最後の一葉

 最後の一葉(The Last Leaf) はオー・ヘンリーの短編小説である。詳しいストーリーは忘れているが、今でも小学生の教科書に採用されているみたいなので、誰もが知っている物語のようだ。笑い話なのだが、「最後の一葉」は日本語入力システム「かわせみ2」による誤変換で、筆者が予期していなかった変換の結果である。

 断捨離は余り好きじゃないと書いた記憶があるが、要らないものは捨てるという考えを押し通した場合、人の歯にある犬歯をどう考えるのだろう。それも乳児時代に生えている犬歯に存在意義はあるか。気違いじみた極論で本当にそんなことを考えているわけではない。温和で保守的な人間です。犬歯は獲物を捕らえ、切り裂くための歯である。裁縫の際に糸を引っ掛けて切ることができることから、糸切り歯ともいう。生え始めが周囲の歯よりも遅いため、生えるためのスペースが残っていないことがあり、この場合、隣の前歯を後に押し込み前側に生えてくることが多い。これを一般に八重歯という。

 八重歯は時にはチャームポイントになるかもしれないし、糸切りにでも役立っているから捨てなくてもいいかなどど、つらつらと考えていた。友人の歯科医師に聞いたことがある。何か役に立っているかと?答えは、犬歯は他の歯に比べ根が非常に深く頑丈な歯で、老人でも最後まで残っていることが多い。強度があるため、噛み合わせたときに前歯や奥歯に負荷がかかりすぎるのを防ぐ役割をはたすと、判ったような判らないような答えをもらった。

 詰まらないことを書いていると自覚しているのだが、今朝上顎左側の犬歯が抜け落ちた。可愛くて小さな犬歯である。「最後の一歯」と書きたかったのに、漢字かな変換システムが「最後の一葉」と変換した。世間的にはこっちのほうが通りが良さそうだが、本人にとっては「最後の一歯」である。勘違いをされたら幾分悲しいのだが、これで全ての歯が抜け落ち、これから総入れ歯の新たなる日々が始まるということではない。この犬歯は乳歯なのである。上顎の乳犬歯の生え変わりは11歳前後だという。とすれば、この乳犬歯は還暦を過ぎていたことになる。

 けつの青い若造がという表現があるが、まだ乳歯の残っていた私の青臭い精神はこの乳歯が担ってきたのかもしれない。では、本来生えるべき永久歯の犬歯はどうなったかというと、乳犬歯の上に横向きになって存在している。いまから10年ほど前に件の歯科医師に、この乳犬歯が抜けたら上の永久歯が生えてきますかと聞いたら、多分そのままでしょうという答えであった。未使用の永久歯は不要物か、いやいやこれも私の一部であり半世紀以上の年月をともにしてきた大事なものである。乳犬歯のあった部分は空隙になり、ここに生えるはずの犬歯は2階で寝ている状態だ。遂に歯が抜け始めたかと云われたら、いまから永久歯が生える隙間だと答えておこう。歯!葉!歯!。

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麦、作ったら

 世の中が本当に騒がしい。食糧危機が来そうだという話も、かなりな真実性を帯びてきたような気がしている。少し前に、古い友人と話していたら、「お前の田んぼ、冬は何も作っていないだろう。麦でも作ったら」という提案をされた。麦の話は全くしないもので、冬場は農地を遊ばせていると思っていたらしい。実は作っているのです。但し、他の人がです。

 2反半くらいの田んぼを2ヶ所持っているのだが、一方は湿田で麦作には適さないため、確かに冬場は放置している。ここでは冬野菜を作ってみたことがあるが、畝立てをすると次の年の代掻き時に凸凹が残り、凸地に雑草が生えてきて収拾がつかなくなった。トラクターに、代掻き用のハローと呼ばれるアタッチメントをつけて丁寧にやれば良いのだが、これが結構高価である。購入したとしても元は取れない可能性が高い。では普通のトラクターで丁寧に耕せばよいではないかと思われるかもしれないが、下手な奴が尾輪もついていないトラクターで何度も耕すと凸凹はもっと酷くなる。そういうわけで道路沿いにこっそりエンドウを何株か育てている程度である。

 もう一方は人に貸している。無料でである。なぜなら、麦を育てても経済的にはまずペイしない。借地料なしで補助金を入れて何とか成立する程度だろう。一言で麦を作るといっても麦用のアタッチメントや農機具が必要となる。自力でやるとなれば大変です。営農組合に全面委託ということにすれば簡単だが、自分でやっているという実感を感じることができない。裏作に麦という常識から離れればいいのだが、農業というのは周りの人を見ながらやらざるを得ないところも沢山あります。

 例えば、当地の麦の収穫は6月の初旬である。収穫した後、麦わらの処理をして耕耘するわけだが、耕耘の終わるのが大体6月の15日くらいになるのかな。次に稲作と考えれば、6月の15日頃に荒起こしが終わったと考えて良い。手抜きといえば手抜きだが、この段階で一発肥えと呼ばれる肥料をまき、そこから、もう一度耕耘してワラと肥料をすき込む作業となる。これをやらないとワラ屑が浮いてきて、植えたイネの苗を押し倒してしまうことがある。田植え機で苗を植え切れない場合もある。その後、20日頃に水路に水が流れ始めるので、そこから水を入れて荒代掻き、本代掻きを行ってようやく田植えとなるわけだ。そして一週間ほどで、全ての田んぼの田植えは終わる。

