返ってくるが、その知識を次の接種時の判断材料として生かしてないという意味において見えないという表現をした。反ワクというカテゴリーの人は、あれは単なる風邪であるというドグマにしがみつき、ワクチンを頭から否定する。一時的とは言え、ワクチンによってコロナウィルスに対する抗体価が上がるなどといってもこれまた通じない。ワクチンは悪であるという強固な偏見が視野を歪めているようだ。先に獲得した強固な知識の怖さを実感している。

 こう書くとお前はどうなんだと問われるに違いない。私は選ワクである。天然痘ワクチンや小児麻痺ワクチンなど、歴史的にみて有効であったと思われるものは現時点では認めている。(もちろん、この判断についての反論があることは知っている。)しかし、近年勧められている子宮頸癌ワクチンには強い違和感を持っている。こう答えると、「いや、新型コロナワクチンに対してはどうなのだ」と聞かれる訳だ。

 困ったことに、私は現在使われている新型コロナワクチンと呼ばれる物の中で、mRNA やDNAを使ったものについてはワクチンであると認めていない。作用メカニズムをみれば、これはワクチンの定義に当てはまらず、むしろ極めて斬新な遺伝子予防(治療)剤に分類するべきだろう。mRNAを使ったこの形の予防法は、20年以上にわたる研究の歴史を持っているが、いくつかの致命的な欠陥があるが故に今まで実用化されることはなかった。ところが、怖い怖いコロナウィルス感染症の流行という恐怖感を煽ることによって、完成品ではない物を緊急承認、治験薬という位置づけのまま全世界で使用させることに成功したのである。だれが? 私は、その致命的な欠陥に対する試験がなされていないだけでなく、このmRNAがコードしているタンパク質がコロナウィルスの毒性の本体であるスパイクタンパク質であることへの疑問から、このワクチンと詐称されている物を接種するのは望ましくないと判断したに過ぎない。

 とはいえ、接種をするべきだという同調圧力はかなり凄かった。接種は待ちましょうよと言うだけで反ワクの陰謀論者と言われ、非国民のように言われ、他人に対する思いやりがないと非難する人もいた。この種の批判はマスコミの受け売りだから科学的に論破されることはなかったとはいえ、気分は少々以上に落ち込んだ。いつも少数派として生きてきた経験がなければ、コロナワクチン非接種鬱になっていたかもしれない。農作業という肉体労働の有り難さを実感した毎日であった。先にも書いたが、いまとなっては、シェディングによって非接種者であっても多かれ少なかれワクチンに含まれるmRNAあるいはスパイクタンパク質の被曝を受けていると考えている。毒性を持つスパイクタンパク質を解毒法を見つけることが、接種者、非接種者共通の課題になっていると考える。さらに云えば、ここにしか分断されてしまった人々が再び会いまみえる着地点はないのではないか。しかしながら、この立ち位置はまず理解してもらえない。残念だが、シェディングと口にしただけで陰謀論者の認定を受けてしまうのが実情である。

 いまでも、かなりな精神的圧力を感じている。昨今ワクチン接種済みであれば、コロナウィルスに感染したとしても仕方ないこととして許される雰囲気があるのだが、未接種で感染したらどんな反応を引き起こすのか。この重圧感は都会とはまた違うレベルにあるようだ。そこで効果がありそうに思われる薬を探すだけでなく、何とかして入手する事までしなければならなくなった。こんなことを云うと、医者でもないのに何を言うのだと批判する人がいるのだが、日本の医者は厚生省や各種学会が決めた診療や治療のガイドラインなどに厳しく縛られており、このガイドラインから外れる事はほぼ許されていない。医療過誤の問題として訴えられる事を避けるためには、そうするしかないと云う事情は理解するが、未知の新規感染症に対しては立ち竦んでしまっているようにも見える。

 そうした中でいくつかの薬については以前紹介した。但し、その選択が正しいかどうかは分からない。私であればこうする、その結果については自ら責任をとる。それだけである。それにしても、子供や妊婦にまでワクチン接種を行おうとするファイザー社、これを容認しようとする現政府に対しては敵意すら感じてしまう。法が子供たちを守らないのであれば、法はいらない。裁判のシステムも不要だ。死刑も廃止、そして仇討ちの権利を認めて欲しい。いい加減にコロナを出汁にした全体主義への傾倒はやめて欲しいものである。

