演繹の射程

 一つの事象からどのような推論を導くかという問題において、一つの事象と推論を結ぶ糸の長さを射程と表現した。例えばだが、家に帰る途中でカレーの匂いがした。この事象からいくつもの推論を導くことができる。隣の家族はカレーライスが好きだから、隣の今日の夕食はそうに違いない。あるいは、隣の家族はカレーライスが好きではあるが昨日がそうだった。匂いも一寸弱い。カレーライスの夕食はわが家かな。カレーの匂いに詳しい人であれば、カレー粉の銘柄まで分かるかもしれないし、カレーの香り付けに詳しい人であれば、八角(大茴香)ガ使われていたが、成分としてシキミ酸が含まれているため鳥インフルエンザガはやった頃タミフルの原料として品薄になった時期があった、現在はシキミ酸の製造は発酵によって作られるので価格は落ち着いているだろう、などなど、いろいろと推論をするのが人と云う生き物らしい。いやいや下手な比喩である、株価が急に上がったー原因はなんだろうなどとしたほうが分かりやすそうな話が作れそうだ。(もっとも、株など買ったことがないので、私が作ったら話が破綻しそうだ)

 まあいいや、話を続けよう。風が吹くと桶屋が儲かるという諺を、真剣に「成程と受け取る」か、笑って「成程と受け取る」か「馬鹿馬鹿しい」と受け取るか、それは受け取る側の感受性の問題である。とはいえ、見方を変えれば受け取る側の思考の柔軟性を反映しているとも云える。私は馬鹿馬鹿しく思えても、ある事象から推論(結論)までの間にいくつものノード(結節点)がある推論群の方が面白い。ある事象から思い掛けないいくつもの推論を導く人の方が、物知りであり且つ演繹力に富んだ人であると思っているからだ。そうやって導かれる推論の中に正しくない推論が紛れ込むのは避けられない。しかしながら、正しいか正しくないかではなくそうした思考能力を評価しているのである。極めて真っ当な社会においては、そういう人は奇人変人、異端の人として扱われる場合が多いとはいえ、異常な社会情勢下においては役に立つ場合もある。半分自己弁護かな??

 またコロナ関連の話である。以前に一寸書いたが、新型コロナ用ワクチン擬に関する報道からどのような推論が導けるのか、いわゆる真っ当なではなく異常な社会情勢下ににあるという前提から見てみたい。

 などとノンビリ書いていたら、いきなりという訳ではないがロシアがウクライナに侵攻と云うニュースが飛び込んできた。困った。1991年のソビエト崩壊、私は大手新聞を丹念に読み比べる程度のナイーブで善良な市民だったため、その裏で動いていたお金の問題はほとんど知らなかった。その後、佐藤優氏の著作を始めとして十数冊の本を読んで、ある程度の知識は得ていた。大まかな枠組みを見れば、アメリカの諜報機関が常に裏側でしかけ続けてきたと云うのが事実だろう。またいつも少数派になってしまうのだが、プーチンが行動を起こさざるを得ないところまで追い込まれていたと云うのが実感である。私が中学2年であった1962年、共産化していたキューバにソビエトの核ミサイルが配備されるという事態に対し、アメリカが半狂乱になってこれを阻止した。今回はその逆バージョンである。2014年のオレンジ革命は見るからに胡散臭かったし、その後のウクライナの行動は是認できる範囲を超えていると思う。

 困ったことに、上記の判断を口に出すとお前は赤かと云う常套句が飛んでくる。困ったことである。政治であるから、少なくとも現状を可能な限り正確に認識した後で、いくつもの選択肢の中から実現可能な案を選ばなければならない。そのためには、少なくとも30年ほど前のロシアの崩壊まで考慮の範囲に入れるべきであると云っているだけである。国のトップは単に善悪の問題として判断するのではなく、国益(余り好きな言葉ではないが)つまり国民の生活を守るための判断をしなければならない。日本はアメリカの支配の下にいるのだからその自由度が制限されていることは間違いないにしても、そこに抜け穴を作るのが頭の良い官僚の仕事だろう。