 裏作をしない山手の田んぼでは連休辺りに田植えは終わっているが、ここでは2ヶ月近く遅れることになる。イネの生育の期間を考えればもう少し早めたいのだが、前作の縛り故に前倒しはできない。従って、この時期の田んぼには、たくさんのトラクターと田植え機が一斉に動き回る羽目になる。トラクターや田植え機は買わずにレンタルにしたらという論理が成立しないのである。トラクターは年に数回、田植え機に至っては年に1〜2回しか使わなくても持たざるを得ない世界である。その上に、これら農業機械は思った以上に泣きたいほど高い。農業という生業における難しさがここにある。コンバインも畔塗り機も麦踏み機も同じように年に数日しか使わない。この手の機械がプリウス並に売れるのであれば価格はもっと下がるとは思うが、そういうことにはならない。さらにだが、次に使うシーズンまで保管する農機具小屋が必要となる。本と本棚を買う金はなんとかあるが、図書室を作る土地と金はないという悩みと似ている。

 まあそういう事情もありまして、遅れ気味の田植えが昨日(26日)に終わりました。田んぼの表面の均平化が不十分なため、短めの苗は所々で溺れている。この苗に呼吸をさせようと水を落とすと、反対側の苗には水が行かない。結局、毎日水を入れたり落としたりの毎日が続く。水を入れ過ぎると苗が溺れるだけでなく、ジャンボタニシの食害が酷くなる。落とし過ぎると、雑草の芽生えが促進されるような気がする。下手な稲作の典型です。先日、残念なことに私の百姓生活の師匠が亡くなったのだが、彼がこの様を見れば馬鹿たれというに違いない。そう怒ってくれる人を亡くすのは寂しいものである。

 それはそうと、イネの苗を植える行為をどうして田植えというのだろう。

 

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ベルベリン

 忙しい。代掻きと田植えが目前に迫っているのだが、腰痛のためなかなか動けない。腰痛恐るべし。でも、腰痛のおかげで整体と整骨の違いがわかった。幾つになっても知らないことばかりである。庭に植えているスイートスプリングとスイートレモネード、実がつき過ぎているのだが、摘果する暇がない。仕方なく、柑橘つまりミカン科植物の持つアルカロイドを見ていたらベルベリンに出会った。

ベルベリン

 ベルベリンとは、ミカン科のキハダやキンポウゲ科のオウレンなどの植物が作るアルカロイドである。キハダは漢字で書くと黄檗、黄膚、黄柏などと表記されるが、内皮が鮮やかな黄色を示すためであり、オウレンは地下茎が鮮やかな黄色を示すため黄連と表記される。私みたいな隠れ虫オタクにとっては、キハダはカラスアゲハ、ミヤマカラスアゲハの食草としてよく知られているのだが、常識的な世間ではキハダに含まれるベルベリンというアルカロイドが、抗菌性・抗炎症・中枢神経抑制性・血圧降下作用があるため、整腸剤や止瀉薬(下痢止め)として処方されるだけでなく、目薬の成分としても使われている事が有名だ。私は生薬屋さんではないので薬の名前は知らないが、調べてみると三黄瀉心湯、黄連解毒湯、黄連湯、温清飲として流通しているそうである。

日野製薬株式会社さんのホームページから借用しました。

 この写真の黄色い色の原因は、含まれているベルベリンである。そう書くと、多くの方はキハダ(黄檗)の成分であるベルベリンは生薬だとして素直に納得される。だがである。キハダを黄檗とも書く。黄膚、黄柏と書くことはすぐに了解できるのだが、何故黄檗と書くのか。檗について漢和辞典を引くと、きはだ/きわだ/ミカン科の落葉高木という意味を持つ漢字である。そこで納得しても良いのだが、ひょっとしたら黄檗宗と関係があるのかななどと考えた。キハダの黄色い内皮を乾かしたものをオウバク(黄檗、黄柏)というのだが、オウバクを水で煮出し煮詰めた板状の乾燥エキスから作られた単味(1種類の成分のみからできている薬を意味する)の生薬製剤を「百草」と呼そうだ。

 この「百草」を民に教えたのが普寛上人という人なのだが、この方が山岳仏教の信者であった。この時代、中国の唐代の禅僧である黄檗希運が起こした黄檗宗が日本でも隆盛であったことを考え合わせて妄想したのだが、本当のところは分からない。因みに、黄檗希運は臨済宗開祖の臨済の師である。

 そこで「百草」、舐めたことも飲んだこともないがとても苦いらしい。長いお経である「陀羅尼」を唱える時に、黄柏を含む「陀羅尼助丸」という丸薬を口にくわえて眠気を覚ましたとも伝えられている。でもそれでは覚醒剤になってしまうではないかな。苦さで眠気が飛ぶのだから、目覚まし用の千振みたいなものだろう。ここまでは黄蘗の成分であるベルベリンは薬であるという理解は動かない。

