知識は怖い 2

 ここ2年ほどの新型コロナ感染症騒ぎの経験を通して云えることは、病気の性質、感染対策、治療法、マスコミの報道、社会の動きなど、氾濫する情報の中から正しいフィルターを通して、正しいであろう情報を見つけるリテラシーが求められる時代になったことだろう。しかしながら、正しいフィルターというのが曲者である。多くの場合、我々の持つフィルターは、育てられた親の価値観、学校教育によって刷り込まれたかなり古くかつ少々偏った知識と、その後の人生経験を通して獲得した虚偽と偏見に満ち溢れているからである。従って、我々は各自の持つフィルターの偏りを、絶えず補正し続けなければならない。頭では分かっていても、これはなかなか難しい。自戒しているとは云え、これはある意味で自己否定の連続となるため、精神的に辛い作業を続けることを意味する。この作業をより高い視座を得るための営為として楽しむことができればいいのだが、多くの人は現状に居着いてしまっているようにみえる。

 より難しい問題は、「正しい」という概念に存在する。困ったことに正しさはアプリオリに存在するものではない。通常は、ある時代のある場所のある時点で、ある階級に属している人が決めるものに過ぎない。それはつまり天の理ではなく人の理に則した判断である。さて、天とは何かという難問は横に置くとして、人の理に従って行われる政治を人治政治という。通常は政治を行う人物が恣意的に判断基準を動かすという余り好ましくないニュアンスを含めて使われることが多い。人治政治の対義語は法治政治である。法治政治においては、法を判断基準として物事が決められ、政治家による恣意的な判断の振れがないという意味において、人治政治よりも好ましいとする場合が多い。しかしながら、法そのものが人によって決められたものにすぎず、これが無条件に正しいものであるという思い込みを持ってもいけない。例えば私の判断は、私の乏しい知識と幾分浅はかな智慧に基づいて行われる、ある現場における判断に過ぎない訳だ。その判断において個人的な欲や願望は極力排除しているとは云え、それが正しいかどうかは分からない。事が進んだ後で、虚心坦懐にその正誤を評価するしかないのである。

 この虚心坦懐にというのがまた実に難しい。何について書いているのかと云えばコロナウイルス感染症についてである。コロナウイルス感染症がさほど怖いものではないというのはデータを見れば明らかであり、インフルエンザの方がより怖いかもしれない。しかし、当初コロナが途轍もなく怖いという刷り込みがマスコミによって徹底的に行われたが故に、コロナウイルス感染症自体はさほど怖い病気ではないと云う新たに分かった事実を受け入れきれない人が多数存在する。その多くの人がコロナワクチン接種へと雪崩れ込んで行った、いや行かされたと考えている。現時点で8割程度の人々が接種することを選び、残りの2割程度の人達が接種しない道を選んだ。そして、事の善し悪しは別として、1回目の接種を受けたかどうかが2回目、そして3回目のブースター接種を受けるかどうか判断において大きな精神的影響を与えている。当然である。皆、命をかけた決断であったと思っているからだ。空気に流された人も多かったとはとは思うが、ワクチン接種を待ち望んで受けた人々にとって、今更意見を変えるなど最早できなくなっている。

 第一回、第2回目の接種をしなかった人にとっても、今更受けに行くと云う選択肢はないだろう。打たないと仕事が続けられない、施設に預けた親に会えない、入院した子供に会えない、職域接種の圧力など、泣く泣く接種を選ばざるを得ない人達は別として、ワクチンを打たないと云う選択をしたが故に受け続けた同調圧力を我慢してきた人にとって、ここで意見を変えるなぞ、命をかけたプライドの問題となっているように見える。

 ワクチン依存派に人々には、ワクチンの副作用(接種直後のアレルギーを含む)で悩む人の姿は見えないようだ。こう書くと、そんなことくらい知っているよという答えが返ってくるが、その知識を次の接種時の判断材料として生かしてないという意味において見えないという表現をした。反ワクというカテゴリーの人は、あれは単なる風邪であるというドグマにしがみつき、ワクチンを頭から否定する。一時的とは言え、ワクチンによってコロナウィルスに対する抗体価が上がるなどといってもこれまた通じない。ワクチンは悪であるという強固な偏見が視野を歪めているようだ。先に獲得した強固な知識の怖さを実感している。