 いつものことだが、マスコミはロシアが悪い、ウクライナ市民が可哀そうという感情論で報道を続けている。私もロシアを全面的に良いなどとは思わない。マスコミでは、いくつかの写真の使い回しや昔の写真を今回の紛争のものとして使用するなど、悪質な誘導報道も見られるようだ。さらにウクライナ政府は、引っ込めたとはいえ日本においても義勇兵の募集まで行った。この募集に応じた人がかなりの数に上ったのみならず、その中に元自衛官が多数含まれていたと云う報道を見てとても驚いた。自衛隊の中ではもう少し高いレベルでの政治教育がされていると思っていたからだ。今の自衛隊においては、仮想敵国として中国、ロシア、北朝鮮が考えられていると思う。近隣諸国はいつ敵になるかわからないというのが、国防においては基本的スタンスだと思っているからだ。さらにだが、朝鮮戦争時の韓国の行動や現在の反日的行動を見ると韓国も入っているかもしれないし、半導体の不足問題の元凶である台湾が含まれていてもおかしくはない。本来ならアメリカも入れるべきかもしれない。何しろ国内にすでに基地があるからである。

 それはそうと何故驚いたかと云えば、ウクライナの過去の行動にある。中国にスクラップと云う名目で航空母艦(防衛省はクズネツォフ級空母「遼寧」と呼び、現在正式に就役している)を売ったのはウクライナであった。安倍政権下でJアラートの発令試験により大騒ぎがあったのは記憶に新しいが、北朝鮮のミサイルのエンジンはウクライナ製であるというのが常識である。(ロシア製と云う可能性もなくはないが)とすれば、中国に空母を売り北朝鮮にミサイルのエンジンを売ってきたウクライナを、全マスコミがなんの疑いも持たずに揃って支援するのは何故だろう。誰か明快な理由があるのなら教えて下さい。

 NHKのサイトからの引用だが、「ロシアによるウクライナへの軍事侵攻をめぐって開かれていた国連総会の緊急特別会合で、ロシアを非難し、軍の即時撤退などを求める決議案が賛成多数で採択されました。決議案には欧米や日本など合わせて141か国が賛成し、ウクライナ情勢をめぐるロシアの国際的な孤立がいっそう際立つ形となりました。」と書いてある。我が家にはTVがないためリアルタイムで見た訳ではないが、ここだけを読めば世界中がロシアを批判しているのだなと思うだろう。でも、ロシア制裁に参加した国は32カ国に過ぎない。ロシアを非難し軍の即時撤退を求めた残りの109カ国は制裁には参加しなかった。形だけはアメリカを始めとする西欧諸国に同調したが、本音ではそうでもないのだろう。国際政治とはそういうものである。後ろに中国の影が伺えるとは言え、アメリカがやり続けてきた諸外国への内政干渉に対して、多くの国が距離をとり始めているように感じる。同時にこの紛争(戦争)の中で動いている人達、裏に隠れている人達の多くが、コロナ感染症のみならずそのワクチン擬に大きく関与していることを抜きにして判断するのは難しそうだ。

 昨日、ロシア制裁に参加した国は32カ国と書いたが、ウクライナへの軍事侵攻を受けた経済制裁への報復措置としてロシア政府は7日、米英や欧州連合(EU)など対立を続けてきた国のほか、日本や韓国、台湾など48の国・地域を含む「非友好国」とするリストを発表した。制裁に参加した国と非友好国とが同一であるかどうか分からないが、誤解を招いてはいけないので付記しておくことにする。

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老いたな

 少しばかり体調不良だなとは思いながらも普通通りの仕事を続けているのだが、今日は一寸ばかり違っていた。極めてプライベイトな野暮用で、午後から福岡市まで行ってきた。ついでに乗って行った車を旧家に置き、代わりの車に乗り換えて帰ってきたのだが、昔ずっと乗っていた車であったにも関わらずエアコンのスイッチの入れ方の記憶にない。外気温3℃、寒い中車を止めてあれこれと運転席周りのスイッチを探し、何とか暖房が効くようになった。何でこんな手順を忘れたのだろうと少々戸惑いながら乗っていたのだが、異変はこれで終わらなかった。