 しかし、キハダの利用法はそれだけではない。黄蘗色という名を持つ和色があるのだが、レモンイエローにほんの少し緑が含まれた奇麗な色である。つまり、キハダは天然の染料としても使われる。キハダだけで染めた黄色い布もあるが、以前に書いた藍の成分インジゴと合わせて染めてやると、天然色素として希少な緑色を出すことができる。また単に絹や綿や羊毛などの布を染めるだけでなく、紙をこれで染めておくと紙魚の害から守るともいわれており、正倉院に残されている公用文書にはキハダで染めた紙が使われているものもある。江戸時代に商家で使われていた大福帳の紙もキハダ染めであったという。とすればキハダの含むベルベリンは天然の染料として考えて良い。それも虫除けの作用を持つ黄色の染料である。そうか、ベルベリンは整腸剤や止瀉薬であるとともに、天然の染料か、少し理解が広がった。

黄蘗染め:https://www.flickr.com/photos/fluor_doublet/25109629937/in/dateposted/

黄蘗と藍の生葉染め:https://www.iichi.com/listing/item/1506779

黄蘗紙:https://taiyoudo1.jimdo.com/2015/07/29/オウバクで染めた紙/

 ベルベリンには上に書いた作用だけではなく、糖尿病に効く、ガンにも効くかも知れない、コレステロール値を下げる等々、種々の薬理作用があるとして、サプリメントまで販売されているのだが、困った話もある。ベルベリンの有効な作用を示すための投与量が半数致死量の3分の1程度になるという。通常、人が摂取する薬品に対しては、100倍程度の厳しい安全係数が適用されていることを考慮すれば、一般用医薬品の第2類医薬品もしくは第3類医薬品に分類され分類されてはいるものの、服用に当たっては少し注意したほうがいいだろう。とはいえ、よく効くと云う話を聞いたことはある。

 少しいやな報告もある。ベルベリンにかなり強い発がん性があるだけでなく、哺乳動物の受精卵の成長を抑制・阻害するという。(https://www.japic.or.jp/service/whats_new/japicnews/pdf/JAPICNEWS16-02.pdf)   もちろん、この結果に対する反論も出されている。それのみでなく、他の生薬系の和漢薬にあっても、その成分にそうした性質を持つものはいくらでも存在する。こうなると一般の人は何を信じて良いのか分からなくなるだろう。私だって分からない。ベルベリンは薬であるか毒であるのか色素であるのか、ハッキリして欲しいと思うに違いない。

 しかしである、多分どれもが正しいし間違っているというのが結論になるだろう。要するにベルベリンと呼ばれるイソキノリン系アルカロイドは、キハダやオウレンなどの植物が期せずして創った中間代謝物である。たまたま人という生き物が、ベルベリンの種々の機能を見つけたにすぎない。種々の機能が人にとって合目的的になっているとかいないとか騒ぐ方が間違っているのである。何が言いたいのか?天然に存在する物質を、その機能を基礎にして分類・理解しようとする考え方が間違っていると言いたいのでである。人が作ったものであれば機能を基礎にした説明が可能かもしれないが、自然はそのような理解を超えた世界を形作っている。つまり、前回述べたカロテノイド、フラボノイド、そしてベタレイン系色素などの植物の花の色素同じように、それら成分の存在意義をそれらが持つ機能という枠組みから自由にしてやらないと、その真の姿は見えないということだ。

 このベルベリン、実はチロシンから誘導されるレチクリンを通って作られるアルカロイドなのだが、レチクリンは先に書いたコデインやモルフィンの生合成の中間体である。ということは、チロシンから導かれた3,4−ジヒドロキシフェネチルアミンと3,4−ジヒドロキシフェニルピルビン酸がシッフの塩基を形成して、窒素サルベージ系のバイパスへと流れ込んで行った結果作られた化合物であると考えて良い。キハダは窒素を捨てたくなかったのだが、一寸だけ窒素サルベージ系路から抜け落ちたのだろう。一寸道を踏み外した化合物群、暖かく見守ろうではないか。

 腰の痛みの徒然に、何か良い漢方薬でもないかなと彷徨っていたら、偶々ベルベリンに出会っただけのことである。夕べの雨、代掻きの済んでいた田んぼは水が多過ぎて田植えができず、もう一方の田んぼは給水が足りず代掻きができなかった。自然界は、なかなか思った通りには動いてくれない。とはいえ周囲の田んぼの田植えはもう終わっている。雨の降り方に対する感受性と水の扱いにおいて、私が劣っていると云うことだろう。まあ、腰にベルトを巻いて前かがみで行う農作業、少々遅れるのは仕方ないと悟っている。

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ピキッ・その後

 ギックリ腰と思われる腰痛をやって、すでに2週間が経つ。その間、大人しくしていたら良かったのだが、一寸よくなると堪え性なく動いてしまって後戻りばかりしている。この地方は裏作に麦を作っているため、田植えは6月の20日頃が最盛期だ。私の田にも麦が植わっていたため、ちょうど今頃が田植えの準備になるのである。荒起こしをして、肥料をまいて、もう一度耕耘して、その後代掻きと云うのが師匠に教わった順なのだが、近頃少々手抜きをしている。忙しくて手が回らないのが原因だ。この忙しい時期に、2週間近くも動けなかった。私の片方の田んぼは湿田である。雨が降ると泥濘になるため肥料まきがとてもやり難い。でも、もう梅雨入りしてしまった。腰が痛いのに泥濘の中を歩くのはまず不可能、トラクターのバケットに人を乗せて撒くことにするか。またもや、皆さんの笑いがとれそうだ。

