我々の子供時代は、予防注射なんて目茶苦茶な時代であった。注射を打つ医者はお年寄りが多く、注入量を間違うことはよくあった。異なったサイズのガラス製の注射器がトレーの中に並んでいたのだから、仕方ない部分があったと思う。横についていた看護婦さんが、先生そこまでですなどといって制止していたのを記憶している。当時は、注射針も使い回しで針も換えずそのまま使っていた。まあそれで生き延びてきたのだから、幸運の星を背負ってきたと感謝すべきであろう。
良く覚えていないのだが多分高校1年の時だった、ワクチンでひどい目にあったことがある。北九州市になっていたかどうかも不明だが、とにかく北九州にコレラ患者が発生した。市民が感染したのか、外国航路の船員の持ち込みであったのかも覚えていない。とにかく体育館で予防注射という名のワクチンを打たれた。教室に戻ると目の前の景色が回り始め、熱がぐんぐん上がってくるのを感じた。早退すると担任に告げ、帰り始めたのだが、とにかくまっすぐに歩けない。電信柱と壁を伝いながら、玄関に倒れ込んだのを覚えている。熱を計ると40,5℃あった。呼吸が苦しく吐き気があったので仰向きには寝られない、胎児のような格好で2日間寝ていた。途中、近所の医者に往診してもらったのだが、解熱剤をくれただけだった。でも吐き気が強く、熱が引くまで薬は飲めなかった。3日目にようやく起き上がったのだが、憔悴しきっていてやはりまっすぐ歩けなかったような記憶がある。ワクチンの副作用なんて欠片も考える事なく、なんか拾って食ったんだろうで終わった。
それ以降、ワクチン接種は出来るだけ避けながら暮らしてきた。現在でもハウスダストで咳・クシャミ・呼吸困難を起こすし、花粉症も継続している。何度か接種したインフルエンザワクチンも、接種すると一月以上体調の悪化が続くのが常だった。従って、こうした抗原類には可能な限り近寄らない生活を続けてきたわけだ。さらに、聞きなれないアレルギー症状だが、遅発性の圧迫性アレルギーを持っている。重たいものを肩に担うと、数時間経って強い痒みとともに肩の筋肉が腫れてくる。もちろん肩だけではなく、圧迫があれば体のどの部分であっても同じ反応が起こる。小さめの靴下を履いた時など、ふくら脛の堪え難い痒みに悩まされるわけだ。このアレルギーが起こると、その状態が10時間くらい続くため、寝不足になるのが常である。皮膚科の友人から抗ヒスタミン剤を処方してもらってはいるのだが、余り効かない。夏ならば水風呂に入ると幾分楽になるが、冬はそういうわけには行かない。
山に登るのは好きだったのだが、そういう訳で重いリュックを背負うような山行きは出来なかった。他の人と同行した山行きは3回のみ、そのうちの1回は韓国岳の登山口から少し行った所で硫化水素にやられて呼吸困難を起こし、動けなくなってしまった。こんなことは事前に説明しても分かってもらえない。分かってもらえるのは、迷惑をかけてしまった場合である。それはいやであるし、周りの人々も迷惑に思うに違いない。とすれば単独で最小限の荷物を持って、体調に異変があれば直ぐに中止するという選択肢を持った上で、近隣の山に登るしかなかった。まあ、ここでも少数派として行動するしかなかったという事である。
そうした理由もあって、アレルギーやそれに連なる 書籍はかなり読んできた。研究においてもイムノアッセイをやっていたので、それなりの理解はしていた思う。しかしながら、抗原抗体反応の全貌理解しているとはとても言い難い。今でも抗原抗体反応は謎である。ニールス・イェルネのネットワーク仮説など、真剣に読んでいると脳のワーキングメモリーの不足に絶望したくなる程である。もう20年程前になるが、多田富男氏の書かれた「免疫の意味論」を読んだ。当時、私の中でもやもやしていた免疫学だが、この本のおかげでそれなりの整理ができた思っている。発行から時間が経ったため具体的な内容に少し古い記述がある事は仕方ないとしても、もし読まれていないのであれば入門書として読まる事をお勧めする。コロナウイルス感染症についても、その辺りから考え始める必要があると感じている。
ここ数日、桑畑の剪定枝の片づけと富有柿の剪定を続けている。昨日、知り合いの柿農家の人が焚き火にあたりにきた。こんな時が質問するには良い機会である。私が剪定すると木が高くなってしまう。さらに残す成り枝の質が良くない。何が不味いのかを聞いたら、親切に教えてくれた。以前にも同じ事を尋ねた事があったのだが、その時は答えの意味が分からなかった。柿の剪定を初めて6年、今回話を聞くとよくわかる。実際に手を動かした経験は重要だなと改めて実感した。但し、分かったからといってすぐに実行できるものではない。まだまだ手探りの日々が続きそうだ。