 都市高速の太宰府インターで3号線に降り、200号線へと乗り換えた。少し眠くなったいたのでどこかで休もうと思っていた。200号線の筑紫大橋を降りて県道の53号に乗り換え少し走ると左側にセブンイレブンがある。ここで車を止めた。眠気覚ましにと飲み物と菓子を買い、しばらく休んだ。睡魔は去ったので539号へと左折したのである。何度も走ったことのある走りなれた道なので、突き当たりのT字路で右折すれば良いとゆっくり走っていたのだが、いくら走ってもT字路が来ない、あるはずの386号線にでないのである。延々と見知らぬ道が続くだけである。因にこの車、25万キロ以上乗っていてナビのシステムは壊れている。

 おかしいなおかしいなと走っていたのだが、どこをどう走ったか記憶が定かではない。途中、制限速度を守ってノロノロと走るものだからハイビームの車に煽られ気味であったことは微かに覚えている。気がついたら旧386号線を超えて新しい386号線の上にいた。道がわからないので丁寧に乗っていたと思うのだが、何か違反でもしたのではないかとすごく不安である。とにかく30〜40分程の間、記憶が完全に飛んでいる。

 キツネかタヌキに化かされたのでなければ、小さな脳梗塞が起こったのだろう。簡単にいえば脳の老化だ。スバルの1000を皮切りに11台の車を乗り継ぎ、130万キロ以上を走ってきた。道に迷ったことは勿論あった。しかしそれは、知らない道で行けるはずという判断から行ったところが道が消えた場合であり、どこで曲がったのか記憶がなくなったりしたわけではない。今日の場合は、良く知った道でありながら、どの交差点で曲がったのか、何故曲がったのかの記憶が全くない。さらに、その後数十分間の記憶も定かではない。知っているはずの言葉が出てこない、知っているはずの人の名が出てこない、それは時々あった。人の名を忘れるなんて若い頃からあったので、余り気にしていなかったとはいえ、こんな経験をするといろいろと考えなければならなくなりそうだ。

 キツネかタヌキかカワウソかに化かされていたほうが良かったのかもしれないと、考え始めている。でもまあ、きっと誰もが通る道であることは間違いない。今後は暗くなったら車に乗らないようにしよう。

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現況報告

 いつの間にかこのブログを書き始めて8年くらい経つ。その間、何だか分からないコメントが山ほどはいったり、データが消えたりと、散々な目に遭ったこともある。一時はかなりの数のアクセスがあったのだが、いまは記事にタグを付けていないため読者はほとんど増えない状況が続いている。要するに常連の人が主にやって来ているということだ。他の人が書いているブログに、どの程度の人が訪れ、どれくらいの時間内容を読んでいるのかは知らないが、このサイトに関してはログ解析機能を付けているので一応の状況は見ることができる。

 誰がきているなどと云うプライバシーに関することではない。どんな時間に訪れているか、サイトにどれくらいの時間滞在するか、お気に入りボタンを押してくれたかどうかなどが分かるだけである。少し紹介したい。どの月を見ても余り変わりがないので、今月の分を示すことにする。

 見てもらえば分かるように一日十人程度しか来ない弱小ブログであることが分かる。タグを付ければと思わないでもないが、タグ付けで時間をとるより書いたほうが良いと、いまの所考えている。ただ、読まれているページ数は多いのではないだろうか。次は訪問する時間帯について、

 深夜、11時から午前3時台が多い。ここに来る多くの人は夜更かしが好きな人と云うことだろう。健康と寝不足による交通事故に注意しましょう。次はサイトでの滞在時間、

 1時間以上の滞在者が38.1%、30分から1時間の滞在者が11.8%と、これだけでほぼ50%を占める。ということは、訪れた方々は時間をかけて結構まじめに読んでいると考えて良いだろう。

 興味深いのは上のデータ、なんと訪問者の96.9%がお気に入りに追加したことになっている。本当だろうか。もし本当なら、訪問数がいま少し増えても良いのではと感じているのだが、気には入ったがそれほどでもないと云う事かな。