 しばらく安静にしておくようにと云われるし、治療法にもそう書いてあるのだが、世の中はなかなかそうする時間をくれない。この間、お客さんが5組ほどあったし水路の草刈りもあった、区の会計であるから痛みをおして銀行にも行った。今日も民生委員の集まりがあったし、隣組長でもあるので市からの配布物を配った。明日は辛うじて一日自由だが、明後日は小学校で地区懇談会へ出席予定、さらにもう一つ水路の草刈りが待っている。腰保護用のベルトを付けて、少し体を傾けて、よろよろと歩いている。近所の老中さん達が、病気をしてなかなか元に戻らないと愚痴られる時に、私もだけど70歳を超えれば病気前の8割戻ればいいと考えましょう。そしてできることを続けましょうよと、励ましたのか諦めさせたのかわからない会話をしていたのだが、腰保護用のベルトを付けてよろよろと歩いている私を見ると、皆病気前の8割戻ればいいよと慰めてくれる。まだ、3割くらいしか戻ってないと思いながらも、そうだよねと明るく答えている。でも内心では焦りまくっている。

 前にも書いたが、車を買った。人生最後の車だと思う。従って、自分で納得できる車にした。前の車は通勤距離が長かったので、燃費だけに絞って選択を行いプリウスを選んだ。26万キロ近く走って、最後の頃でも20Km/Lをきることはなかったので満足である。時々、全システムダウンというようなアラームが出るようになっていたため、更新したわけである。ではどんな車を選んだか?MAZDA2、ディーゼル、6MT車である。マニアックですなと周りの人が笑ってくれる。否定はしない。クラッチを切っておかないとエンジンがかからないので、コンビニに車で乗り入れる可能性はない。後部視界は余り良くない。燃費はまだ1回しか給油していないのでよくわからないが、間違いなく20Km/L以上ありそうだ。ディーゼルエンジンとはいえ圧縮比が14.5と低いので騒音は小さい。低回転域でのトルクも小さくガソリンエンジンのような乗り味である。そのかわり、エンジンの吹き上がりはディーゼルとは思えないほどスムースである。通常ディーゼルエンジン車は低速トルクが大きいため2速発進で違和感はなかったのだが、この車は1速から発進しないとエンストしかねないようだ。ということで納車はされたのだが、腰の痛みで殆ど乗っていない。一つ気になる点は、クラッチの位置、当然左足で踏むのだが、フットレストの張り出しに足が引っかかってしまう。まあ慣れの問題かもしれないが、とっさの場合が心配だ。

 午前一時少し前なんだが、今日も米株が落ちていますね。760ドルの下げみたいです。昨日少し持ち直したかに見えた日本株も、先物が800円程下がっています。ビットコインも少し前までは700万円を超えて800万円に手が届きそうだったのに、今は280万くらいです。円相場の変動も荒々しい気がします。大恐慌が来そうで一寸以上に不安ですね。岸田さんは投資をしましょうなどと能天気に云っていますが、とてもとても怖くて手は出せません。今まで株の取引などやった経験がないのに、この状況で参加しろなんて無謀です。岸田さんは株は持っていないと聞いているが、少なくとも政治家、それも政府の中枢にいれば色んな情報は入るでしょう。そうした人々と我々では、情報量に差があり過ぎて、首相が奨めたからと云って買いに走るのは自殺行為だと思っています。つぎ込んだ年金資金、大丈夫でしょうか?私は地道に、米と芋とダイコンとナスと大豆を作って暮らします。

 

 

 

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全部妄想です(追記あり)

 信じてもらっては困る。もし万一読まれたあとで、そうだそうだと同意された後、それが原因で被害を被ったとしても、当方では全く責任はもてない。唯々、白昼夢のように脳内に浮かぶ泡沫のような妄想を書いているだけである。

 筆者は、生まれて40年あまり浄土真宗の門徒であった。この間の宗旨は生まれた時から決まっていたのだから仕方ない。私に選ぶ権限などある訳がないし、成人してからもそれでいいやと思っていた。三十歳を過ぎた頃、親父が祖父の出身地である秋田の親戚に問い合わせたところ、本家の宗旨は浄土宗であった事が明らかになった。聞くところによれば、本家は昔秋田市で造り酒屋をやっていたという。ところが明治の半ば頃に火事を出し没落してしまったため、一族は東北各県や北海道に離散したというのだが、祖父は寒いのがいやだと云う理由で九州まで流れてきたと聞いている。私の祖父は、火事を起こした際に、没落した一家を冷たく見捨てた浄土宗の寺にかなりな反感を持っていたらしい。寒がりの祖父は、九州まで流れて祖母と結婚した後、浄土真宗の門徒となったわけである。親父はそのまま浄土真宗の門徒として暮らしてきたのだが、70歳近くになって宗旨の違いがわかり、すったもんだの末に浄土宗へと宗旨を変えたのである。

 それでどうなったかという事だが、福岡市のある程度名の通った浄土宗の寺の門徒として入れてもらったのだが、後がいけない。70歳を過ぎた人間の願いというか気持ちに全く寄り添ってくれない住職だった。詳しい話をすると営業妨害になるのでここでは書かないが、親父の葬儀、母親の葬儀に際しての対応に、呆れ果ててしまった。その後、ついに絶縁宣言をして門徒を外れ、付き合いのあった真言宗の寺に拾ってもらった。ご住職は無理をして宗旨を変えるなどしなくていいですよと気づかってくれたのだが、私としては元に戻る気は全くなく、空海上人に今後を託す事になってしまった。