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大雪だ大雪だというけれど

 雪で困っている地方の人を揶揄するつもりは欠片もない。高齢化が進んでいる地方において、雪かきや雪下ろしが重労働というだけでなく危険な作業に変貌している事も理解している。その上での話である。7日にJR北海道が札幌発着便を全面運休した。思い掛けない大雪であったことが原因だとされている。札幌市中央区の積雪量のデータを見てみると、確かに昨年の2倍程度の値を示している。その割にはマスコミが騒がない。台風や豪雨の時は、30年に一度、50年に一度、未曾有のなどという形容詞を付けて騒ぐのに、何で騒がないのかと考えていた。

 24時間の降雪量が60センチで統計開始以来最多と報じているTV局もあるが、札幌の過去30年間の平年値と比べれば3〜4割おおいとはいえ、突出した値ではない。https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_3m.php?prec_no=14&block_no=47412&year=&month=01&day=&view=p1 では何が起こっているのかと考えたのだが、思い当たるのは行き過ぎた合理化ではないだろうか。2020年11月におけるJR北海道の無人化駅比率は71.3%で365駅に上る。赤字路線の廃止、乗降客の少ない駅の廃止と無人化を続けてきた結果である。だからといってJR北海道を責めても改善する話ではない。偏に人口密度、つまり利用者数の問題である。無人の368駅であっても1駅あたり3人が勤務していたとすれば1,000人以上の人が減っている事になる。

 何の問題もない温暖な季節であれば人減らしは収支の改善に有効だとは思うが、一旦大雨が降ったり大雪が降ったりした場合、残った人員ではやり繰りができなくなっているのではないか。社会性昆虫であるミツバチやアリにおいて、働きバチや働きアリの2割しか働いていない、残りはサボっていると云われるが、一旦事ある時は残りの8割が働き始めるのである。豪雪に見舞われた時、廃止された駅に勤めていたであろ職員は駅周辺の除雪やポイントの凍結防止、乗降客への連絡など、大事な役目を果たしていたはずである。こうした予備の労働力を削ぎ落とした付けが回ってきているように見える。つまり、この現象は今年だけの問題ではなくこれからも続いて行く、いやもっと酷くなると推測する。同じ現象はJR四国やJR九州でも起こるに違いない。

 人口が減り始めただけでな、大都市への集中が止まらない状況をみると、国鉄への再統合をしない限り地方線の衰退と廃止は止めようがないだろう。ここ2年はコロナのに問題で状況が変わっている云え、JR東海、JR東日本、JR西日本、JR貨物が黒字で、JR四国、JR北海道、JR九州は常に赤字と云う構造を変えないと国の形がおかしくなってしまう。国鉄の分割論議がなされていた頃、私は懐疑派であった。動労と国労による労働争議が度を過ぎていただけでなく、処理できないほどの累積赤字が膨れ上がっていたことには同意するにしても、その問題への対策が国鉄の分割民営化であるとは思えなかった。権力を失いつつあったとはいえ、田中角栄は非分割民営化の道を探っていたと記憶している。1987年に中曽根内閣の下で行われた分社化によって、鉄道線路は繋がったまま分断された訳である。この時10万人近い人が余剰人員として解雇されている。私見だが、新自由主義の目指す所とは異なるが社会インフラの維持と管理については、リダンダンシー(冗長性)の確保が必要だと考えている。さらに、分割民営化の結果として、地方では災害による被害の復旧に必要なほんの数億円お金が捻出できず、赤字路線が次々と廃止され続けている。原油の急騰をみるまでもなく、過度に物流をトラックやバスに依存するのは危険だなと感じる今日この頃である。老人の繰り言だと言われるかもしれないが、コストと収益を無視した結果が現実化しているのだろう。

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知識は怖い 1

 知識が豊富である事は、悪い事ではない、むしろ望ましい事であろう。しかしながら、その知識の正しさについての吟味は、常に続けなければならない。さらに、その知識から演繹して得られた自らの認識についても、演繹の正しさについての検証が欠かせない。またややこしい事を言い始めたと思われそうだが、知るという事は人の目を開かせる場合だけでなく、同時に人の目を曇らせる場合もあるという事を忘れてはならない。言い換えれば、一つの知識は次の知識を取り入れるに際して、ある時は助けとなりまたある時は障害になるということである。我々は、生きてきた間に身に付けた知識という偏見のフィルターに翻弄されながら暮らしているのかもしれない。