 地道に書き続けていれば、訪問者は少しづつ増えてゆきそうな手応えはある。でも、コロナの話ではなくもう少し生産的なことを書きたいと願っている。

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知識は怖い 2

 ここ2年ほどの新型コロナ感染症騒ぎの経験を通して云えることは、病気の性質、感染対策、治療法、マスコミの報道、社会の動きなど、氾濫する情報の中から正しいフィルターを通して、正しいであろう情報を見つけるリテラシーが求められる時代になったことだろう。しかしながら、正しいフィルターというのが曲者である。多くの場合、我々の持つフィルターは、育てられた親の価値観、学校教育によって刷り込まれたかなり古くかつ少々偏った知識と、その後の人生経験を通して獲得した虚偽と偏見に満ち溢れているからである。従って、我々は各自の持つフィルターの偏りを、絶えず補正し続けなければならない。頭では分かっていても、これはなかなか難しい。自戒しているとは云え、これはある意味で自己否定の連続となるため、精神的に辛い作業を続けることを意味する。この作業をより高い視座を得るための営為として楽しむことができればいいのだが、多くの人は現状に居着いてしまっているようにみえる。

 より難しい問題は、「正しい」という概念に存在する。困ったことに正しさはアプリオリに存在するものではない。通常は、ある時代のある場所のある時点で、ある階級に属している人が決めるものに過ぎない。それはつまり天の理ではなく人の理に則した判断である。さて、天とは何かという難問は横に置くとして、人の理に従って行われる政治を人治政治という。通常は政治を行う人物が恣意的に判断基準を動かすという余り好ましくないニュアンスを含めて使われることが多い。人治政治の対義語は法治政治である。法治政治においては、法を判断基準として物事が決められ、政治家による恣意的な判断の振れがないという意味において、人治政治よりも好ましいとする場合が多い。しかしながら、法そのものが人によって決められたものにすぎず、これが無条件に正しいものであるという思い込みを持ってもいけない。例えば私の判断は、私の乏しい知識と幾分浅はかな智慧に基づいて行われる、ある現場における判断に過ぎない訳だ。その判断において個人的な欲や願望は極力排除しているとは云え、それが正しいかどうかは分からない。事が進んだ後で、虚心坦懐にその正誤を評価するしかないのである。

 この虚心坦懐にというのがまた実に難しい。何について書いているのかと云えばコロナウイルス感染症についてである。コロナウイルス感染症がさほど怖いものではないというのはデータを見れば明らかであり、インフルエンザの方がより怖いかもしれない。しかし、当初コロナが途轍もなく怖いという刷り込みがマスコミによって徹底的に行われたが故に、コロナウイルス感染症自体はさほど怖い病気ではないと云う新たに分かった事実を受け入れきれない人が多数存在する。その多くの人がコロナワクチン接種へと雪崩れ込んで行った、いや行かされたと考えている。現時点で8割程度の人々が接種することを選び、残りの2割程度の人達が接種しない道を選んだ。そして、事の善し悪しは別として、1回目の接種を受けたかどうかが2回目、そして3回目のブースター接種を受けるかどうか判断において大きな精神的影響を与えている。当然である。皆、命をかけた決断であったと思っているからだ。空気に流された人も多かったとはとは思うが、ワクチン接種を待ち望んで受けた人々にとって、今更意見を変えるなど最早できなくなっている。

 第一回、第2回目の接種をしなかった人にとっても、今更受けに行くと云う選択肢はないだろう。打たないと仕事が続けられない、施設に預けた親に会えない、入院した子供に会えない、職域接種の圧力など、泣く泣く接種を選ばざるを得ない人達は別として、ワクチンを打たないと云う選択をしたが故に受け続けた同調圧力を我慢してきた人にとって、ここで意見を変えるなぞ、命をかけたプライドの問題となっているように見える。