 悪くない選択だったと感じている。浄土宗は、法然上人さんが余りにも頭脳明晰過ぎて一寸ばかり近づき難い気がしていた。浄土真宗は、親鸞上人の一途な信仰心がよくわかるとは言え、時として重荷に感じられた、臨済宗は、臨済禅師の融通無碍な自由さに倣うと私は法を超えてしまいそう、曹洞宗、若い頃読んだ道元禅師の著書「正法眼蔵」が余りにも難しく近寄り難い印象だった、などなど、これらの判断が凡人の浅智慧に基づく判断である蓋然性は否定できないとはいえ、どの宗派も近づき難さを感じる存在だった。その点、天才的孤高の求道者でありながらも融通無碍な現実主義者である空海さんであれば、私の我が侭を笑って認めながらも知らぬ間に斧正(誤用かもしれないが、斧で切り込んで厳しく修正するという暗喩として使用)してくれそうな気がしたのである。

 話は飛びまくるが、父は税務署員だった。2年に一回の転勤が常であった。今では公務員住宅が整備されているため当時の状況を知る人は少なくなっているが、当時は自分で貸し家を探さなければならなかった。問題は、税務職員の転勤は現在でも6月1日付けで行われることにある。確定申告が3月15日であるため、4月1日には実施できないということらしい。このことが私の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。転校は必然的に9月1日からとなるため、クラスへの溶け込みは難しかった。でもそれは小さな問題である。大きな問題は貸し家である。良さそうな貸し家は3月の段階で埋まってしまうため、6月に残っている貸し家には曰く付きのものが少なくなかったのである。大家の娘が首つりをした木が庭にある家、胃ガンの夫を見捨てて他の人と奥さんが逃げた後、その男性が狂い死にをしたという家、3畳一間で台所は共用の家、大家の事故死した長男が暮らしていた部屋のある家、などなどに、仕方なく住んだことがある。そして現か夢か区別のつかない様々な体験をした。

 様々な体験が真実かどうかは他人どころか本人にもわからない。ただ、体験した人にとっては、それが本人の妄想が為せるものであったとしても、その体験は事実である。どこかで唯物論を信じきれなかった原因がここにあったのかもしれないだけでなく、私の社会認識のあり方に影響を与えていることは否定できない。実はそんなことはどうでも良い、人というものはそうした経験をするものだという立場に立った時、その原因はなんだろうと考え続けてきた。得られた結論は「呪」という概念である。「呪」と「咒」は異体字で、多くの方が呪う・呪詛するなど悪い意味で使われる言葉として認識しているが、本来は、まじない、まじなう、病気や邪気を払うために神仏に祈る行為、または、その言葉という概念を含んでいる。そうでなければ、般若心経の最後のマントラの直前に、以下のような句が存在するはずがない。

故知般若波羅蜜多 是大神 是大明 是無上 是無等等 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多 即説曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

 つまり、善悪は問わず相手に影響を与える「言葉」と理解して良さそうである。「言霊」という概念と通じるところもありそうだ。ある人が言った「ある言葉」が、他の人の中に受け入れられ、沈潜し、時には醗酵、時には腐敗して、いつの間にかその人の行動や精神状況に影響を与える現象と考えていいだろう。ある人が投げつける言葉は、免疫反応における抗原とよく似ているなと考えて続けてきたのである。

 そこでアメリカ、どの国も建国の歴史においては様々な嘘(願望や虚構という意味であり嘘であること自体を批判しているのではない)を書き連ねているのだが、アメリカという国の歴史は200年程度と短いが故に、その嘘が歴史の中に埋もれきっていない。まだ傷口から血が流れ続けている。

 1492年にアメリカ大陸を発見したのはコロンブスでありアメリカという名称の起源はアメリゴ・ベスプッチということになっているのだが、それは間違いである。紀元前1万2000年頃、現在のベーリング海峡がまだ陸続き(ベーリンジア)であった頃にアジア大陸からモンゴロイドが北米大陸へ移動している。パレオ・インディアンと呼ばれる原インディア達はそこを通って南下し紀元前1万年頃には南米の南端にまで到達していたことが知られている。とすれば、新大陸発見は西洋世界にとってのものに過ぎず、れっきとした先住民の存在を無視した記述であることを再確認しておく必要がある。

 その後、1620年にメイフラワー号で入植したピルグリムファーザーズに続いて、多数のヨーロッパ人が移住を始めた。入植した白人が行った先住民に対する迫害の歴史はまだ生々しい記憶として残っている。当時、一千万人を超す人口があった先住民は、居留地へと押し込められ五十万人近くまで減少した。(もっと少ないと云う統計結果もある)さらに、辛うじて生き延びた人々は、インディアンとしての生き方を否定され、アイデンティティを奪われて行ったのである。インディアンが合衆国市民として認められたのは、1924年のことだった。 この辺りの歴史については多くの書籍が刊行されているので、少し読まれてみたらどうだろう。