 こう書くとお前はどうなんだと問われるに違いない。私は選ワクである。天然痘ワクチンや小児麻痺ワクチンなど、歴史的にみて有効であったと思われるものは現時点では認めている。(もちろん、この判断についての反論があることは知っている。)しかし、近年勧められている子宮頸癌ワクチンには強い違和感を持っている。こう答えると、「いや、新型コロナワクチンに対してはどうなのだ」と聞かれる訳だ。

 困ったことに、私は現在使われている新型コロナワクチンと呼ばれる物の中で、mRNA やDNAを使ったものについてはワクチンであると認めていない。作用メカニズムをみれば、これはワクチンの定義に当てはまらず、むしろ極めて斬新な遺伝子予防(治療)剤に分類するべきだろう。mRNAを使ったこの形の予防法は、20年以上にわたる研究の歴史を持っているが、いくつかの致命的な欠陥があるが故に今まで実用化されることはなかった。ところが、怖い怖いコロナウィルス感染症の流行という恐怖感を煽ることによって、完成品ではない物を緊急承認、治験薬という位置づけのまま全世界で使用させることに成功したのである。だれが? 私は、その致命的な欠陥に対する試験がなされていないだけでなく、このmRNAがコードしているタンパク質がコロナウィルスの毒性の本体であるスパイクタンパク質であることへの疑問から、このワクチンと詐称されている物を接種するのは望ましくないと判断したに過ぎない。

 とはいえ、接種をするべきだという同調圧力はかなり凄かった。接種は待ちましょうよと言うだけで反ワクの陰謀論者と言われ、非国民のように言われ、他人に対する思いやりがないと非難する人もいた。この種の批判はマスコミの受け売りだから科学的に論破されることはなかったとはいえ、気分は少々以上に落ち込んだ。いつも少数派として生きてきた経験がなければ、コロナワクチン非接種鬱になっていたかもしれない。農作業という肉体労働の有り難さを実感した毎日であった。先にも書いたが、いまとなっては、シェディングによって非接種者であっても多かれ少なかれワクチンに含まれるmRNAあるいはスパイクタンパク質の被曝を受けていると考えている。毒性を持つスパイクタンパク質を解毒法を見つけることが、接種者、非接種者共通の課題になっていると考える。さらに云えば、ここにしか分断されてしまった人々が再び会いまみえる着地点はないのではないか。しかしながら、この立ち位置はまず理解してもらえない。残念だが、シェディングと口にしただけで陰謀論者の認定を受けてしまうのが実情である。

 いまでも、かなりな精神的圧力を感じている。昨今ワクチン接種済みであれば、コロナウィルスに感染したとしても仕方ないこととして許される雰囲気があるのだが、未接種で感染したらどんな反応を引き起こすのか。この重圧感は都会とはまた違うレベルにあるようだ。そこで効果がありそうに思われる薬を探すだけでなく、何とかして入手する事までしなければならなくなった。こんなことを云うと、医者でもないのに何を言うのだと批判する人がいるのだが、日本の医者は厚生省や各種学会が決めた診療や治療のガイドラインなどに厳しく縛られており、このガイドラインから外れる事はほぼ許されていない。医療過誤の問題として訴えられる事を避けるためには、そうするしかないと云う事情は理解するが、未知の新規感染症に対しては立ち竦んでしまっているようにも見える。

 そうした中でいくつかの薬については以前紹介した。但し、その選択が正しいかどうかは分からない。私であればこうする、その結果については自ら責任をとる。それだけである。それにしても、子供や妊婦にまでワクチン接種を行おうとするファイザー社、これを容認しようとする現政府に対しては敵意すら感じてしまう。法が子供たちを守らないのであれば、法はいらない。裁判のシステムも不要だ。死刑も廃止、そして仇討ちの権利を認めて欲しい。いい加減にコロナを出汁にした全体主義への傾倒はやめて欲しいものである。

カテゴリー: 新型コロナ感染症, 未分類 パーマリンク