 ワクチン依存派に人々には、ワクチンの副作用(接種直後のアレルギーを含む)で悩む人の姿は見えないようだ。こう書くと、そんなことくらい知っているよという答えが返ってくるが、その知識を次の接種時の判断材料として生かしてないという意味において見えないという表現をした。反ワクというカテゴリーの人は、あれは単なる風邪であるというドグマにしがみつき、ワクチンを頭から否定する。一時的とは言え、ワクチンによってコロナウィルスに対する抗体価が上がるなどといってもこれまた通じない。ワクチンは悪であるという強固な偏見が視野を歪めているようだ。先に獲得した強固な知識の怖さを実感している。

 こう書くとお前はどうなんだと問われるに違いない。私は選ワクである。天然痘ワクチンや小児麻痺ワクチンなど、歴史的にみて有効であったと思われるものは現時点では認めている。(もちろん、この判断についての反論があることは知っている。)しかし、近年勧められている子宮頸癌ワクチンには強い違和感を持っている。こう答えると、「いや、新型コロナワクチンに対してはどうなのだ」と聞かれる訳だ。

 困ったことに、私は現在使われている新型コロナワクチンと呼ばれる物の中で、mRNA やDNAを使ったものについてはワクチンであると認めていない。作用メカニズムをみれば、これはワクチンの定義に当てはまらず、むしろ極めて斬新な遺伝子予防(治療)剤に分類するべきだろう。mRNAを使ったこの形の予防法は、20年以上にわたる研究の歴史を持っているが、いくつかの致命的な欠陥があるが故に今まで実用化されることはなかった。ところが、怖い怖いコロナウィルス感染症の流行という恐怖感を煽ることによって、完成品ではない物を緊急承認、治験薬という位置づけのまま全世界で使用させることに成功したのである。だれが? 私は、その致命的な欠陥に対する試験がなされていないだけでなく、このmRNAがコードしているタンパク質がコロナウィルスの毒性の本体であるスパイクタンパク質であることへの疑問から、このワクチンと詐称されている物を接種するのは望ましくないと判断したに過ぎない。

 とはいえ、接種をするべきだという同調圧力はかなり凄かった。接種は待ちましょうよと言うだけで反ワクの陰謀論者と言われ、非国民のように言われ、他人に対する思いやりがないと非難する人もいた。この種の批判はマスコミの受け売りだから科学的に論破されることはなかったとはいえ、気分は少々以上に落ち込んだ。いつも少数派として生きてきた経験がなければ、コロナワクチン非接種鬱になっていたかもしれない。農作業という肉体労働の有り難さを実感した毎日であった。先にも書いたが、いまとなっては、シェディングによって非接種者であっても多かれ少なかれワクチンに含まれるmRNAあるいはスパイクタンパク質の被曝を受けていると考えている。毒性を持つスパイクタンパク質を解毒法を見つけることが、接種者、非接種者共通の課題になっていると考える。さらに云えば、ここにしか分断されてしまった人々が再び会いまみえる着地点はないのではないか。しかしながら、この立ち位置はまず理解してもらえない。残念だが、シェディングと口にしただけで陰謀論者の認定を受けてしまうのが実情である。

 いまでも、かなりな精神的圧力を感じている。昨今ワクチン接種済みであれば、コロナウィルスに感染したとしても仕方ないこととして許される雰囲気があるのだが、未接種で感染したらどんな反応を引き起こすのか。この重圧感は都会とはまた違うレベルにあるようだ。そこで効果がありそうに思われる薬を探すだけでなく、何とかして入手する事までしなければならなくなった。こんなことを云うと、医者でもないのに何を言うのだと批判する人がいるのだが、日本の医者は厚生省や各種学会が決めた診療や治療のガイドラインなどに厳しく縛られており、このガイドラインから外れる事はほぼ許されていない。医療過誤の問題として訴えられる事を避けるためには、そうするしかないと云う事情は理解するが、未知の新規感染症に対しては立ち竦んでしまっているようにも見える。