 合衆国の発展と繁栄は、インディアンの屍の上に築かれたものだったといえるだろう。彼らの持つ恨み、怨念は我々が推測できるようなレベルのものではないだろう。こう書くと黒人であっても奴隷として辛酸を舐めてきたことと比較されるかもしれない。しかし、インディアンの場合は恨みの深さが違うような気がしている。黒人の場合は彼らを駆り集めヨーロッパの奴隷商人に売ったのは、コンゴ王国、ンドンゴ王国などのアフリカの王族であり、彼らは商品である奴隷移民?としてアメリカという異国に移動させられたのである。彼らのアメリカに対する恨みは、アメリカで受けた過酷な差別に対するものだけである。これを「だけである」と表現するのは気の毒であることはわかっている。しかし、インディアンの場合はもっと悲惨である。彼らは彼らが以前から住んでいた土地を奪われ、病気を持ち込まれ、反抗すれば殺され、居留地に押し込まれ、民族のアイデンティティを奪われ、さらに厳しい差別を受けたのである。(現在、インディアンという表現が好ましくないことはわかっているが、差別的意味合いは全く含ませていない。アメリカ先住民などと云う毒気を抜いた表現では、彼らの受けた辛苦に似合わないと思う。またヒスパニック系の人々も、色々と苦労はしているのだがここでは触れない)

 こうして成立したアメリカ合衆国は、第一次世界大戦で勝利し、第二次世界大戦でも勝利、さらに、ソビエト連邦との冷戦を制して世界一の強国としての位置についたのだが、その内部にはいくつもの病巣が巣くっていたように感じている。カート・アンダーセンが「狂気と幻想のアメリカ500年史 上・下」という本を出している。この本は現代のアメリカを考える上で役に立つだろう。私の感覚では、アメリカの滅びの予兆は1960年頃にはすでに見えていたように思う。(カート・アンダーセンの「狂気と幻想のアメリカ500年史 上・下」という書籍、狂気と幻想を否定して理性的に考えろと云う内容のようだが、私が彼の意見に全て合意しているわけではない。アメリカと云う国がそうした惑乱の中にいることの紹介として推薦したに過ぎない。本の中で紹介してある個々の事件に対して、私は彼から批判される側にいる場合が多いことを付記しておく。)

 さて、アメリカにおける公民権運動、これについて正しく包括的に述べるには知識がついてゆかない。一寸ではなく、かなりな分量になるが、日本大百科全書(ニッポニカ)から引用することにする。

公民権運動
こうみんけんうんどう
Civil Rights Movement
 アフリカ系アメリカ人により、1950年代なかばから1960年代なかばにアメリカで展開された、差別の撤廃と法の下の平等、市民としての自由と権利を求める社会運動。1865年の南北戦争終結後、奴隷制は廃止され、憲法修正第14条はアフリカ系アメリカ人を市民として認めるとともに「法の下の平等」を定め、第15条は人種による選挙権の制限を禁じた。しかし、異人種間の結婚禁止といった州法は存続し、1880年代には南北戦争後の改革に逆行する諸制度が南部では設けられた。選挙権制限のため識字テストや投票税が課され、リンチを含む暴力も横行した。またジム・クロウ制度と称される人種分離制度が、学校から墓地まであらゆる施設に広がった。1894年、最高裁判所は、ルイジアナ州における鉄道車両での分離に対して、同等の設備を設ければ、人種別に施設を分離すること自体は合憲であるという判決を下した(プレッシー判決)。この「分離すれども平等」理論は、以後60年にわたり、人種分離を正当化したが、実際は黒人用施設は白人用施設より劣悪であった。
 狭義の公民権運動の始まりは1950年代であるが、アフリカ系アメリカ人の運動には長い歴史がある。1909年に設立された全国黒人向上協会(NAACP)は法廷闘争を重視し、1938年の最高裁判決では、ミズーリ州立大学大学院への黒人学生の入学を勝ち取った。第二次世界大戦中には、市民として兵役といった義務を果たしながらも差別にさらされることへの不満が高まった。1941年、A・フィリップ・ランドルフA. Philip Randolph(1889―1979)によるワシントンでのデモ行進計画に対し、F・D・ルーズベルト大統領は戦時中に限り軍需工場での人種分離を禁じる大統領令を発した。
 戦後、NAACPは、初等教育機関の人種統合へと目標を転じた。公立小学校での人種分離を争点とした1954年のブラウン判決において、最高裁はついに「分離すれども平等」を否定し、学校での人種分離は違憲であると断じた。しかし、判決後すぐに統合が進んだわけではなく、南部白人社会は激しく抵抗した。1956年、南部の連邦議員101名は人種統合への反対宣言を表し、最高裁を非難した。1957年、アーカンソー州リトル・ロックの高校では、黒人生徒の入学を阻むため群衆が高校を取り囲み、生徒を守るためにアイゼンハワー大統領は軍隊を派遣するに至った。1962年、ミシシッピ州では、黒人学生の州立大学への入学手続を知事自身がキャンパスで妨害し、暴動収束までに3名が死亡し多数が負傷した。
 このように、生命の危険にさらされながらも、アフリカ系アメリカ人は運動を続けた。ブラウン判決と並ぶ公民権運動の高まりの契機は、アラバマ州モントゴメリーでのバス・ボイコットである。白人にバスの席を譲らなかったことでNAACPの元秘書ローザ・パークスRosa Parks(1913―2005)が逮捕されたことに端を発するボイコットは1955年から1956年末まで続き、平行した訴訟では、同市のバスの人種隔離を違憲とする最高裁判決が下された。ボイコットの指導者として名を広めたのが、キング牧師である。キングは非暴力主義に基づく直接行動を唱え、その思想は広く公民権運動の柱となった。1957年にキングを議長として設立された南部キリスト教指導者会議(SCLC)は公民権運動の中心組織である。

