過剰と蕩尽 34

ATP の起源

 この季節、ほとんどお金にもならない農作業が目白押しで、落ち着いて考えるどころではない。ましてや、ややこしい ChemDraw の図など描く気にもならない。その上一昨日は、一反つまり300坪程の果樹園を借りる話を決めてきた。馬鹿かと言われれば少々腹がたつが、阿保やなあと言われたのであればそうかなと笑わざるを得ない。

 今回は、ほとんどというか、全てが他の研究者の成果の受け売りである。では今までの分はどうなんだと聞かれると、ちょっと困る。今までの話であっても、他の研究者の研究結果を下敷きにしているのはなんら変わらない。いささか常識からずれた、私なりの解釈を付け加えているにすぎない。簡単に言えば、今回は学問的常識の中にあるということだろう。

 さて、そこで ATP に関する幾つかの話題を提供したい。ご存知の方は無視して頂いて結構である。ATPは生物にとって最も重要で基本的な物質に一つであることは、誰しも否定できないだろう。ATPの関与しない代謝系を挙げよなどと言われたら、頭をかかえるしかない。

 化学的に見れば、アデニンとリボースとリン酸が構成要素である。疑問はいろいろとあるのだが、先ずこれらの構成要素は、前生物的に存在できたのかというのが第一の疑問になるだろう。生物がいないとATPは作られないというのであれば、ATPと生物は鶏と卵の関係に陥ってしまう。

 まずリン酸であるが、これはどこにでもある化合物である。近頃、クラーク数に対する信頼度が落ちてきているが、その他の推定結果を見ても、リンの地殻中の存在量は少なくとも炭素の2倍以上はありそうである。地球が作られた時に、酸化物であるリン酸が存在したかという疑問が湧きそうに感じるが、創成時の地球に酸素がなかったわけではない。当時、酸素は酸化可能な無機物と有機物の酸化に使われ、大気中に遊離した形では存在しなかったというにすぎない。現在の地球においても地殻中の酸素存在割合は46%程度を占めている。ちなみに、ほとんどのリンはリン酸の形まで酸化され水中に存在したカルシウムイオンと結合して水に不溶性のリン酸カルシウムアパタイトの形であったと推定されている。水に溶けないと生物の利用が難しい点については、還元的条件下での放電でリン酸カルシウムが水に可溶性の亜リン酸カルシウムに変換されたあと、比較的容易にポリリン酸に変換することが知られている。これ以外の可能性についての仮説もいろいろあるが、とにかくリン酸があっただけでなく、ポリリン酸も疑いなくプレビティックに生成する。現在でも、熱水噴出口付近で非生物起源のポリリン酸が検出されている。こうして生成したポリリン酸が、最初のエネルギー源として作用した可能性が唱えられているが、その中で若い頃読んだアーサー コーンバーグの報告が面白かった記憶が残っている。とにかく、リン酸ーそれも高エネルギー化合物であるポリリン酸ーがprebioticに存在することは間違いないであろう。

 次は、アデニンである。通常は一番左に書いた9H−アデニンが優先するが、可能性としては以下の3異性体だけでなく6位のアミノ基がイミノ基となった異性体類もあり得る。

Adenineの互変異整体

    人工化学物質(定義が不明なのだが)を異常に怖がり嫌悪する人にこの図を見せると、こんなものは絶対食べてはダメなどと言われることがある。少しだけでもいいから化学に対する壁を取り除いて欲しいと思うのだが・・・。

 そこでこのアデニンだが、猛毒である青酸ガスの5量体である。だからと言ってアデニンに毒性があるわけではない。アデニンのprebioticな存在の問題を、いわゆる生物のエネルギー通貨としてのATPの問題にに限定するのは、あまり賢い方法ではない。1960年に Joan Oro (最後の小文字のoの上にバッククオートあり)が、シアン化水素の濃アンモニア水溶液を加熱してアデニンの生成を報告して以来、多くの類似実験が行われアデニンだけではなくグアニン、シトシン、ウラシルがかなり容易に生成することが常識となっている。つまりアデニンのprebioticな生成は他の核酸塩基の生成と同時に起こりうることを前提にすべきであろう。この件については中村運氏が訳したWiliam F.Loomisの著書「40億年の生命進化」(1990年)やタンパク質 核酸 酵素」の総説「生命の起源を解く鍵 RNAワールド 小林憲正・古田弘幸・柳川弘志著」(1989)などに記載してある。

核酸塩基の合成経路 (タンパク質 核酸 酵素、Vol 34  No.2「生命の起源を解く鍵 RNAワールド 小林憲正・古田弘幸・柳川弘志著」(1989)より引用

 ちょっと情報が古いかも知れないが、その後  J. William Schopf (編)の「Life’s Origin: The Beginnings of Biological Evolution」やJ. Seckbach(編)の「Origins: Genesis, Evolution and Diversity of Life (Cellular Origin, Life in Extreme Habitats and Astrobiology)」くらいまでは、情報をフォローしていた。その後は仕事が忙しくなって、新しい報告はフォローしきれていない。ただ、こうした報告にある青酸の4量体であるジアミノマロノニトリルからアデニンへの反応のメカニズムについて、著者ーこれは論文の著者ではなく書いている本人を意味するーは理解できていない。イオン反応で考えるのかラジカル反応で考えるのか、中間で転移反応が必要なのだがどのように進行するのだろう。とにかく、色々な核酸塩基の中でアデニンがもっともできやすいのは間違いなさそうだ。