 そうした中でいくつかの薬については以前紹介した。但し、その選択が正しいかどうかは分からない。私であればこうする、その結果については自ら責任をとる。それだけである。それにしても、子供や妊婦にまでワクチン接種を行おうとするファイザー社、これを容認しようとする現政府に対しては敵意すら感じてしまう。法が子供たちを守らないのであれば、法はいらない。裁判のシステムも不要だ。死刑も廃止、そして仇討ちの権利を認めて欲しい。いい加減にコロナを出汁にした全体主義への傾倒はやめて欲しいものである。

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大雪だ大雪だというけれど

 雪で困っている地方の人を揶揄するつもりは欠片もない。高齢化が進んでいる地方において、雪かきや雪下ろしが重労働というだけでなく危険な作業に変貌している事も理解している。その上での話である。7日にJR北海道が札幌発着便を全面運休した。思い掛けない大雪であったことが原因だとされている。札幌市中央区の積雪量のデータを見てみると、確かに昨年の2倍程度の値を示している。その割にはマスコミが騒がない。台風や豪雨の時は、30年に一度、50年に一度、未曾有のなどという形容詞を付けて騒ぐのに、何で騒がないのかと考えていた。

 24時間の降雪量が60センチで統計開始以来最多と報じているTV局もあるが、札幌の過去30年間の平年値と比べれば3〜4割おおいとはいえ、突出した値ではない。https://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/nml_sfc_3m.php?prec_no=14&block_no=47412&year=&month=01&day=&view=p1 では何が起こっているのかと考えたのだが、思い当たるのは行き過ぎた合理化ではないだろうか。2020年11月におけるJR北海道の無人化駅比率は71.3%で365駅に上る。赤字路線の廃止、乗降客の少ない駅の廃止と無人化を続けてきた結果である。だからといってJR北海道を責めても改善する話ではない。偏に人口密度、つまり利用者数の問題である。無人の368駅であっても1駅あたり3人が勤務していたとすれば1,000人以上の人が減っている事になる。

 何の問題もない温暖な季節であれば人減らしは収支の改善に有効だとは思うが、一旦大雨が降ったり大雪が降ったりした場合、残った人員ではやり繰りができなくなっているのではないか。社会性昆虫であるミツバチやアリにおいて、働きバチや働きアリの2割しか働いていない、残りはサボっていると云われるが、一旦事ある時は残りの8割が働き始めるのである。豪雪に見舞われた時、廃止された駅に勤めていたであろ職員は駅周辺の除雪やポイントの凍結防止、乗降客への連絡など、大事な役目を果たしていたはずである。こうした予備の労働力を削ぎ落とした付けが回ってきているように見える。つまり、この現象は今年だけの問題ではなくこれからも続いて行く、いやもっと酷くなると推測する。同じ現象はJR四国やJR九州でも起こるに違いない。

 人口が減り始めただけでな、大都市への集中が止まらない状況をみると、国鉄への再統合をしない限り地方線の衰退と廃止は止めようがないだろう。ここ2年はコロナのに問題で状況が変わっている云え、JR東海、JR東日本、JR西日本、JR貨物が黒字で、JR四国、JR北海道、JR九州は常に赤字と云う構造を変えないと国の形がおかしくなってしまう。国鉄の分割論議がなされていた頃、私は懐疑派であった。動労と国労による労働争議が度を過ぎていただけでなく、処理できないほどの累積赤字が膨れ上がっていたことには同意するにしても、その問題への対策が国鉄の分割民営化であるとは思えなかった。権力を失いつつあったとはいえ、田中角栄は非分割民営化の道を探っていたと記憶している。1987年に中曽根内閣の下で行われた分社化によって、鉄道線路は繋がったまま分断された訳である。この時10万人近い人が余剰人員として解雇されている。私見だが、新自由主義の目指す所とは異なるが社会インフラの維持と管理については、リダンダンシー(冗長性)の確保が必要だと考えている。さらに、分割民営化の結果として、地方では災害による被害の復旧に必要なほんの数億円お金が捻出できず、赤字路線が次々と廃止され続けている。原油の急騰をみるまでもなく、過度に物流をトラックやバスに依存するのは危険だなと感じる今日この頃である。老人の繰り言だと言われるかもしれないが、コストと収益を無視した結果が現実化しているのだろう。

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