 学生も公民権運動に大きな役割を果たした。1960年、ノースカロライナ州グリーンズボロでは、4名の黒人大学生によりシット・インと称される新たな直接行動が始まった。飲食店の白人専用席に座り、注文が応じられるまで座り続けるというものである。座り込みは各地に広がり、同年末までに5万人が参加した。さらに、図書館、ホテル、公園などでも同様の抗議が行われた。1961年、シット・インの組織化を図り、南部諸大学の学生によって学生非暴力調整委員会(SNCC)が結成され、公民権運動の主要な担い手となった。
 公民権運動は、奴隷解放宣言から100年後の1963年8月のワシントン大行進、1964年公民権法、1965年投票権法の成立をもって頂点を迎えた。ケネディ大統領が提案した公民権法の成立を求めた大行進には20万人が参加し、リンカーン記念堂前で、23年前にワシントン行進を提唱したランドルフやキングをはじめとする指導者たちが演説した。1964年7月にジョンソン政権下で成立した公民権法は、州権を唱える南部諸州や自治体の抵抗に対して、連邦政府に強い権限を与えた。おもな内容として、識字テスト禁止、公共施設や教育機関での人種統合を促進するための連邦政府の権限強化、雇用差別の禁止などがあげられる。
 しかし、同法成立後も、選挙権行使に対しては役人による妨害から殺害まで激しい抵抗があった。1964年夏、ミシシッピ州では北部の大学生を中心に、有権者登録を助けるフリーダム・サマー運動が展開された。運動家6人が殺害されたが、連邦政府は運動家の保護や政治参加実現のための積極的措置をとろうとはしなかった。1965年3月、より実効性のある投票権法を求め実施されたアラバマ州セルマからモントゴメリーまでの行進には2万5000人が参加した。その結果8月に成立した投票権法は、連邦政府職員に有権者登録の監視権限を与え、その後、南部のアフリカ系アメリカ人の投票率は上昇した。

 さらに、1967年には異人種間の結婚を禁じる州法が最高裁判所で違憲とされ(ラビング判決)、1968年には不動産取引における差別を禁じた1968年公民権法が成立した。1969年にミシシッピ州初の黒人市長が誕生したことが象徴するように、1960年代末以降、投票率の向上によってアフリカ系アメリカ人の公職者が増加した。1990年にはバージニア州で、南北戦争直後の時期を除けば全米でも初めての黒人知事が選出された。また、就職や入学選抜にあたり歴史的な差別を考慮するという、1964年の公民権法に基づく「積極的差別是正政策」(アファーマティブ・アクション)は大学への進学機会を広げ、エリート層の醸成へとつながった。
 こうした大きな成果の一方で、1960年代末には、運動の手段や目標をめぐって、公民権運動を主導した諸団体や指導者の間のほころびも顕在化するようになった。たとえば、SNCCは「ブラック・パワー」を唱え、キングやSCLCが掲げた非暴力主義とは一線を画すようになった。公民権法や投票権法の限界もまたあらわになった。北部では、南部のような法律に基づく人種分離や投票権制限は存在しなかったものの、都市における居住地区の実質的分離や貧困問題が深刻であった。1960年代後半にロサンゼルスをはじめとする都市で暴動が頻発したことはその現れであった。法の下の平等に留まらない、貧困問題といった社会的な不平等の是正策の追求という点でも諸団体は一致しなかった。さらに、ベトナム戦争の激化に伴い、公民権運動の後ろ盾であると同時にアメリカの軍事介入を深めたジョンソン政権への支持、その内政と外交政策の評価についても見解の相違が鮮明になった。こうして、統一行動がしだいに困難になり、公民権運動は収束へ向かった。
[小田悠生]2017年8月21日
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 ここでこの説明内容は、大した問題ではないなどと書いたら怒られるかな。公民権運動と私は、ほぼ同じ時代を生きてきたのだが、いくつか理解できないことがあった。何故、公民権運動にアメリカインディアンが参加しなかったのだろう。もし、公民権運動が人としての権利を求める運動であるとすれば、アメリカインディアンは参加しないはずはない、もし参加しなかったのであればそれは何故か。それ以上に、上の説明中にアメリカインディアンに関する記述が殆どないのは何故なんだろう。一昨年のわけの解らない大統領選においても、BLM(Black Lives Matter)が大きな話題になった。でもそこにアメリカインディアンの影はほとんど見えなかった。アメリカインディアン全国会議(NCAI)、全国インディアン青年会議(NIYC)などによる組織的活動はあったにしても、黒人による公民権運動とは比すべきもない規模のものであったようだ。

 多分、アメリカインディアンはそうした抵抗運動を起こす基盤となる精神的基盤さえ奪われていたと考えている。19世紀末の進歩主義の時代には、インディアンの子供たちは、居留地内外にかかわらず、インディアン寄宿学校と呼ばれる教育施設に収容され、英語を使うことを強制され、民族衣装の禁止、創氏改名、断髪の強制など彼らの民俗的アイデンティティを抹殺するための教育を施されていたのである。その結果として、彼らは公民権運動の流れに乗る力さえ失っていたのではないか。(私はインディアンの文化は大好きである。文化の肌触りがどこか似ている。「今日は死ぬのにもってこいの日だ。」とか「ジェロニモ」、「それでもあなたの道を行け」、「一万年の旅路」などを読みながら、ネイティブ・アメリカンと縄文人の精神文化の共通性について考え、追跡していたが、彼らの過酷な状況についてマスメディアに載ることはきわめて少なかった。)

