ブログ再開

  歴史生物学のブログを再開します。色々と紆余曲折がありましたが、気持ちを含めて何とか続けられる状況ができてきました。この間、今まで書いてきた分を再構成しようと、別のサーバー上での公開を続けてきました。以前書いていたところまで戻るのに1年くらいはかかるのではないかと考えています。何しろ、少しだけ年をとりました。農地面積も当時の2倍を超えました。以前考えていたことで忘れ去っていることもあります。再度アップしよう部分の内容を読んで、こんなことを考えていたのかと驚く部分もありますし、間違っているだろうと思う部分もあります。読み直し、修正して、納得したら再度アップすることにします。 

  従って、学問的な部分についてはしばらくは以前書いていたものの焼き直しとなります。また、時代が大きく動いているため、時事ニュースに対する個人的解釈のみならず、年寄りとして実践している農業についても書いていく予定です。ウイルスでサイトを崩壊させられた経験から、JUGEMのサーバーにミラーサイトを置くことにしています。ここ2年近くの間にJUGEMブログ上で書いた内容を、このサイトの内容を同期させるのはいくぶん面倒に感じますが、やらざるを得ないでしょう。

  このサイトにおいては、カテゴリーの設定が完全に壊れていました。あるテーマについて、連続して読めるようにカテゴリーを再構成する予定です。70歳を過ぎまして、書き続けると云うことはボケ防止、日々の記録、さらに1科学者としてのライフワークとしての意味を持つと考えています。お付き合い頂ければ幸いです。   著者より

カテゴリー: 未分類 | ブログ再開 はコメントを受け付けていません

1 プロローグ

 アブシジン酸を中心にして、植物を語ってみたい。幾分変人と評されることの多い著者が書くものであるから、一般的なアブシジン酸の理解とは少々以上の違いがある。説の正否はもちろん大事だが、どのような視座から現象を見たのかという点で楽しんで頂ければそれで良い。さて、人が他人の書いたものをある程度でも理解しようとする場合、著者の育ち、経歴、社会における立ち位置などをある程度知っておいたほうが良いだろう。

 文体と論理の明晰さから、女性である塩野七生さんをを男性に違いないと長い間誤解していた経験があるが、これは希有な例外であって、通常こんなことはまず起こらない。同時代のすべての人から全く理解してもらえないほどの天才(別名を気違いという)ではない著者が書くものであれば、そこで提示される発想が著者の人となりから大きく乖離する場合はほとんどないだろう。私が以下のブログで述べる仮説群は、大きく世間の人の常識から外れているのではないかとおもう。とすれば、恥ずかしながら私自身について、ある程度のプロフィールを書いておくほうがいいのかなと思い書くことにする。

 幼い頃から体が弱く、幼稚園には半分ほどしか行けなかったらしい。早生まれのせいもあって、体の発達だけでなく知能の発達も遅かったらしい。私には幼稚園の記憶はもとより小学校と中学校の記憶さえほとんど残っていない。過保護の一人っ子で、かつ父の仕事ゆえにほぼ1年ごとの転居をくり返していた私には、社会性はほとんど育っておらず、人間関係は疲れるだけのものだったような気がする。私の中で、記憶がつながりとして残ってくるのは高校の頃からである。それ以前は、いくつかの断片的な記憶は残っているものの、何だか他人の人生のように感じている。どうもこれは私に特有な症状のように思える。幼いときからの細かな記憶を保持している人を時折見かけるが、こんな人は生まれてから転居することなく育った人に多いようだ。彼らは、一本の木、いつも通る道、良く出会う人、いつも見る町並みなど、そういう何でもないものを見る度に、記憶をたどり再確認する作業をしているのではないだろうか。免疫におけるブースター効果みたいなものだろう。

 これがなかった私は、幼年時代の記憶をほとんど失って、現実の故郷だけでなく、精神的な郷里をも失った異邦人のような存在になっている。従って、先に書いた幼稚園に行けなかったという話も、93歳で他界した母親の昔話にすぎない。いわゆる虚弱児童であった私は、虫の図鑑をみながら日々を過ごしていたという。昭和30年頃の図鑑であるから印刷は悪かったであろうし、それほど立派なものであったとは思えないが、不思議で煌びやかなチョウの斑紋や、奇妙な甲虫の形と輝きに心をときめかせたのであろう。多分9歳の頃ではなかったか、記憶は定かでないが、人並みに昆虫採集をはじめたことがあった。しかしながら、死にかけたギンヤンマの最後の痙攣をみて号泣し、採集を止めてしまった。まだ感受性が高かった頃の話である。