アデニンのプレビオティックな合成経路

 それはそうとして、ATPやADPもリン酸残基を運んでいる補酵素であると考えて良い。昔から補酵素の分子中には、「ヌクレオチドハンドル」と呼ばれるアデニンヌクレオチド(ADP)ユニットを含むものが多いことが知られている。NAD, NADP, FAD, CoA などにおいて、この部分は補酵素の機能には関与しないが、酵素分子に補酵素を認識させる役割をもつと言われている。このように、生物によるアデニンの利用が際立って多いことは、アデニンのできやすさに由来しているのであろう。生き物は、あるものを使うのである。使うためにあるものを作るわけではない。ああ、これもまた盗用だ。紀元前1世紀のギリシャの哲学者ルクレチウスが言っている。「体内には使用するために生じるものは何もない。生じた結果、それは使用される」と。

 最後はリボースの問題である。この問題はちょっと悩ましい。この悩ましさについては、2008年にH. James Cleaves IIがPrecambrian Researchの総説「The prebiotic geochemistry of formaldehyde」に書いていた。要するに、その時代の地球の大気組成が分からないだけでなく、隕石や彗星などによる物質の持ち込みなど不明な要素がありすぎると言うことであろう。とはいえ、比較的容易に生成するホルムアルデヒドは重合してトリオース、テトロース、ペントースを初めとする複雑な糖の混合物を与えるだけでなく、途中で生成した糖もこの反応に参加する。膨大なアルドール縮合の集合である。さらに、そうした多種多様な生成物の中でリボースが優先して生成することはない。

 この為、リボースを使う核酸の出現前にトリオースやテトロースを使っていた時代があるのではないかとの仮説が提出されている。アルバート・エッシェンモーザーは人工の核酸ポリマーであるトレオース核酸(Threose nucleic acid、TNA)を合成し、TNAがヌクレオチド配列の中に遺伝情報を蓄えることができることを明らかにしている。まあ、帯状疱疹治療薬などで使われるアシクロビルやガンシクロビルの構造を眺めれば、さもありなんと思わざるをえない。下段左にグアノシンとガンシクロビルの重ね合わせた図を載せている。

いくつかの擬ヌクレオシドと擬ヌクレオチド

 不肖の研究者である著者も、ペンタエリスリトールを糖残基として持つ偽ヌクレオチドを合成したことがある。下段の右に示しているが、加水分解を受ければ下段中央の形になる。もっとも、1段階目のリン酸化まで終わっているという捉え方もあると考えていた。合成した化合物群は真核細胞に対する毒性はなかったが、一部の化合物が Vero 細胞を用いたプラーク形成試験において Herpes simplex virus や Parainfluenza virus に対して活性を持っていた。2007年の人種差別発言によって地位と名誉をを失う前の James D. Watson  から文献請求が来て驚いた記憶が残っている。

 いま一つの問題は、アンモニアやアミノ酸などアミノ基を持つ化合物が糖の混合物と共存した場合、メイラード反応が起こるのは避けがたく、真っ黒なポリマーになってしまう。濃度の問題があるにしても、問題山積といった感じである。

 あまり長く引っ張りたくはない。生物は何故ATPを選んだのかと言う問題であったはずだ。この調子で続ければ、次はヌクレオシドのプレビオティックな合成を述べなければならなくなる。そうするとあやふやな糖の合成を基に議論せざるをえなくなる。大風呂敷を広げがちな私にとっても困った話である。雨は明日には上がる。数日は晴れるとすればまたアップが延びてしまう。という判断の下に、アデノシンが作られたことを前提にした所から続けたい。但し、このヌクレオシドの合成は、なぜ生物はL-アミノ酸を使うのかという極めて重要な謎を解くキイステップになる可能性を秘めている。是非、C4N説などを参照してほしい。

 ATPは生物にとって何故にこれほど重要な化合物になったのかという疑問が出発点であった。GTPでもUTPでもCTPでもなくATPである一つの理由は、ATPが他の塩基に較べて非常に生成されやすいことであろうと述べた。生物はあるものを使うしかないからである。では、ADPでもATetraPでもAPentaPでもなくATPなのかという問いに答えないといけない。原始の地球で比較的豊富に供給された生命エネルギー源と考えられるポリリン酸は、ATP と同様の高エネルギーリン酸結合を持ち、リン酸ナトリウムなどを単に数百℃で加熱するだけで合成される。但し、その鎖長はさほど均一ではないだろう。このポリリンサンを出発原料としてATPを特異的に生成する系が提出されている。生物工学 90 473-476に黒田章夫氏と廣田隆一氏が連名で書かれている総説「リン酸の無機化学とバイオテクノロジー」の中に次のような一節がある。

 「また、ポリリン酸の 一種である環状の3リン酸(トリメタリン酸)は無生物 的なATP合成に関係したかもしれないとされている《Etaix, E. and Orgel, L. E.: J. Carbo. Nucleosides Nucleotides, 5, 91 (1978).》。 長鎖ポリリン酸をマグネシウムイオン存在下で加熱する と、トリメタリン酸が優先的に生成される《Kuroda, A. et al.: Biotechnol. Bioeng., 78, 333 (2002).》。そのトリ メタリン酸とアデノシンを混合すると、無生物的にATP がワンステップで合成できる。無生物的にアデノシンの 5位にリン酸が一つ一つ結合してATPができたと考える のは難しいが、ワンステップなら合成経路として可能性 が高い.生物がなぜ3つのリン酸が重合したATPを生命 エネルギーとして選んだかは、ひょっとすると、ポリリ ン酸からのトリメタリン酸合成、さらにはATPのワン ステップ合成に理由があるのかもしれない。」

アデノシン-3-リン酸の選択的合成経路

 この反応が起こっていたのであれば、トリリン酸にしかなり得ない。まだ本当かどうかは分からないが、とても納得しやすいクリアーな仮説である。いや、これを言うために長々と書いてしまった。プレビオティックな合成の世界は、まだまだ興味深い謎に満ちている。

過剰と蕩尽 35 に続く

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