 何故そんなことを書き始めたかといえば、免疫と云う言葉の持つ概念が色々な混乱をもたらしているからだ。現在のコロナ問題がその一つである。専門家ではない大多数の人々は、免疫とは疫病から免れる現象という意味であり、免疫現象が自らを傷つけるネガティブな側面を持つとは考えていないようだ。しかし、現実には免疫反応は疫病からの回避メカニズムであると同時に、自己免疫疾患と呼ばれる治療が難しい多くの病気を引き起こしているのである。このブログを読み込んでいる人達にとっては釈迦に説法かもしれないが、実社会においてはこの理解が出来ていない人達が大多数である。そうでなければ免疫力を上げる事で健康な生活が送れると説く嘘まみれの免疫本が売れるはずはないではないか。

 先に云う免疫反応を人為的に起こさせるもの、それをワクチンという。そのように多くの人が理解している。そして、これを言い換えれば、免疫反応を人為的に起こさせ人を疫病から守るものがワクチンという事になる。ここにおいて、過去に幾つもあったワクチンの後遺症など極めて稀な例外に過ぎず、ワクチンは安全で望ましいものになる。この安全で疫病から人を守ってくれるワクチンという概念が偏見のフィルターとなって、危険かもしれないワクチンという概念の侵入を排斥する。まるでウィルス干渉みたいなものである。

 今回のコロナショックは、通常の風邪の治療+イベルメクチン又は5-ヒドロキシクロロキン+肺炎を起こしたらアジスロマイシンという治療方針を貫いていれば大した問題にならなかったと思っているのだが、初期のイベルメクチン又は5-ヒドロキシクロロキンが有効であるというデータは、いつの間にか効く効かないという報道の混乱の中で消えて行った。まだ強い影響力を持っていた安倍首相が押していたアビガンでさえも、どうなってしまったのか、後追いの報道さえ見当たらない。研究結果は無視され、新型コロナ感染症をとんでもない怖い病気であると報じ続けたマスコミの圧勝である。数日前、イベルメクチンがコロナ感染症(オミクロン株)にも効くという報告があったが、これも雑音の中に埋もれてしまうと予想する。

 アナグラム、言葉遊びの一つで、単語や文の中の文字を入れ替えることによって、全く別の意味の単語や文を作る遊びである。ダ・ビンチコードの中で謎解きの場面で使われていたのが記憶に残っているが、今回のコロナ感染症もそうした少し変わった角度から見たほうが良いのかもしれない。今回の新型コロナ感染症COVID-19 は SARS-CoV-2( 重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2 )によって引き起こされるのだが、当初は2019-nCovという名称 が推奨されていた。ところが、WHO(世界保健機関)はそれを退け、 COVID-19 と決めた。それがどうしたと云われそうだが、 COVIDを反転させるとDIVOC、これをヘブライ語の文字に変換すると「 死者の霊 」、あるいは「 悪霊 」という意味になるそうだ。もともと、ヘブライ語は右から左に読むと聞く。とすればこの命名がユダヤの民俗信仰を意識している可能性は捨てがたい。嫌な名前だな。

 それだけならまだ偶然として扱うことができなくもないのだが、続きがあった。昨年流行ったDELTA株といま流行っているOMICURON株、何でイプシロンに行かないのかと不審に思っていた。ところがである、DELTAとOMICURONを組み合わせてアナグラムを生成させると、MEDIA CONTROL(メディアコントロール)やDEMONICAL ROT (悪霊的な腐敗)、DEMOCRAT LION (民主党のライオン)などが得られるそうだ。なんだか裏のありそうな意味深な命名である。アナグラム自動生成ジェネレーターなどというサイトも存在する。少し遊んでみられたら如何だろう。現在の物語を裏で進めているのはこうした高度な言語遊びを操る人々かもしれない。いやいや、陰謀論です。遊びです。陰謀論的遊びに過ぎません。知識の怖さについては次回にまた書きます。

 

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時代がようやく追いついてきた

 時代がようやく追いついてきたような気がする。私がくだらない御託を並べるより説得力のある動画が公開されていた。もちろんYouTubeではない。陰謀論者と見られている私の解説などどうでも良い。是非見て、考えて欲しい。これは、世に言う陰謀論者への入り口になるでしょう。疑問を持つととても暮らしにくくなります。でも嘘にからめ捕られて生きたくはないと思っています。

https://rumble.com/vsu08h-planet-lockdown-a-documentary-japanese.html

 再生スピードを0.75に落とすと聞きやすいし、日本語へのアクセスも楽になると思います。もう少し英語のヒアリング能力を高めておくべきだったと、すごく反省している。

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