 小学1年のときの唯一ともいえるエピソードだが(本人の記憶はない)、先生がスジグロシロチョウを教室に持ってきてモンシロチョウですよと教えたらしい。ところが、低能なはずの私が、違う!それはスジグロシロチョウであると言い張ったという。体は弱く、人付き合いもできず、手がかかるだけだったこのガキの行為は、反抗として受け取られたらしく、転校するまで数ヶ月ほど干されたそうだ。何度も母親から聞かされた故にいかにも覚えているような気がするが、本人は具体的な記憶を全く持ち合わせていない。この世では言ってはいけない事があることを、初めて知ったのがこの時であったのだろう。だが還暦を過ぎても古希を過ぎても、この手の失敗を続けている。正論を盾に、何度辞表を書いたことか?「智に働いて角を立て、意地を通して失職し、余り豊かじゃない暮らし、其れがあなたの生きる道」などと誉められながら暮らしている。生来の性格に対して、学習などというものが殆ど役には立たないと実感するこの頃である。

 さて、私が中学3年か高校1年、今から60年近く前のことである。まだ品格を残していたNHKだったと思うが、フランスの科学者がアマゾン川流域に生える幻のキノコを実験室で栽培し、その幻覚成分を突き止めたというラジオ番組があった。この放送に触発された私は、昆虫だけではなく毒キノコにものめり込み、将来は天然物化学の研究者になろうと決意した。こうした番組を作るヒトは、子供の運命を変えてしまう可能性を持つことを誇りに思って良いかもしれないが、その怖さをも自覚する必要があるだろう。

 この決意を持って年に一度の転居を重ねながら高校生となったわけだが、ここで大きな挫折を味わうことになる。同じクラスの友人が極めてよくできる奴で、特に数学の能力は抜きんでていた。当時、旺文社が実施していた全国模試で一桁に入るような男で、高校1年のときにブルバキの数学原論を原書で読んでいた。(後にこれは誤解であることが判明した。原書ではなく、英語への翻訳本であった) これに対し、当時の私の数学能力はかなり悲惨であった。当時、小・中学校の教科書は、単元の順序が出版社によってまちまちであったため、転校ごとに未習単元を積み重ねていたのである。正の数と負の数の概念があやふやで且つ因数分解の意味も分からずにうろうろしていた私は、ブルバキの彼と自らを比較し、人知れず劣等感にひたる毎日を過ごしていたのである。

 ところがある日、自分の持つ思いもよらぬ能力に気づいた。目の見えない人に鋭敏な聴覚や触覚が育つように、数学のできない私には化学構造式が何の苦労もなく覚えられるのである。虫や鳥や植物の形に集中してきた私には、化学構造式をいくつかのピースの組み合わせとして捉える訓練ができていたのかもしれない。これは、天然物化学を志向する私にとって最高の贈り物であった。私も彼にならって大学用の有機化学の教科書を読みふけったものである。いま振り返ると、何も分かっていなかった。

 まあ当然ではあるが、人生がそう思い通りにゆくものではない。17歳のとき、4月に引いた風邪からチアノーゼを引き起こすような喘息を患い、7ヶ月ほど寝たきりに近い生活を余儀なくされた。成績は急降下、進学どころか進級さえも危ないという状況に陥ったのである。この体で将来どうやって生きていこうかと悩まざるを得ない日々ではあったが、同時に病のもたらす独特の精神状態を楽しんだのも間違いない。堀辰雄の作品にひたり、立原道造の13行詩を読みふけった。身近に死の影を感じ、その影を恐れながらも、夭折とか病葉という言葉にそこはかとない憧れと共感を感じていた。病の原因は肉体的なものではなく、多分に精神的なものであったようだ。内容については余りに私的なことなので省くことにするが、要するに子供であったということだ。原因に気づいた日から急速に回復に向かい、それ以降50年以上無謀な生活をしてきたが、まだ何とか元気に過ごしている。