 お前の宗教遍歴とアメリカインディアン、どこに関係がある、こいつは何が書きたいのだろうなどと思い始めている人がいるのではないか。いまから書きます。怨霊についてです。怨霊といえばオカルトに分類される、そして科学的ではない迷信を信じる無知蒙昧な奴の戯言であると批判を受ける。では怨霊はいるのかいないのか。私はいると判断する。それなら怨霊の存在を科学的に証明しろと云う批判が舞い込んでくるのだが、そんな浅はかな批判に応える気はない。梅原猛氏の怨霊史観と呼ばれるものを、そんなものは科学的ではないと否定するのは簡単であるが、それは彼の作品を理解できない人々の貧しい精神性に因ると思う。藤原一族は曽我氏の一派を扇動して聖徳太子の一族を皆殺しにした。そして、権力を握った。しかし、彼らの心の奥底に沈潜した良心の傷は、何か事件が起こるたびにそれは聖徳太子の祟りではないかと受け取ってしまう。天然痘で死んだ藤原4兄弟の死を、聖徳太子、あるいは長屋の王の怨霊の仕業と捉える心の中に、怨霊は間違いなくいるのである。怨霊とは人の心に在る良心の傷がもたらすものとして存在しているのである。

 アメリカの歴史において黒人が中心になって起こした公民権運動、これは皮膚に口を開けたおできと考えて良い。一方、ネイティブ・アメリカンの問題は表面に吹き出すことなく奥深く侵潤し、アメリカの白人が明確には意識していない精神的な傷となっているのではないか。つまり、インディアンとの間に存在する宗教的問題、経済的問題、言語の問題、習俗の問題などとともに、過去に虐殺された彼らの先祖達の恨みなどを、現在の白人達がどこかで抱えているように思う。「アメリカという国の歴史は200年程度と短いが故に、建国時の物語に書かれた嘘が歴史の中に埋もれきっていない。」と書いたのはそういう意味である。

 一例だが、先住のインディアンを悪党とする西部劇、1950年頃までは年に数十本作られていたのだが(具体的な数字はわからない)、1960年代になると「白人=善、インディアン=悪」とする図式が次第に崩れ始めた。1980年頃以降になると、インディアンを悪党として描く西部劇は全く製作されていない。私はそこに、公民権運動やベトナム戦争に対する反戦運動の底流にあったと思われる白人の良心の疼きを見ていた。世界の表面では、パックス・アメリカーナと呼ばれるアメリカ一強の時代を作り上げたにもかかわらず、その時すでに崩壊の種は蒔かれ発芽していたのだろう。ニクソンショック(1971年)が起こった時、アメリカの覇権はどのように終わるのだろうかと考え始めた。20年くらい前、私が50代の半ばに差しかかった頃だが、アメリカは怨霊によって崩壊するだろうと予想した。でも、それを言えば気違い扱いされるのは目に見えている。一応、科学者として生きていたので、この考えは完全に封印してきたのである。

 十年前でも、いや今でも馬鹿にされるような考えだが、アメリカ合衆国という国は、彼の国を構成している人種、宗教、歴史、政治的立場、経済格差などに起因する怨霊達が、人の心で顕在化して解決しようのない怒りと惑乱が発生し、のたくるような内乱(内戦)による殺戮のなかで崩壊して行くと予想する。大国であるがゆえ、その影響は南北アメリカのみならず全世界に及ぶと判断している。怨霊とは無意識の中に潜む良心の傷、その傷故に人は幻を見てしまうのである。幻に覆われた現実に向かって引き金を引く、その連鎖が限りなく広がってゆくだろう。こうした怨霊を基礎とした見立て故に、私のアメリカ観はかなり歪に見える。それ故に、一般の経済学者や政治学者、あるいは政治家達とは違って、アメリカとの関係はできるだけ関係を薄くしておくのが良い、ビジネスライクに距離をとれる関係が良い、アメリカの持つイデオロギーをそのまま持ち込むのは危険である、そう思っている。ロシアとウクライナとの戦争、原因の多くはアメリカ側に在ると思っているのだが、この戦争はアメリカの寿命を大幅に縮める結果になるだろうな。

 先日、WEFを中心とするグレートリセットの動きを、富裕層から貧困層に対して起こされた逆革命であると書いた。これを現場で推進しているのがアメリカ民主党の左派グループである。嘗て民主党は、アメリカで行われていた人種差別を批判し公民権運動を推し進める政党であったのだが、そこには過去の人種差別に対する贖罪意識があったと思う。ここに、巧妙に潜り込んだのが急進的左派のグループであった。あなた達の過去は間違っていた。贖罪に値する。今まで差別されてきた人々を丁重に扱え、そうしない人々は人として欠陥を持っている。この議論の中にジェンダーに係わる問題が加わり、性的少数者の問題が加わって、アメリカの中核を担ってきた人々が自信を失った状況になった。その弱った心の中で、虐殺され、差別され、排除されてきた人々の怨霊が暴れ始めたのである。その時点で、彼らに対する左派グループの攻撃が始まったようだ。攻撃を革命と言い換えて良いと思うのだが、革命は全体主義との相性がよい。そういう視点に立つと、アメリカの現在の混乱をある程度の整合性を持った形で理解できそうである。但し、理性的且つ科学的な理解であるとは言わない。

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