 復帰後、担任と校長の温情でなんとか進級した。成績も順調に回復したため自信を持って九州大学の入試に臨んだのだが、入試の前日、憧れの博多でパチンコ屋にデビューした。宿泊した旅館で友人たちと少しだけ酒を飲み、朝の四時近くまで騒いだ。実に馬鹿である。次の日の1時間目、国語の試験問題を一問解いたところで耐え難い睡魔におそわれ、ちょっとだけと思って寝た。肩をつつかれて目覚めると解答用紙の回収中である。よだれでまだ湿っているほぼ空白の解答用紙を恥ずかしながらも提出した。立ち上る淡い水蒸気を見たような記憶が残っている。もっと早く起こしてくれよと思ったが後の祭り、後日、一方通行の道路の出口で警官に捕まったときによく似た気持ちがした。

 もちろん落ちた。同じ部屋の友人達も皆落ちた。他の科目の得点は悪くなかったので、次の年は絶対大丈夫だと浪人の道を選んだのだが、ここでもまた世の中の厳しさを思い知らされることになる。この時代、九州大学の試験科目は英語、数学、国語は当然として、理科と社会それぞれ2科目ずつ必要で、かつ大学からの科目指定であった。そして、最初に受験した年の指定科目は−世界史、人文地理、化学、生物—であったのに、なんと次の年6月には−日本史、倫理社会、物理、地学−が指定された。ちょっとだけ頭を抱えた。人間万事塞翁が馬、今振り返ってみると、この8科目を試験科目としたことが、いま考えを進める上での基礎をなしているように感じている。

 大学4年で研究室に配属され、修士課程にかけて菌の代謝産物の構造を2つほど決めて天然物化学から一時手を引くことになる。(これは正しくない、私は言われるままに分離作業をやっただけで、構造を決めたのはT先生である。) 修士課程を終え国家公務員の上級職試験に通っていたのだが、これを蹴ってとある地方自治体に就職した。たまたま試験の成績が良かったばかりにいわゆるエリートコースに乗せられてしまった。しかし、私にとって、このエリートコースは居心地の良いところではなかった。研究的仕事はほとんどなく、多くの人との顔つなぎばかり、出勤すると机の上には見合いの写真という状況がいやで、本採用になる一週間前に辞表を出した。この時、私の教育係だったT氏が、「おまえに公務員は無理、好きに生きろ」と、笑って送り出して頂いたことに今も感謝している。

 同期の仲間より2年遅れて博士課程に戻った。天然物化学の研究では、単離した化合物が既知の物質であるというリスクが大きい。2年も遅れているのだから早く博士号を取りたいというごくごく短絡的かつ近視眼的理由から、イソクマリンと呼ばれる天然物をモデルとした有機合成の仕事をすることにした。この時に、全く意識しなかったとはいえルヌラリン酸との縁ができていたのかもしれない。博士課程を修了した後、とある私立大学に籍を置いた。研究費を稼ぐ意味もあって有機リン系化合物・カーバメート系化合物などの合成を15年ほど続けた。しかしながら、天然物化学に対する興味を失っていたわけではない。日々、代謝マップを眺めながら、いわゆる二次代謝について考えることは続けてきた。何故、生物は、特に植物は多種多様な2次代謝物を作るのか?

 科学において「何故」と問うことは、時に致命的である。安易な目的論に陥らないにしても、論文が書けないからである。科学者として飯を食いたいなら、「何故」ではなく「どのように」という問題提起をせよと何度もアドバイスを受けた。しかしながら、もって生まれたやっかいな性格というものは変えようがなく、「WHY?  WHY?  WHY?」と問う習性からいまだに抜けきれていない。

 30年くらい前になるだろうか、バブルといわれる時代に心理的な違和感を感じていた私は、研究対象を大きく変え、植物ホルモンであるアブシジン酸(図1-1)を扱うことにした。

 社会の在り方について、ちょっと立ち止まって考えないとまずいのではないかと思い始めていた私にとって、「ちょっと待てというシグナルとしてのホルモン」という点に親近感を感じたのが原因である。この時、この化合物が私の自然観を変えてしまうようになろうとは夢想だにしなかったが、それから後の人生はこの化合物に振り回されることになる。研究成果は実にささやかで、学会での評価に値するものではないと自覚している。しかしながら、この化合物について考えるという点においては、誰にも負けなかったという自負はある。アブシジン酸について愚直に考え続けた私に、この化合物が垣間見せてくれた世界は、今までの生化学、天然物化学の常識を覆すものであった。団塊世代のまっただ中にいて、心のどこかで世の中の規範と常識に反抗し続けてきた一研究者のモノローグである。

2018/01/13

カテゴリー: アブシジン酸の総合的理解に向けて, 歴史生物学 | タグ: , , , | 1 プロローグ はコメントを受け付けていません

訂正の訂正

 色々とありまして、更新が遅れています。先日出した訂正の図が、まだ間違っていました、訂正の訂正をアップします。リン原子を攻撃する矢印の出所が間違っていました。

 近日中に更新予定です。

カテゴリー: 未分類 | 訂正の訂正 はコメントを受け付けていません

書評

 昔、強烈な書評を見た記憶があるような気がする。とはいえ、本当に書評であったかどうか定かではない。誰が誰の本(?)を評したのか、どんな文脈であったのかも忘却の彼方である。ただ、その強烈な批判だけが記憶に残っているわけだ。

 最近の一部の新聞による報道が、品格と公正さを欠いているのではないか。ジャーナリストとしての矜持は何処に行ったのか。などと怒り含みながら読んでいるわけだが、こうした一部の新聞に対して、上記の批評を真似た酷評を献げたい。

 この新聞の酷さは、「この新聞は読むべきではない。すぐにゴミ箱に投げ捨てるべきだ。」などと云う甘い批判で済ますことはできない。「この新聞は読むべきではない。切り刻んで地面に投げ捨て、両足で踏みにじった後、触らないように棒切れで抓み上げ、汚いゴミ箱に力一杯投げ捨てるべきだ。」と云うべきである。

 この新聞がどの新聞を指すかは、人によって異なるのだろうな。

カテゴリー: 未分類 | 書評 はコメントを受け付けていません

高齢者はいくつから

 天気は良い、空気も旨い、水も良い、飯は旨い。育てている作物にちょっと以上に害虫といわれる虫が集っていることが悩みの種である。さて、私は高齢者と呼ばれる区分に分類される生き物らしいのだが、高齢者とはいくつからなのか改めて考えたことはなかった。

 高齢化率と呼ばれる数値がある。これはある国家を構成する国民の中で高齢者が占める割合をいい、7%超で「高齢化社会」、14%超で「高齢社会」、21%超になると「超高齢社会」としているようだ。では高齢者とは何歳からを意味するのか。上記の高齢化率は、国連やWHOが定義したとされているようだが、困ったことに国連は「国連として高齢者や高齢化の定義はしていない」としているし、WHOも「WHOが定義したものではない」と云っているらしい。高齢化を定義せずして高齢化率を決める。おかしな話だが、国際的に広く用いられているのは六十五歳以上の人口に占める割合である。総務省の人口推計でも六十五歳以上を「老年人口」とする区分が用いられている。

 分類は分類として、社会政策の策定や施行に必要だとは思うが、高齢者、後期高齢者、終期高齢者、末期高齢者、超高齢者などあまり響きが良くないものばかりである。ボケを認知症に言い換えても実態は何も換わらないように、高齢者をシルバーなどと言い換えてもらっても鬱陶しいだけである。末期高齢者などという言い方は、棺桶に片足突っ込んでいると云うより、棺桶から片足だけが出ているような響きを持っている。

 このブログを読まれている人の年齢構成は分からないが、高年齢者雇用安定法における高齢者の定義は、「55歳以上のものを言う」となっている。この法律で高年齢者等という表現においては、「高年齢者と45歳から54歳までの中高年齢者を指す」ことになっているようだ。つまり中高年齢者とは、中年齢者と高年齢者の集合ではなく、中程度に高齢の45歳から54歳までの人をさすらしい。言葉のバランスを考えると、低高年齢者というのがあっても良さそうだ。35歳から44歳までになるのだろうか?

 55歳から高年齢者に分類されるとはいえ、老齢年金は65歳から、しかし、これを70歳、或いは75歳からの支給にしようなどという話が流れている。逃げ水みたいなものである。

 私に関しては、ただの老人か老体で結構、おかしくなったらボケと評価して頂いてよい。いまは老年の真っ只中、「老中」であると自称している。ご老中と呼ばれればニンマリするかも知れない。(昔の老中はもう少し若かったな。幕末の阿部正弘は25歳で老中に就任したと書いてあった。)もう少し年を取ったら、「老中首座」を経て「大老」を襲名する予定である。

カテゴリー: 未分類 | 高齢者はいくつから はコメントを受け付けていません